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世界の街角で見た文化・歴史

【第9回】 日本とトルコとの固い絆

トルコへのいざない

トルコの大都市、ヨーロッパとアジアとの接点であるイスタンブール市内
トルコの「サバサンド」は、サバが香ばしく、脂が乗っていておいしい

私もトルコを訪れるまではトルコの歴史や文化に精通していませんでした。実際にトルコに行くと、魅力的な古代の遺跡や寺院が多くあり、ローマ帝国やオスマン帝国の勢力の大きさやイスラム教徒とキリスト教徒とのせめぎ合いの歴史がよくわかりました。イスタンブールの街は活気があり多くの人々でにぎわっていますが、こちらが日本人と分かると日本の生活のことを興味深く尋ねてきたり、一緒に記念写真を撮らせてほしいと言ってきたりと、日本への親密さを肌で感じました。トルコの文化や歴史を知ると日本との縁の深さがよくわかります。トルコについて少しでも知る機会になればと思い、日本との2つの出来事をご紹介しましょう。

トルコと聞いて、皆さんはどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。例えば2020年オリンピック招致で最後まで東京と競った国、「飛んでイスタンブール」(庄野真代)の懐かしい歌声、アジアのシルクロードの終点、アジアとヨーロッパの結節点、オスマントルコ帝国の国、美しく巨大なブルーモスク、カッパドキアやパムッカレ、エフェソスなど古代の遺跡の多い観光国、成長著しい新興国の姿などさまざまあるでしょう。「サバ・サンド」(骨を取って焼いたサバの魚を小さなコッペパンに挟んでオニオンスライスを入れレモンを搾って食べる)や「ケバブ」がおいしいと言う人はかなりのトルコ通でしょう。
実は日本とトルコとの交流は深く、トルコが極めて親日的な国であることを知っている人は多くないと思います。

イスタンブール市内のグランバザール(大市場)はいつも人でにぎわっている
アヤソフィア寺院の外観、キリスト教からイスラム教の寺院となったが、キリスト教寺院に戻った歴史を持つ
アヤソフィア寺院の内部、正面にイエスキリストの絵が復元されている


日本とトルコとの友好関係と国交樹立90周年

「慰霊碑(右端)と船が遭難した現場」(北浦康雄氏撮影)

「和歌山県串本にある、遭難したトルコ軍艦の慰霊碑」(北浦康雄氏撮影)

2014年は日本とトルコとの国交樹立90周年の記念すべき年になります。
アジアとヨーロッパとの懸け橋であるトルコは経済成長が著しいですが、昔から日本とは良好な友好関係にあります。
この友好関係が続いている背景には、2つの大きな出来事があります。1つ目は1890年の明治時代にトルコの軍艦エルトゥールル号が和歌山県沖で台風による遭難事故の際、地元住民が乗っていた人を献身的に救助し、69名を助け、彼らが体力回復した後、日本の軍艦でトルコまで無事送り届けたことです。
2つ目は1985年のイラン・イラク戦争の際、脱出しようとして多くの在留日本人が、テヘランの空港に取り残され、215名がトルコ航空機に助けてもらったことです。それは外国の航空機が自国民を優先したため搭乗できず、日本の航空機が来なかったためです。その時、トルコ航空機は在留トルコ人がテヘランにいるにもかかわらず、困っている日本人を優先して救出し、イランからトルコ経由で成田まで無事届けてくれたのです。


トルコでは、この2つの話が小学校の教科書の副読本に載っていて、授業で習うので、トルコの小学生なら誰もが知っているそうです。私もその副読本を見せてもらったことがあります。言語はトルコ語で書かれているので分かりませんでしたが、挿絵が随所にあり、トルコの軍艦が日本に着いて各地を視察している様子、嵐の中で船が座礁している様子、海に投げ出された乗組員を地元住民が助けている様子やそれにトルコの飛行機が飛んでいる絵などでストーリーは十分理解できました。
日本人でこの2つの話を知っている人は少ないと思われ、私がある講演会でこの話をした時、知っている人は1割程度でした。


トルコは世界でも有数の親日国です。両国は良好な友好関係にあり、経済関係も緊密化しています。日本企業も進出が増え始め、トルコの社会インフラ整備に大きく貢献し、例えば吊り橋道路や海底トンネル、発電所建設では日本の技術が光っています。
日本企業のトルコ進出が今後さらに増えていく中で、日本は経済面だけでなく、文化・歴史面においても相互交流を深めながら、この2つの出来事を日本とトルコとの固い絆として語り継いでいくべきと思います。それでは詳しくご説明しましょう。



エルトゥールル号遭難事件と救助と山田寅次郎の活躍

1890年6月にオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号がイスタンブールの港を出港して、11カ月をかけ各地に寄港して、ようやく横浜港に到着しました。訪日目的は親善訪日使節団として、日本との友好関係を深めることでした。オスマン帝国の特使や随行軍人ら総勢656名もの大がかりな使節団でした。一行は明治天皇への拝謁(はいえつ)はじめ、東京各地を訪ね歓迎を受け、友好を深め日本の文化を吸収し3カ月ほど滞在して帰国することになりました。

9月16日に横浜港を出航しましたが、夜になると折からの台風に遭い、暴風雨のなか、和歌山県串本町沖で岩礁にぶつかり座礁し沈没してしまいました。乗っていた656名は荒れた真っ暗な海に投げ出されたため、地元住民が総出で、必死に救助し、海に漂流していた69名を救出し、手厚く介抱しました。他の587名は残念ながら荒れ狂う海の中に消え救出できず大惨事の海難事故となりました。しかし地元民がひたむきな救援活動を行い、死傷者を最小限にとどめ、生存者に食料や衣類などを与え、体を温め勇気づけました。生存者はここでの親切な地元住民の対応に感激したそうです。

9月17日、明治天皇にこの遭難事故が報告され、天皇は大変悲しまれ、可能な限り支援をするよう指示をされました。生存者は体力を回復するまでしばらく和歌山にとどまり、その後東京に移りました。東京でも日本人の手厚い支援などを受け、日本人の誠実さに心を打たれることが多くありました。

10月5日、69名は日本の軍艦2隻に乗って、品川湾から神戸経由イスタンブールに向けて出港しました。軍艦には護衛として海軍の秋山真之らが乗りました。

1891年1月、イスタンブールに皆無事に到着し、大歓迎を受けました。帰国後、生存者は日本での献身的な支援に感謝し、日本人の素晴らしさを各地で伝えました。

「和歌山県樫野崎灯台とケマル・アタテュルク像」(北浦康雄氏撮影)
「串本にあるトルコ記念館」
(北浦康雄氏撮影)
「船が遭難した現場とその案内図」
(北浦康雄氏撮影)

1892年、民間人だった山田寅次郎はエルトゥールル号の犠牲者を悼み、1年以上日本各地を回り、義援金を集めトルコへ届けに行きました。山田寅次郎はトルコで大歓迎を受けました。義援金は現在の価値にすると約3,000万円にも相当しました。山田寅次郎は義援金を届けた後、トルコに魅せられ、そのまま滞在を決意し、第1次世界大戦が勃発するまでの約20年間トルコに住み、日本とトルコとの貿易や文化の懸け橋役を務めました。彼は両国の貿易の道を開き、また後のトルコの大統領となったムスタファ・ケマル・アタテュルクらに日本語を教えたとも言われています。当時イスタンブール市内には、山田寅次郎が支配人を務めた日本製の調度品を販売する貿易商店があったそうです。ボスポラス海峡に架かる吊り橋道路の近く(アジア側)にある高速道路の立体交差点周辺に2005年開園した私立庭園があり、その一角に「山田寅次郎広場」があります。ここは日本のNPOがトルコとの友好の証にと、エルトゥールル号の犠牲者を悼む桜を500本贈った際に庭園を造った親日家が名づけたと言われています。4月の桜の満開時には犠牲者の慰霊祭が開かれますが、山田寅次郎の志は今もトルコの人々の胸に生き続けているようです。


イラン・イラク戦争時のトルコ航空機による在留邦人の救出

1985年3月、イラクのサダム・フセイン大統領が「1985年3月19日20時以降は、イラン領空の航空機は民間機といえども安全を保障しない」と警告を発しました。タイムリミットは48時間しかありませんでした。当時、イラク空軍機はイランに空からの爆弾攻撃をしていたので、日本人や外国人はテヘラン郊外に疎開し様子を見ていましたが、この警告で「もはやこれまで」と脱出を決めました。
このため、イランにいる在留外国人は一斉に国外に出国しようとしましたが、航空会社も座席に余裕がなく自国民や外交官を優先したため、200名以上の多くの在留日本人がテヘランのメヘラーバード国際空港に取り残されました。日本人はたとえオープンチケットを持っていても「自国民優先主義」で拒否され、脱出便が見つからず途方に暮れ、空港で夜を明かし、中には絶望感でパニックになった夫人たちもいました。


こうした状況が伊藤忠商事の本社に伝わり、イスタンブール支店長が本社と連携しながら、個人的に親密な関係にあったトルコのトゥルグト・オザル首相に思い切って電話をかけました。そして日本人を助けてほしいと航空機の救援を必死でお願いしました。また駐イラン大使も時を同じくしてトルコにお願いをしました。
この緊迫した状況の回顧録は元伊藤忠商事のイスタンブール支店長 森永尭氏の「トルコ 世界1の新日国 危機一髪、イラン在留日本人を救出したトルコ航空」(明成社 平成22年)に詳しく記されています。
数時間後、オザル首相から「日本人救援のため、テヘランにトルコ航空の特別機を1機出す。詳細はトルコ航空と連絡を取ったらよい。日本の皆さんによろしく」とのありがたい電話がありました。
駐イラン大使もトルコ大使にお願いしていましたが、「トルコから救援機を出しましょう。エルトゥールル号遭難時に受けた恩義を知っています。その恩返しをさせていただきます」との返事が返ってきました。オザル首相にとっても苦渋の決断だったと思われます。当時イランにいた500名以上の在留トルコ人を救わず、日本人の救出を優先し、危険地域での飛行許可を出すことは政治生命を失いかねないリスクのあることでした。
こうして日本人215名全員がトルコ航空機に搭乗することができ、警告時間まで残り少ない時間という状況の中テヘランを離陸し、トルコ国境に入った時は大歓声が沸き、万歳を叫び、皆泣いていました。一行は、イスタンブールで歓迎の夕食会を受け、久しぶりにおいしい料理を食べ解放感に浸りました。
夕食歓迎会では、カキは腹を壊しては大変なのでメニューに入れなかったのですが、生ガキがおいしそうに並んでいるのを皆が見て、食べたいと言い出したので、制止したところ、皆は「こんな幸せはない。私たちは地獄から天国に来たのだ。カキに当たるなら当たってもいい。今までのつらい思いを振り返ればずっと幸せなのだ。これからはトルコに足を向けて寝ない」などと感謝して皆生ガキを食べました。幸い翌日誰も腹を壊さなかったそうです。



トルコとの友好関係の永続化に向けて

美しいボスポラス海峡
ブルーモスクの内部
トルコの象徴でもあるブルーモスクの美しい外観

当時JALは飛行の安全が保障できないので救援機を出せないことになり、また自衛隊機は海外派遣不可の原則で救援に行けませんでした。しかしトルコは、日本人の安全の保障がなかったので、早く救出するために救援機を出してくれたのです。そのあおりで当時イランにいた在留トルコ人約500名は陸路を車で脱出せざるを得なくなり、テヘランからイスタンブールまで3日以上もかけて埃と汗で真っ黒になりながらようやく帰国しました。外国人である日本人を優先して救援機を出したことを批判する市民やマスコミはなかったそうです。

2006年に、当時の小泉首相はあらためて、感謝の意を表明し、日本人救援を決断したオザル首相の夫人に小泉首相から感謝状が贈られました。(オザル首相は1993年に亡くなられていたため夫人に授与)
また当時のトルコ航空機機長や客室乗務員ら関係者13人に叙勲が授与されました。
思えば「エルトゥールル号の遭難事故」での日本の救出対応が親日の始まりといえます。生存者69名への献身的な救出や、その後両国の橋渡し役をした山田寅次郎の活躍などで、その恩義を忘れずにいた親日国トルコが「エルトゥールル号の恩返し」として、遭難事故から約100年後にこうしたトルコ航空機救援という形でイランに取り残された在留日本人215人を助けてくれました。

日本は、この恩義を忘れず、トルコとの友好関係を持続させる努力をし、次の世代に語り継いでいくべきであると、イスタンブールの美しいブルーモスクを仰ぎ見ながら強く思いました。


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