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世界の街角で見た文化・歴史

【第4回】 オランダの街角にて歴史・文化に触れて

美しいアムステルダムセントラル駅にて

アムステルダムセントラル駅(赤レンガと白い線)

オランダのアムステルダムセントラル駅を降りてみた。宮殿のような美しい駅舎で、赤レンガに白地の線が入っている。どこかで見覚えのある駅舎だと思っていたら、東京駅に良く似ていることに気づいた。
1889年に完成したこのアムステルダムセントラル駅は、当時のオランダの夢を乗せた建物だった。設計者は港から浮かぶ蜃気楼のイメージで駅舎を描き、左右には塔がそびえている。右の塔には鉄道を象徴する時計、左の塔には海運を象徴する風向計が取り付けられている。
駅構内では多くの人が行き来しているが、自由往来の駅で改札がない。その代わり乗車後に車掌が検札に回ってくる。ヨーロッパ各国の鉄道が乗り入れ、15本もあるホームでは1日1,200本以上の列車が往来している。ホーム上では恋人や家族や友人など多くの人との出会いや別れの光景が繰り広げられていた。建設されてから120年以上が経つ美しい駅。そこに交錯する人々の夢や哀しみを乗せて、今日も列車は旅立っていく。

アムステルダムの街角にて

アムステルダム市内
ランチ時、外のテラスでくつろぐ人々
運河でボートを漕いでいる人たちがいる

首都アムステルダムの街は、セントラル駅を中心にして広げられた扇のような形をしている。運河と橋が多く、レンガ造りの重厚な建物が整然と並び、石畳が敷き詰められた街並みが歴史を感じさせ、成熟した大人の街という感じである。
自転車に乗る人が多く、颯爽と自転車専用レーンを走っており自転車天国である。街角には自転車駐輪場が多くあり、生活に溶け込んでいる。
花も至るところで咲いており、手入れがよく行き届いている。オランダには世界各地からバラやチューリップ、水仙、ヒアシンスなどの花が集まっており世界の切花市場でも有名である。運河沿いのカフェでは、花の鉢植えが沢山あるテラスで老夫婦がコーヒーを飲んでいる。ゴッホの絵葉書を見ながら談笑している様子が絵になる。青空カフェでは多くの人たちがくつろいでいる。
少し郊外に行くと、風車が点在している運河で、4人乗りの競技用ボートを漕いでいる2組の人たちがいた。聞けば、週に1度、会社帰りに服を着替えて集合し、小一時間ほど漕いで汗を流しているという。その後、みんなでレストランに行き、各人の奥方たちもそこで合流して、夫婦ぐるみで夕食を楽しむのだそうだ。日本でこのようなアフター5を過ごしたことは無かった私はカルチャーショックを受け、人生の楽しみ方の一つをオランダで垣間見た思いがした。
ところで街を行き交うオランダ人はみな身長が高い。オランダ人に聞くと大人の男性の平均身長は175㎝あるという。子どものころから牛乳を水代わりによく飲み、おやつにはチーズを食べているので、骨がしっかりして身長が伸びるのだそうだ。
オランダ人に国民性を聞くと、質実剛健で現実主義で、世界との貿易で栄えた国だけに異文化や多様性の受け入れにも寛容性があるという。また自由を重んじる国であるだけに自己の責任も厳しく問われ、小さい時から自立した行動が身についているという。

水の都と自由都市、アムステルダム

アムステルダム市内の運河では水上バスが走り観光客が街めぐりを楽しんでいる
オランダ、アムステルダム市内 カラフルな路面電車が走る

オランダの国土の4分の1は海面下であり、13世紀以降、堤防に風車を築いて運河に水を掻き出してコツコツと干拓地を作った。そこにオランダ人の粘り強い性格がうかがえる。そして出来上がった干拓地に定住し街を作り商業や農業を発展させてきたのである。
中でもアムステルダムは海運が盛んな貿易港として発展してきた。水の都とも呼ばれ、165本の運河があるという。ヨーロッパの玄関でもあり、ビジネス、観光の街でもある。
17世紀のオランダは黄金時代を築き、世界の貿易と金融の中心地であった。東インド会社と西インド会社を使って海外との貿易を大きく伸ばした。東インド会社は、オランダの植民地であった現在のインドネシアに拠点を築いてお茶や香辛料などを世界中に輸出し、国家産業機関としてアジアは勿論日本の長崎出島まで貿易を拡大した。西インド会社は現在のニューヨークに根拠地を置き、ニューヨークは「ニューアムステルダム」と呼ばれていた。ブルックリンやハーレムなどのニューヨーク市内の地区の名前も、オランダの地名から来ている。
オランダ人は権力に捕らわれない、自由な合理的精神を持っている国民であるといえる。そして、アムステルダムは自由都市としての一面を持ち、各国から迫害された人々や多様な価値観を受け入れる寛容さと度量を持っている。

オランダと日本とは400年以上の密接な関係

オランダと日本との間には400年以上の歴史があり、両国は古くから密接な関係にある。
日本との交流の始まりは1600年にオランダ船リーフデ号が九州に着いたことによる。その船に乗っていたウイリアム・アダムスは日本に留まり、後に三浦按針として徳川家康の外交顧問となった。乗組員のヤン・ヨーステンも徳川幕府に重用され、邸宅が東京駅近くにあったので八重洲という地名になっている。
1609年に東インド会社が長崎の平戸に商館を設立した。
医者であるシーボルトが日本に来て、西洋医学を日本人に教え、鳴滝塾を開いた。鎖国政策の江戸時代の中で、長崎出島ではオランダと中国のみが貿易を許された。日本はオランダを通して西洋の情報・文化・学問を取り入れることができたのである。オランダ船が出島に入るたびに西洋からの情報や輸入品がもたらされ、日本にとってそれは驚きの連続であったと思われる。
2009年は日蘭400年周年にあたり、オランダでは日本を紹介するイベントやシンポジウムが数多く開かれ関心を高めた。

ゴッホ美術館にて荒ぶる魂の生き様を観る

ゴッホ美術館

ゴッホ美術館を訪れた。ゴッホ(1853~1890年)は日本人に人気が高い画家であり日本人の鑑賞者も多く見かけた。毎年世界中から100万人以上が訪れている。1973年にオープンし油絵200点、デッサン500点などが展示されている。1999年に出来た新館は黒川紀章氏の設計である。ゴッホの作品を4つの時代順に展示してあり分かりやすい。
若き時代の「オランダ時代」には、農民や労働をテーマにしており、「馬鈴薯を食べる人々」など暗く重い雰囲気の画風であった。 「パリ時代」では印象派との交流もあり明るい色彩に変化していき、静物画や自画像が増え、「ヒバリのいる麦畑」など色彩が明るい。また日本の浮世絵の影響も受け歌川広重の「雨中の橋」などの浮世絵の模写もあり、浮世絵を徹底的に研究していた跡がうかがえる。
南フランスで過ごした「アルル時代」には、南仏の豊かな自然に触発されて精力的に制作に取り組んだ。「ひまわり」「黄色い家」「寝室」「麦畑」に見られるように、この時代の作品は画家としての自信に満ち、色彩は黄色や青を特に好むなど、豊かで強い色調となっている。
しかし「サン・レミ時代」には精神病を患い、ゴーギャンとの別れもあって、内面の狂気や妄想を象徴するような絵が多くなる。そのような中にあってとりわけ素晴らしい絵が、弟テオに息子が生まれたことへのお祝いに描いた「花咲くアーモンドの枝」だ。幼い命のシンボルとして、春に真っ先に咲くアーモンドの花を選び、柔らかい色調と繊細な表現の絵である。
そして最後の4つ目の時代は1890年以降の「オーヴェル・シュル・オワーズ時代」で、「カラスの群れ飛ぶ麦畑」には不吉な前兆のカラスと荒々しい空が描かれている。人生の終焉を暗示しており、ゴッホの不安を表すタッチである。この後ゴッホはピストルで自殺を図る。
死ぬ前頃から作品が評価され始めたが、挫折することは自分の運命なのだと受け止めていた、不遇の天才、孤高の画家、炎の人と呼ばれたゴッホ。その荒ぶる魂の生き様が作品を通して迫ってきた。

シーボルトゆかりのライデンにて

ライデンの街

ライデンはアムステルダムセントラル駅から列車で南へ38分のところにある。車窓からはオランダの緑豊かな畑や田園地帯が広がり美しい。初め眺めの良い2階席に座っていたが、実はそこはファースト・クラスとは知らず、検札が来てあわてて1階のエコノミー・クラスに移ったハプニングがあった。何しろ切符がオランダ語表記のため意味が分からなかったのである。
ライデン駅に着くと駅周辺にはシーフードやインドネシア料理のレストランや屋台がある。中でもニシンの酢漬けを売っている屋台は人気があり、人々は片手でニシンの尾をつかんで口の中に放り込んでいる。日本で言えばカニの足の身を丸ごと口に入れる風情で皆満足顔である。駅周辺には自転車の駐輪場が多く、通勤の足になっていることが分かる。
ここライデンにはある国際会議で来たのだが、シーボルトゆかりの地でもあるので、シーボルトハウスとライデン大学を訪ねてみた。

シーボルトハウスは日蘭をつなぐ場所
シーボルトハウスには、シーボルトが長崎のオランダ商館に医者として滞在していた間に日本で収集した美術品や日用品や資料など2万点が収蔵されている。常時入れ替えを行いながら、掛け軸、仏像、動植物の絵、地図、風俗画、江戸時代の暮らしぶりを示す資料など800点ほどが展示されている。貴重な博物館であり且つオランダにおける日本センターでもある。日蘭両国をつなぐ大切な場所がシーボルトハウスであると実感した。
シーボルトは1823年から1828年までの5年間、日本に滞在した。オランダから医者として日本の長崎に派遣されただけでなく、日本の文化や歴史や風土の情報収集の任務もあった。医者としての仕事のほか、出島の外で鳴滝塾を開き、西洋医学としての蘭学や西洋情報を教え、日本に大きな影響を与えたのである。
また2011年の日本の東日本大震災時には、シーボルトハウスで日本支援のための様々なチャリティーイベントが行われ、千羽鶴を作って大使館に寄贈したという。

ライデン大学での日本学への関心

ライデン大学内 シーボルトの像

ライデン大学はオランダ最古の大学であり、世界最古の日本学科を持っている。シーボルトもライデン大学で学んでいる。大学には、シーボルトが日本から持ち帰った植物(銀杏、楓、藤、紫陽花など)が沢山植えられた植物園や、シーボルトを記念した日本庭園がある。シーボルトの像の後ろには好きだった紫陽花が植えられている。シーボルトの弟子が19世紀半ばに日本学という学問を作り今日に至っている。このためライデン大学は欧州における日本研究の中心的な存在になっている。
ライデン大学の日本学科には、学生が400人おり毎年100人ほど入学するなど日本への関心が高い。若者は日本のJホップ、アニメ、ゲームコンテンツ、浮世絵や日本の物作りの匠の技、日本の伝統文化などに関心があるという。日本としてもこうした分野にもっと支援協力して、日蘭の人的交流を草の根からでも広げていくことの大切さを感じた。

アンネ・フランクの隠れ家にて

アンネフランクの家(右手建物)

アムステルダム市内の美しい運河沿いにアンネ・フランクの隠れ家がある。是非行きたいと思っていたところなので訪ねてみた。
地図を頼りに市内を探し、ようやく探し当てたアンネ・フランクの家では、一家が身を隠していた部屋がそのまま保存されていた。そこは一般公開され、多くの人々が訪れていた。
1階と2階は父親が経営していた会社でその上の3、4階の裏側に、入り口を本棚で塞いで隠れた狭い部屋があった。この狭く息が詰まるような隠れ家で、アンネは日記を書き続けたのであった。
「アンネの日記」は世界中で読まれている本である。オランダ語で書かれた日記は60以上の言語に翻訳され、1947年の初版以来、世界中の人々に読まれ、2,500万部以上が世界で読み継がれている。日本でも小学生の必読書になっていると聞く。「アンネの日記」の原本はこのアンネ・フランクの家に展示されている。
2年間息を潜めて潜状していた隠れ家は2年後、突然何者かの密告によって、ナチス・ドイツに見つかり、連行された。その後、一家はアウシュビッツやベルゲンベルゼン収容所などに列車で送られ、アンネはチフスと栄養失調のため、息絶えた。16歳のあまりにも短く、むごい死であった。
アンネは、日記の中で書いている。「このいまわしい戦争もいつかは終わるでしょう。いつかはきっと私たちが、ただのユダヤ人ではなく、一個の人間となれる日が来るはずです。」(アンネ・フランク、深町真理子訳「アンネの日記」文春文庫2003年)

アンネフランクの家の中 アンネの部屋(復元したもの)

アンネ・フランクの家に入ると、まずナチス・ドイツの虐殺や収容所への連行、ガス室などのフィルムが流れ、それを見てから、中へ進む。隠れ家の入り口はドアの前を本棚でカモフラージュしていた。狭い部屋で、ひそひそと話し、忍び足で歩き、外には絶対出られない生活が想像される。それが、どんなに非人間的か、部屋を回りながら心が痛み共感した。人種差別、人権、自由、民主主義という人間として生きていく上での大事な理念から目をそらせてはいけないことを、アンネ・フランクの家は強く実感させてくれる。
日記には、第2次世界大戦中にユダヤ民族がどのような迫害を受けたのか、ナチス占領下のオランダで世間から隠れての生活がどれほど恐怖を伴うものだったかなどが書かれている。
そしてアンネは、隠れ家で起きた出来事をつづるほか、自分の成長の過程も記録している。ナチスへの恐怖という絶望的な状況の中でも、未来への希望や期待もなくしてはいけないと健気に自ら戒めている。
アウシュビッツから奇跡的に生き延びた父親は、娘の日記を世に出して、こうしたことが二度と起こらないよう、人類の自由を訴えることを自分の残りの人生の課題にしようと決めたという。
20世紀で最も恥ずべきものの一つとして数えられるユダヤ人迫害や虐殺、アウシュビッツ収容所での悲劇は、ホロコーストと呼ばれ映画でも多く取り上げられている。「シンドラーのリスト」 や 「ソフィーの選択」や「ライフ・イズ・ビューティフル」など、重い感動の映画が多い。

アンネは日記に書いている。
「1940年5月からはいよいよ急な坂道を転げ落ちるように、事態は悪いほうへ向かいました。まず戦争、それから降伏、続いてドイツ軍の進駐。私たちユダヤ人にとっていよいよ本当に苦難の時代が始まったのはこのときからです。ユダヤ人弾圧のための法令が次々と出ました。ユダヤ人は黄色い星印をつけなくてはいけない。(中略)ユダヤ人は電車に乗ってはいけない。(中略)すべてあれはだめ、これもだめ、と禁じている有様です。」(1942年6月20日)
「イギリスのラジオでは、みんな毒ガスで殺されているといっています。私は恐怖に打ちのめされています。」(1942年10月9日)
(アンネ・フランク、深町真理子訳「アンネの日記」文春文庫2003年)
当時、ナチスは密告を奨励しそれに報奨金を出していた。隠れ家にいる者は毎日、密告という眼に見えない敵にも怯えていたのである。また、ユダヤ人を手助けした者も、ユダヤ人同様殺される時代だった。
そのような、恐ろしいナチス・ドイツの警察管理下だったにもかかわらず、隠れ家生活を助けた良心の人々がいた。自分の身を危険に晒してまでアンネ一家を支援し続けた一家の恩人がミープ・ヒース氏であり、野菜などの食べ物や日用品などを買い求めては隠れ家に届け続けていた。「私は英雄ではありません」(アンネ・フランク財団「未来に向けての歴史の叫び、アンネ・フランク」1996年) というがその勇気には頭が下がる。
自らの身の保全のために大多数の人々が権力に屈してしまったナチス・ドイツ独裁の時代に、誠実さを最後まで持ち続けたこうした名もなき人こそが評価されるべきである。彼らの「勇気」 は、アンネの勇気に比べても決して引けを取らないほど素晴らしい。
極端なナショナリズムは、危険な要素をはらんでいて、他国や他民族への差別や排斥、暴行につながりやすい。人種の偏見は今も無くなってはいない。
アンネフランクが残してくれた日記、そしてアンネの思い、覚悟、恐怖、絶望、希望を、我々は決して無駄にしてはならない。
そのためにはファシズムが権力を握っていた恐怖の時代や反人間的な独裁政治の事実を、後世の人にきちんと語り継いでいき、風化させないことである。私たち一人ひとりが、自由、人権、多様性の尊重を信じることが、平和に向けた行動への第一歩となる。また、他国の人との交流という民間外交は、お互いの国に対する先入観を解き、多様性への理解と尊重につながるものである。
夕陽がさすアンネの隠れ家の前にたたずみ、オランダのそよ風に吹かれつつ、人間をいとおしく思うとともに人間の残酷さにも目を向けながら、平和への思いを新たにした。


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