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世界の街角で見た文化・歴史

【第2回】 ロスアンゼルスの全米日系人博物館にて

「ロスアンゼルス(Los Angeles)」、それはスペイン語で「天使の街」の意味である。元々スペイン人が開拓した土地で、今や全米第2の経済都市である。

サンタモニカの歩行者天国。週末は多くの人で賑わう。
ペイントされたハリウッドの一角。街の道路に面した壁も映画館にしてしまう。
ロスアンゼルスのダウンタウンには高層ビルが林立している。

サンタモニカは、明るい太陽と抜けるような青空、さわやかな風のイメージがあり、私の好きな街である。4月から10月頃までが乾季で、雨は降らず晴天が続くので週末は大抵空の下で過ごせる。雨季は冬だが、雨が降るのは週に1回程度なので1年中温暖で過ごしやすい気候である。この街に住んでいた私は、週末にはサンタモニカビーチで泳いだり、ジョギングをしたり、サイクリングや釣りによく出かけた。歩行者天国でカリフォルニアワインを飲み、お腹が空けばシーフードやピザを食べ、椰子の木の木蔭でギターを弾いたり、芝生で昼寝をしたりと夢のような時代であった。

ハリウッドに代表されるように映画の街とも言われ、ディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、ナッツベリーファームなどエンターテイメントの街でもある。ヒスパニック系の人口が47パーセントを占め、街には英語に加え、スペイン語の表記や案内が多い。また人種のサラダボウルとも言われ、多くの人種が移民であり、アジア系を見てもチャイナタウン、コリアンタウン、リトル東京、リトルサイゴンなどのように堂々とその文化様式を形成している。ダウンタウンのブロードウェイ通りにあるメキシコ人マーケットなどは、その規模の大きさに圧倒される活気がある。

また、鉄道が少なく典型的な車社会なので車がないと不自由する。高速道路であるフリーウェイには、片側6車線などの道路もあり壮観である。
大リーグのドジャース球場の中には、昔活躍した野茂秀雄投手が英雄扱いされて展示がされている。日系人も多く、日本人にも馴染みが深い街である。
ロスアンゼルスのリトル東京に、全米日系人博物館という日本人移民140年の歴史を伝える貴重な博物館がある。私がロスアンゼルスに住み始めた1997年当時はまだ昔の建物(旧西本願寺別院)の中にあり、薄暗い感じの博物館であったが、その後1999年に日系人や日系企業の多大な寄付によって、ガラス張りの明るい建物に生まれ変わった。

私がここに何度も足を運んだ理由は、日本人がいつ頃アメリカに移民して、どのようにアメリカの中で自分たちの地位を築いていったのか。そして第2次世界大戦時、砂漠の強制収容所に約12万人の日系人が収容されたという迫害の歴史がどのようなものであったのか。この二つのことに関して、当時の生活展示物や手紙やフィルムなどを直接見ることで、日本人としてきちんと後世に伝えなければいけないことがあるのではないかと思ったからである。

まず驚くのが、徳川時代の鎖国が解け、明治になった翌年の明治2年(1869年)には、日本人最初の移民が船でアメリカへ渡っていることである。会津藩の若者らが、アメリカに夢を抱いて、難破の危険も省みず渡航した。そこに日本人のパイオニア精神を垣間見た思いがした。
彼らはサンフランシスコに着いて、郊外で綿畑や野菜やオレンジなどの農業作業者として、小作人になり勤勉精神を発揮して働き、信頼を勝ち得ていった。生活は決して楽ではなかったが、朝から晩まで働いた。農業のほかに庭師として働く人もいて、ロスアンゼルスのガーデナという地域は、昔日本人の庭師が多く住んでいたことから名づけられた。
そうした中、日本人同士のコミュニケーションとして、東雲新聞が1886年に創刊された。これはアメリカで最初の日本語新聞である。

日系1世は慣れないアメリカで辛抱強く働き、現地に根を張り、お互いに助け合いながら、地域社会に溶け込んでいった。一方でアメリカ人の人種差別的行動は、黒人だけでなく日本人等のアジア人へも形を変えて向けられていた。アジア人の移民の中では、日本人が最も早く数も多かった。
日本人は勤勉でよく働き、器用で工夫をしていくので、農業だけでなく工場などでも成果も上げ、信頼を勝ち得ていった。日本人は安い賃金で農園や工場で働いていたため、それまでの白人の労働者を追い出してしまう結果となった。このため、白人のアメリカ人が日本人のせいで自分たちの生活が脅かされたと不満を政府にぶつけたり、訴えたりするようになった。

そうした背景もあって、日本人移民を制限しようという差別的な立法の動きが活性化してきた。
それは、1893年のサンフランシスコでの日本人学童の隔離問題に始まり、日本人移民のハワイからの本土への転航禁止、日本からの移民の自主規制を定めた日米紳士協定、写真婚による日本人花嫁の渡航禁止、日系1世に対する帰化権の剥奪など、数え切れないほどである。
1919年に禁止された日本人の写真婚は「日本人はウサギのように多産で、これではアメリカが日本人であふれてしまう」という排日グループの悪意に満ちたものであった。

そしてついに1924年、アメリカ連邦議会は、日本人移民の渡航を実質的に禁止する移民法を制定してしまうのである。
この排日移民法によって、日本からの移民は一人たりともアメリカに入国できなくなった。
また、白人のアメリカ人女性が日本人と結婚すると、市民権を失う法律まで出来て、日系1世が結婚相手を見つけることが困難になった。これは、アメリカにいる日本人移民をゆっくりと根絶やしにしようというものであった。
こうした一連の措置や日本人への排他的な移民法の法律は、アメリカにいる日本人および日本本国にいる日本人に対し、その後のアメリカへの反米感情を高めてしまう契機になったのである。「アメリカの自由とは見せかけで実態は白人優位。日系人などアジア人を排除し、また黒人を奴隷として使うなど、人種差別の国である」と。
こうした背景もあって、アジアはアジア人の手で独自の国を作るべきであり、アジアから欧米の勢力を追い出し、自立したアジアの国家共同体を作るべきとの考えに繋がっていった。

その後、日本は軍への抑えが効かなくなり、軍国主義に走り、アジアに対し大東亜共栄圏を築くのだといって侵略していった。欧米から、石油禁輸などの経済制裁を加えられた日本は、ついにハワイの真珠湾攻撃によって、1941年太平洋戦争に突入してしまった。
アメリカは、真珠湾攻撃を宣戦布告のない(日本大使館は解読や清書等で手間取り宣戦布告文書の手渡しが遅くなり、真珠湾攻撃の1時間後となってしまった)攻撃と非難し、国際社会への戦争の正当性に使い、日本を徹底的に叩くことを決めた。それが、後の広島、長崎への原爆投下や沖縄全滅作戦等に繋がったと共に、アメリカにいた日系人を強制的に砂漠の収容所に送り込んだことにも繋がっている。
真珠湾攻撃の翌年、1942年にルーズベルト大統領は、敵国の日系人を強制収容所に送ることが出来る大統領令9066号に署名した。こうして約12万人もの日系人が、砂漠地帯の収容所に送られたのである。その中の一つマンザナ収容所は、ロスアンゼルスから約300km離れた砂漠の中にあり、2日ほど汽車や貨車に詰め込まれる。外を見てはならないとブラインドを下ろされるので、蒸し風呂のような状態の列車でローンパインの駅迄送られた。そこから軍用トラックに乗り、更に15km先の収容所に送られた。砂煙舞う砂漠や田舎の収容所に連れて行かれ、皆、汽車のすすやほこりで顔が真っ黒だったという。

収容所では、各人が得意分野の仕事をして共同生活を送り、食事などは当番制であった。灌漑工事をして水を引き野菜を作ったり、木工をしたり、子どものために小さいながらも学校を作ったりした。
最低限の衣、食、住はあるものの、鉄条網の中で人間としての尊厳、自由、アメリカ市民として平等に扱われる権利は剥奪されていたのである。マンザナ収容所には1942年6月から1945年11月迄10,046名が収容された。
アメリカは、この強制収容の措置を 「日本人を不穏な動きをするアメリカ人から守るため」 と大義名分を立てているが、どう見てもこれは迫害であり、紛れもない人種差別である。アメリカは、収容所を「Relocation Campus」と呼んだが、これは「Concentration Campus」である。自由と民主主義の国で、はっきりとした人種差別がアメリカ政府の手で行われた歴史は、しっかりと後世に語り継いで二度と起こらないようにしていく必要がある。

「死の谷(DeathValley)」の近くの荒涼とした砂漠地帯。この先に収容所があった。

収容所に送られた日系人は約12万人で、砂漠等の10箇所の収容所に入れられた。日系人の70パーセントはアメリカ生まれの2世で、既にアメリカの市民権を取得していたにもかかわらず、強制収容所送りとなったのである。他方、第2次世界大戦でのアメリカの敵国であったドイツやイタリアのアメリカ在住の人間に対しては、強制収容所送りはなかった。
収容所の一つである、マンザナ収容所の近くまで行ったことがあるが、ロスアンゼルスから約300km離れた過酷な砂漠の土地で、カリフォルニア州とはいえ、西にはシエラネバダ山脈があり、東側のネバダ州との間の砂漠で荒涼として何もないところだった。東の山の先には「死の谷(Death Valley)」がある。「死の谷」にも行ったことがあるが、一部は海抜よりも低いところがある砂漠で、岩塩が白く気味悪くむき出しになっていて、とにかく暑い所だった。昔カリフォルニアで金が出た時、東から多くの人が西を目指し、近道しようとしてこの砂漠地帯を横切ろうとしたが、道が無いのでかえって迷ってしまい、夏の暑さで多くの人が倒れて死んだことからこの名がつけられた。
夏は40~50度ぐらいまで気温が上がり、その暑さは尋常ではない。乾式サウナに入った感じで、呼吸する空気自体が熱い。働けば汗が滴り落ち、直ぐ体力を消耗してしまうし暑くて思考能力が停止した。また冬は凍えるほど寒くなる。風が吹けば、砂嵐となって人間に襲い掛かってくる。ここは人間の尊厳性を失わせるのに充分な砂漠の不毛地帯である。
内陸の州では、どこも日系人移民の受け入れに難色を示したことから、砂漠の不毛の地に送られたが、そうした中にあって、コロラド州だけは、日系人の受け入れに理解を示し、人間的な暮らしが出来るように配慮してくれた。1994年天皇陛下がコロラド州を訪ねた際には、州知事へ当時の温かい配慮に御礼の言葉を述べている。

1944年1月以降、収容所の日系2世は徴兵の対象となった。敵性分子とののしられながらも、日系人の若者の中には、アメリカに忠誠を誓って志願兵となって出兵する者も多くいた。戦時収容局は、17歳以上の全ての日本人や日系2世に対し、忠誠登録を実施した。その質問表の中に「自ら進んでアメリカ陸軍の戦闘任務に就くかどうか」 と、「アメリカに絶対の忠誠を誓い、外国の武力からアメリカを守るか、また日本の天皇などに対する忠誠を拒否するか」 があった。
これは、日本人の血が流れている身としては、つらいものがあり、そう簡単にYesと言えない内容である。鉄条網の中に囲い込んでおいて、何をか言わんや、である。江戸時代の隠れキリシタンを調べる踏み絵のようなものである。
ある者は、苦しんだ挙句Yesと答え徴兵されたり、ある者は、Noと答えアメリカに忠誠心がないとされ(2つともNoと応えたものは「No,No,Boy」と言われた)、さらに奥地の砂漠にある収容所に送られたりした。

全米日系人博物館の庭園にある碑。強制収容された日系人がアメリカ軍として勇敢に戦い多くの人が犠牲になった。

日系2世を中心に組織された442連隊は、5,000人規模の部隊でイタリアの激戦地に送られ、勇敢に戦って成果も挙げたが、犠牲も大きかった。日系兵の死傷率は28.5パーセントにも及び、アメリカ兵死傷率の5.8パーセントを5倍も上回っている。
また、アメリカのテキサス大隊275人がドイツ軍に包囲された時、救出するために日系兵部隊が命ぜられ、日系兵200人が死亡し600人の負傷者を出しながらも、必死に戦い、アメリカ兵を救出した事もあった。戦闘で名誉の負傷をするとパープルハート勲章 (紫心章) をもらえるが、442連隊の兵士は複数回もらった人も多い。日系2世で、戦争に従軍した数は、33,000人を超える。
戦後、1946年にトルーマン大統領から、442連隊は、表彰を受けたが、その際「日系兵は敵と戦っただけでなく、偏見とも戦って勝った」 と言われたのであった。日系兵の多くは、忠誠なアメリカ市民であることを示す絶好の機会として、戦争に出兵し、激しく戦った。多くの仲間を失ったが、日本と命がけで戦って成果を出し、それらにより、日系人が認められることになるのは、歴史の皮肉である。

1946年、ツールレイクの収容所が閉鎖されると、他の数箇所の収容所も次々に閉鎖され、日系人は戻ることを許された。しかし、ロスアンゼルスのリトル東京などでは、戦争中に移住してきた黒人たちによってかなり占拠されてしまった。
幸い空き家となっていた古巣の家に戻ってきても、夜になると銃で脅されたり、放火などの嫌がらせに遭ったりした。
それでも日系人は、再びゼロからやり直し、働き、お互いに助け合いながら商売をし、工場を建て、金を貯め、粘り強く生き続けた。
苦労した日系2世の生き様を見てきたその子供の3世は、ハングリー精神に富んでおり、親も教育に金をかけてくれたので大学などにも行き、資格を取りビジネスで成功していった。日系3世たちが主流になってくると、次第に社会的にステータスも上がり、中流階級に上昇していった。

1976年、フォード大統領は、大統領令9066号をようやく撤回した。しかし謝罪の言葉は無かった。そして1988年、レーガン大統領の時代になって、ついに謝罪が実現した。レーガン大統領は日系人強制収容所の非を認め、公式に謝罪した。そして生存している日系人被害者に2万ドルの補償を定めた日系人補償法に署名した。
ここに、市民権を持つ善良な日本人を、日系であるという理由だけで収容所に強制収容したことの不当性をアメリカ議会は認めたのである。それまで日系人の多くは砂漠の強制収容所に送られたことを恥と思い、戦後普通に暮らせるようになってもためらいがあり、隠れるように暮らしていた。しかし、この大統領の謝罪と補償によって日系人の意識が大きく転換し、名誉も挽回され、日系人であることの誇りと自信を取り戻したのである。

現在、アメリカにいる日系人は約80万人おり、日系4世の代になっている。
日系4世は、ビジネス、政治、サービス、スポーツなどさまざまな分野で活躍してきている。1992年、アルベールビル冬季オリンピックで、日系4世のクリスティー・ヤマグチが女子フィギアスケートで金メダルを獲得し、多くの日系人が涙した。彼女は日系人の誇りとなった。

ガラス張りの明るい建物になった全米日系人博物館の前で。

1999年1月23日、リトル東京の一角に、新しい全米日系人博物館のパビリオンが落成した。落成式後に見学したが、外見はガラス張りで明るく、開放的である。館内は、強制収容所での生活の苦労やフィルムや展示品や出兵した兵士の遺品や千人針などの展示が多い。
明治初期から現在までの日系移民の歴史が年譜で詳しく見やすく出来ており、印象的だった。
このパビリオンは、日系2世の建築家である小圃 暁(おばた ぎょう)氏の設計で、その設計思想は二つの文化の融合を表している。即ち、日本文化とアメリカ文化、過去の文化と現在の文化、移民1世の文化と日系2・3世の文化、そうした二つの文化の融合を指している。
2009年には、日系人強制収容所に秘かにカメラを持ち込み、鉄条網の内部を写し続けた写真家である宮武東洋氏の没後30年を記念して、ドキュメンタリー映画が上映された。製作は2001年にさかのぼるが、きっかけは強制収容所の体験を語れる人が80歳を超えるようになり、生存するうちに映像化しなければいけないという思いが強くなったことである。もう一つは2001年9月11日の米国同時テロ以降、多くのイスラム教徒やアラブ系の人が深刻な嫌がらせを受けたり、微罪で身柄を拘束されるのを見て、昔日系人が受けたのと同じ人種差別があり、悲劇の歴史を繰り返さないためにも、日系人の受けた苦しみを客観的に伝え、二度と起こらないようにしたいという熱い思いからであった。
2010年、ロスアンゼルスのリトル東京にある、全米日系人博物館を見学した。何回訪ねても胸が詰まる。陽を浴びて光るガラス張りの博物館の中で、シニア日系人の方がボランティアで説明をしてくれた。
明治初期に移民1世がようやく到着し、必死にアメリカに溶け込み、築いていった文化を、日系2世がアメリカ文化の中で、戦争に翻弄されながらも前向きに受け止め、粘り強く生き抜いた。そして、それらを受け継いだ日系3世が実を結ばせ、さまざまなアメリカ社会で貢献し、現在日系4世がさらに大きく発展させていることに、この140年強の苦難の歴史の重みを感じ取った。
さらに、戦争、迫害、人種差別などの過ちを繰り返しがちな人間に対し、我々がなすべき未来への教訓を重く受け止めた。


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