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世界の街角で見た文化・歴史

【第5回】 シンガポールの新しい発展と日本との歴史について

観光大国、シンガポール

マリーナ・ベイ・サンズ
3つの高層タワーの上に「天空の船」が乗っている
マー・ライオンの向こうにマリーナ・ベイ・サンズが見える

シンガポールにできたマリーナ・ベイ・サンズは新しい顔になっている。その奇抜なデザインはひときわ目立つ。3つの高層タワーの上に船の形をした空中庭園やプールが乗っており、「天空の船」と呼ばれている。地震が無い国ならではの発想であり、日本では怖くて建築できないであろう。
2010年にオープンし、ホテルやショッピングセンター、カジノなども含めた大規模な総合リゾート施設として大変な人気である。地上200メートル、55階建ての高層タワーホテルであり、屋上の展望台からは、真下にマーライオンやシンガポール中心街がよく見え、遠くにはインドネシアの島も見え圧巻である。屋上のプールで泳ぎながらの眺望には空中遊泳さながらの錯覚を覚える。そして、「シンガポールは新しいことに挑戦していく」という意欲が十分伝わってくる。
シンガポールは観光に力を入れている。ナイトサファリ、動植物園のほか、世界最大規模の海洋水族館や、セントーサ島のリゾート・ワールド・セントーサなどめじろ押しである。ユニバーサルスタジオもオープンしている。また、ギャンブルに厳しかったシンガポール政府が、外国からの観光客を取り込むためにカジノ建設を許可したことは大きい。マカオのカジノによる発展ぶりに刺激されたかのように解禁した。外国人は無料で入場でき、シンガポール人は100シンガポールドル(約6,500円、1S$=65JPYにて換算)を払わなくてはならないが、大盛況となっている。
赤道直下の都市国家であるシンガポールの街並みには、赤いブーゲンビリアの花が似合う。夜は、サマセット・モームが常宿にしていたラッフルズ・ホテルの中にある落ち着いたバーで「シンガポール・スリング」のカクテルを飲んでいると、リラックスして一日の疲れが取れる。
シンガポールは国土が714平方キロメートルで、東京23区よりもやや大きい都市国家である。人口も518万人と少ないが、海外からの観光客は年間1,039万人に上る。人口1億2,782万人の日本を訪れる外国人観光客は、シンガポールの後塵を拝して622万人しかいない。ちなみに世界第1位はフランスで7,950万人の外国人が訪れ、シンガポールと同様に自国の人口(6,330万人)を超えている。
熱帯雨林で暑く四季も無く、歴史的観光資源も少ないシンガポールが観光大国になったのは、国家戦略として観光産業の強化に取り組んできたからである。政府は、美しいビーチが無いという自国の弱みを逆手にとって、タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシア、オーストラリアなど近隣諸国のリゾート地のハブ(中継)基地として、各国と連携しながら共同でリゾート開発を進め、観光誘致に向けたアドバイスを提供してきた。シンガポールのチャンギ国際空港はアジアの観光の要であり、80の航空会社が乗り入れ、週5,000便が発着するハブ空港となっている。

シンガポールの高層ビル郡

国際会議場の誘致にも積極的でありインフラの整備が進んでいる。国際会議数は世界で1位がアメリカだが、シンガポールは2位であり、年間700件近く開催されているという。ちなみに3位はフランス、4位はドイツ、5位が日本である。
またシンガポールの街を歩くと病院が多いことに気づく。医療分野でも最先端をいっており海外から患者を受け入れる「メディカルツーリズム(医療観光)」が盛んである。最先端の医療を求めて中東やロシアの富裕層に加え、アメリカ本国の高い医療費を敬遠してくるアメリカ人が多く訪れている。
外国人がシンガポールに落とした金は、2011年で1兆4,387億円であり、前年同期比で27パーセント増となった。カジノリゾートとメディカルツーリズムの寄与も大きいという。
資源の少ない小さな国が、その弱みを逆手にとって創意工夫し強みに変えた典型的な例である。また政府の首相らのリーダーシップも強力で、決断と実行の速さには目を見張るものがある。

シンガポールの発展

シンガポールのコンテナ貨物港は世界第2位の取扱量
トラックから次々とコンテナが下ろされ海外へ輸出されていく

シンガポールが独立したのは1965年である。資源も後背地もない不安な独立から生き残るため、シンガポールはこれまでに幾多の困難を乗り越えてきた。そして、国民1人当たりの国内総生産(GDP)は日本を抜いている。
シンガポールは香港と並びアジアの通商拠点として、切磋琢磨してきた。港のコンテナ取扱量は2011年に年間2,993万コンテナに達し、取扱量では上海に次いで2位ではあるが、ハブ港湾としての運営ノウハウでは世界1位である。政府の全額出資により設立されたPSAコーポレーションが港湾ターミナルを運営、管理しており、卓越したコンテナ管理と電子化による書類審査などの合理化やスピード化、自動化をソフトウェア化している。そのソフトウェアは世界に提供するほどになっている。
船舶の燃料や水などの補給基地でもあり、燃料補給量も世界第1位である。またシンガポールは、東南アジアと日本、中国、アメリカ、欧州とを結ぶ中継貿易拠点としての役割を担い、再輸出が総輸出の46パーセントと半分近く占めている。まさに東南アジアの物流拠点といえる。
自由貿易拠点として、世界各国と自由貿易協定(FTA, free trade agreement)を積極的に結び、その相手先は現在11国に上る。日本とも2002年と早くに締結している。全方位FTA戦略である。シンガポールが締結しているFTAは、関税の引き下げだけではなく、金融、知的財産権など幅広い分野にわたっているのが特徴である。日本企業の中には、アジアの財務統括拠点をシンガポールに置いている企業も多い。
在留邦人数は2万4,000人にのぼる。
シンガポールは、成長している中国とインドの間に立つ立地条件を強みにして、さまざまな領域でアジアのハブとなり成長を続けている。政府は空港・港湾などの交通・物流や金融に加え、医療、教育、コンテンツなどの各分野も強化している。
「シンガポールは科学技術の国際ハブ」と宣言し、医療では中国、インド、中東からの富裕層の患者を年間100万人受け入れることが可能な高度な病院の整備を進めている。税制優遇や補助金など積極的な誘致策があり、世界の製薬・バイオ企業が集積している。早稲田大学のバイオサイエンス研究所もシンガポールに海外拠点を作っている。クラゲから取った緑色蛍光タンパク質をがん細胞に注入して正常細胞と比較する研究や、人工赤血球の開発を進めている。
教育でも、アジアの高等教育ハブを目指し、グローバル・スクールハウス戦略を推進中である。アメリカのシカゴ・ビジネススクールやINSEADなど欧米のビジネススクールの分校の誘致、ペンシルベニア大学ウォートン校とシンガポールの大学との共同センターの設立に加えて、MITやスタンフォード、早稲田大学との提携による共同カリキュラムの導入なども進めている。中国、インドからの留学生が年間15万人、企業研修では10万人を受け入れている。
映像やゲームなどの開発拠点を集めたコンテンツのハブも目指しており、日本にとっても学ぶところが多い。また日本がサポートできる分野も多い。
シンガポールは多文化、多言語であるが故に、いろいろな情報、文化を融合させ、新たなものを創る原動力、バイタリティーを持っている。
生活面では、管理社会で窮屈な国といわれてきた。例えば、道にごみを捨てたり、つばを吐いたり、電車内で飲食したりすると罰金が科せられる。シンガポールのことを「Fine Country」というのは、「美しい(fine)国」という意味だけでなく、「罰金(fine)の国」との揶揄を含んでいる。しかし、国民が豊かになり、考え方が多様化してきているため、一律的な規制は合わなくなりつつある。これを受けて、国民を縛る規制は徐々に緩やかになってきている。政府によって制限されているのは、政治、人種などに関する表現の自由や集会の自由などで、生活面では柔軟な対応に変化しつつある。カジノの建設も、国民の議論の末、観光や雇用に経済効果があるとして認可された。
シンガポール人の日本への関心は高い。占領下に直接被害を受けた世代は、今でも苦い記憶を忘れておらず、被害感情が残っているが、戦後世代は、経済関係で良好な関係を維持・強化していくべきパートナーであるとの認識がある。日本語を勉強する人も増えており、昔は日系企業に勤めるために学ぶ人が多かったが、現在は日本のポップカルチャーに興味があるから日本語を勉強しているという人が多い。
シンガポールは1979年から「日本に学べ」運動を推進し、日本の企業経営、労使一体型経営、勤勉な態度、インセンティブ、QC活動、技術習得などを学ぼうとした。マレーシアでも日本から学ぼうと「Look East」政策が展開された。
ここで重要なのは、日本に学ぶということと、日本との戦争の歴史に対する認識や対応とは別物だと考えられていることである。日本の首相が靖国神社を参拝すれば、シンガポールは強烈に日本に抗議する。中国や韓国だけではないのである。

セントーサ島とシロソ砦の戦争記念館

シンガポールの南に位置し、本島からケーブルカーでも行ける美しい島がセントーサ島である。政府が開発したレジャーランドで、海水浴場、ゴルフ場、水族館、乗り物、映画館、レストランなどがあり、日本人観光客もよく訪れる。
このセントーサ島の中に、シンガポールが日本軍に占領された歴史を記録した「シロソ砦の戦争記念館」と「イメージ・オブ・シンガポール」がある。ここを訪れる日本人は少ない。そこには日本軍によるシンガポール占領の記録が、蝋人形や写真、文書、映像などにより残されている。セントーサ島はマレー語で「平和と静けさ」を意味するが、皮肉にも日本との戦争によって戦禍にまみれてしまった。
シンガポール市内各地にも、日本軍の侵略・占領の傷跡、モニュメントや、日本と戦ったイギリス軍の司令部が置かれた要塞が残されている。さらにシンガポール国立博物館では、多くのスペースを割いて占領時代を紹介している。
1941年12月8日、真珠湾攻撃と同じ日だが真珠湾攻撃より1時間早く、日本軍はマレーシアのコタバル海岸などに上陸し、東南アジアへの攻撃を開始した。数日後には日本軍はイギリス海軍の軍艦「プリンスオブウェールズ」と「レパルス」号を撃沈させるなど破竹の勢いで進軍した。それは、マレーシア人など現地人に、強いといわれたイギリス軍でも日本の攻撃からは自分たちを守れないと思わせるのに十分なものだった。
日本軍は攻撃開始から60日あまりでマレー半島を占領し、1942年1月末にはシンガポールに到達した。
イギリス軍は、日本軍が密林の深いマレー半島を南下するのはまず無理であると考え、シンガポールの南の海から侵略してくると予測し、セントーサ島のシロソに大きな大砲を設置して日本軍の上陸を阻止しようとしていた。ところが日本軍は、イギリス軍の予測に反しマレー半島を南下した。鉈で木を切り倒しながらジャングルの中に道を作って進軍し、農村部では自転車を調達して乗り、北から一気に攻めてきたのである。南を見張るシロソの砦はほとんど役に立たなかった。

イギリス軍が日本軍に降伏した様子を再現した蝋人形

「シロソ砦の戦争記念館」には、イギリス軍が日本軍に降伏した交渉テーブルの様子が蝋人形で精巧に再現されている。また、ビデオ映像もある。テーブルでは、日本側は「マレーの虎」といわれた山下奉文中将軍司令官がいかつい顔ですごんでいる。その左には鈴木中将参謀長、右には杉田中佐らが同席している。対峙するイギリス側は、パーシバル司令官を中心に、右にトランス参謀長、左に通訳らが並んでおり、降伏調印までもう1日待ってもらえないかと日本側に交渉している。だが、日本側の山下司令官は頑として聞かず、降伏に「Yes or No」を迫っており、パーシバル司令官は激しく目をしばたたかせながら、苦渋の選択を迫られ、最後には降伏を受諾し署名する。
蝋人形のそばのビデオ映像では、パーシバル司令官が降伏に至った過程を次のように説明していた。
1942年2月15日午前6時、パーシバル司令官は前線からの戦況報告が芳しくないことを聞いた。貯水池は日本軍に抑えられ、24時間後にはイギリス軍の水が無くなること、さらに食糧保管庫も取られ48時間後には払底すること、ガソリンも底をつき始めたこと、対空砲の弾薬はほぼ使い果たし、大砲が少し残るだけだったことなどの報告があった。
午前9時半、パーシバルは前線指揮官を集め、今後の作戦会議を開いた。ヒース中佐は戦況からして、補給が絶たれており長くは持たないので、降伏を進言した。ベネット中将らもヒースに賛成し、これ以上の抵抗は一般市民の死傷者数のおびただしい増加につながるとの考えで、降伏やむなしとする意見が大勢を占めた。しかしパーシバルは、イギリスの名誉がかかっているので考え直せと強く指示した。さまざまな反撃作戦が検討されたが、どれも勝算はないとして出席者が全員反対した。パーシバルは苦悶の末、最終的には降伏を決断した。
午前11時半にパーシバルは、フォートカニング要塞を出て日本軍側に代表団を送り杉田中佐に停戦協定の要望を伝えた。
午後、山下司令官はこの報告を受けたが、これは増援隊が来るまでの時間稼ぎの作戦かもしれないと疑った。山下司令官はイギリス側に無条件降伏をあくまで求めた。そしてパーシバル司令官との直接会談を要求した。 パーシバルは、急ぎロンドンから降伏許可を取り付けた。午後5時過ぎ、パーシバルは、英軍将校2名と通訳を連れ、白旗とユニオンジャックを掲げ、日本軍の司令本部となっていたブギティマにあるフォード工場に到着した。この中の会議室で山下司令官と会い、握手して会談が始まった。
パーシバルは降伏文書を読んで、翌朝まで署名を待ってほしいと交渉したが、山下司令官は怒り出し、断固とした態度で無条件降伏を迫った。顔面蒼白となったパーシバルはトランス参謀と相談したり頬づえをついたりして悩み、通訳に無条件降伏に“Yes.”と伝えた。こうして夜8時30分、パーシバルは降伏文書に調印したのであった。
山下司令官は後に語っているが、実はこのとき、日本軍は既に兵器、弾薬、燃料、食糧が底をつき始めていた。戦車は18台に減っており、歩兵の弾薬消費量は一人1日100発までと決められていた。食料も1日わずか茶わん2杯のご飯で戦い続けていたが、それすら途切れがちになっていた。マレー作戦で、既に4515名の死傷者を出しており、残りの兵は3万人であった。そして、イギリス軍には3倍近くの歩兵がいるとの情報があった。
「私(山下司令官)のもとには3万人しかいなく、相手側はその3倍もいた。シンガポールでの戦いが長期戦になれば、負けるであろうと分かっていた。だからこそ、イギリス軍を一気に陥落させる必要があった。われわれが数の上では圧倒的に劣勢であり、兵たんも欠乏していることを英軍が見破り、悲惨な市街戦に持ち込みはしないかと私は始終恐れていた」(メディアマスターズ社、「マラヤ・シンガポール攻略」)
既に市街地では日本軍による連日の激しい攻撃が始まっており、焼夷弾(しょういだん)の空爆や集中砲火などで、民家が焼け、市民や兵士で毎日1,000人以上の死傷者が出ていた。病院はもはや負傷者を収容しきれなくなっており、ラッフルズ・ホテルなどが仮設の病院となって収容に当たっていた。
日本軍もイギリス軍も双方軍需補給が欠乏して、ぎりぎりの消耗戦になっていたが、勝敗を分けたのは「水」であった。日本軍はいち早く貯水池を押さえ、コウズウエー北部の給水場も押さえており、これが占領につながった。 12月から2月までのマレー半島およびシンガポールでの戦争で、イギリス連合軍は12万5,000人の犠牲者を出し、日本軍は1万5,000人が犠牲となった。
1942年から1945年までの日本占領時代には、シンガポールは昭南島と改名させられた。記念館には、この時代の記録として、「シンガポール大検証」とも言われる華僑の虐殺や、華僑への多額の寄付金の強要、捕虜への虐待、住民弾圧の様子が展示されていた。シンガポールの住民が、いかに苦難の道を歩んできたかが、うかがえる。
一方、広島への原爆投下の写真と共に、日本軍降伏の調印式の様子も蝋人形で再現されている。イギリス軍はマウントバッテン、日本軍は板垣征四郎が中心に座り、それぞれの部下が勢ぞろいして向かい合っている。敗れた日本側は肩を落としうつむいている。勝利したイギリス側は、胸を張り正面をまっすぐ見つめている。

シンガポール国立博物館

「シンガポール国立博物館」の壁一杯にかけられている自転車。日本軍は自転車に乗ってシンガポールに侵入してきた。

白亜のシンガポール国立博物館には、シンガポールの歴史が展示されている。日本占領時代のコーナーは暗く重々しい。まず目に入るのが壁一杯にかけられているたくさんの自転車である。これは日本軍が自転車でマレーシアとシンガポールに侵入してきたことを意味している。
シンガポールが降伏したとき、当時の日本の新聞は「祝、シンガポール陥落」と大見出しで賛美していた。掲示されているスローガンの中には「勝って兜の緒を締めよ」もある。日本語教育の強制や、それに伴う日本の道徳やしつけの教育、神社でのお参りの仕方やラジオ体操の指導の映像や写真もある。マライ宣伝部発行の「こどもしんぶん」には、「東亜のこどもは謙虚の道徳を身につけるべし」と書かれている。また食糧配給所での様子や昭南神社への奉納作文を読み上げる子どもの映像もある。
「大検証」のコーナーでは、多くの写真や虐殺に使われた日本刀などが展示されていた。遺族の声を録音したテープを聴くと「シンガポールを守り抜くために、中国人、マレー人、インド人らの民族は団結して」、「日本による占領を二度と起こさせないために、次の世代の子どもたちには大虐殺を風化させることなく伝えていくべきだ」という言葉に胸が詰まる。
また、占領府は軍票を発行し、そこにはバナナの絵が描かれてあったことから「バナナ紙幣」と呼ばれていた。住民に強制的に交換させたが、終戦後、軍票は紙くず同然になってしまった。これも住民の反感を買い、長く恨みを買ったことのひとつである。「バナナ紙幣」とは「価値のないもの」をさす代名詞になったほどである。
占領府は学校での日本語教育を強制し、日本語新聞を発刊し、日本神道を広めるために昭南神社を設置した。地名も日本式に変え、時刻も日本時間に合わせることとした。住民相互の監視体制を作るため、密告制を敷いた。食糧は配給制になり、米、塩、砂糖などは家族の多寡によって量を決められ、公定価格での配給統制になった。日常生活の統制や憲兵による住民弾圧などによって、多くの住民が苦しみ、日本への反感を持ち、マレーシアに逃げ出す者が後を絶たなかった。
日本占領府は、占領後間もなく食糧不足に直面した。少しでも食糧不足を補おうとして、30万人ほどの住民をマレーシアの東海岸に強制的に移住させて開墾させようとしたが、移住を望まない住民の抵抗に遭い、失敗した。
日本がシンガポールを攻撃し占領した3年8カ月は、それまで100年以上植民地支配してきたイギリスの支配よりも過酷なものとなり、住民を恐怖と絶望のどん底に陥れた。
こうしたことから、シンガポール人には、自分で自分の国を治めるというナショナリズムの意識が生まれた。それまでは、シンガポールはイギリスのアジア支配を絶対的なものとしてあきらめてきたが、日本軍が2~3カ月でイギリス軍を破ったことで、逆に重しが取れ、ナショナリズム意識が芽生えていったともいえる。
博物館では、リー・クアンユー(李光耀)のコーナーでその肉声も聞くことができる。
建国の父となったリー・クアンユーは述懐している。「われわれはイギリス人を追い出したかった。イギリスの武力崩壊を見た後、そして3年半の過酷な日本軍政の支配に苦しんだ後、人々は植民地支配を拒否した。第2次世界大戦と日本による占領を体験し、その体験を通して、日本であろうとイギリスであろうと、われわれを圧迫したり、痛めつけたりする権利は誰にもないのだ、という決意をもつに至った。われわれは自ら治め、自ら尊厳ある国民として誇りを持てる国で、子どもたちを育てていこうと決心した」(「シンガポールの政治哲学」、リー・クアンユー著)
リー・クアンユーはまた、「日本軍の占領期は、暗黒で残酷な日々で、私にとって最も大きなかつ唯一の政治教育であった」と言っている。
そして、1965年、シンガポールは独立を果たしたのである。
シンガポールを訪れるならば、観光だけではなく、日本との歴史についてもぜひ関心を持ってほしい。
また、戦争での過去の歴史は忘れてはならないが、卑屈になっていては未来が開けない。
日本とシンガポールは経済的にはもはや切っても切れない密接な関係にある。未来志向に立って、民間・市民レベルでの相互の文化・生活交流を深めて、両国の友好・平和に貢献していこうと、シンガポール国立博物館で誓った。


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