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世界の街角で見た文化・歴史

【第12回】 カンボジアのアンコールワットを訪ねて

リオデジャネイロ・オリンピックは盛況のうちに閉会式を迎えましたが、日本人選手の活躍は素晴らしいものがあり、メダル数も過去最高となりました。 私も興奮しながら水泳や陸上などを観戦しました。中でも陸上男子400メートルリレーの銀メダルは、チームのバトンリレーの創意工夫と個人の頑張りが見事にかみあい、ワクワクしたものでした。
また陸上競技の華ともいえるマラソン中継を観ていて、日系カンボジア人の猫ひろしさん(39歳、タレント)が、カンボジアの代表として出場していたことに大いに興味を覚えました。 彼は既にカンボジア国籍を取得しているのでカンボジア代表としてマラソンに出る権利を得ました。レース結果は139位ではありましたが、完走し2時間45分55秒と、通常の人から見ればかなり早い記録であり驚きです。 相当の鍛錬をされたと思います。苦しくても絶対に歩かないことを決めていたそうで、粘りのある走りでした。カンボジアからは、国の知名度を大いに上げてくれたとのことで大変評価されているそうです。

青は王権、赤は国家、白は仏教徒を表すカンボジアの国旗
(from Wikimedia Commons)

今回のオリンピックでカンボジアの国旗が上がることはありませんでしたが、カンボジアの国旗の中央にはアンコールワットが描かれており、国家の大きなシンボルであることがわかります。 そのアンコールワットをこの目で確かめたくカンボジアを訪れました。
カンボジア王国は、国王の立憲君主制で、国土面積は日本の半分の18万平方キロメートル、人口は1,506万人(2015年)ですが、人口の60パーセントは30歳以下と聞き驚きです。 カンボジア人が90パーセントを占め、公用語は独特な字体のクメール語であり、宗教は98パーセントが小乗仏教です。 1人当たりのGDPは1,140ドル(2015年)で、これからの成長の余地が大きい国と言えます。 日本企業の進出数は、1,075社(商業省の登録ベース、2014年10月)と1,000社を超え、ミャンマーやラオスと並びメコン地帯の国として外資企業からも注目を浴びています。 主な日本企業の業種は、デンソーなどの自動車関連、イオンなどのショッピングモール、ミネベアなどの精密機械部品、電機関連が多いですが、三菱東京UFJ銀行や三井住友銀行なども進出しています。


町の道路はあまり舗装されておらず、埃っぽい道をオート三輪車や軽トラックが走っていますが車は少なく、自転車やオートバイが中心です。 中には牛に荷車をひかせている光景もありました。町の人々の表情は明るく生き生きとしている印象です。

カンボジアと日本は、友好関係にあり、貿易も大きく伸びています。2016年9月には日本とカンボジア間の直行便が初就航しました。 今後、日本からの観光客や企業進出が増加していくことが見込まれます。日本からカンボジアへの入国数(観光やビジネス)は年間19万人とのことです。 在留邦人は2,522人(2016年2月)ですが、今後増えていくと思われます。

カンボジアはこれから伸びていく国で、まだ成長途上ですが、課題も多くあります。 例えば道路などのインフラが未整備のため停電などが多く、電力の供給不安や熟練労働者不足など挙げられますが、国は外資導入に積極的になってきているので、速いスピードで改善されていくと思われます。
日本政府は、1994年からアンコール遺跡の保存修復のためのプロジェクトチームを組成し、活動しています。 大雨や内戦などで崩れかけた部分の修復だけでなく、周辺地域にまだ残っている地雷の撤去も行っており、住民から評価されていることがわかりました。


アンコールワットを初めて訪れた日本人は、記録に残っているものでは、1632年に日本人の森本右近太夫一房(もりもとうこんだゆうかずふさ)です。今から380年以上も前のことです。 彼は徳川幕府の3代目家光将軍の命を受けて、インドの祇園精舎を視察するためにオランダ船に乗って出かけたのですが、アンコールワットをインドの祇園精舎と思い込んでしまったそうです。
当時の日本人はカンボジアなどインドシナを南天竺と考えていたようで、森本はアンコールワットに参拝し、この十字型中回廊付近に「仏像4体を奉納した」との墨書を残しています。 この「落書き」が、日本人が訪れたという証しとなったのですが、現在まで消されずに残っていたのはありがたいことです。

夜明け前にアンコールワットを訪れましたが、辺り一面はまだ暗くわずかにそのシルエットが見えるのみです。 静寂の中、やがて空が白み始めると、鳥がさえずり、朝陽がアンコールワット寺院の背後から昇ってきました。まさに後光が差したようになり、美しい寺院の雄姿がジャングルの中に浮かび上がりました。 空の色がオレンジから紫、青、白へと変化していきます。アンコールワットは「神々しい」オーラを発していて、そのエネルギーが私の体に満ちてくるような感じになりました。


アンコールワットは今やカンボジアで最も有名な世界遺産であるのみならず、世界最大の石造寺院であり、世界最大級の宗教建築です。 クメール建築の最高傑作と言われています。全体の大きさは東西1,500メートル、南北1,300メートルもあります。アンコールワットとは、アンコールが王の都、ワットは寺院を意味するので「王の都の寺院」です。


アンコールワットは、アンコール王朝の18代目のスールヤヴァルマン2世(1113~1150年)が約30年かけて建立した寺院です。 当初はヒンズー教の寺院として建てられましたが、王の死後、霊廟となり、後の14世紀に仏教寺院になりました。仏教寺院としてアジアの仏教徒の巡礼場所になったのです。 破壊されずに済んだのは、後世の王朝が宗教に対して寛容な心で臨み、宗教の多様性を尊重したからであり、結果として生き残ってきた理由であると思われます。
しかし、その後、外部からの侵略によって滅ぼされ、住民はすべて追い払われ無人の町になり、やがて住居は朽ちて土に還り、石の寺院だけが残って密林の中に埋もれたのです。 その後1860年にフランスの博物学者によって発見されるまで長い間、眠りにつき人々にほとんどその存在を知られていなかったのは驚きです。 雨が多く気温の高い密林で、レンガの一部は朽ち果て、黒ずんでいましたが、全体的にかなり原型に近い形で残存していたのは奇跡です。近年は保存工事が慎重に進められています。

クメール建築では、神のための宮殿を耐久性のある砂岩やレンガで造ってきたため、長い年月に耐えて残ってきました。 使用した石材は約100万個、石の総重量は200万トン以上と言われています。本殿の塔の高さは65メートル、ビルに例えれば15階建てに相当する高さです。 石を積み上げるには、建築中の本殿の周りに木の枠組みを作り、石をロープで縛りつけて木にロープを引っかけ、下から多くの人間の力で引っ張って吊り上げました。 まだ接着材のない時代であったため、石に切り込みを入れて崩れないように組み合わせて積み上げるなど高い技術もありました。

西の参道からアンコールワットの本殿のある中央祠堂までは540メートルの長さでまっすぐに伸びており、この参道を心の中で畏敬の念を持ちながら歩くと、徐々に本堂に近づいているという感覚があり、気持ちが高まっていきました。 石畳の参道の両側にはナーガ「蛇神」の胴体(コブラのような形)で作られた欄干が続いており、このナーガは神と人間界をつなぐ架け橋の役割をしています。 アンコールワットは、左右対称の形をしており、塔が五つあり、前面の池に映る「逆さアンコールワット」の姿も実に美しく、神秘的な空間です。 日本でいえば、京都の宇治にある平等院鳳凰堂の前の池に映る鳳凰堂の姿を思い起こします。

アンコールワットは、一番外側に第1回廊、その内側に第2回廊、その内側に第3回廊があり、すべてがアンコールワットの回廊になっていました。 アンコールワットの第1回廊の壁や柱には、ヒンズー神話の宗教説話を表した物語がレリーフ(浮き彫り細工)になっていて高さ5メートル、全長760メートルにも及んで描かれています。 その壁画や柱の細部は繊細で精緻な文様や絵が描かれ、美しい女神のレリーフは200体以上ありました。第1回廊では、スールヤヴァルマン2世王の精力的な顔を見ることができました。

壁画はストーリーになっており、絵巻物のように進んでいきます。ある場面は部族同士の「戦闘」であり、別の場面は「天地創造」や死後の世界を描いた「天国と地獄」などの描写になっています。 またアンコールワットの本殿などの塔はパイナップルのような砲弾型の特徴ある形をしています。回廊の屋根も丸みを帯びた形となっています。 これらの形状は、この地域が雨期に激しい豪雨があるため、雨水の切れをよくして排水できるようした先人の知恵がもたらした結果であり、その苦労がしのばれました。
ガイドによると、アンコールワットは密林の中にこの寺院だけがぽつんと建っていたのではなく、この寺院の周囲には多くの住民が住み、暮らしていたとのことです。 その住民の数はピーク時には100万人近くにも達していたと推測されています。巨大な都市がここにあったことになります。 町には市場ができ、野菜や肉を売り、牛車が行き交い、寺院で祈りをささげ、新たな寺院を造り、自然を崇拝し、農地を耕作し、人々は充実した生活を送っていたと思われます。 研究者の中にはアンコールの町は産業革命以前では世界最大の広さを誇る大都市だったという人もいます。 当時は無論ジャングルではなく、平地を開墾し、稲作の農業がおこなわれており、三毛作や四毛作を編み出し大きな収穫をしていました。

この町を維持・発展させていくためには多くの課題がありましたが、中でも飲料水や農業用水などの水をどう確保し、行きわたらせるかは大きな課題でした。 広大な面積を誇るアンコールワットやその寺院群がなぜできたのか、王や多くの人々がなぜそこで暮らすことができたのかは長らく謎でした。
近年の調査で、アンコールの町には無数の溜め池(貯水池)があることがわかってきました。付近からは無数の茶わんや陶器も発見されています。 アンコールワットの敷地内に住んでいた人は4,000人近くおり、その広大な周囲には80~100万人は住んでいたと言われています。 アンコールワットの発展ぶりについては、以前にNHKスペシャルでも取り上げて解説していました。

この地域に池を多く作り、水路を作って飲料水・生活水や農業用水を確保し、肥沃(ひよく)な農地に変えることで、王様を慕う住民の生活が可能になったのです。 雨期は水の心配はありませんが、それでも雨期にはしっかり雨が降るようにと水の守護神が崇められていました。一方、乾期では貯水池の水を使って生活していました。 山のふもとから湧き水が出てここまで水路を作って人為的に水を引き、ほぼ等間隔で溜め池を作り、住民に安定的に水を供給していたのです。 このようにかなり高度な水利技術を持っていたことが、アンコールの町が発展できた鍵であったと思います。

アンコールワットの中心部の十字回廊には、王様の沐浴場と思われる四つの池がありますが、それらは単に沐浴場だけでなく農業用の貯水池でもあり、ここから四方に水路を通して水を供給していました。ローマ帝国も水を供給するために水道橋を多く作って、市民への水や農業用水を安定供給できたことで発展したことを思い出させます。
アンコールの町の発展理由は、水をコントロールできたことや農業生産だけではありません。外国との貿易を活発に行っていたことも町の発展に大きく貢献したのです。 遺跡からは、中国の白磁の陶器やイランのイスラム陶器や日本の有田焼の陶器など外来遺物が多数発掘されています。インド、アラブ、ペルシャ、インドシナ、中国、日本と交易があったことがわかっています。 当時は西方のベトナムのクイニョン港を通して世界と交易していました。当時のクイニョンはまさに東洋と西洋の中継港だったと思われます。

さらに町の発展の原動力になった理由に、平和が長く続いたからだという研究者がいますが、私もそのように思います。平和が経済の発展を促し、巨大な寺院の建造を可能にしたのです。 内乱や戦争が頻繁にあれば寺院建造どころではありません。平和が続いたのは、アンコール王が諸部族のさまざまな神を認め、宗教の違いを認めてそれぞれの信仰の多様性を尊重したその包容力、寛容力によるところが大きかったと思います。 部族の神々は、シヴァ神やヴィシュヌ神はじめ、170以上もあったと言われています。そこには相手が信じる神を排斥せず、認めあい、共感する心、人の幸せを尊重する姿勢が社会の安定化につながっている「アジア的な調和の精神」ともいうべきものがあったわけで、それは現代の不安定な世界や社会にも十分通用する考え方と思われます。 アンコールワットの周辺には寺院がたくさんあります。中でもアンコールトム(大きい城郭の意味)という仏教寺院があり、天下太平の世を願って建立されました。 有名なバイヨンは王都の守護神であり、また慈愛に満ちた顔の菩薩像が多くあります。

9世紀から約500年間続いたアンコール王朝は、隣国のシャム(タイ)のアユタヤ王朝の軍の激しい攻撃に遭い、1431年頃にアンコール城が陥落し、滅亡しました。 アンコールの王都は陥落したため、カンボジア王国は、その後王都を転々と移しました。
カンボジアはシャム(タイ)とベトナムからの攻撃を受けて国力が落ち存亡の機に立ったため、フランスの力を借りて植民地となることで生き残りを図るなど苦難の歴史を歩みました。 アンコールでは王や住民がいなくなると、木造だった住居はやがて朽ち果て土に還っていきました。一方、石の家は残り、その上からガジュマルの樹の根がタコの足のように家全体を覆い尽くしていたところもありました。 そこは映画「トゥームレイダー」のロケ撮影でも使われた所で有名です。

アンコールワットにたたずむと、12世紀から900年の歴史の重みを感じます。侵略・戦乱で都が移転したとはいえ、なぜ長い間忘れ去られてしまったのでしょうか。 生い茂るジャングルに埋もれて見えなくなり、忘れられたことでかえって破壊を免れた面もあるような気がしてきました。一般に為政者は政変が起きると過去のものは遺物として破壊してしまうからです。

アンコールワットを観光して、単に「美しい観光地でした」として終わるのではなく、少し踏み込んで、アンコールの歴史にも目を向けて認識してほしいと思っています。 私たちはアンコールワットの歴史から何を学び、これからの時代にどう生かしていくかについて、多くの示唆を学ぶことができます。
アンコール王朝が実践してきたことに多くの示唆が含まれています。 すなわち多くの部族の宗教や文化の衝突を避けて互いに認め合うという「多様性の尊重と寛容な心」、海外との活発な貿易や交流を行って生活の質を高めた「グローバル性」、溜め池や水路を築き、水をコントロールしたことや寺院の建築技術などに見られる「高度な技術力」、米の三~四毛作も手掛けるなど「農業での創意工夫」、地域の住民の生活や幸せを大事にした「平和への思い」など、為政者や市民が試行錯誤を繰り返しながら知恵を絞って町を築いてきたその苦労に想いを馳せてほしいものです。

人は歴史から学ぶことが多くありますが、「忘れないこと」、「風化させないこと」、「過ちを繰り返さないこと」、「未来に生かすこと」が大事です。 それは例えば、これまでの幾多の戦争、事故、大震災等の天災など、身の回りに多くあります。
歴史を紐解くと、人間の営みの素晴らしさに感動し、一方で人間の業の哀しさや無常を感じることもあります。 アンコールワットはその意味で両方を有しており、その意義を後世にきちんと伝えていくことはとても大事なことだと思います。
また、どれほど経済的にも繁栄し、優れた統治を行っていても、いつかは滅ぶ(無くなる)ということも現実なのです。 アンコールワットが外部から侵略され殺され滅亡し、忘れられて長い眠りについたように、そこに人間の業の哀しさ、諸行無常や歴史の重みを感じた旅でした。


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