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世界の街角で見た文化・歴史

【第13回】 ショパンと戦跡のポーランドを訪ねて

ショパン、キュリー夫人、コペルニクスのポーランド

ポーランドと聞いて、皆さんはどのようなことを思い浮かべるでしょうか。
日本人にはあまりなじみのない国かもしれません。ポーランドのポーとは「平ら」で、「ランド」は土地、ポーランドは「平らな大地」という意味です。山が少なく平野が多く、豊かな穀倉地帯が広がっていて、国土は日本の約80パーセント(約31万平方キロメートル)、人口は約3,800万人で日本の約3分の1です。8月に行きましたが、気候は、ワルシャワで25度程度と涼しく、しのぎやすい陽気でした。クーラーのない家が多くありました。逆に冬は氷点下5度と厳しい寒さになるようです。

ポーランドはドイツとロシアに挟まれ、歴史的には独・露のどちらかに占領されてきた苦難の歴史を有しています。第2次世界大戦ではワルシャワなどの都市はナチスドイツの爆撃で壊滅的な被害を受けました。がれきの山となったワルシャワは、戦後、王宮はじめ旧市街地を、写真などを基にレンガのヒビまで忠実に市民の手で元通りに再現し、色鮮やかに中世の街並みを取り戻しました。
後に首都ワルシャワは「北のパリ」とも言われるほど美しい街となり、1980年にユネスコ世界遺産に登録されました。この街並みの復元に尽力したポーランド国民の粘り強い情熱を垣間見た思いがしました。復元された街並みでは多くの観光客がカメラを向けていました。

市民の協力で復元されていた街
ワルシャワの駅前のビル群

ポーランドは、ローマ・カソリックの国で熱心な信者が多く、前のローマ法王であるヨハネ・パウロ2世はポーランド出身です。一般的にはポーランドは農業国ですが、工業も発展しつつあり、ヨーロッパのテレビ生産の約30パーセントはポーランド製です。移民も多くアイルランドやウクライナから来ています。天然ガスや石炭も多く採れます。羽毛は日本に輸出されています。日本企業のポーランド進出数は約250社(主に電機・家電メーカー、食品、繊維等)です。
街を歩くポーランド人の女性のファッションは、夏はノースリーブやタンクトップに短パンやミニスカートが多く、体の線をはっきりと強調する「見せる文化」であり、日本の「隠す文化」とは対照的であり、文化の違いがよく現れていました。

古都クラクフは14世紀から16世紀までポーランド王国の首都であり、中世の街並みが残る文化・芸術の中心地です。クラクフに近いヴィエリチカは1000年前から続く欧州最大の岩塩鉱山として有名で、その地下深い採掘現場には岩塩でできた礼拝堂やシャンデリア、王様の銅像がたくさんあります。昔は塩が貴重品であり、お金として流通していたので、給与の「salary」は塩の「salt」が語源のようです。換気技術があまりない時代に、地中深く掘って塩を採掘する労働は、時に爆発や酸素不足の恐れがあり、命がけの作業だったと思われます。

岩塩鉱山 地下の採掘現場の様子
塩で作られたローマ法王の像

ポーランド出身の偉大な人物では、ピアノの詩人と言われたショパン、放射線研究でノーベル物理学受賞者のキュリー夫人、地動説を唱えた天文学者のコペルニクスが特に有名です。キュリー夫人の生家はワルシャワにあり、現在は博物館になっていますが、夫人ゆかりの品や放射線研究での実験道具が展示されていました。コペルニクスの生家は中世の面影を残すトルンにあり、コンパスや地球儀などが展示されていました。ワルシャワにもコペルニクスの銅像があります。

ショパンの生家を訪ねて

ショパンの生家
広い庭にあるショパンの石碑

ショパンの生家は、ワルシャワから車で1時間の郊外のジェラゾヴァ・ヴォラにあり、現在は博物館になっています。庭園は広く美しく、生家にはショパンが生まれた部屋や小さいときに初めて書いた楽譜、慣れ親しんだピアノや両親に宛てた手紙などが展示されていました。サロンの部屋ではショパンのピアノの曲が流れ、窓のレースのカーテンから柔らかな日の光が差し込み、穏やかで幸せな時間を満喫しました。

ポーランドはショパンを自国のPRにうまく活用しようとしており、空港名を「ワルシャワ・ショパン国際空港」とショパンの名前を冠につけています。またワルシャワ大学の近くには、「ショパン博物館」があり、手紙や楽譜、肖像画などがあります。この付近の多くのベンチには、ボタンがあり、押すとベンチの裏からショパンのピアノ曲が流れてくるので思わず聞き入ってしまい、リラックスした気分になれます。

近くの「聖十字架教会」には、ショパンの心臓が、遺言に従って柱の中に埋葬されています。心臓が埋められた柱の壁に解説文があり、多くの観光客がカメラを向けていました。肺結核を患い39歳の若さで、パリで亡くなったショパンは、祖国ポーランドを忘れることはありませんでした。そして心臓だけが祖国に戻ってきたのです。教会の柱の中に心臓を埋め込む話は初めて聞きましたが、有名人であれば、その教会は多くの人を惹きつけていることがよくわかりました。

ショパンの心臓が埋葬されている
聖十字架教会の柱

ショパンは、1810年ポーランドで生まれ、3歳からピアノを弾き、7歳で「ポロネーズ・ト単調」を作曲しました。8歳でコンクールに出場し、16歳でワルシャワ音楽院に入学し、19歳で首席卒業するなど天才ぶりを発揮しました。20歳でさらなるピアノの作曲や演奏を究めるためにウイーンに行き、以降多くの作品を世に出してきました。26歳で愛する人と婚約をしましたが、肺結核の症状があり、婚約が破棄されるなど多くの苦労をしています。
祖国ポーランドが反ロシア暴動や独立革命失敗など政情不安なため、ついに一度も戻ることはありませんでしたが、祖国を忘れたことはなかったと思われ、心中察するに余りあります。

2015年はショパン生誕200年に当たり、ショパンのピアノコンサートなど多くの行事が盛大に催されました。ショパンは日本人に人気があり、多くの有能な若いピアニストが日本で音大などを卒業後、ポーランドへの留学を希望し、ショパンのピアノ曲を極めるために練習に励んでいます。
ショパンの作曲の底流には、ポーランドの民族音楽や豊かな自然への賛美が込められており、また民族の誇り、愛国精神、芸術への情熱がうかがえます。「英雄ポロネーズ」は私の好きな曲の一つです。夜にはショパンのピアノコンサートに行き、大きな手のピアニストの華麗なピアノ演奏を聴き堪能しました。

ショパンは生姜のクッキーが好物だったそうで、街中では生姜クッキーがよく売られています。スーパーで買って食べてみると、甘い中にも生姜の味がピリッとしていておいしいクッキーでした。


アウシュビッツ収容所見学

ポーランドで見逃せないのは、「アウシュビッツ収容所」であり、現在は博物館になっていますが、戦後の解放後のガス室や収容所などをそのままの姿で残しています。アウシュビッツ(ポーランド語で「オシフィエンチム」)は、多くの見学者が訪れ、専門のガイドの話に真剣に耳を傾けていました。

そこは、ポーランドの首都ワルシャワから400キロメートル程離れた南部のチェコとの国境の近くにあり、現地の地名ではオシフィエンチムと呼んでいます。オシフィエンチムは人口約5万人の小さな町です。収容所がそのまま博物館になっていて、入場料は無料ですが、夏は博物館公認の有料ガイド(1人当たり約1000円)を付けないと見学できないようになっています。1979年に、ユネスコの世界文化遺産として登録されました。


多くの命を奪ったガス室

当時のまま保存されているガス室

ヒトラーのナチスドイツのユダヤ人排斥・廃絶の法律により、欧州全体からユダヤ人が摘発され、貨車に詰め込まれ、毎日アウシュビッツに運ばれてきたのです。ここでは多くのユダヤ人が毒ガスなどで殺されました。収容所の博物館には、ガラス容器に人骨の灰を詰めたものが追悼碑として展示されていました。

敗色濃くなったナチスは証拠隠滅のため、多くの書類や記録、施設を焼却してしまいましたが、ユダヤ人が隠れて撮ったいくつかの貴重な写真が残っていました。第2収容所(ビルケナウ)のガス室も爆破され、崩れたコンクリートの壁がむき出しになっており、悲惨さを物語っています。

オランダの隠れ家に潜んでいたアンネフランクは、ナチスによって連行されアウシュビッツに収容されましたが、その後に別の収容所に移され、栄養失調とチフスにかかり亡くなりました。あと3週間生き延びていれば、解放されたと思うと無念です。父親が奇跡的に生き延びたことで、娘の「アンネの日記」を公開することができました。


教育の場としてのアウシュビッツ

アウシュビッツは歴史の事実を知る場所であり、また多くの犠牲者の冥福を祈る墓地でもあります。アウシュビッツ収容所は観光の場ではなく、教育の現場であることがよく分かります。多くの高校生や大学生が社会科の必修として勉強に来ていました。人類の負の遺産を肌で感じて考える場所なのです。「死の門」が不気味に口を開けて線路を通しています。

第2アウシュビッツ収容所の正門で、「死の門」と呼ばれていた

ヒトラーは、障がい者、病人、老人、ユダヤ人などを社会の役に立たない存在とみなし、根絶しようとしました。しかもそれができるよう法律を通していたのです。

最大で2万人が収容されましたが、やがてここだけでは収容しきれなくなり、3キロメートル離れたビルケナウに10倍以上大きな敷地に収容所(約300棟)を作り、第2アウシュビッツ・ビルケナウ収容所としてさらにユダヤ人の虐殺を進めました。収容所の外周には200Vの高圧電流が流れ、脱走は不可能でした。木造のバラック小屋の中の蚕部屋のような3段ベッドに身を寄せて寝ていました。

収容所内には、数千人の銃殺刑が行われた「死の壁」と呼ばれる場所があり花が手向けられていました。絞首刑の場所もそのまま残っていました。収容所建設など労働に駆り出された男たちは、一日11時間以上働かされ、過酷な労働で3カ月以内に命を落とす人が後を絶たなかったようです。

アウシュビッツ収容所内のトイレ
多くのユダヤ人がお尻を突き合わせる
ようにして用足しをさせた。

また、ユダヤ人の遺留品である服、靴、トランク、鍋、マグカップ、女性の髪の毛などが部屋一面に展示されており圧倒されました。靴は8万足展示されていました。アウシュビッツ収容所は、1940年8月から始まり、1945年1月、ソビエト軍によって解放されました。
約7000人のユダヤ人が生き延び、救出されましたが、パンと粗末なスープのみの食事で皆痩せ衰えていました。体力が回復した後、彼らはこの収容所での惨状を語り継ぎ、ホロコースト(絶滅)についての証言をしていきました。この悲劇を永遠に風化させないよう語り部として各地を回り続けたその意志の強さや粘り強さに、人知を超えたものを感じました。


ユダヤ人の身代わりとなり死んだコルベ神父

ユダヤ人の身代わりで死んだコルベ神父を記した場所

日本の長崎にも布教に来たことがあるポーランド人のコルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)は、アウシュビッツでユダヤ人の身代わりになって死んだことで有名です。
外部での排水溝作業の際に、草むらにひそみ脱走したユダヤ人がいて、同じグループの仲間10人が連帯責任で死刑となりました。その中の1人が「自分には妻や子供がいるので助けてほしい」と哀願したところ、そばにいたコルベ神父が「私が彼の代わりになりましょう」といい、その通りになったのです。

ガス室送りではなく、餓死刑となり、5日間ほど何も食べ物が与えられず餓死しました。最期は讃美歌を歌って息を引き取ったそうです。収容所の敷地内に彼の写真が掲げてありました。
当のユダヤ人は助けてもらったので、粗末な食べ物にも希望を失わず生き抜き、奇跡的にドイツ敗戦後に解放されました。その後ローマ法王がアウシュビッツを訪問した際に、このユダヤ人も訪れ、ローマ法王に自分の罪をお許しくださいと泣いて詫びたところ、ローマ法王は「もう苦しまなくていいのだよ。あなたがいたからこそ、コルベ神父の偉業が世界に知れ歴史に名を残すことができたのです。あなたは社会で困っている人々を助けてあげてください」とやさしく肩を抱いたそうで、究極の慈愛と思われます。


アウトバーンはユダヤ人の銀行口座を没収して建設

ドイツの有名な高速道路のアウトバーンは、ヒトラーがユダヤ人の銀行預金を没収し、その資金で建設したことが分かりました。高速道路建設に多くの人々を雇用し、またフォルクスワーゲンの大衆車を生産し、失業率が大きく減少したことは、ヒトラーの功績のように言われていますが、その裏ではユダヤ人が大きな犠牲を強いられていたことを私たちはしっかり認識しておく必要があると思いました。


原爆とヒトラーとの関係

ヒトラーは原爆に興味を持ち、大量虐殺が可能な方法であるとして開発しようとしていました。ナチスが原爆を持ったら大変なことになると考えたアインシュタインはアメリカに亡命しました。ヒトラーを倒すためにアメリカに原爆製造計画を持ちかけたのです。4年かけてようやく原爆が完成したころには、ドイツは既に敗色濃く、ヒトラーはピストル自殺し、ドイツは降伏したのです。このため原爆は日本へ投下されることとなり、広島、長崎に投下されたといわれています。もともとナチスヒトラーを倒すための原爆が、日本に投下されたのは歴史の皮肉といえます。


戦後ドイツの覚悟

戦後のドイツは、ナチスの戦争犯罪を「時効無き人道に関する罪」として、真正面に向き合い、謝罪と戦後賠償に真摯に取り組みました。国家の意思でナチズムを否定し、平和国家への道を歩みました。そこには「過去を心に刻まぬ者は、再び過ちを繰り返す」という信念があり、正しい歴史教育に取り組みました。ドイツの学生は社会の授業を必修として、ここに来て実際に追体験しています。大学生の中には収容所の修復ボランティアに来ている人もいます。ナチスを礼賛または否認する人に対しては、法的措置を講じて処罰の対象とし、二度と過ちを繰り返さぬように努めています。そこにドイツの揺るぎない覚悟を見ることができました。
ポーランドでは、アウシュビッツ収容所を風化させないために永久に保存することを決め、記念碑には「ポーランド国民と諸国民の殉難に記念碑として、元オシフィエンチム(アウシュビッツ)収容所の全ての建物と設備を永遠に保存する」と刻まれています。


現代への警鐘、歴史は繰り返すのか

アウシュビッツは、現代に生きる我々にどんな警鐘を鳴らしているのか、私なりに考えてみました。
現地のアウシュビッツ博物館で唯一の日本人公認ガイドである中谷剛氏による説明の中で、これは遠い出来事ではなく現代においても形を変えて人の心の中にもたげてくるので注意しないといけないと力説され、大いに考えさせられました。

写真後方:第2アウシュビッツ収容所
冬はマイナス20度にもなり、極寒のなかで
外部労働をさせられていた。

日本からは年間平均15,000人の旅行者がアウシュビッツを訪れるそうですが、他の国々に比べると少なく、日本人の関心はあまり高くないようです。2016年の世界からのアウシュビッツへの訪問者数は、205万人と過去最多となりました。

主な内訳は、ポーランド42.4万人、イギリス27.1万人、アメリカ21.5万人、イスラエル9.7万人、ドイツ9.2万人です。欧米の人は学校単位で、社会教育の一環として訪れることが多く、訪問者全体の74パーセントは14歳~25歳の若者とのことです。(14歳未満の子供は入場できない) ポーランド人も16万人がここに収容され、8万人以上が死亡しています。

ドイツ国民はなぜ、「経済が悪化しているのはユダヤ人が不当に儲けているからだ」「ユダヤ人がいなくなればドイツ経済はよくなる」といった演説を信じ込んでしまったのでしょうか。ヒトラーはユダヤ人排斥運動を巧妙に作り上げ、国民を洗脳したのです。経済の悪化原因をユダヤ人に責任転嫁させ、国民の目を自分たちに向かわないようにしたのです。ゲルマン民族の優秀性を強調するあまり、ユダヤ人を排斥するにとどまらず、絶滅へとエスカレートしてしまったのです。欧州全体では、約600万人のユダヤ人が命を落としています。


入り口の上に「働けば自由になる」とナチスは掲げたが、
ここにいる間に自由になった人は一人もいなかった。

アウシュビッツ収容所の博物館は、悲しみと痛みを感じる場だけではなく、今後二度とこの愚を繰り返さないためには、何をすべきかを考えさせる教育の場でもあります。決して一部の人の狂気によるものではありません。当時のドイツ国民は結果としてそれぞれの立場でユダヤ人廃絶に協力してしまったのです。例えば医者は「医の倫理」を忘れて、ガス室送りの人の選別に協力しました。化学薬品会社は、「企業倫理」忘れて、増産して利益を稼いだのです。ドイツ市民もヒトラーの強烈な個性に初めは嫌悪していたのが次第に惹かれ、「偉大なドイツ帝国の復活」に熱狂し、投票し、支持していったのです。

収容所の当時の所長は月曜から金曜日までは、毎日ユダヤ人のガス室での虐殺や銃殺を指示しておきながら、週末の休日には、収容所の隣の自宅で家族と過ごし、子どもと遊び「人をいじめてはいけないよ、仲よくするように、命を大事にするように」と教えていたそうですが、なぜこうした矛盾した生き方ができたのか。普通の人間がどうしてここまで凄惨な虐殺行為ができてしまったのか。また、たとえ上層部の命令にせよ人道的に許されない行為になぜ服従してしまったのか。

人は「差別」「憎しみ」「不寛容」を繰り返し洗脳されると、一般の正常な人間でも狂気に向かい始め、平然と差別や排斥するようになり、殺人も平気になってしまうことを深く認識すべきです。ここは寛容と和解と未来志向の意識・行動を胸に刻む場だと思いました。アウシュビッツ収容所はドイツへの憎しみや非難の場所ではないと思います。 人は自分とは異質な他民族や異質な考え方をする人を排除しようとする防衛的本能があります。身近には「よそ者いじめ」などの例が多くあります。それが民族同士、宗教同士や国同士で争いになり、排除しようとします。宗教戦争もその一つです。 現在でも形を変えて、イスラム排斥や移民反対(英国のEU離脱の主原因)や移民・難民排斥運動(欧州各国)などに繋がっていると思います。

また世界では、ここ数年自分と異なる民族や宗教、少数民族、性的少数者、障がい者、高齢者などの社会的弱者を敵視し、攻撃したり、虐待したりする「ヘイトクライム」(憎悪犯罪)という犯罪やテロが欧米で多くなっています。日本でも2016年に相模原で障がい者19人の殺害事件があり、犯人は「障がい者は社会からいなくなればいい」と言っていましたが、障がい者は社会の役に立たないから排斥(ガス室送り)してよいというヒトラーの考えと同じです。 憎悪犯罪の背景には、他者の行動や考え方に対し硬直的であり、不寛容さや経済のグローバリゼーションによる所得格差の拡大、貧困の拡大、失業の拡大などいろいろあります。

アウシュビッツは、誰にでもある心の中の残虐性を自覚し、人格を高め、品位ある心にする誓願の場ともいえます。ここで歴史の事実を自分の目でしっかり向き合い、ここで学んだ教訓をこれからの人生や社会の問題解決の判断に役立ててほしいと思います。
人類は煩悩のまま動き、知恵を絞って学んでいかないと、再び過ちを犯しやすく、歴史は繰り返す可能性があることを肝に銘じ、心を高め、歴史を客観的に、事実を冷静に受け止めて学ぶことの重要さ、そして教育こそが人の心を変えていく着実な解決法であることを改めて認識したポーランドの旅でした。


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