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世界の街角で見た文化・歴史

【第10回】 発展するフィリピンとその歴史をみる

2014年秋にフィリピンを訪れた。それまで何度かフィリピンに行ったことはあったが、久しぶりにマニラの街を歩いてみると、高層ビルが林立し、街がきれいになっていた。自動車も昔のジープニーという米軍の軍用ジープ(中・小型四輪駆動車)を改造した乗合自動車が減り、普通のバスや乗用車が多くなっていた。無論ジープニーも庶民の乗り物として人気があり、初乗りは9ペソ(20円)である。ショッピングセンターやデパートでは人々の活気であふれていた。ここ5年間の平均経済成長率は6.2パーセントと高い。昔と比べると政治も安定し、治安問題も改善された。言語が英語圏であり、若年人口が多く、企業の進出も増えており、潜在成長力は大きいものがある。貧富の格差はあり、2012年の1人当たりのGDPは2,611ドル(日本円で31万円換算、日本は560万円)とまだ低いが、旺盛な消費力を持つ中間層が増えつつある。

マニラの街並み、高層ビルやホテルなどが林立している
マニラのマカティ商業地区のビル群

マニラ湾を見渡す場所にあるリサール公園(旧ルネタ公園)は、多くの人で賑わう市民の憩いの場で、中には公園の水道で母親が子供の体を洗っている姿も目にした。ここはフィリピン独立の英雄であるホセ・リサールが革命運動を扇動したとして逮捕され、36歳の若さで処刑された場所でもある。リサールは日本にも来訪しており、東京の日比谷公園内にホセ・リサール記念像がある。リサールの死後も独立運動は続けられ、対米独立運動へと引き継がれ、1898年にフィリピンは遂に独立を果たすことができた。

フィリピン独立の英雄
ホセ・リサール記念碑があるリサール公園
サンチャゴ要塞の近くにある
リサール記念館の庭のホセ・リサール像

マニラ市内を車で観光しているときに、高山右近の銅像を見つけた。戦国時代の大名で、黒田官兵衛と親しく、敬虔(けいけん)なキリシタンでもあった高山右近は、豊臣秀吉からキリスト教禁止令、キリシタン追放令を受けたが、キリスト教を諦めることができず、1614年12月8日、各修道会の神父や宣教師たちとともにルソンに向け長崎を出帆した。

マニラにある高山右近の銅像
(from Wikimedia Commons)

12月21日、苦難の長旅の末ようやくマニラに到着した一行は、フィリピン人から大歓迎を受け、プラザデラオに最初の日本人居留地を定めた。カソリックの国であるフィリピンの市民と深い友情を築いた。高山右近の信仰の深さやその行動ぶりは、ローマ法王にも伝わっていた。しかし高山右近は長旅の疲れや慣れない土地の気候や食べ物により体を壊し、1615年2月にマニラでその63年の生涯を閉じた。高山右近は、日比友好関係の土台を築いた一人であり、世界で活躍した日本人がここにもいたことを誇りに思う。
フィリピンの人口は約9,860万人で、国民の93パーセントがキリスト教徒であり、その内83パーセントの7,600万人がカトリック教徒である。アジアで最もカトリック教徒の多い国である。町には至る所に教会があり市民が集まってきている。フィリピンは地震が多い国であるが、地震で教会が壊れると、フィリピンをはじめ、バチカンや世界中から寄付が集まり、すぐに修復されるという。マニラ市内にあるサン・アグスティン教会は1607年に完成したフィリピン最古のバロック様式の石造教会で、中に入ると多くの信徒が祈っており、荘厳な雰囲気が漂っていた。


2015年4月に、日本の安倍首相はアメリカ議会の上下両院合同会議で「希望の同盟へ」(Toward an Alliance of Hope)の演説をした。その中で「第2次大戦メモリアル」を訪れ、そこで真珠湾をはじめ、フィリピンの激戦地だったバターン・コレヒドールの戦場で命を落とした若者の痛み、悲しみに深い悔悟を胸に、黙とうを捧げたことをスピーチした。
私は、以前にフィリピンのバターン(半島)に行ったことがあり、そこでの戦争のモニュメントや戦争記念館などを見聞してきたため、特に深く印象に残っているので紹介したい。

Death March(死の行進)の道標
(from Wikimedia Commons)
バターンでの移送中の捕虜たち
(from Wikimedia Commons)

マニラから車で4時間の西方にあるマニラ湾を挟んだバターン半島の中にバランガという町がある。この町の道の辻々には変わった道標がある。そこには兵士が人に銃を突きつけて今にも倒れそうなのに無理やり歩かせている姿や、地面に四つん這いになっている様子を描いた姿が鉄板の中に描かれている。金属製のモニュメントで、何キロメートル地点と記されている。これが「Death March(死の行進)」と呼ばれる有名な道標だった。

「死の行進(Death March)」とは何か。
それは、フィリピン国家歴史委員会が1968年の太平洋戦争中に、日本軍が捕虜にしたアメリカ軍やフィリピン軍の兵士を炎天下、何十キロメートルも歩かせ、多くの捕虜が栄養失調やマラリアなどで倒れ死んでいった「行進」を指す。フィリピン政府はこれを風化させないために1キロメートルごとに道標を設置した。「死の行進」は、バターン半島南端のマリベレスを起点として、内陸の州都サンフェルナンドまでの道のり約100キロメートルに及んでいる。

1942年1月、日本軍はマニラを占領した。マッカーサーはマニラから撤退し、バターン半島のコレヒドールに逃げた。3月、マッカーサーは魚雷艇でコレヒドールから無事脱出に成功し、必ず戻るから(「I shall return」)と言ってミンダナオ島から飛行機でオーストラリアに逃れた。4月に日本軍は激しい戦闘の末、バターン半島も占領した。
5月にはコレヒドール島が陥落した。このバターン・コレヒドールでの戦闘での戦死者は日本軍で1万人強、アメリカ・フィリピン軍で2万5千人と言われている。生き残って降伏し、アメリカ軍およびフィリピン軍の捕虜は8万人にも上った。日本軍の兵士4万人の2倍の規模になった。この生き残った捕虜には過酷な運命が待ち受けていた。元々捕虜たちは食糧補給路を絶たれた上、1カ月近く山中に潜んでいたためマラリアや赤痢に罹っている者が半分以上いた。皆相当疲弊しきっており、栄養状態もかなり悪い状況で捕虜になったのである。アメリカ軍は降伏前には一日の食糧を1,000カロリーにまで下げて耐えていたが、既にひどい栄養不足状態になっていた。
日本軍は、米軍の降伏が予想外に早かったために捕虜に対する食糧、医療、収容施設、輸送などに関して準備が全くできていなかった。8万という想定外の大きな数に日本軍は面食らい、対応が後手になった。


日本軍とアメリカ軍の
フィリピンや南方での攻防戦
(マニラ米軍記念墓地内の記念館にて)

捕虜を収容しようにも、バターン半島南端のマリベレスでは、対岸のコレヒドール島での戦闘が激化しているため危険だった。また食糧や薬も少ないので、兵糧が尽きないうちに、食糧補給が確保できる100キロメートル離れたサンフェルナンドに収容所を建て、移送することになった。一部はそこから先のオドンネル収容所に移送するなど検討された。捕虜を移送するため、トラックを日本軍の他の部隊に要請したが、他の攻撃に使われていたり、米軍トラックが破壊されていたりして、やむを得ず徒歩で行くしか方法がなくなった。起点のマリベレスからサンフェルナンドまでの距離は、約100キロメートルあった。1日25キロメートルの工程で約4日間の計画を立てた。徒歩での移送は主にしのぎやすい朝や夕方に行われ、昼間は炎天下になるので消耗を避け、木陰で休憩するようにした。日本軍も当然ながら歩いて随行した。
1942年4月10日から捕虜の移送が始まった。フィリピンの4月は乾季で日中は摂氏40度ぐらいまで暑くなる時期であった。食事は食糧が少ないため1日1回のみ。缶詰め1個の時や、握り飯1個などであった。このため道中の村々の住民に芋やとうもろこし、サトウキビなどを提供させ、配給した。米がなくなると移動の途中に村で調達した。しかし日本軍でさえ食糧が少ない状態だったので、野草や木の実、野生の鳥などを捕まえては捕虜とともに分けて食べていたという。


バターン半島での攻防戦
(マニラ米軍記念墓地内の記念館にて)

だが捕虜は、飢えと暑さで疲労が増し、特にマラリアに罹っているアメリカ兵は熱で悪化した。悪条件の中で、体力のない捕虜は次々と道中で死んでいった。亡くなった捕虜の数は、アメリカ人兵士で約1万人、フィリピン人兵士で約7~8万人と言われている。ある時、3名のアメリカ兵が移送の途中で、奇跡的に脱出に成功し、オーストラリアまで逃げたことによってこの実態が報告された。アメリカ軍は、この「バターン死の行進」は日本軍の計画的虐殺であるとして国際放送などを通じて日本軍の残虐性を強調し、反日の宣伝にしたと言われている。

日本軍はこの捕虜に対する扱いを残虐行為とはあまり思っておらず、このまま留まれば全員飢え死にするため、食糧のある場所まで移送したいが、トラックが無い以上徒歩はやむを得ないと判断した。しかし軍は1929年の「捕虜の待遇に関わるジュネーブ条約」で捕虜の人権を保護することを定めた国際法を認識していなかった。そもそも日本は当時まだこの条約を批准していなかったため、敵の捕虜の人権を守るという意識が希薄だった。このため、日本軍の捕虜に対する非人道的扱いが東京裁判で厳しく裁かれたのである。
日本軍が捕虜に対して残虐行為をするつもりならば、100キロメートルも離れたサンフェルナンドまでわざわざ無理して歩かせずに、マリベレスにそのまま放置しておけばよかったといえる。しかし日本軍はなんとか捕虜のために食糧を確保したい、という思いはあったのであろう。
サンフェルナンドまでの100キロメートルを、一日平均20~25キロメートル歩けば4~5日で到着するので、普通の大人であれば一日25キロメートルは歩けない距離ではない。ただし水と食糧が十分補給されるという前提である。道中、日本軍の要請で、村々の住民から米や水などの食糧提供をある程度得られたとの情報もあるようだが、8万人となると全員に行き渡らせるのは無理だった。またマラリアに罹っている者も多かったので、道中倒れるものが続出した。

日本軍は、捕虜を虐待するという意図はなかったかもしれないが、結果的には虐待してしまったと言える。いくら食糧がないとはいえ、マラリアや赤痢患者が多くいた中で炎天下100キロメートルを歩かせるのは、結果としてさらに疲弊させ死亡者を増やしかねないというリスクになぜ考えが及ばなかったのか、また日本の兵士や体力のある米軍兵士らでチームを作ってサンフェルナンドまで食糧を調達して戻ってくるということもできたのではないか。1回の調達で足りなければ、何回にも分けて交代で調達に行くこともできたはずである。

さらにマリベレスが別の日本軍の攻撃対象にならぬよう要請し、捕虜はマリベレスの内地に疎開させて、仮設の収容所やテントを作ることなどできたのではないか。
しばらくした後、少しずつ体力のある捕虜を編成して、食糧を確保しながら体力を消耗しない程度に歩いていく方法なども検討すべきであった。マラリア患者など病気の重い捕虜には、トラックを調達してサンフェルナンドの病院へ送るなどの特別な措置を取るべきであったと思う。
こうしたことをしっかりと検討して対策をとっていれば、「死の行進」は起きなかったのではないか。

フィリピンの高校生の歴史教科書には、日本のフィリピン占領と「死の行進」について書かれている。捕虜は8万人以上となり、死の行進を強制され、多くのフィリピン人兵士やアメリカ人兵士が路上で死亡したことなどが詳しく記述されている。
多くの捕虜を炎天下に、十分な食糧も与えず、強制的に歩かせ、多くのアメリカ人を死なせたという「バターン死の行進」が、「パールハーバーを忘れるな」と同じぐらいアメリカ人の感情を害し、怒らせ、捕虜虐待に当たると非難した。後の日本への非戦闘員を含む無差別殺りくの材料になり、本土空襲、原爆投下につながった一因とも言われている。


マニラ市内にある
アメリカ軍兵士の墓地


Mt. Samat National Shrine
(from Wikimedia Commons)

バランガ市内から車で20分ほど行ったところに、サマット山があり、海抜555メートルの山頂に「勇者の廟」(Mt. Samat Shrine)という十字型の大きな建物があり、ひときわ目を引く。その高さは108メートルもある。日本軍と米軍・フィリピン軍混成軍との交戦で多くの犠牲者が出たが、その慰霊のための十字架である。
「勇者の廟」の下に戦争記念館がある。そこを訪れると、館内には日米軍の兵器や遺品、戦争の写真が展示されており、サマット山とバターン半島で繰り広げられた日米軍の激しい戦いの様子が地図などを使って詳しく説明してある。「死の行進」(Death March)の写真は大きく展示してあり、経緯などが詳しく書かれてあった。犠牲者数は、「死の行進」だけでなく、サンフェルナンドの先のオドンネル収容所でもアメリカ人、フィリピン人に多くの犠牲者が出た。大理石で覆われた柱廊もあり、遊歩道の石はコレヒドール島の血の石(戦死者の血で染まった石)と言われている。
「死の行進」は、バターン半島が陥落した4月9日の翌日4月10日から始まり、4月17日まで続いたが、フィリピンでは4月9日を「勇者の日」として祝日にし、日比両国政府でサマット山にて記念式典を行い、フィリピンでの戦争や「死の行進」で亡くなった犠牲者に慰霊を捧げている。

Death March道標のある地点から見えるサマット山の山頂の十字架を見ていると、戦争で多くの若者が命を落とした悲しみに胸が痛んだ。こうした戦禍を二度と起こしてはならないと心に刻んだ。 戦争による戦火で当時、はげ山となったサマット山はその後、時を経て、今は緑豊かな山となっている。それを見ながら、悠久の自然の雄大さと人間の業の深さを思い知った。


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