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オランダよ何処へ?

【第6回】 オランダの強み

このシリーズを『オランダよ何処へ』の標題で書き始めて、早やほぼ1年が過ぎてしまった。連日の如く生じる、民心を不安ならしめ、民衆が不当と思い怒りを感じる余りにも多い出来事についてのメディアの報道、そしてそれらの出来事に対してなす術を持たぬという印象を与え続ける政府のイメージと、その結果としての支持率の低下、そしてそのようなオランダのなまの実情を、世界の現代史の一部として紹介したいという気持、などが書き始めた動機であった。
言うまでも無く、一つの国は色々な面から成立っていて、良いこともあるし悪いこともある。またオランダという国を構成する国民にも、良い人もいれば悪い人間もいる。悪いことの内容によって、多い、少ないの判断は異なるが、例えば生活扶助を受けて不正を働く人達の数は扶助受給者の約10%であった。しかしこれを全人口に対比し比較すると、『全人口のたった0.25%』となる。組織犯罪者の数が何人いるのか分らないけれども、仮にオランダ全体で1万人いたとしても、『全人口の僅か0.06%』という数字になる。
こうやってパーセント表示の数字だけで見ると、オランダ人の大多数は不正や犯罪とは無関係の良い人たちで、自分達の住みよい社会を築き維持するのに各人が相応の努力を行っているとも解釈できる。そこで最終回の本稿では、オランダの良い点や強みと思われる点、そして、もっと良い社会になる為に必要なことが何であろうかについて、私見を加えてみたいと思う。

親しまれる王室

ユリアナ女王のスケッチ風景(1973年)
吉屋敬制作肖像画の一点(デッサンとコラージュ)
女王誕生日の情景(ハウダのマルクト広場とそこに立つオランダ最古のゴシック様式建造物「ハウダ市役所」。全国の市町村で色々なイベントが催される。)
女王誕生日の情景(アムステルダムのダム広場に毎年立つ移動遊園地の観覧車-夜景。)

オランダの強みを考える時、第一に思い浮かぶのは、オランダの王室である。お断りしておきたいが、私自身は現代における王制を無条件で受け入れるタイプの人間ではないし、ましてや王制にノスタルジーを感じたり、熱狂したりする人間でもない。むしろどちらかと言うと、数多くの『醒めた(オランダ語で[Nuchter])』オランダ人と同じように、かなりクールに『国の運営に必要なインスティチューション』として眺めていると言った方が当っているかもしれない。しかしそのクールな傍観者ですら『これは抜群』と思える特徴が幾つかある。そして、それは『人間らしさ』、『親しみ易さ』、『社会とそれを構成する人々に対するあくなき関心と努力』などといった言葉で要約できると思う。

身内の古い例を出して恐縮だが、私のパートナーである画家の吉屋敬がオランダで絵の学業を終え、個展活動を開始して程無い1973年、今は存在しないが当時は著名であったハーグの画廊『フィリポーナ(Philipona)』が、オランダ全国より25人の画家を招いて、その年ちょうど戴冠25周年を迎えたユリアナ前女王の肖像画展を、文部・文化省の協賛のもとに開催する企画を立てた。ユリアナ女王が実際にモデルとして立ち、選ばれた画家たちが女王のデッサンを時間の許す限りその場でとって、あとは国家情報局より提供される数葉の写真を参考にしながら、伝統的なポートレート様式ではなく、各人独自のスタイルで肖像画を描き上げ、一人二点に限定して出展するというユニークな特別展であった。デッサン力と油彩の独特な表現力を評価された吉屋は、以前学んだアカデミーの教授の強い推薦もあって、25人の画家の一人に選ばれた。
指定された日の午後、ユリアナ女王はハーグの宮殿『ハイス・テン・ボス(Huis ten Bosch)』[筆者註:日本では『ハウステンボス』という元々間違った表記が一般的になってしまっているようだが、オランダ語学を専攻した者の立場より、出来る限り原語の発音に近い表記を採用することとしたい]で、参集した画家達を迎え入れた。「プロトコールに囚われない芸術家だから気楽」という気持があったかどうかは分らないが、女王は終始非常に気さくな態度で接し、自ら先頭に立って宮殿の中の有名な『オラニエの間』や、17世紀に日本から持ってきたタピストリーや古伊万里で飾り付けされている『日本の間』を案内し、説明してくれた。オランダ語がまだよく話せない吉屋の側にわざわざ近寄って、説明を英語で懇切に繰り返してもくれた。宮殿の案内の後、デッサンに入り、女王は椅子に腰を下ろして、愛犬サラを膝の上に抱き上げてポーズをとったが、画家たちのリクエストに応じて、そのポーズを気軽に何度も変えてくれた。そしてその間絶えず画家達とおしゃべりをして会話を楽しんだ。お茶の時間になったので、先ず全員に紅茶が配られ、クッキーはクッキー皿に盛って出された。当時のオランダのエチケットでは「クッキーは一枚だけ慎ましやかにとって受け皿においてから紅茶と共に賞味する」ことになっていたが、エチケット通りにお茶を飲んだのは年を取った有名な画家数人と吉屋だけで、他の若い画家達はクッキーを次々につまんでは口に運んだ。それを見た女王は「ホームメードのクッキーだから美味しいでしょ」と、冗談を言って皆を笑わせたりした。時間は1時間だけ、と最初言われた予定が完全に狂ってしまって、お茶の時間も含めるとその倍の時間を越える接見になってしまったとのことである。
暫らく経ってその年の9月に開かれた展覧会を女王は訪問し、画家たちの作品をつぶさに見て回りながら、吉屋の作品の前で「よく描けてるけど私ってこんなに皺があったかしら」と呟いたらしい。後年、未だ皇太子であった今上天皇が御夫妻でオランダを訪問された折に、吉屋がユリアナ女王のこの呟きについてお話したところ、皇太子は「あっはっは」と、とても愉快げに大笑いされたとの後日談もある。
ナチスに蹂躙された第二次大戦中、当時のウィルヘルミナ女王は英国に逃れてオランダの亡命政府を指揮していた。そしてその時はまだプリンセスであったユリアナ王女は、幼い娘達を連れて英国よりも安全なカナダに避難していた。1945年の夏、破壊されたオランダに戻り、1948年に女王の位について、その後国民共々一丸となって復興に勤しんだ。という意識が強く国民の中に生きていたこともあって、ユリアナ女王は「厳しい時代に国の復興に心を砕きながら子育てに苦労した優しい母親」というイメージと共に、民衆に親しまれた。末娘のクリスティーナ王女が生まれつき目が悪かったことも、「気の毒に」と一般の同情をひいた。
しかし1974年から1980年にユリアナ女王が王位を娘に譲った後までの暫らくは、オランダ王室にとって大きな試練の時期となった。直接的な理由は夫のベルンハルト公が係わったロッキード収賄事件(1974年に疑惑が暴露)で、その結果、ベルンハルト公の法的責任追及の問題以外にも、王制不要論、共和国(大統領)制への切替論などが公然と議論され始めたからである。
ユリアナ女王は1980年の4月にベアトリックス第一王女に王位を譲って退位したが、ベアトリックス新女王にとってその進路は必ずしもた易いものではなかった。新女王は感情に流されない判断力と、持ち前の意志の強さで、先ず王室の内部組織(宮内局)の抜本的な改革を行って新風を吹き込んだ。また議会や内閣とのコミュニケーションを強化すると共に、機会あるごとに広い社会活動に厭わず参加しながら、国民に進んで接触する努力を行った。一例として、ある時女王が庶民の生活に触れる目的でアムステルダムの露天市場をお忍びで訪問したが、目ざとく見つけた買い物客の女性が女王に駆け寄り、お供が止める前に頬にキスをする挙に出た。しかし女王はそれを嫌がらず、その女性の手を取って親愛の情を返したとのエピソードがある。また毎年4月30日の女王誕生日には、女王があちこちの市町村を巡って国民の間に混じり、随行の皇太子や他の王室のメンバーが自発的に民衆と一緒に踊ったり、ゲームをしたりするのを側で笑って眺めながら、近くの人たち誰彼となく談笑する情景が毎回テレビで放映されている。ともあれ自分から率先してのそういう努力が時間と共に効を奏し、今では、王制不要論や共和国論は無くなってはいないが、王制支持層が文句無く多数を占めている。最近当地紙の行ったミニアンケート調査によれば、オラニエ家による王制継続の支持率は86%という数字になっている由である。近いうちにベアトリックス女王がウィレム・アレクサンデル皇太子に王位を譲るであろう、との憶測が最近広まっている。以前は、ベアトリックス女王による帝王教育が厳しすぎてついていけない、女王がいないとタガが外れて独り立ちできない、言ってはいけないことを記者会見で言うといった類のゴシップ記事が出て、時折政界も含め世間を賑わしたものだが、2002年に、アルゼンチン出身のマクシマ妃と結婚し、子供が生れ、そして2004年2月にオランダの水の問題を広く取上げて政府に助言する「水の諮問委員会(Adviescommissie Water)」の委員長に就任して、オランダの政府も含めた関係機関と社会に直接リンクする仕事をし始めて以来、落着きと自信が見られるようになり、それがまた国民の「いつ国王になっても大丈夫」という評価にもつながっている。さらに2006年末には、国連の「水と衛生に関する諮問委員会(United Nations Secretary General’s Advisory Board on Water & Sanitation)」の議長にも(故橋本龍太郎元首相の正式後任として)任命された。単なる名誉職ではなく、世界の水の問題、具体的にはアフリカや東欧の水に関連する問題の解決を目指して、技術や金融面も含め全てをマネージしなければならない重要な専門ポストであることよりも、それに意欲を燃やすウィレム・アレクサンデル皇太子に対して、国の内外から期待が大いに上がっている。また皇太子妃のマクシマも、結婚以来僅か数年でオランダ語をものにし、今は、三人の娘の子育てのみならず、積極的にオランダ社会での機能を求め、同時に国連のミレニアム・デヴェロプメント・ゴール・プログラムの一つ、「マイクロクレディット(Micro credit)」の特別顧問として、夫の皇太子と足並を揃えながら開発援助活動に携わっている。

最も民主的な民主国家

オランダの強みとして次に挙げたいことは、この国の『民主的な政治体制』である。オランダの政治の仕組みについては、既に第一稿で簡単に述べた。繰り返しになるかもしれないが、オランダの政治の特徴の一つに、社会の多極化が進み(過ぎ)て、社会を構成しているグループの【=人民の】利害を代表する政党の数が多く、どの政党も【人民による】議会での過半数を占める議席が単独では取れないという『特異性』がある。従って単独政党で過半数を占める内閣はこの国ではあり得ず、常に複数政党の連立にならざるを得ない。夫々の政党が国民に対してどんなに素晴しい公約をしても、それを実現する為には別の政党と組んで議会の過半数議席を確保しなければならない。ところが組むべき別の政党は、えてして方法論や優先順位の置き方の面で、別のアプローチをしているので(でないと別の政党として別々に存在する意味が無い)、政党がお互いに譲歩して妥協し合わないと連立は成り立たない。そしてお互いに妥協した結果は『施政要綱』という細部にわたる連立政党間の契約書で確認し、施政期間4年の間に実施することになる【=(最大多数の)人民の為の政治】。但しこれには、オランダ風の表現を使えば、妥協の結果「ワインが水で薄まりすぎ、不味くなって飲む人に嫌われる」危険性が伴うので、連立を担う政党の「政治リーダー」(日本流に言えば「党首」)は、院内議員団や地方支部組織のみならず、一般の支持者とも、妥協内容に関するコンセンサス作りを十分に行う必要がある。さもないと支持者の不満の声が巷に満ち溢れ、党首と上層部が完全に浮いてしまい、それにより民主政治の基本が失われてしまうからである。
国にとって大事なことは、政権交代の都度行政制度の内容に大きな振幅が出ないことであろう。安定した経済や社会活動にとって、これは非常に大事な要因である。オランダの行政が上に要約したようなプロセスを通して決定、施行される結果、左右の揺れの幅がどの国よりもミニマイズされており、それがとりも直さず、戦後から一貫して継続されて来た基本政策、即ち、『国民の生活レベルの高度化とその維持』を可能ならしめ、貧困層に属する少数は除き、今現在大多数のオランダ国民が高水準の生活を享受していることに現れている。
内閣は基本的には連立与党の全幅の支持を得て成立し、存続するものだが、内閣には同時に政党の利害に囚われることなく、超党派的に国民の立場に立っての判断を行う責任も負わされている。内閣が打ち出す個々の政策の内容が、たまたま出身与党の方針や院内議員団の意見に反する場合、与党議員は(部分的に)反対に回り、逆に野党がそれを支持するという現象もこの国では時折見受けられる。これも大政党の「数による暴力」を防ぎ、個々の議員が国民の代表として政策の良し悪しを判断すべしとする民主原則が機能している好例と言えるであろう。
ともあれ、形の上ではリンカーンの言った議会民主主義の大原則を採用している国は世界に沢山ある。しかし本当に大多数の国民の声がその国の政治に反映されているかどうかについては、疑問無しとしない国もこれまた沢山ある。その中でオランダは、議会民主主義の理想に近い、民衆の為の政治を相当部分実現する『ポテンシャリティー』を持つ国と、私は受け止めている。

互助の精神

オランダに私が到着したばかりの頃(1962年)はオランダ社会のシステムがまだ完全には出来上がっていない時期であった。道路、下水道、水位管理システム、住宅、学校、産業設備など基本的なインフラは、相当な部分出来上がっていたが、例えば身障者、知障者用の今のように完備した設備は未だ極めて少なかった。丁度その頃アルンヘムの郊外に身障者と知障者用の住宅のみを集めた「村(Het Dorp)」を建設する計画があったが、国の予算に組み込めず、サスペンドされていた。そこでその資金を捻出すべく、1962年11月26日から27日にかけて、24時間ぶっ通しのテレビ番組で全国募金運動が行なわれた。当時はテレビを持つ家庭が限られていた為、同じ番組をラジオでも放送した。視聴者の同情心に訴えたこの番組を通して一昼夜24時間内に集まった金額は2千100万ギルダー(日本円で30数億円)。当時学卒エリートの月給が1000ギルダー前後(約15万円)、ミドルクラスのサラリーマンの月給が大体400ギルダー(6万円前後)という時代であったから、この寄金額は、天文学的とも言えるものであった。この募金運動は1966年に「村」の最初の部分が完成するまで続けられた。最終的に一般民衆、そして企業や団体が寄付した合計金額は5千万ギルダー(約75億円)にも及び、このお陰で「村」の建設が実現した。現在も存続しているこの「村」に居住する身障者、知障者の数は、その当時は数百人であったが、今は合計2,400人、介護スタッフの数も1,700人で、文字通り一寸した村になっている。

それから42年後の2004年12月にスマトラ沖合の大地震が原因で起った大津波で、周辺の国が記録的な数の犠牲者も含め大損害を蒙った。オランダでも直ちに援助体制がしかれ、「オランダ援助団体協力協会(Samenwerkende Hulporganizaties = SHO)」が中心となり、テレビを媒体とする大掛かりな募金活動が始まった。SHOはオランダ赤十字、ユニセフ、オランダ難民協会、など著名八団体が参加している全国組織で、その存続27年の間に33回の全国募金キャンペーンを行っている。SHOが公営、民放両方のテレビ局を巻き込んで行った募金キャンペーンのトップ5は、(1)津波被害募金(2004年):2億830万ユーロ(今の為替だと約330億円)(因みに隣国ベルギーの総額はオランダの約4分の1、4千820万ユーロ(約77億円)であった)、(2)コソボ難民・復興募金(1999~2000):5千200万ユーロ、(3)パキスタン、インド、アフガニスタン地震災害募金(2005年):3千980万ユーロ、(4)中米のハリケーン・ミッチ募金(1998~1999):3千700万ユーロ、(5)ルワンダ援助募金(1994年):3千580万ユーロ、であった。残り28回のキャンペーンの募金総額は2億300万ユーロなので、以上合計するとSHOとして過去27年の間に5億7600万ユーロ(約920億円)以上(というのは1986年以前の数字はこれに入っていない為)、年平均約2200万ユーロ以上(約35億円)の寄付金を集めた計算になる。さらに、募金運動を行っている団体はSHO以外にも数多くあり、それらも含めると、オランダ全体の寄付金額はもっともっと大きくなる。

チーズで有名なハウダ(Gouda)[筆者註:これも間違って日本に定着した『ゴーダ』に替えて、オランダ語の発音に最も近い表記とした]の町にあるノン・ブランド・ガソリンステーションのオーナー、ウィレム・プロンクは、ガソリンの値段を他よりも安くして客を呼び、薄利多売で出た利益を全て開発援助活動につぎ込むという非常に奇特な人である。彼の援助のやり方は、現金や食料品を、援助を必要とするアフリカの慈善団体や病院、学校などに直接寄付・寄贈するのではなく(そうすると必ず誰かが間でくすねてしまう)、団体や施設が必要とする備品をオランダで調達して送料込みで現地に送り、現地側はただで送ってもらった必需品を有効に使うというやり方に徹している。またアフリカ各地で活動を行っている、オランダ人による小規模で人的、資金的に未だ自立できない援助団体に対して、超低利又は金利ゼロの融資を行い(相手が現地の人ではなく、オランダ人の援助活動者である点は違うが、マクシマ妃の『マイクロクレディット』と基本的には同じアイデア)、その援助団体が活動を継続出来るだけでなく、徐々に大きく成長出来るよう、数十名のボランティアーと一緒になってサポートすることを同時に行っている。
オランダ人は元々ケチでドライとされている。しかし上に述べた事実を見る限り、このオランダ人観は必ずしも当らない。数多くのオランダ人は、何事であれ彼等のロジックに合う形でプレゼンテーションされると、特にその内容が人間の悲哀に関連するものである場合には、猛烈にウエットで協力的になる素地を持ち合わせている。SF的かもしれないが、昔から水や風雨との闘いで、共同体を構成する者同士が協力し合わなければ生存できないという低地国家の厳しさが、遺伝子の一部に記憶され代々受け継がれてきた結果、特定の状況に置かれると率先して人助けに走るのであろう、と考えられなくも無い。

閑話休題

ハーグの「全州議会」の建物(17世紀にオランダが共和国であった時代の「全州議会(Staten-Generaal)」は、この建物「リッデルザール(Ridderzaal=「騎士の間」)に所在した。)
VOC本社建物の18世紀の絵画(ウィキペディアより転載)
今に残る元VOC本社建物(今はアムステルダム大学の社会学、政治学部の本校舎として使われている。)
今に残るVOC本社建物(中央)と、この運河沿いにあった数多い倉庫建物の一つ(左)。この昔の倉庫は今は劇場として使われている。
アムステルダムにあったVOC直属の造船所(デッサン)[ウィキペディアより転載]

1602年に『東インド会社 (VOC) 』が設立され、アジアでの交易に乗り出した。しかしその8年前(1594年)から、アムステルダムの有力商人が9人集まり資金を出し合って設立した商会『Companie van Verre』が船を建造し、当時ポルトガルの独占市場であったためにオランダ商人の出る幕が無かった胡椒、そしてそれ以外の香料、繊維品などを、自分たちで直接買付けて、オランダに持ち帰る試みを既に行っていた。オランダとして出る幕の無かった最大の理由は、ヨーロッパからアジアに至る航路の知識と経験が無く、従って東インドに至るまでの航海用の地図がオランダのどこにも存在しなかった為である。このノウハウは当時ポルトガルのみが持っており、ポルトガルは航海図を国の秘密として、外国人には絶対に見せなかった。オランダにとって幸いなことに、ポルトガルで東洋派遣船隊が組まれた時に、オランダ人のヤン・ハイヘン-ファン・リンスホーテンが、ポルトガル国王のヒキを得て、事務官としてこの船隊に参加することになった。彼は航海中こっそり記録した航路の情報、そして中継地の略図も含めた各種の詳細情報を、後年オランダに戻ってからまとめ、出版した(書籍名「Itinerario」)。上述のアムステルダムの商会はこの情報のお陰で4隻より成る船隊を1595年に出航させることになり、オランダとして初めて東インド貿易に着手する史実を残したわけである。インド、セイロン、東インド(=インドネシア)などから持ち帰るこれらの産物が、投下資本の何倍もの利益をもたらすとの期待感と、アムステルダムの商会による航路の実証が引金になって、間もなくあちこちの町で商会が設立され、次々にアジア交易に乗り出していった。それにより、当時唯一の貿易海洋国と見なされていたポルトガル(少し後になってスペインが王位継承により加わった)との熾烈な競争のみならず、オランダの商会同士の競争も激化していった。 この時期スペインのハプスブルグ家が王位継承の結果として今のベネルックスをほぼカバーする(全部で17の州よりなる)『低地地方(netherlandsen)』を統治していたが、その内の7州(今のオランダとベルギーのフランドル地方に相当する)が、スペインによる永久税の導入と過酷な宗教裁判に反対して反乱を起こし、スペインからの独立を宣言した。世界史に有名な『80年戦争』の始まりである。それ以来、この7州は『オランダ合州共和国』という名の独立国として存在するようになったが、その立法・行政府として『全州議会(Staten-Generaal)』がハーグにおかれ、国全体に関りのある事柄はこの全州議会が決裁権を持つことになっていた。当時オランダのあちこちの都市に林立した商会同士の『競争』は、競争相手の船へ攻撃や焼討ちをかけて貨物を略奪し、乗組員を殺傷することも含まれていたため、共和国行政府としても野放しに出来なくなった。そこで、競合しあう商会を夫々の商会の出資者共々全員参加させて『東インド会社(VOC = Verenigde Oost-Indische Companie)』を設立すべく決定し、1602年3月にVOCは発足した。また行政府はVOCに対し、「東インド会社のみがアジア交易に従事できる」との独占権確認状(Octrooi)を同年末に与え、同時にVOC株式の売買の自由を認めた。 話を元に戻そう。「スプリートホフ社は20世紀の現代に、リスクマネーの共同出資という16世紀以来のやり方を再現させ、未知の日本に大量発注するというベンチャー精神と、社員に株を持たせながら『やる気』を出させることによって、短期間で事業スケールの拡大を実現した、謂わば現代のVOCだ」という話を、何度目かの契約調印記念ランチの席で、出資者の一人が言うのを聞いたことがある。確かに、長い間僅か数隻の小さな船を持ってそこそこにやっていた小さな船主が、タイミングが良かったとは言え、たった十数年の間に60隻の船を極東の未知の国に発注し、その後も代替建造を自国のオランダやポーランドで定期的に行い、全船をフル回転させるだけの貨物を世界規模で集荷し、利益を確実に上げて出資者が満足する配当を行い続けるというのは、初期のVOCの成果に匹敵しうる快挙と言えるかもしれない。



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