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オランダよ何処へ?

【第5回】 犯罪の天国

凶悪犯罪

オランダの組織犯罪の巣窟と見なされているアムステルダムの飾り窓地帯
大勢の旅行者が押しかける飾り窓地帯の情景
飾り窓地帯に幾つも見かけるコーヒーショップの入口。ここでソフトドラッグが合法的に手に入るが、ソフト、ハード両方合わせて組織犯罪の重要な財源になっている。
コーヒーショップの店の中。大麻そのもののみならず、大麻の種子やその栽培マニュアルは勿論、ソフトドラッグに関するありとあらゆる関連製品がここで売られている。

最近は新聞を開くと、時には連日の如く、平均的にみても2~3日に一度は必ず人が殺された、死体が見つかったという物騒な記事が報道されている。新聞の読者もその様な血なまぐさい事件に慣れっこになって、日常茶飯事として受け止めているような感じがしないでもない。私がオランダにやってきた45年前には殺人などはほとんど考えられないことで、記憶する限り、精々年に一度か二度報道される程度であった。1965年8月にアムステルダムの運河でスーツケース入りのばらばら死体が発見され、それが身元不明の日本人であったことより、当地では勿論のこと、日本でも大事件として各紙に報道された。この記事を日本で読んだ私の大学時代の友人が、暫らく私からの郵便連絡が途絶えていたこともあって不安に思い、「若しかしたらオランダに留学中の友人ではないか」と新聞社に連絡した。その新聞社は特派員経由でオランダの通信社や日本大使館と連絡を取り、ある日突然ハーグの住所に人が尋ねてきて私の生存を確認するという一幕もあった。当時は、日本製品輸出の先鞭をつけたトヨタやソニーですらオランダでは未だほとんど知られていない時代であったので、ビジネス関係の駐在員も含め日本人は極めて少なく、在留邦人の数は100人にも満たなかった。誰が何処に住んでいるかは、誰にもすべて分かっている筈という現地の意識でハーグの片隅で勉学していた自分が、日本では殺人被害者の候補に祭り上げられたことに大いに驚きを感じたものであった。ともあれあの当時のオランダは、日本人の目から見れば、社会全体がきちんと整い、慎ましやかながらも平和で、犯罪とは無関係と思われるような国であった。

2006年12月初めの数字(週刊誌『Elsevier Magazine』)によると、オランダで発生した殺人事件の被害者の数は、2005年が201人。2006年の予測数は、同年12月5日現在140人なので、過去の12月の数字を推測的に加えても、精々160~170人止まりで、前年に比べかなり減るであろうとのことである。歴史的に見ると、1990年代の10年間に殺害された被害者の平均人数は年間250人。1997年がピークで283人。2001年にはこの数は255人であった。2002年以降は減少傾向を辿り、平均200人。但し2003年は増えて232人という数字になっている。これを2005年の日本の数字と比較すると、人口1.2億人として日本で殺害された被害者数は1,354人。オランダは1,630万人の人口で被害者数が 201人なので、日蘭の人口比率7.36をこれに掛けて算出する被害者数の比率は、オランダの方が日本よりも9%余高いことになる。もっと古い1995年の数字で比べるとこの差は極端に大きくなる。日本の被害者数は警察白書によると752人、この年のオランダの正確な数字は判らないが、90年代の平均数値 250名をとって、人口比率を7とすると、被害者数の比率はオランダの方が日本よりも2.3倍も高かった計算になる。言い換えると、日本でも色々と悪質、且つ変質的な凶悪殺人事件が続出しているが、オランダもそれに負けない、あるいはその上を行くほどの国にいつの間にか「成長」してしまったようだ。

ケース1:夫による家族の殺人事件

ハーグから東に約15km離れたズーテルメール(Zoetermeer)に住むリヒャルト・H. は、35才のITエンジニアで、美人で社交的な奥さんと結婚し、3才と5才の娘二人と共に幸福な家庭生活を営んでいた、と少なくも周囲の人達には思われていた。2005年4月初めに、彼は警察に出頭し「妻が娘二人を連れて家出したらしく家に戻ってこない」と届け出て、捜査依頼を行った。事情聴取すればするほど、そして親戚縁者や友人筋も含めて捜査しても、子供を連れて家出をしなければならない理由が見つからず、またその行方もようとして知れなかった。
優男で人当たりの良い夫の話を最初は真に受けていた警察も途中でおかしいと思い始め、時には食い違う話をする夫を容疑者として追及した結果、本人は 2005年9月になってようやく、妻と娘二人を殺害して100kmほど離れたブラバント州の森林地帯に埋めた旨、自白した。事件の暫らく前からポーランドの20代の女性と、独身と偽ってウェブカム・チャットでコレポンし始め、妻との関係は特に悪くは無かったが、フリーでありたいという気持が強く働いて犯行に至った、というのが殺害の理由であった。
妻と娘二人を殺す1週間ほど前にポーランドのガールフレンドから、次の週末にオランダに会いに行くので彼の家に泊まりたいとの連絡が入り、窮地に追い込まれた彼は数日間悶々と悩んだ挙句、週末直前の金曜日の早朝、先ず妻をバットで撲殺し、続けて二階の子供部屋に寝ていた娘二人を絞殺した。病気と偽って会社を欠勤した彼は、妻と娘二人の遺体を毛布でくるみ、車のトランクに押し込んで、彼が子供の頃両親と何度も休暇を過ごしたキャンプ場につながるブラバント州の森林地帯に向かった。遺体を埋めた後大急ぎで家に戻った彼は、血で汚れた寝室の掃除をした。妻の血が滲みこんだベッドを拭いたが完全には拭きとれないので裏返しにした。血のしみが取れない壁面には娘の描いた絵を掛けて血痕を隠した。そうやって翌日ポーランドから到着したガールフレンドをこの家に迎え入れ、ハネムーン気取りで週末を過ごした。

殺人に至る動機とその後の尋常ではない彼の行動に精神異常を疑った司法検察局は、法務省の精神鑑定センターで精神状態の鑑定を行わせたが、結果は白で精神に特に異常なしとのことであった。 2006年3月31日に彼は司法検察側の求刑通り、普通の精神状態の犯人に科せられる最高刑である終身懲役刑が言い渡された。しかし彼はこの判決を不満とし、今もって控訴審議がハーグの控訴裁判所で進行中であるが、本人は弁護士経由、法務省の精神鑑定センターの鑑定結果に対抗する専門医証人(大学教授)を立てて、「犯行時の暫定的精神異常」を立証しようとしている。この被告側反論が受け入れられると、第一審の終身刑は破棄され、「有限の懲役刑+精神医による加療」という刑罰に切り替り、精神異常犯罪者のみを収容する特殊刑務所(TBSクリニック)に移される。そして刑期終了時に関係精神医全員が「正常になった」との診断を下せば、本人は釈放され社会に復帰する。 果たして本人と弁護士の目論見通りに行くかどうかは、控訴審の判決を待つしかない。

ケース2:少女の暴行殺害事件

2006年12月12日、12才の少女スザンネのひどい外傷を負った遺体が、ドレンテ州のドイツ国境沿いの小村「Tweede Exloërmond(第二エクスルーエルモント)に通じる細い田舎道沿いで発見された。この村に自転車で戻る途中のスザンネを見かけた人達の証言に基づいて警察は12月15日、近くの町に住む45才の容疑者ヘンク・ファン・D.を逮捕した。警察の尋問にのらりくらりと供述の内容を変えて対応していた容疑者は2007年1月16日、スザンネを自分の運転していたキャンピングカーに連れ込んで二度暴行した後、外に逃れ出たスザンネを二度キャンピングカーで轢いて殺害した旨の自白を行った。犯行の日の朝、妻と口論し怒って家を飛び出したが、その怒りをぶちまけるべく犯行に及んだ由である。
この事件以外にも、ゼイスト(Zeist)に住む55才の小児愛嗜好者(ペドフィリア)が近所の女の子たちを11人暴行した事件、同じゼイストに住む別の男が近所の男の子7人を暴行した事件、11才の女の子を殺害したMichel S.のケース、1999年に7才の女の子を少なくとも10回暴行してから殺害した「アッセンの怪物」Jan S.のケース、2005年にはウィック・H.がスヒーダムで10才の女の子ニーンケを暴行して殺害した事件(この事件には、警察と司法検察局の証拠固めが不十分だったにもかかわらず、間違って有罪判決を受けた別の小児愛嗜好者が投獄され、この冤罪者に60万ユーロの損害賠償金を支払うという司法当局のチョンボも付録として付いた)、2006年には41才のペーテル・H.が義理の娘の友人である15才のメラニーを暴行、殺害した事件など、なぜかこの国では幼児やティーンエイジャーを被害者とする凶悪犯罪が後を絶たない。
さらにまた、親が自分の子供をないがしろにして殺してしまう事件も、平均して年に一度くらいの割合で発生している。一番ひどいケースとして「ヌルデの女の子」と呼ばれる事件がある。独身の母親にボーイフレンドが出来て二人の娘たちが足手まといになったため、先ず上の5才の女の子に食べる物もろくに与えず、餓死寸前の状態になった時にボーイフレンドに加担して殺害し、首と手足をばらばらにしてそれぞれ別の場所に遺棄した。首の部分が干拓地のヌルデ(Nulde)という場所の水際で見つかったのでこの名前が付けられた。長いこと身元が分らず、英国の復元専門家を呼んで顔立ちを再現した後にテレビで聴視者に呼びかけ、集まった情報からようやく身元が割れたものである。

子供の殺害という凶悪な事件は、多いとはいってもまだ限られているが、子供の虐待やいじめの数は相当な件数に及んでいる。最近オランダ法務省がレイデン大学に委託して行った調査によると、子供の虐待やいじめの件数は年間約11万件で、子供千人に対して約30人の犠牲者を数える由である(因みにアメリカの犠牲者の数は約23人)。親が失業中であったり、両親の教育水準が低い家庭でのいじめが圧倒的に多く、標準的家庭に比べ5~7倍多い件数になっている。オランダにも児童保護局(Raad van Kinderbescherming)が存在し、全国で約1,500人を数える「家庭後見人(Gezinsvoogd)」が、問題家庭の子供達を保護する体制が整ってはいる。しかし最近はシステムがマンネリ化し、家庭後見人の判断の誤りとアクションの遅さの故に、本当にニーズのある家庭の子供達を保護しきれず手遅れになる事例が頻発していることより、2006年後半以来、家庭後見人に遺漏があった場合には刑事責任が問われることになった。現につい最近「母親の示していた兆しや周囲の人達の事前の警告にも拘らず、後見人の判断ミスと怠慢のせいで幼児が母親に殺害された」として家庭後見人が一人起訴されている(オランダでは初めてのケース)。
殺人犯罪の話に少しウェイトが掛かり過ぎたようだが、犯罪には他にも色々な種類のものがあり過ぎて、全てを網羅することはとうてい不可能である。オランダらしいと思われる件やホット・ニュースとなっている件をさらに2~3件選んで紹介してみたい。

ケース3:サダムに化学兵器の原料を売った男

1942年生れのファン・アンラート(F.C.A. van Anraat)はオランダ北部の軍港都市デン・ヘルデル出身で、最初化学分析技手になる教育を受けたが、卒業せぬまま1970年代の前半、外国に飛び出した。イタリア、スイス、シンガポールで、イラクに化学工場を建設するエンジニアリング会社の技術アドバイザーとして働き、彼のイラク・コネクションが出来た。その後、化学品のブローカーとして自立し、スイスを拠点として、1984年から総量数千トンに及ぶ各種の化学品をイラクに納めたが、その中にはマスタードガスと神経ガスの原料になるティオ・ディグリコールも含まれていた。米国ボルティモアのAlcolac Inc.等から仕入れたティオ・ディグリコール538㌧をアントワープ経由で船積みし、ヨルダンのアカバで陸揚げした後、陸路イラクに運んで納入した。イラクは1988年3月16日、イラク北部の町をイランの支援の下に占領したクルド反乱軍に対して空爆をかけ、国際的に禁止されているマスタードガスを投下した。これにより約5千人のクルド人が死亡し、約1万人が負傷した。

1989年1月27日、国際指名手配を受けていたファン・アンラートはミラノで逮捕されたが、イタリア司法局が米国の身柄引渡請求を待っている間、臨時釈放された。その脚で彼はイラクに逃亡し、その後14年間サダムの庇護のもとに逃亡生活を送った。サダムの失脚直後、ファン・アンラートは取る物も取りあえずシリアに逃れ、そこのオランダ大使館で旅券を発行してもらってオランダに戻ってきた。
2004年12月6日、ファン・アンラートはオランダ警察によって、「戦争犯罪と民族殺戮」の疑いで逮捕された。それから約一年後の2005年11月21 日に彼の公判が始まり、同年12月23日に「イラクの犯した戦争犯罪への加担の罪」で15年の懲役刑が言い渡された。「民族殺戮の罪」に関しては証拠不十分で却下された。なおこの裁判で証人として立った、彼の日本人のビジネスパートナーは「ファン・アンラートはイラクに納入する化学品が毒ガス製造のために使われることをよく承知していた」と証言している。しかしこの日本人は年次を間違えて引用したため、「信憑性の点で問題あり」との裁判所の判断になり、証拠としては採用されなかった。ともあれ、被告、司法検察局双方が2005年12月の判決を不満として控訴し、2007年4月より控訴裁判所で審議が再開されている。

ケース4:中等教育学校の副校長を射殺したMurat Demir

トルコ系オランダ人のムラット・デミール(Murat Demir)は、2004年1月13日、彼がまだ17才の時に、通っているハーグの中等教育学校「Terra College」の副校長と昼休みの時間に口論し、カッと来て隠し持っていたピストルで副校長の頭部を撃った。副校長は直ちに病院に運ばれたが、同夜頭部の銃創が原因で死亡した。
ムラットは勉強には余り熱心ではない、所謂不良少年タイプで、日頃副校長からは頻繁に注意を受けていた。本人の話だと、凶器のピストルは25才の知人がハーグのある警察署から盗み出したものを貰っていつも持ち歩いていた由。犯行後、凶器は学校の近くの森に捨てて一旦逃げ出したが、同日夕刻、後見者に連れられて警察に自首して出た。(父親は当時受刑中で不在。)
オランダ中が怒りで沸きかえり、遺族の自宅は全国から送られてきた弔花やカードで溢れた。ベアトリックス女王も弔電をうって副校長夫人と子供達を慰めた由で、それ程この事件がオランダの社会に与えたインパクトは大きかった。

一方、同校の一部の(移入民出身の)学生が集まって、ムラットを支援するデモを学校の外側で行い、図らずも、教師と学生の対立、そして学生でも、オランダ人や穏健派移入民出身学生と一部の過激派移入民学生の間の対立という、オランダの教育の場の置かれている難しさが如実に表面化する場面も見られた。ムラットは、法律上は未成年者だが、犯罪の性格上、成人犯罪者並の扱いで審判されたが、2004年4月15日に「懲役5年+精神医による加療」の判決を受けた。判決を不満とした本人は控訴したが、同年12月23日、ハーグの控訴裁判所によって第一審と同一の判決が申し渡された。その後の報道によると、彼は刑務所内でも暴力沙汰を起こし、1年3ヶ月の懲役刑が追加されたそうである。

ケース5:オランダ組織犯罪の大ボスの「世紀の裁判」

オランダ組織犯罪者の大ボス、ホレールデルが買取ったナイトクラブ『Casa Rosso』。看板には『Theater(劇場)』と書いてあるが、これは低率消費税支払の為のトリック。
ハーグにある『オランダ最高裁判所』の古風な建物
アムステルダム市の東南部ベイルメルメール地区に立っている、周囲の柵や監視カメラが無ければホテルとも見間違えるような刑務所(オランダ法務省提供)
刑務所の内部。色調の及ぼす服役者への心理効果を考慮に入れてであろう、カラフルで明るい内装になっている(オランダ法務省提供)

ついこの間の4月2日、アムステルダムの司法地区裁判所で、ウィレム・ホレーデル(Willem Holleeder)のメガ裁判が始まった。彼は1958年5月29日の生れで、オランダを代表するトップ犯罪者であり、オランダ地下犯罪組織のドン的な存在である。
1970年代、まだティーンエイジャーであった頃に彼は、クレッペル(Sam Klepper)、ミーレメット(John Mieremet)、ファン・ハウト(Cor van Hout)の幼な友達三人(長じて何れも犯罪の世界のボス的存在となったが、次々に暗殺され、生き残っているのはホレーデルのみ)と徒党を組み、アムステルダムの下町界隈で、暴力も含めた嫌がらせを請負っていた。1974年にこの一団は、アムステルダム市の「郵便銀行局(Girokantoor)」に押し入って金を強奪した後、スピードボートで運河を突っ走り逃亡するという、アクション映画そこのけの事件をひき起こした。これ以外にもこの10代の暴力グループは数多くの暴行、脅し、強奪事件を次々に起こし、18才の時には既に多額の金を所持して、庶民の手には届かないような高価な車を乗り回していた。彼らは不正に得た金を資本金として会社を設立し、カフェー、レストラン用製品の売買を行ったが長続きせず、この会社が倒産した後は人稼業で特に建設会社に労働者を不法に斡旋してマージンを稼ぎ、金ができると不動産に注ぎ込んだ。

1977年に戦後初めて企業人が誘拐され多額の身代金を支払って釈放された事件が起ったが、それにヒントを得て、ホレーデルは大物企業人の誘拐を企画し始めた。1981年末より念入りに準備を行った後、1983年11月9日に、旧友のファン・ハウトと新しい仲間三人を加えた五人のチームで、「ハイネッケン・ビール」の社長、フレディー・ヘイネッケンをその運転手共々誘拐した。
身代金3500万ギルダー(約1,600万ユーロ)が支払われた後も、ヘイネッケン社長とその運転手は釈放されず、一時は二人の命が危ぶまれたが、匿名のタレこみにより監禁場所が分かり、警察によって誘拐後3週間目にようやく解放された。それと同じ日に新しい仲間の内二人は逮捕されたが、三人目のメイヤーと主犯者のホレーデル並びにファン・ハウトの三名はうまく逃げおおした。数週間経ってメイヤーは自首したが、主犯の二人は外国に逃れて行方知れずとなった。1984年2月にこの二人はフランスで逮捕され、オランダ司法当局は直ちにその引渡しを要求したが、彼等の弁護士は、フランスに引渡しを請求できる犯罪の中に「誘拐と脅し」が含まれていないことを発見し、それを理由にオランダ司法検察局の引渡請求を無効ならしめようとした。一時はこの二人が釈放されそのまま逃亡してしまうのではないかと危惧されたが、フランス司法当局の協力的な対応で、二人の身柄がカリブ海のフランス属領サン・マルタンに送られ、そこでオランダの司法検察官がこの二名を逮捕し本国に送還する形での解決を見た。この二人は1987年に11年の懲役刑に科されたが、1992年には刑務所から釈放された。文字通り「兄弟の契り」を結んでいたこの二人(ファン・ハウトはホレーデルの姉と結婚し、逆にホレーデルはファン・ハウトの妹と結婚)は、出所後再び犯罪の世界に舞い戻った。大規模なドラッグの売買と脅しによって稼いだ巨額の金を不動産に現金投資してマネーロンダリングを行っているとの疑惑がいつも強く存在したが、司法当局が絶対的な証拠固めが出来ないまま時間が過ぎていく。

義兄のファン・ハウトと不動産屋のフリッフホルスト(Grifhorst)と共にホレーデルは、1994年にアムステルダム旧市街の飾り窓地帯にあるエロティック・ナイトクラブ「Casa Rosso」を購入。またアルクマール市内の飾り窓用の不動産にも共同で出資して、売春市場に進出した。しかし1996年にホレーデルは義兄ファン・ハウトと喧嘩別れをした。ホレーデルは、その直前までホレーデルとファン・ハウトを脅迫し、1996年3月には義兄のファン・ハウトを消そうとした、幼な馴染のミーレメットおよびクレッペルとよりを戻し、義兄を孤立させ、自分の勢力伸長を図ろうとした。これと時期を同じくして、今まで一緒にやってきた不動産屋フリッフホルストを袖にし、代りの不動産屋兼金融顧問としてウィレム・エントストラ(Willem Endstra)を起用した。オランダの月刊誌「Quote」は2002年12月号で、同年9月に密かに撮影されたホレーデルとエントストラが一緒に写っている写真と共に、この二人の関係を暴露する記事を掲載した。エントストラ自身その直前まで「ホレーデルとは何の関係もないし、彼のことはほとんど知らない」と、二人の癒着を終始真っ向から否定していただけに、この暴露記事は世間を大いに驚かせた。
しかしこの時期から、ホレーデルはエントストラを脅迫し始め、一向に金を払おうとしないエントストラに、アムステルダムの森でリンチを加える手段に出たりした。身の危険を具体的に感じたエントストラは警察に駆け込み、保護を受ける代償としてホレーデルとの関係を詳細に告白した。そしてこのエントストラは、2004年5月17日、アムステルダムの彼の事務所の前で、銃の掃射を浴びて暗殺された。犯人は今もって分らない。
2006年1月29日から30日の夜中に、ホレーデルは「不動産業者の脅迫と金銭強要」の嫌疑で逮捕された。捜査本部はホレーデル以外に13名の容疑者をオランダの各地で逮捕した。彼等の金の流れを糾明すべく、オランダ税務情報調査局(FIOD)や経済管理局(ECD)も巻き込んでの逮捕作戦で、同時にアムステルダムを中心にして数多く発生した犯罪組織内部の暗殺事件の糾明も副次的に兼ねていた。以来彼はずっと拘禁され、2007年4月2日ようやく裁判の運びとなった。ところが、開廷された途端にホレーデルが急に体の不調を訴え、レイデン大学病院で精密検査を行ったところ、心臓の弁がいかれてることが判明した。彼は4月11日に急遽心臓外科の手術を受け、目下安静療養中であるが、この「ハプニング」により裁判は中断され、ホレーデルの回復待ちの状況である。ともあれ、今回のメガ裁判で、どの様な犯罪事実が法的に受け入れられ、どの様な判決が下るか、司法検察局が多大の時間を費やしながら心血を注いで起訴に持ち込んだ案件だけに、結果が見物である。

オランダを犯罪天国ならしめる事情

毎日起こる犯罪の種類、規模、件数だけを取り上げて比較するならば、オランダで起こっていることは世界中どこの国でも発生していることで、特に副題で示したような「犯罪の天国」というレッテルを貼ることは出来ない。でも次のような事情がマスコミを通して明らかになると、これはやはり世界で類を見ない、オランダ独特の状況と言わざるを得ず、この国はやはり犯罪者にとっての天国なんだと、筆者は受け止めている。

  • (1)フィールドワークを行う警察官や捜査官が、或いは内務省の国家情報安全局(AIVD)の局員が内部情報を犯罪組織やテログループに提供して金銭や便宜供与を受けるケースが時折マスコミ経由で発覚する。De Telegraaf紙の犯罪担当ジャーナリストの許にある犯罪組織のインフォーマーがAIVD調書のコピーを持ち込んだことがあって、同紙はこのインフォーマー情報に基づくスクープ記事を、政府機関のスキャンダルとして大々的に組んだ。或いは、日本ではアネハ事件があったが、オランダでもアムステルダムやアルメーレ等の町で建設会社の手抜きに自治体の工務監督やその監督部門が目をつぶったケースが暴露され、関係者は他の建造物への波及を恐れている。スヒップホル空港の滑走路の下を通すハイウェイ工事の入札談合を始め、各種公共又は民間事業での請負価格談合、そして贈収賄、メーカーや流通組織による製品価格談合などなど、枚挙に暇が無い。
    以前強く存在していたキリスト教的道義感のタガはとうの昔に外れ、所属する組織に対する忠誠心は、個人主義を重視し「自己を主張すべし」とする長年の教育のお陰でSecond priorityとなって久しく、「少し位」とか「他の人もやっているのだから」という言い訳が責任感や罪悪感を麻痺させる。そして世の中はあらゆる品物で溢れ、買わせようとする広告に煽られる結果、購買欲がいやが上にもそそられ、しかも所得は少なく限りがあり、といった状況に置かれ、自制心の余り利かなくなった人たちが、それを悪用しようとする犯罪者や違反者の餌食に(唯々諾々と)なってしまうこと、ある意味では当然と言えるかもしれない。この世に生きて物質的な欲望を消すこと、抑えることは至難の業である。特に自由が謳歌されているオランダでは。
  • (2)誰でも組織のなかで得た自分のポジションは惜しい。特に上に上がれば上がるほどそうである。保守的な法解釈や字句の解釈に留まり(そうしていれば自分の足元を掬われる事も無い)、刻々変わる世の中が求めるような規定やシステムへの転換には敢えて手をつけない。その結果決め手となる証拠固めが場合によっては十分に出来ず、起訴しても敗訴する。逆に教科書どおりのプロセジャーにぴったりのケースがあると、犯罪の内容やそれをやる意義を無視してまで押し通し、内部での点数を上げようとする。というのが特に過去五年間の司法関係当局の(報道を通して得られる)イメージであった。それに加え、将来を嘱望されたある中堅司法検察官が古くなったラップトップを不注意にも路上に捨て、それを拾った者がリカバリーソフトを使って消された筈のハードディスクのファイルを開いたら、極秘調書や内部情報が続々再現され、それのみならず幼児のヌード写真も見つかり、驚いてTV局の著名犯罪リポーターの所に持ち込むという事件が公けになった。あれやこれやで法務省や司法検察局の世間に対する信用はガタ落ちになってしまっている。裁判官の下す判決にしても、先例を重視し過ぎ、アカデミックな法解釈に囚われすぎて、罪の実態から遊離したとしか考えようの無い刑罰を科すケースが多い。例えば2002年5月に、過激な環境活動家である犯人が、当時台頭した新党LPFの党首をピストルで殺害したときの刑は、終身刑の求刑に対してたった18年の懲役刑であった。また2006年に、ビール6本をたいらげた後13才の女の子4人を車に乗せて、60キロ制限の道を100キロで飛ばし、コントロールを失って立木に激突して女の子3人を即死させた20才の若者に対しては、僅か3年の懲役が求刑され、検察当局の非常識さに世間は沸いた。ところがそれを受けた裁判官は懲役刑をさらに2年に減らし、代わりに運転免許停止(たった)4年間、重傷をおって生き残った女の子に対する(僅か)7000ユーロの補償金という判決を下した(死んだ女の子の家族への補償金は何も無い)。懲役刑の場合、実際に刑務所に入っている期間は、服役態度に問題がなければ自動的に3分の2に減らされることがオランダの長年の慣例になっている(18年の刑期であれば12年が過ぎると仮出所出来る)。「被害者の命はそんなに軽く、規則を破る加害者の権利はそんなにも尊ばれなければならないのか」という憤りが渦巻く所以である。
    捜査方法にも色々足枷がある。容疑者や服役囚が逃亡して、新聞、TVなどに顔写真を出す場合も、両目に黒くマスクがかかり(指名手配された凶悪犯人が逃亡中に犯行を犯す恐れがある場合のみ、最近は流石にマスクを外すようになったが)、姓名の姓の方はイニシアル表示になる。容疑者の電話盗聴はプライバシー保護の観点より原則タブー。実際の捜査活動では、これはという犯罪やテロの容疑者の通話を盗聴しているらしいが、その録音テープを証拠として提出しても、容疑者のプライバシー保護とか内部手続不備などの理由で、折角捕まえた犯罪者或いはテロの容疑者が放免されたケースが何件もある。個人住宅や商店、ガソリンステーションを狙った窃盗や強盗事件が起こると、警察は調書を取るには取るが、人身事故の無い単なる盗みだと、どんなに頻繁に起きても何もしないので有名である。特に商店など2度3度、或いはそれ以上の回数連続して被害にあってその都度届け出ても、警察は、例え証拠たり得る犯罪の痕跡があっても何もしないので、届出は今後一切しないという商店主が増えている由である。「人手が足りないので、窃盗や強盗はどうしても低いPriorityになりがち」というのはよく聞かれる警察の言い訳だが、反面「市民の些細な違反を細かく時間を掛けてチェックして罰金の雨をふらし、スピード違反の取締まりに力を入れて僅か2~3キロのオーバーでも罰金措置にするのは一体どうしたことか。泥棒を捕まえないで、市民いじめをするのが警察の役割か」という憤りの声が頻繁に上がっている。
    つい最近の報道では、ハーグの郊外にある科学捜査研究所が200件以上の捜査案件を溜めており、全部処理するには一年以上かかるとのことで、その間犯人の捜査は中断されたままになり、犯人の逮捕そして起訴する確率がその結果激減することとなる。
    そして、刑務所が一杯で空きが無いので、短期の懲役刑は出来る限り労働役務で処理することを要請した法務省通達が、司法検察局や裁判所に回っているらしい。
  • (3)オランダの刑務所はその設備が素晴しく、以前は全て独房だった。そこにベッド、トイレ、温水、冷水両方が出る洗面台、本棚、机、読書ランプ、テレビ(賃貸)等、電話とシャワーを除いて一寸したビジネスホテル並の設備が整っている。刑務所の収容能力が絶対的に不足していることと、服役者の便宜を余りにも思いやった設備が「これでは処罰ではなく、甘やかしだ」と社会の批判を受けていることより、二人部屋や四人部屋の刑房の可能性を現在検討、テスト中ではある。新聞、雑誌そして(ソフト)ポルノさえ持ち込み自由で、食事は外部のケータリング会社が作ったものが独房に配布される(例外的にコックの指導で服役者が自分達の食事を調理し、食堂に集まって食べるやり方の刑務所もある)。朝と晩はパン食、昼に暖かい食事がでる。タバコは自由。アルコールはビールを服役者が飲んでいる新聞写真を見たことがあるので、いつもかどうかは分からないが、一応許されているらしい。ヤクも自由に手に入って、受刑者間の貨幣に代る支払手段になっている由。週に二回、それぞれ一時間の運動時間、そして毎日一時間外気を吸える。逃亡は刑罰の対象にならない。しかしそれを試み、再度捕まった場合には3分の2の刑期を済ませたら仮出所できる権利を失う。希望者には労働の機会が与えられ、一時間当り75セントの賃金が支払われる。服役者はこれを貯めてテレビの賃貸料を払ったり、刑務所の売店で買物したり出来る。
    最近、刑務所に入れられる前、養老年金(AOW)で生活していた者が、受刑期間中も年金を継続して受け取っていたことが判明し、世間の批判を買った。受刑中のコストは全て国が税金で払っているのに、服役期間中社会保障がそのまま支払われるというのは、国が犯罪者の為に税金を使って貯金してやっているようなものだという理屈である。現法務大臣はこの批判を受け、養老年金(AOW)の支払を差し止めることは現行のシステムでは不可能なので、65才を過ぎたものが受刑する場合には、その者に刑務所でかかる費用を自弁させることを、議会で約束した。
    ともあれ、東南アジアや北、南米の刑務所の事情と比べると、オランダの刑務所は正にパラダイスで、刑務所入りの常習犯は「明日から一寸ホテルに泊まりに行ってくる」と嬉々として出かけるそうな。

最後に今回のテーマにも関連する数字を幾つかあげて本稿を結ぶこととしたい。
オランダで捕まり、この国の刑務所で服役している他EU国籍の犯罪者の数は約300名。それに対し他のEU諸国で捕まって服役しているオランダ人犯罪者の数は約1,500人もいるそうである。EU間の取り決めで、2010年以降は外国で捕まり判決を受けた者は全員自国に戻され、自国で服役することになる由である。
2月6日の新聞報道は、EU全体で見れば暴力犯罪は減少しているが、例外はオランダで、件数がふえ、EU諸国の中では、英国、アイルランドに次いで三番目に暴力犯罪の多い国になった、と報道している。暴力犯罪の多い都市としてはロンドンに次いでアムステルダムが二番目となり、ニューヨークを追い越したそうである。



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