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オランダよ何処へ?

【第1回】 揺れ動くオランダ

はじめに・・・

国の大掛かりな整備の代表の一つは1932年に完成した「締切大堤防」。
春うららかに花の咲いた情景。但し今年は今になっても冷春で、まだ咲きそろわず。
3月半ばの地方自治体選挙に関連し、我々が住んでいる町の市役所。
地方選挙の結果が中央政府に微妙な影響を及ぼした。ハーグにある議会の建物の内、毎年9月に議会が開会される「騎士の間」。

一度でもオランダを訪れたことのある人なら実感されたことであろうが、オランダは国中どこもきちんと整備されていて、とりわけ春の花がうららかに咲き乱れる時などは全てがとても美しく、まさにこの世の楽園とも思えるくらいである。

人口僅か1600万人、面積は3万5千平方キロメートルで、九州よりも小さい「小国」オランダ。その住人たちは、ごく普通の人達でも英語やドイツ語を良く話し、オープンで偏見が無く、親切である。オランダ人の考え方はとてもリベラルで寛容であり、他の国でまだ見られるような宗教的規律や社会因習的道徳観に縛られることも、今ではほとんど無い。

1960年代後半にポルノや売春が公認され、ほぼ同じ時期にホモも公認された後、大麻類(マリファナやハシシなど)のソフト・ドラッグも容認された。それらの合法的な販売拠点としての「コーヒー・ショップ」が全国で700~800軒、100以上の都市や町で認可されており、未成年者を除き、誰でも規定量内であれば自由に入手できる。

他の制度面でも

などを国民の福祉という観点より、積極的に導入して改善し、オランダは第二次大戦後の55年間で、多くの人々にとってこの世のパラダイスと言えるかもしれない国に成長した。唯一税金の高いことが非パラダイス的とも言えるが・・・。

しかしこの地上の天国オランダに、ここ数年来、大きな変化が訪れ、国全体が激動の時期に突入したかのごとき印象を受ける。この天国に住むオランダ人達が楽園を追われ、厳しい現実に追い戻されつつあるとでも言えるであろうか。

さて話は少し古くなるが、今から四年前の2002年、そしてそれに続く2003年は、オランダにとって政治的、経済的、従って社会的にも大変騒然且つ混沌たる時期であった。当時起こった主な出来事をトピック的に羅列してみよう。

2002年 1月1日 旧貨ギルダーからEU12カ国(当時)の共通通貨「ユーロ」への貨幣切り替え。
3月6日 地方自治体選挙
それまで約8年間政権の座についていた「労働党」の支配が崩れ、野党の「キリスト教徒民主アピール」と、新たに登場した「フォルタイン党」が圧勝。
4月16日 第二次コック内閣総辞職
1995年バルカン半島のボスニアにオランダ陸軍の大隊が国連軍として派遣された折、駐屯したスレブレニツァでイスラム系男性住民約7000人が虐殺されたが、7年経過した後にその政治責任を取らされたもの。
5月6日 労働党政権を批判して改革を叫び、人気が急上昇中であった新党「フォルタイン党」の党首、フォルタイン氏の暗殺。
5月15日 第二院(日本の衆議院に相当)の総選挙
それまでの与党である「労働党」、「自由民主党」、「D66党」の三党が何れも大敗。8年間、野にあった「キリスト教徒民主アピール」が圧勝し、それに加えて新党「フォルタイン党」が一挙に第二党として躍り出るという、オランダの歴史では未曾有の出来事が起こった。
7月22日 新しい中道右派連立内閣が発足
「キリスト教徒民主アピール」、「フォルタイン党」、「自由民主党」の三党を与党とする「バルケネンデ連立内閣」が22日にスタート。
10月16日 バルケネンデ内閣総辞職
素人集団であった新党「フォルタイン党」の選出大臣、議員並びに党本部役員の足並が全く揃わず、内ゲバや足の引っ張り合いの結果、互いにいがみ合う同党出身の大臣二名が辞職に追い込まれ、収拾のつかなくなったバルケネンデ内閣はそのスタートから僅か86日で総辞職。
2003年 1月22日 再度総選挙施行
この第二院選挙により「フォルタイン党」は支持層の信頼を失い、その議席数が激減。逆に前回この新党に票を奪われた「労働党」が挽回し、「キリスト教徒民主アピール」と肩を並べたので、まずトップ二党の連立が模索されたが、国家支出削減にかかわる方法論で折合いつかず。次いで「キリスト教徒民主アピール」、「自由民主党」、そして「フォルタイン党」に代わり「D66党」の三党による組閣が試みられ、選挙から4カ月後の5月末、ようやく「第二次バルケネンデ連立内閣」が発足。

このように、政治的に混沌とした状態の続いた2年間に、経済面でも問題が続出しはじめていた。企業の売上と収益力が落ち、失業者数が上昇し始め、国内消費のみならず輸出も低下し、その結果、税収が減るという下降スパイラル現象が表れてきた。財政赤字もEU基準である3%をかなり上回るという事実に直面した新内閣は、緊急に対処する必要性に迫られた。
2003年5月、「キリスト教徒民主アピール」を中心とした第二次バルケネンデ内閣がようやく再出発。“大改革実践内閣”としての期待を一身に集めてスタートを切った。緊急の課題は、それまで約8年間続いた「労働党」主導の前内閣が残していったさまざまな問題点、例えば、不均衡な国家財政、非効率的で硬直した官僚組織と行政システム、犯罪の激増、難民の大流入、などを急いで改善することであった。
しかしそれから一年が過ぎ、さらに二年が経った時点で、この内閣への国民の評価は史上最低の内閣支持率という形で表れた。そして年が変わり、2006年3月16日に行われた地方自治体選挙では、与党三党は何れも敗れ、もしこれが中央選挙であったなら、与党三党の総議席数が完全に過半数を割り込んだであろうような結果に終わった。
前内閣への国民の不満に応え、大改革を押し進める内閣としてスタートしたのに、何故このようなことになったのか、発足から今日に至るまでの間に何が起こったのかなど、オランダの実状について次号以下でさらに説明してみたい。


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