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NTTデータ ルウィーブ株式会社

オランダよ何処へ?

【第6回】 オランダの強み

オランダ人の限りなきベンチャー精神

  • (1)アムステルダムの船主「スプリートホフ(Spliethoff)社」のケース

グラスをあげるスプリートホフ社長と三保造船所社長
社旗のはためくスプリートホフ本社社屋。社旗は赤、白、青のオランダの国旗の色に、王室を象徴するオレンジ色を加えた四色よりなり、真ん中にスプリートホフの「S」を入れている。
  •  アムステルダムに「Spliethoff's Bevrachtingskantoor B.V.(スプリートホフ・チャーターリング有限株式会社)」という船舶会社がある。そのオーナー社長、ヘルマン・スプリートホフ(Herman Spliethoff)は1975年の初め、日本船舶輸出組合(輸組)宛に「日本での貨物船の建造を考えたいが、適切な造船所を知らないので紹介して欲しい」という手紙を書いた。当時は、特に輸出船商談の場合、商社が絡むことが常識視されていたので、輸組はこの手紙を、オランダにも拠点を持つ船舶事業にアクティブな商社として、三菱商事につないだ。
    「スプリートホフ社」は1921年に、ヘルマン・スプリートホフの父親が「チャーター・ブローカー」として始めた会社で、1975年当時、払込資本金が有限会社ミニマムの4万ギルダー(当時の為替で換算して約600万円)、保有する船はかなり船齢のいった沿岸航海用の小型船が4~5隻、従業員数は陸上が50人足らず、乗組員を含めても100人そこそこの小粒船主であった。遠い日本の未知の造船所、そして巨大だがこれまた未知の三菱商事を相手に巨額の投資をしても安心で、ペイする、との確信を最終的に得たスプリートホフ社長と彼の忠実な番頭達は、日本での建造を決意し、最初の6隻の契約が成立した。スプリートホフ社はこの1975年の最初の契約を皮切りにして、その後1~1.5年毎に、その都度4隻又は6隻の船の発注をロットで行ない、1987年までの12年間にわたって合計59隻の、5,000~8,000トン級の小型貨物船を日本に発注した。三保造船所が当時たまたま他の船主の為に建造していた船を、途中でスプリートホフ社が引き取った船も含めると60隻という数になり、単一の造船所が同じ船主の為に10数年余の期間で60隻もの船を建造した事例は世界の造船史上類を見ず、「ギネスブック物」とも言える極めてユニークな出来事であった。
    尚、この船主は三保造船所との関係が切れた1980年代後半以降も船を建造し続けたが、それまでのように闇雲に拡大路線を走るのではなく、手持の割合船齢の若い船を中古価値が高い内に手放して、その代替として、マーケットの要求する近未来ニーズを仕様に組み込んだハイテック船型を開発しては新造する方針をとっている。現在の保有隻数は55隻で、オランダ最大、欧州でも有数の中・小型船の船主である。スプリートホフ社長亡き後若返った同社経営陣の考え方は非常に合理的、科学分析的且つドライで、トン数が2万トン未満の中・小型の多目的船(バラ荷、コンテナー、重量物運搬兼用)を、世界中どこでも運賃レートの高いニッチ市場を見つけ出して投入する一方、船の新造に際しては、新しい技術やアイデアを積極的に取り入れながら、高品質の船を一番安い値段で建造できる造船所に発注することに徹している。
    同社の特記すべきもう一つの特徴は、少なくも同社にとっては大変効率的な、資金調達と投資リスクの分散を、オランダの会社関連法規定に則って実践したことである。払込資本金が高々600万円のスプリートホフ社が単独で、契約の都度6∼70億円またはそれ以上の建造資金を(特に銀行融資のみで)捻出し続けることは決して容易ではない。スプリートホフ社長とその番頭達は、かって同社の顧客であったオランダの材木輸出入業者に呼びかけ、新たに建造する船一隻毎に船価の全額又はその一部の出資を行わせるアイデアを出した。同時に上から下まで社員全員にも、分に応じて出資する機会を与えたのである。


ヘーレマ家長男のエドワードと話しをする筆者(1981年)
  • (2)海洋工事を牛耳るヘーレマ(Heerema)一族のケース
    1960~70年代はオフショア(海底)の油田やガス田開発が飛躍的な発展を遂げた時期である。海底の石油やガスを開発するには、北海であれば、水深数十メートルから100メートル程度の海底に鉄鋼や例外的にコンクリートの櫓(ジャケット、またはプラットフォーム)を固定して水面上までこの櫓を突き出させた後、その上に、総重量が数百トンから数千トン、最近は万の単位にも及ぶ石油やガスの生産設備(モジュール)、そして現場ワーカー用の居住設備を設置しなければならない。この海上での据付工事(海洋工事)を行うには高度の専門性と長年の経験、そして工事を安全に効率よく行う為の機材、特に何百トン、何千トンの重量物を吊りながら360度回転できるハイグレードのクレーン船、さらには有能な熟練技術者とワーカーを数多く必要とするので、誰にでも出来る業種ではなく、工事業者の数も限られている。かって1960∼70年代にかけて世界規模で活躍していた海洋工事の請負業者は、精々5~6社で、その中にオランダの『ヘーレマ(Heerema)』という会社が含まれていた。
    このヘーレマ社の創始者で社長のピーテル・スヘルテ・ヘーレマ(Pieter Schelte Heerema)はデルフト工科大学で土木工学を専攻したエンジニアであった。第二次大戦終了後オランダを離れ、南米ベネズエラのマラカイボに定住して建設会社を始めた。1956年に水面下でも使えるプレストレスト・コンクリート・パイル(PSC Pile)の開発を行い、自社開発の杭打ち技術を使いながら、マラカイボ湖に設置される数多くのドリリング・リグやプラットフォームの製造を、据付工事込みで請負った。ヘーレマ社長は1962年にオランダに戻り、60年代から活発化した北海海底油田やガス田用の設備を設置する仕事にタイミングよく入り込んだ。工事に無くてはならぬ大型クレーン船に多額の投資をして次々に工事を取り込み、会社の規模を拡大していった。
    1976~77年にかけて中東の小国カタールの沖合にガスの生産設備と居住設備を、3本の櫓(ジャケット)を建てて、その上に建設するターンキー商談が、ハーグのシェル本社経由出てきた。このプロジェクトには日本から三菱重工が参加し、最終的に受注した。三菱重工は、自分で出来ない海洋工事の部分を、大型クレーン船を直ぐに投入出来たヘーレマ社にプロジェクトのパートナーとして任せ、この巨大なプロジェクトを恙(つつが)無くやり遂げることが出来た。
    このプロジェクトを通し、当時のヘーレマ社と付き合って感じたことは、上の(1)のケースで述べたスプリートホフ社長と同じ様に、ヘーレマ社長も非常にベンチャー精神に富んだ、理論と数値を信じる実業家であるということであった。タイミングの良さ(即ち運の良さ)という要因は大きくあるにしても、リスクをものともせず、と言うよりリスクを直視してそのリスクに対する計数に基づいた対応策を徹底的に考え出しながら前進するタイプのオランダ人とも言えるであろう。また市場を客の立場に立って分析しながら将来需要を見極め、それに機敏にフォローして競争相手より一歩先んじようとする先見を重視し、経営体制をそれにチューンアップしていた。海洋工事に無くてはならぬクレーン船の世界最大の吊り能力は、1970年代当時は2,000トンで、これがクレーンメーカーが保証出来る最大能力でもあった。ヘーレマ社は独自の計算と判断で自社のクレーン船のクレーンをオランダの造船所で改造し、3,000トンの吊り能力にグレードアップして、他社に水をあけた。次いで、水深が深い海底油田、ガス田の掘削や開発に使われる『セミサブ(半潜水)型プラットフォーム(Semi-submersible type platform)』にアイデアを得て、約120×80メートルのプラットフォーム型船体に、3,000トン能力のクレーンと2,000トン能力のクレーンを搭載し、共吊りで5,000トンの超重量物を吊り上げられる、世界最初で最大のクレーン船の設計を自社で行った。1978年にはワーヘニンゲンにある世界でも有数の『実験水槽研究所』や干拓地都市レリースタットにある『風洞テスト研究所』でモデル・テストを繰り返し行った。そして技術的確信を得た78年の終りに二隻の建造を決意して、セミサブ型プラットフォーム建造の実績を持つ、世界でも限られた数の造船所に引合を出した。最終的に、ヘーレマ社の要求する厳しい価格と、受注後12カ月という当時の造船業界では信じられないような超短納期をコミットした日本の三井造船が受注して、世界で初めてのセミサブ型クレーン船二隻を同社の為に建造した。両船は完工後直ちに北海とメキシコ湾での大掛かりなオフショア据付工事に投入され、目論見通りの効果を発揮して、顧客である石油会社の高い評価を受けた。これによりヘーレマ社の技術信頼性は業界で益々高くなり、世界のトレンドセッターとしての地位も、米系業者を押しのけて獲得するに至った。
    しかし1981年にヘーレマ社長は突如病を得、短期間で逝去してしまった。同社長には息子が三人いて、長男のエドワードはデルフト工科大学卒業後父親の会社でリサーチを担当していた。次男のピーテルはスイスで学んだ後、父親のスイスの持株会社で財務を担当していた。三男のヒューゴは学校を出たばかりで、見習い的に父親の会社でセールスを担当していた。父親亡き後、長男のエドワードがスイスの持株会社の社長に一旦就任したものの、兄弟間で不和が生じ、一時期はこの会社の存続が危ぶまれるほどであった。最終的に父親の遺産を夫々に受け継いだ兄弟は、別々に「我が道を行く」こととなった。長男のエドワード・ヘーレマは父親の築いた会社を飛び出し、1985年デルフトに自分の会社「Allseas」(オイルやガスの海底パイプライン敷設工事を請負う会社)を設立して、一からスタートした。今では世界最大級のパイプライン敷設船を数隻と、それをサポートする特殊作業船数隻を所有して、業界での地位を確固ならしめている。彼はついこの間の4月28日に、長さが360メートル、船幅117メートルという超大型特殊作業船『ピーテル・スヘルテ号』の建造計画を発表した。世界最高の海底パイプライン敷設能力(水深が3,500メートルの深海海底に一日7キロメートルという超スピードでパイプラインを敷設する)のみならず、独自に開発した船上の特殊昇降装置を使って、重量が48,000トンまでのオイルやガスの生産プラットフォームの上部構造物を、そのままの状態で取り外し船上に置くと同時に、その下にある櫓を170メートルの高さ(長さ)を限度として海底からすっぽり引き抜き、船上に取り込んで、一度に目的地まで運搬することを目的とした船である。1960年代に世界のあちこちで海底油田やガス田を開発してオイルやガスを生産する設備が設置されたが、40年が過ぎた今、その油田やガス田が枯渇し、廃坑となるケースが出始めている。設備をそのまま海中に放置しておくとそれが海水の汚染源になるので、最近は大きな環境問題として取上げられ、石油会社も対応に頭を悩ませている。この様な初期の問題にも素早く、大掛かりで巨額の投資を伴う技術解決策を提示しながら、未解決の環境問題をメシの種にしようとする長男の先取の気性には脱帽の他は無い。
    父親が生存中に築いた会社およびその持株会社は、次男のピーテルが引継いだ。テクノクラートの父親や兄と異なり財務畑の彼の経営方針のせいか最初停滞気味であった業績も、最大の競争相手であるアメリカの『マクダーモット』とのジョイントベンチャー提携を1989年に行った後、企業買収手段で業務範囲とスケールの拡大を図り、同時に『大型モジュールやプラットフォームの設計と製作→工事現場への運搬→据付工事』という一連連続した仕事のターンキー対応が可能な体制に提携会社を変身させて以来、確実に伸び始めた。自信をつけたピーテル・ヘーレマは1997年にマクダーモットとの提携を解消し、全てのオペレーションを自分のコントロール下に納め、現在に至っている。 三男のヒューゴ・ヘーレマは同じオフショアの業界ではあるが、兄二人とは別の分野を選んだ。埋蔵規模の小さい所謂マージナルな海底の油田、ガス田では、産出する油やガスをタンカーがやってきて、積みとっては陸上ターミナルに運搬している。タンカーが積み取った後は、油田は一時停められる。しかしここ10数年来、『FPSO(Floating Production Storage & Offloading)システム』という、船形の『一時貯蔵、積み出し設備』を生産プラットフォームのすぐ側に常時係留して、オイルやガスの生産を継続し、タンカーが往復する間一時停止させないやり方を取る油田やガス田が増えている。ヒューゴ・ヘーレマは独立後この分野に目をつけ、タンカーの洋上係留装置等を造っていた『Blue Water』という会社を買収し、先ず大型の洋上係留装置の新規開発を行って拡販した。海底油田、ガス田の海域水深がその間どんどん深くなっていった為、これは時流に合った動きとなった。次いでマージナル油田、ガス田の開発も活発化した為、1995年以来FPSOのリースにも本腰を入れ、現在7隻の自社保有のFPSOを北海の油田を中心にして石油会社にリースしている。ヘーレマ兄弟三人はかくて、一般の人には余り知られていない海洋工事の非常に専門化した分野で、夫々が一流の成果を上げてはいるが、若しこの兄弟が喧嘩別れせず、同じ一つの会社でお互いに有機的に協力しあっていたとしたら、文字通り世界最大の巨大マリーン・コントラクターが出現していた筈である。 例として述べた上の二つのケースに止まらず、オランダには他にも高度に専門化した分野でグローバルな活動を行っている企業が、国の人口規模の割には数多く存在する。その企業活動の基盤には『リスクをものともしないで、世界を股にかけるベンチャー精神』と、それに矛盾するようだが『内向的な科学理論・計数分析力』、そして『計数に基づく合理主義の信奉』という資質が、経営陣やそれをサポートする中堅スタッフに強く存在している。このオランダ人の資質は歴史的にもVOCの昔からずっと発揮され続けているのだが、それがどこに起因するのかは分からない。先天的な遺伝子や血液型のせいなのか、それとも後天的な家庭での養育や学校教育、そして習慣の故なのか、或いは宗教(カルビン派新教)の影響なのか。またはエゴイズム(利己主義)に徹した拝金、拝物主義の産物なのであろうか。恐らくこの全てが少しずつ加わってオランダ人の『プラスの資質』が構成されているのであろうし、それに加え、長年来、政府や関係機関が業界と一緒になってこの資質を助長させるべく、R&D、イノヴェーション、独立起業化、等の面での支援を制度化していることも、多分その一助になっているのであろう。

社会の歪み

しかしながら、上に述べた『プラスの資質』の裏側には、既に過去4回の原稿で描いたようなネガティブな現象が、近年来著しく現れ、オランダの社会に影響を強く及ぼしている。一見、全てがうまく整備され、良識人の集まりと思われるオランダの社会で、何故このような『マイナスの資質』が出てくるのであろうか?この疑問に入っていくには、次の現象を考慮に入れる必要があろう。今、欧州の先進国ではどこでもそうだが、オランダの社会も、外国からの『移入民グループ』(オランダ語で『Allochtonen』と総称される)と、オランダに元々住んでいる『原住民グループ』(移入民グループの総称に対比させて『Autochtonen』という表現が使われる)より構成され、この両グループ共、実は色々な問題を抱えている。
『移入民グループ』の内、国籍で言うと、モロッコ、トルコ、シュリナム、蘭領アンティル諸島出身の者たちの、犯罪率、低学歴、失業率の高さ、やる気の無さ、貧困等が、現在大きな問題として浮き彫りになっている。シュリナムやアンティル諸島は元々オランダの属領であった為、オランダへの出入りには制限がなかった。しかしオランダに移住して来た者の中には、自国で職が無くあぶれた者達がオランダ本国に移住した後、オランダでも職が得られず、社会保障制度に頼りながら住み続けている者が相当数を占めている。
一方オランダに住むモロッコ人やトルコ人は、オランダが高度成長期に入った1960∼70年代に、オランダ人が汚い仕事、肉体的に厳しい仕事、又は単純すぎる仕事などに就くのを嫌がり始めた時、企業が必要とする労働力の補充のために移住が許された外国人である。当然彼等の教育や知識のレベルは、同国人の中でも概して低い方で、学校教育どころか、読み書きにも問題のある者が結構いたようである。それに加え、イスラムの教義を、自国の家庭でかって父親が言った通りに、或いは自国の回教寺院で聞いた説教師の話そのままに信じている者が極めて多い。そういう人達は、オランダ語の読み書きがほとんど出来ないだけでなく、オランダ人と交わることもせず、同国人だけで租界を作ってオランダの社会に同化する努力はほとんどしなかった。オランダの行政も同化を重要視せず、その状態を容認していた。それでも彼等が職に就いている間は良かったが、時代と共に、彼等が勤めていたオランダの企業が、その現場部門を低賃金国へスピンオフさせたり、リストラしたり、倒産したり、競争に打勝てず店じまいするような事態になると、先ずこのグループが解雇の対象になった。そして彼等の言葉とか、学歴面でのハンディの故に再就職もままならず、失業保険や生活扶助を受けながらミニマムの生活を強いられることになった。自国に戻ることは、ほとんどの場合生活レベルがさらに落ちることを意味するので、目は本国に向いていても帰国はせず、二重国籍者としてオランダの社会保障に頼りながら、住み続けている。
彼等には子供が多く(『原住民』のオランダ人に比べ出生率は明らかに高い)、しかしその子供達の家庭における養育は、ほとんど無いに等しい。精々古いイスラムの教えに基づいたものの見方を植えつけるか、多くの場合は完全な放任で、義務教育を受けに入学する移入民の子供達が、学校での授業に満足についていけない事態が続出している。子供達が段々育っていくと、レベルが低いとは言ってもオランダの言葉と知識をある程度は吸収するので、今度は家庭内でその子供達と両親の間に、意見の食い違いや断絶が頻繁に生じる。子供達は家庭に居場所が無くなり、と言って学校で教わることにも興味が無いので登校もせず、町のショッピング・センターや大通りで、ぶらぶら同じ人種の仲間と徒党を組んで無為に時間をつぶす。それだけならいざ知らず、通行人に嫌がらせや脅しをかけ、公共物や車を無差別に破壊し、盗み、暴行を働いて社会に大きな迷惑をかけると同時に、自分自身は犯罪者の道を進み始める。そういう極端な方向に走るグループには加担せず、学校に行き続けている多くの子供達には、例外を除き、中途で挫折したり、仮に卒業できてもレベルが低かったりの問題が付きまとう。この子供達のものの見方、考え方、そして行動形態が、一緒に教育を受けても、普通のオランダ人とは微妙に異なる為、そしてオランダ人の側にも偏見や差別が強く存在するので、就職もままならず、社会保障に頼って生活する、といったケースが増えていく。
反面こういった多数の傾向とは別に、教条的イスラム教の狂信者になって、西洋の社会およびそこに住む「アラーを信じず冒涜する者」への憎しみを募らせ、不信心者の殲滅を目的としたテロ行為を賛美する青少年グループが、絶対数は少ないが各地に存在し、その影響力を、物事の判断が十分につかない青少年の間に浸透させつつある。あるいは、最初はオランダ人の子供達に混じってきちんと教育を受けていた子供達が、片や両親の「イスラム重視、オランダ排斥」の言動の影響を思春期に入って受け始め、片やオランダの政治家やメディアの出す、右寄りでイスラムに批判的な意見に反抗して、故意に頭巾やイスラム衣装を着用してオランダ社会との対立を求める傾向が、中等教育やそれ以上の教育を受けている十代から二十代の若者男女の間に増えつつある。
社会システムや文化の異なる他国人種をホスト国の社会に統合させるには、先ず言葉を覚えさせ、ホスト国の価値観や基本的なルールを言葉で理解させるだけではなく、身をもって実施させ、違反があった場合には容赦なく罰則を適用することが必要な筈である。しかし『身をもって実施させる部分』で、2002年に至るまではオランダの行政はほとんど機能せず(自治体行政に携わる左派系政党の行過ぎた人道博愛主義と性善説に基づく相手への過剰信頼、そして放任主義がその主因であった)、問題が大きくなってどうしようもなくなった過去5年以来、ようやく『統合化(Integratie)』の必要性を誰もが叫び始めた。しかしその方法論を巡って社会の諸グループが今もって対立しあっている。
ところで『原住民』である大多数のオランダ人に関してはどうであろう。戦後60年の間に価値観が変わり、今では金銭や物質、そして『人生を楽しむこと』が、オランダ人の最大の『生きる目的』になってしまった。かっては『家庭は社会の基石』とされ、家庭内での子供の養育は最も大事な両親の責任で、その目的は、子供達を共同体意識の強い『良い市民(Brave burger)』に育て上げることにあった。しかし社会の価値観の変化、そして学校教育における人格形成の目的を『個人主義と自己主張の重視』に長年置いてきたことにより、子供たちの性格も当然のことながら変わってしまった。男女平等、男女均等雇用、女性の社会活動への積極的な参加といった原則が社会全体に浸透したことにより、今では「女性は家事と子育てに専念して家庭を守る」といった考えは一笑に付されてしまう。『ねばならない』共稼ぎだけではなく、物質的に他の人より高いライフ・スタンダードを維持する目的の共稼ぎが増え、家庭の団欒と会話が消え(仕事で疲れすぎた両親とテレビの家庭内への侵入)、離婚が増え、未婚の母親が増え、と同時に出生率が減り、という現象に比例して、反抗的で人の意見を受け入れず、自己主張のみの、しかし善悪の判断が知識の欠如と経験の未熟さの故に出来ない子供達が、どんどん増えていく。その子供達は、片や犯罪に走り、或いは良い方向に進む子供達も、成人して職につく頃になると、自己中心的な意見と言い訳に終始し、自分の得になることしか考えない。職場の利害は二の次で、しかし昇進、昇給など自分の利益につながる可能性が提示されると人並み以上に頑張り上司に隷従する。逆にその可能性が無いと分ると、直ちに仕事はそこそこ、しばしば『病欠』して、自分の被雇用者として持つ労働契約上の権利のみを最大限に利用するか、或いはどんどん転職して待遇が僅かでも良い職場を飽くことなく捜し求める。「辛抱しながら頑張って自分の実力を認めさせる」という発想は全く出てこない。そして彼等は一様に弁と理屈がこの上なくたつ。勿論若い、新しい世代のオランダ人、そして移入民の子孫達が全員そうである訳ではなく、健全な常識と責任感、モラル感、謙譲さをわきまえながら人生の道を歩んでいる者も沢山いる。でも上に要約したような現象が夫々のグループに強く存在していることも事実で、オランダの将来を危ぶむ声が頻繁に社会のあちこちから聞こえてくる。

オランダよ何処へ

本稿の最初の部分で述べたように、オランダ人に素晴しい資質が存在することは否めない事実である。しかし同時に、マイナスの資質も存在して、その結果オランダの社会に『歪み』が生じていることも事実である。政府を中心としてオランダの行政機関は何れも、この歪みを是正しようと躍起になっている。が、この歪みが指摘され始めて以来、既に長い時間が過ぎているのに、未だに解決の見通しすらたっていない。
このような状況のオランダの社会で長期的に必要とされることは、小さな子供の時からの家庭養育と学校教育を通しての人格形成という基本に再度戻ることではないだろうか。強制の無い個人の自由や、自分の意見をはっきり述べる自由を、家庭でも学校でも今まで通り教えると同時に、自由には必ず制限と責任が付き物であるという事実、相手の意見に耳を貸して、よい面は吸収する柔軟さと謙譲さ、悪いまたは弱いと思われる面を是正してやる親切さ、会話を通してコンセンサスに到達する必要性、人間や動物の命を奪ったり、自分より弱いものをいじめることはどんな事情であれ悪いという基本認識も含めた善悪のけじめ等、社会で共同生活を行う上での基本ルールを、子供達に徹底的に教え込むことが、元来重視されている『知識の伝達』と同様に重要で、社会を良い方向に変革するには、この基本に戻るしか無いと私は判断している。
既に成人して自分の意見や考えを形成してしまった人の意見を変えることほど難しいことはない。だからと言って上に述べた両グループの大人達を対象にした変革の努力を、辞める訳にはいかないが、法規定や制度を「綻びを繕う」的に変更して、それを一方的に押し付けるやり方では不十分である。出来る限り大多数の人に受け入れられるロジックを提示し、違反した場合には温情(あまやかし)無しの罰則が適用されることも明確にして、各人が例え嫌々でも納得して自発的に変えるような方向に、行政的にもっていくしかないであろう。 人口が僅か1,600万人余の小国であるにも拘らず、オランダは世界の歴史の中で大国に負けぬほど、或いは大国を凌いで、その存在を顕わにしてきた。これからも過去に培った良識と叡智を発揮しながら、より良い方向に向かうであろうことを期待しつつ、このシリーズを結ぶこととしたい。



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