ルネ・ド・シャロンの心臓墓碑
ネーデルラントの名家フレデリック3世ナッサウ=ブレダとオランニェ(オランジュ)公領を継ぐクローディア・ド・シャロンの息子ルネ・ド・シャロンは、神聖ローマ帝国皇帝にしてブルゴーニュ公でもあるカール5世に仕えていた。1544年7月15日、このルネ・ド・シャロンは、フランス北部ピカルディー地方のサン=ディディエの攻略戦を目前に控えて受けた傷がもとで、25歳の若さで亡くなった。彼の遺体からは、当時はやりの方法によって内臓と心臓が摘出された。残った遺骸を含めて遺体は三分割され、心臓と内臓は、ルネの若き細君の郷里であるロレーヌ地方バル=ル=デュクに運ばれて、同地の現サン=テティエンヌ聖堂に埋葬された。その墓所の上には、ルネの死後の姿を刻んだ死骸像が墓碑として立ち、高々と掲げられた左手にはまさしく心臓が握られている(図1)。
筋張った脚足と手、腕、首。骨格を覆いつつあらわにし、胸骨の張りにもろくも破れて、肉体の空洞を垣間見せる皮膚。しかしその無残な身体を超越する意志力は、いたるところ張り詰めた筋肉にあらわれ、決然と見上げるその頭部には、いまだ溌剌とした生命が宿る。見事な肢体というべきか、見事な死体というべきか。彫刻家リジェ・リシエ(1500頃―1567年)は、フランスの16世紀において、ムーズ県サン=ミエルという村で恐るべき肉体のリアリズムを追及した男である。
かつてシュルレアリスムの詩人ルイ・アラゴンは「くろす・わーどの時」(『断腸詩集(Crève-coeur)』1941年より)という詩で語る。なお、Crève-coeurのcrèveは重病、coeurは心の意、しかもCrève-coeurは、ブルゴーニュを大国に導いた豪勇公の側近の名前である。
お聞き よる 僕の血は高鳴り君を呼ぶ 臥床の中で
君の体の重み 君の肌えの色を 僕は求める
何もかも僕の手を逃れねばならぬのか もしあの人でないならば
こんなことはみな何になろう 僕はやつらの者ではない
僕はやつらの者ではない やつらの仲間であるためには
彼女の生きた肌えから身を離さねばならぬゆえ
リジエの男がバールから離れるように 野蕃な貧しい心を
骨組みだけの窓に向って高みからさし出すリジエの
僕はやつらの者ではない なぜなら人間の肉は
鉄の道具で断ち切れるお菓子のようなものではないから
そして同じ血につながる熱が僕の命にはいるからだ
河を海からそらしはできぬ
…橋本一明訳(註1)
ジザンとトランシ
文学者や芸術家の心をとらえてやまないルネ・ド・シャロンの立像墓碑は、トランシという墓碑の部類に属する。14世紀後半から16世紀にかけて、西ヨーロッパではトランシ(Transi)と呼ばれる死骸像が流布したのだが、主に墓碑として発注され、死後の肉体の変化を絶妙に彫刻した墓像である。Transiはtransire(trans越えて とire行く)というラテン語から派生し、フランス語transirは12世紀から16世紀を通じて「死にゆく」「通り過ぎる」の意味で用いられているが、少なくとも14世紀の遺書には、transi、transiz という名詞としてあらわれる。遺書をしたためるときに「死後、OO日くらい経過した(移ろった)姿で刻んでほしい」と願いを残したのであった。
蛆虫を這わせ、蛇や蛙などを遺骸像のそこここに配置して腐敗している状態をあらわしたり、皮膚がすっかり干からびて、骨にぴたりと張りついていたり、腹腔に内臓をあらわに刻んだりする像が、このトランシの主な表現形態であるが、墓碑から離れて、写本や絵画に描かれた死後の肉体の経過をあらわす遺骸像も、同じく、トランシと呼ばれている。
生の移ろいゆくさまを、季節の移ろいにたとえて表現する日本の美的感覚とはほど遠い身体感覚がそこにある。「移ろい」というと、境のない二つの異界をするりと移行するようだけれども、「越えて」「行く」となると、生死の境界が意識されているようで、東西の死後世界観に横たわる溝を感じざるを得ない。英語ではgo away と訳される場合もあり、こちらはこちらで、異次元へ、異社会へ、という疎外感がよぎる。
キリスト教ヨーロッパでは、古代末期の石棺の伝統が7、8世紀で一時途絶えたのち、紀元千年を過ぎた頃から墓碑を刻む慣習がよみがえり、今日では12世紀からの墓碑が残る。先のtransirという用語もこの頃からの文書に見られるということは、死後世界への意識が人々の脳裏に刻まれ始めたからであろう。天国と地獄の中間地帯である煉獄(purgatorium浄罪界)という用語が、文字としては12世紀にあらわれたのも、こうした死後世界の認識と関わっているに違いない(註2)。
このような経過で中世に造られた墓碑は、石版や真鍮板に人の生前の姿を線刻したタイプや、祈祷書を読むなどの姿勢で祈りのポーズをとる横臥像、すなわちジザンであった。ジザン(gisant)はその名のとおり、gesir(横たわる)から派生し、トランシと違って、生前の職位や身分をあらわす衣服を身にまとった像で刻まれ、トランシが流行してなお、イタリアや一部の地域では隆盛をみた。15世紀のイギリスでは、上段がジザン、下段がトランシの故人像を置いた寝台列車のような二層式の墓碑が流行し、かたやジザンもトランシも、飴玉を包むように、遺骸を包む屍衣の上下をくるくるとひねったものが主流で(図2)、国によって屍の包み方にこだわりがあったことが見えてくる。
さてトランシは、ほとんどが身体を横たえた状態を想定して刻まれた線刻や浅浮き彫りである。私がこれまでも随所で取り上げてきた「ラグランジュ枢機卿の墓碑」のように、遺言に指定されたアヴィニョン、サン・マルシャル聖堂内部の礼拝堂の壁面に十数段に積み重ねる形式の壮大な構想のものもあるが(図3)、シュトラウビング市長ヨハネス・ゲマイナーの墓碑のように、壁面にはめ込む形式の墓石板のものもある(図4)。しかし何といっても、蛆虫や爬虫類をまとわせ、あるいは、干からびたこれらのトランシ墓碑のなかでも大いに気になるのが、(図1参照)のこのルネ・ド・シャロンの立像形式の墓碑である。
立像トランシ
ルネ・ド・シャロン以前にも、死にながら立つ墓像をもつ人物もいた。横臥像が基本であるトランシの中で、現存する限り最も古い立像は、現在ルーヴル美術館に所蔵されているジャンヌ・ド・ブルボンの墓像である(図5)。
フランス中部オーヴェルニュ地方の伯爵夫人であった彼女は、控えめな身振りで、屍衣を頭からかぶり、右手を下腹部に当て、やや顔を傾げて下方を見やっている。頭巾からはみ出た長い髪は、右胸を隠しながら、爬虫類のへばりつく腹部へと流れ落ち、左胸は皮膚が痛んで、やや削がれたようにも見受けられる。ほぼ等身大の高さの身体を台座に載せているため、角度を変えて見ると、その相貌は通りすがりの者を恨めしそうに眺めているようにも見える。やせ衰えた腹腔には、肌を透かして、とぐろを巻くような大腸が浮かび上がり、それが死んだ体であることを明かしている。
オーヴェルニュ地方にあって教皇も出した名門のべネディクト会修道院ラ・シェーズ・デュ(神の座)には、15世紀後期に「死の舞踏」が描かれ、そこには、フランスの「死の舞踏」絵図ではもっとも早い女性像が登場するし、さらに南に下ってアヴィニョンのセレスタン修道院には、フランス革命前まで、蛆虫に食い荒らされた死せる女性が墓地に立つ絵図があったというから、ジャンヌの立像トランシに至る腐敗立像の系譜を辿ることができる。その失われた壁画については、それを見たスペイン人画家フランシスコ・デ・ホランダが、1538年につぎのように書き残している。
『愛に囚われし心の書』の作家として知られ、絵心もあるというアンジュー公ルネが、同地に類稀な美しさをもつ麗しのアンヌと呼ばれた女性がいると聞いて、ひと目みたいと訪れたところ、もはやその婦人は死して墓場に入っていた。ルネ王は、アンヌの美しさがいまだ見られはしまいかとその墓をあけたところ、生前の衣を纏い、金髪もいまだ頭を飾っていたものの、その顔はもはや皮膚を失い、死人の頭蓋となり果てていたが、ルネ王はいたく感銘して、その姿を描いたという(註3)。
幸いなことに、その女性の屍絵を伝えるとされる写本挿絵が残っており、そこには屍絵に書き添えられていたといういとも切ない詩文も読むことが出来る(図6)。
かつてすべての女性に優りて美しかりき妾(わらわ)も
死にはてて、かかる姿とはなりぬ。
妾のいとつややかに瑞瑞しくふくよかなりし肉も
今はかくのごとく灰と化したり。
妾の四肢はまこと魅力ありて、小粋なりせば、
妾はそれをつねに絹の衣に包みしも、
今はさだめのごとく裸とはなりぬ。
妾は昔、リスの毛皮、えもいえずあでやかなる毛皮に身を飾り
壮大な宮いに享楽の時を楽しみたりしが
今は小さな棺を我が棲家とはなしぬ。
妾の部屋は麗しき壁掛に映えしが
今、妾の墓に張りめぐらされしは蜘蛛の糸のみ。(註4)
こうしてジャンヌ・ド・ブルボンのトランシ立像が生まれる背景には、「死の舞踏」絵図など死の造形表現の伝統や、常ならぬ世を嘆き詠じるラテン文学の伝統的表現「いまいずこ(Ubi sunt)」が脈々と流れていたのである。そしてルネ王の美女への愛惜に見るように、この「死のトポス」には一方で、生と現世への並々ならない愛が注ぎ込まれ渦巻いている。
さて、愛の形象について想いをめぐらせる前に、中世後期のトランシに注ぎ込む、もうひとつの伝統を見ておかねばならない。死体の三分割埋葬と、それを促した医学である。
三分割埋葬のしるし
ルーヴル美術館のここジャンヌが立つ前後の部屋は、おしなべて墓碑が並んでおり、200年間ほどにわたる墓碑の変化を堪能することが出来る。さながらルーヴルの死者回廊を散策しているような気分になるのだが、ここにひとつ、三分割埋葬の次第が明らかになる墓がある。14世紀後半、イングランドとの百年戦争前半で混迷を続けていたフランスを導いた国王シャルル5世賢明王の内蔵用墓碑だ(図7)。
ジザン(横臥像)タイプのこの墓像は、腹部にまるで鏡餅のような内臓を大事に抱えていて、これがまさしく内臓を入れた墓であることがわかるようになっている。当初は御母君の遺体を安置したモビュイッソンに置かれていたこの内臓用墓碑は、フランス革命後、変遷したあげくルーヴルの展示物となったのだ。かたや遺骸を収めた墓は、パリ郊外の旧フランス王国廟堂サン・ドニ修道院聖堂に置かれており、同じタイプの墓像であるが何も備えておらず、ややくぼんだ腹部が、内臓を摘出したあとの遺骸であることを思わせる(図8)。そして心臓用墓碑は、イングランド戦での要衝であったルーアンに運ばれたが、今では彫刻師ジャン・ド・リエージュのデザインになる素描が残るのみである(図9)。
また同じくルーヴルの死者回廊には、三美徳(信仰・希望・慈愛)によって支えられたフランス国王アンリ2世の心臓用墓碑が、妻であったカトリーヌ・ド・メディシスのトランシに向かい合って展示されており(図10)、愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエとの熱烈な愛に生きたルネサンス君主アンリ2世への皮肉なオマージュとなっている。
ところで、遺体を心臓、内臓、遺骸にわけるこの三分割埋葬は、11世紀に神聖ローマ帝国で始まったとされる(註5)。戦争、遠征、そして十字軍など遠隔地で死を遂げることが多くなったこの時代以降、王侯貴族の遺体は、腐敗を避けるために死亡した土地で解剖に付された。心臓とその他の内臓を取り出し、残余の遺骸は大釜に油を入れて煮えたぎらせた中で煮込んで肉片を骨から剥したという。もっとも腐りやすい内臓は死亡したその土地へ、遺骸は縁のある土地へ、そして心臓は多くの場合、思い入れの強い土地か郷里へと運ばれたのである。教皇庁から幾度となく禁止令が出されたこの埋葬方法であるが、国家と土地をキリストの身体になぞらえる身体論からすれば、たとえばらばらに埋葬されようとも、キリストの身体によって結ばれているという信仰がそこにある。
防腐処理も行ったとされるが、ミルラ(没薬)など古代エジプトおよびギリシア・ローマ医学から継承した薬草や油脂、蜂蜜などを用いたのであろう。12世紀に南イタリアのサレルノにアラビア医学を継承した医学校が創設されて以降、ボローニャ大学、パリ大学など、先陣を切って医学部が出来た大学ではさらに研鑽が積まれ、一方で解剖学も発達したことを考慮すると、遺体の三分割の技術は歳月を追って向上していったに相違ない。たとえばフランス国王ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュの墓像には、はっきりと開腹した跡まで彫刻されている(図11)。しかしむろん医者がいる土地で亡くなるとは限らず、医学的知識を多少なりとも習得した修道士が執刀した場合も知られている。死体が不浄であるという認識と信仰は、必要性と知識欲によって超えられていったのだ。
さて、シャルル5世の三つの墓碑を見ると、心臓と内臓がそれを納めた墓碑であることを示す目印となっていることがわかる。ジャンヌのトランシ立像(図5参照)では左胸と大腸が刻印されているところを見ると、ルネ・ド・シャロンの場合と同じく、心臓と内臓用の墓碑である一方、頭上の天蓋は救済と再生をかたどる帆立貝をかたどっていることから、この墓像が単なる死の記憶でなく、復活を待望する記念碑でもあったと思われる。
墓碑研究の分野ではすでに、ゴシック末期の14世紀後半に出現したトランシは、遺言や墓碑銘文が残る場合はとくに明らかとなっているように、克明な肉体的死の表現の背後に強靭な復活願望が潜んでいると指摘されている。キリスト教では、肉体の死と精神の死を区別し、肉体の死は免れないものの、精神の死、すなわち信仰の心の死は、最後の審判に際して救いを得ることの出来ない決定的な死と捉えられていたのだ。古代ギリシア以来の心身二元論がそこにみられるとすると、極論するならば、肉体的に死んでも構わないとさえ受け取れる。身体を痛めつける苦行や死してのちの肉体を分割して埋葬するという発想も、こうして精神に優位性をおいているからなのであろう。
しかしながら、精神、ないしは霊・魂はいったい何処に宿るとされていたのだろうか。これまで何度か述べてきたように、12世紀以降、イベリア半島経由で西ヨーロッパに移入された古代ギリシア哲学自然学は、医学の発達に大いに寄与したのであったが、振り返ると霊・魂の宿る場についての議論は、おおよそ次のようであった。
プラトンによると霊魂は、頭部に宿って理性をつかさどる不死なる魂、心臓を有する胸部に宿って知性と情念をつかさどる死すべき魂、そして肝臓が機能する腹腔に宿って動物的本能をつかさどる魂に三分割されるが、アリストテレスは、霊魂は一箇所にただ一つしかないとする。それは、冷たくて生命を与えることができない脳にあるのではなく、内なる熱によって温められ、身体の真ん中にある心臓に座を占めるとされて、それを移入したキリスト教中世では、12世紀以降確立したキリストの心臓、すなわち聖心信仰とあいまって、心臓の絶対的優位が確立したとみられる。精神spirit、魂anima、生命精気pneuma の区別については、また改めて論じなければならない。
心臓のかたち
もう一度、シャルル5世の心臓用墓碑の素描を見てみよう(図9参照)。彼はローブを纏い、多くのジザンがそうするように両足を獅子の上に置き、左手で王笏を、右手の親指と人差し指で大切にハート型の心臓を支え持っている。1380年に王が亡くなっているので、その少し前に構想された心臓用墓碑のデザインということになる。14世紀後期にすでに心臓ははっきりとしたハート型で描かれていたのだ(註6)。シャルル5世亡き後、王位を継承したシャルル6世治下においては、いくつかのハート型の心臓が表現された作品が現存しており、そのひとつは、シャルル5世の場合と同じく、右手の親指と人差し指で大切に心臓をはさみ持つ男性が、愛しい人にそれを捧げる情景を描いたタピスリーである(図12)。
場面は新緑の頃であろうか、ウップランドという袖の長いローブを纏い、手袋をはめた左手に鷹を乗せて右手で犬をあやす貴婦人が座す緑の野辺に、真紅のマントをつけ、青い帽子を被った貴人が歩み寄る。彼は、二人のあいだを流れる小川をやすやすと越え、帽子と同じ青い目をまっすぐに貴婦人に向けて進み、手にはマントと同じ真紅のかわいらしいハート型の心臓を捧げもつ。多産のシンボルである兎が戯れる花咲く野は、この二人の愛の成就を物語っているようだ。
南仏のトルバドゥールたちが奏でたという宮廷愛の音色が聞こえてくるようなこのタピスリーは、ほか同様の愛の主題を絹と羊毛で織り込んだタピスリー5帳とともに、1400年から1410年頃、パリで制作されたとみられており、ならば、あのセレスタン修道院の屍絵の詩文が語るように、ヴァロワ家シャルル6世の周辺の貴族の邸宅の壁を飾っていたのであろう。ここに描かれた「心臓の贈呈」というテーマは、実にダンテにも影響を与えたという12世紀末の北フランスの詩人トルベール、ガス・ブリュレ(1160頃シャンパーニュ地方―1213以降)や、彼が翻案した南仏の詩人トルバドゥールらによって生み出されたテーマで、14世紀のパリでは、詩人ギョーム・ド・マショーや作家クリスティーヌ・ド・ピザンによって大いに展開していった(註7)。それは厳かで堅苦しい宗教画ではなく、室内空間を居心地のよい「魅惑の園locus amoenus」に演出するためのタピスリーや、室内を飾る、あるいは宝石を入れる象牙彫りの小箱などに好んで装飾されたのであった。
パリで宮廷生活を送りながらも、その父はピサ出身の錬金術師、つまり占星術や諸学問の知識を身につけた人物であったゆえにイタリアの文芸にも精通し、夫亡き後、女性でありながら初めて筆で生計を立てたとの誉れ高いクリスティーヌ・ド・ピサンも、息子オテアに宛てた『書簡』において、このハート型の心臓を描かせている。古代の神々や名だたる偉人を語るこの写本で、ウェヌスは胸の透けて見えるようなローブの裾を大きく広げ、愛の虜になった者たちのハート型の心臓を包み込んでいるのである(図13)。
愛の心臓と慈愛の心臓
宮廷愛やウェヌスがかき集める愛の心は、世俗の男女の肉体的な愛をかたどっている一方、神への愛に貫かれた聖なる世界を映したキリスト教美術において、心臓は慈愛(カリタス)の象徴としてすでに14世紀前半には形を残していた。トスカーナ地方のシエナで1348年に黒死病の死神の矢に倒れるまで、繊細にして優美な創意溢れる絵画を残したアンブロージョ・ロレンツェッティの作品《マイエスタ(天使と諸聖人らに囲まれた聖母子像)》では、聖母子の座る堂々たる台座の中央に、燃える心臓が描かれている(図14)。
詳しく見ると、白く塗られた下段には「信仰(Fides)」と記され、白い衣を着た「信仰」の擬人像が、神の三つのペルソナ(父なる神と子イエスはヤヌス神のように前後の顔によって表され、聖霊の鳩は消えかかっている)が映し出されている鏡を見入っている。緑に塗られた中段には「希望(Esperance)」と記され、塔を持った「希望」の擬人像が、そして、赤く塗られた上段には「カリタス(Caritas)」と記され、右手で矢を左手で心臓を持つ「慈愛」の擬人像が、立ち上がる炎のような薄赤色の透けたローブを身につけて羽を広げている。これら三つの徳目は「対神徳」として、初期キリスト教の時代から神学的に位置づけられ、古代ローマ以来の社会的な徳目を継承した「枢要徳」と合わせて、とくに12世紀以降、女性擬人像として聖堂や写本を飾っていたのである。
なかでも「慈愛(カリタス)」は、「神に対する愛」でありながら、キリスト教で重要とされた「隣人愛」という「人間に対する愛」(慈悲)と混同されてゆく。たとえば、西方ラテン世界最大の神学者アウグスティヌスは、『詩篇』などで多く使われる「慈愛(カリタス Caritas)」に対して、「アモル(amor)」と「クピディタス(Cupiditas)」について説明し、アモルは善悪ともに意味することがあり得、愛の対象を欲して所有することがアモルならば、クピド(エロース、キューピッド)に由来するクピディタスは、それを所有し、かつ享受して喜ぶことにある、とする。この情念(クピディタス)は、愛(アモル)が悪ければ悪く、善ければ善いという(註8)。
こうした「愛」をめぐる議論は、純粋な精神的愛に対して、情念は愛の方向性に引きずられて神に背く悪しき方向に人を連れ去りかねないものの、肉から生まれた人間は欲なくして心を燃やす炎のような愛を持つことができない、とするシトー会の聖ベルナルドゥス、そして、神へと人を押しやる力こそ「愛の炎」とするフランシスコ会の聖ボナベントゥーラら名だたる宗教家たちの不朽の論点であり、尽きせぬ想像力の源となっていったのである。
ロレンツェッティの《荘厳の聖母》の三段階の徳目の描写には、愛の神学者ペトルス・カントルの、「信仰」は霊的な建物の基礎を作り、「希望」がそれを建て、「慈愛」が冠をかぶせるとの定義が影響を与える一方、ダンテ『神曲』中「煉獄篇第30歌」でダンテの前にあらわれる「白、緑、赤」に彩られた衣をつけたベアトリーチェの姿の暗示もあるといわれている(註9)。ダンテはすでに『新生』において、ダンテの心臓を食べるベアトリーチェを描写しており、その霊感源としてトルヴァドールやトルヴェールらの愛と心(心臓)の歌があったことも、つとに指摘されているところである(註10)。
ところでロレンツェッティは他にも心臓を二点描いていて、一点はサン・ガルガーノ、モンテシエーピ礼拝堂にある《荘厳の聖母子》のやはり「慈愛」像(図15)、もう一点は、シエナ市庁舎《善政のアレゴリー》中のやはり「慈愛」像であり(図16)、後者は、マッサ・アマッティマ市庁舎の《荘厳の聖母子》中、「慈愛」像のように矢と燃え上がる心臓をもち、薄赤色の古代風の半透明の衣を着ている。胸のふくらみが透いて見える、まるで古代の水から上がるウェヌスが纏う「濡れ衣」のようなその衣は、神への愛であるはずの「慈愛」があきらかに肉体的な「アモル」と同族の燃え上がる炎のような愛であることを暗示している。
トスカーナではロレンツェッティのみならず先駆者ジョットも、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂内壁画《美徳と悪徳の寓意》中、「慈愛」が左手に果物と花のたくさん入った籠を持ちながら、右手で神に心臓を捧げ挙げている姿を描いていた(図17)。一方、アッシージのサン・フランチェスコ聖堂下堂壁画では、「貞潔」の塔から追い出される悪徳たちの中に、獲物である恋に落ちた人々の心臓をたすきがけにして、矢筒をもつ盲目のクピドを描いたのであった(図18の全体と部分)。
こうして14世紀のトスカーナには、聖俗の愛をかたどる「心臓」の図像の系譜が、脈々と音を立てて流れ出していたのである。そしてそれは、ジョヴァンニ・ディ・パオロが描く聖女カテリーナのキリストとの心臓の交換をはじめ(図19)、キリストの聖心信仰の高まりにともなって、思いもかけない心臓の図像を産み出してゆくのであるが、ここでは再び、ルネ・ド・シャロンの心臓用墓碑に立ち返りたい。
ルネ・ド・シャロンの心臓
ルネの遺言には「死後3年目の姿として」刻んで欲しいと記されていたとの解釈もあったが、実際にはそのような記載はなく、また神聖ローマ帝国皇帝カール5世が寡婦アンヌ・ド・ロレーヌに宛てた手紙で、戦場で亡くなったルネの臨終と死のようすを子細に綴っているものの、ルネ自らがトランシ像を注文し、しかも死後いくばくか経た時分の立像で、との指定はないという(註11)。しかしルネの伯父フィリベール・ド・シャロンおよび父アンリ・ド・ナッサウをはじめ、祖母や妻の伯父クロード・ド・ギーズ、さらにはルネの遺言執行人たちもそれぞれトランシ墓を建造しており、このような墓の建造に並々ならない関心をもつ一族であったことが知られている。
心臓を天に向けて捧げるルネの立像トランシのその腕は、実はフランス革命の時に破壊され、のちに砂時計か水時計か、時のシンボルに付け替えられ、さらに心臓に換えられたのである。まるでミロのヴィーナスの失われた腕は当初、何を持っていたのかという議論を思い起こす話であるが、「時計」を持たせるというアイディアは、ルネを「時の擬人像」に仕立て上げるつもりであったのだろう。しかし革命前の年代記などの記述によると、北フランスのピカルディーで亡くなったルネの遺体は、フランス北東部の町メッスで一夜を過ごしたあと、心臓と内臓はバール=ル・デュックに、遺骸は最終的な埋葬地であるオランダのブレダに運ばれたことが知られており、「ルネ・ド・シャロンの心臓は、バールの聖堂に運ばれた。そこで心臓の形をした赤い箱に納められ、福音書記者像の脇の主祭壇のそばに置かれていた大理石の骸骨が、それを左手で持っていた」とある(註12)。
ならば現在、私たちの目にすることのできる心臓を掲げるルネの姿は、当初の姿にきわめて近いことになる。しかし天高く伸ばす腕は付け替え時の創意だとしても、総じてそのポーズは、かの矢と燃える心臓をもち、ウェヌスと見紛うばかりの「慈愛」の擬人像にあるように思える一方、もうひとつの屍骸像が、彫刻家リジエ・リシエの脳裏に浮かんだのではあるまいか。それは、ルーヴルのジャンヌの隣に立つ死神像である(図20)。リジエ・リシエが生きていた当時にはまだ、あの「死の舞踏」の壁画が描かれていたパリのサン・ジノサン墓地の入り口に立っていた、つぎのような銘文をともなって人々を震わせていた通称「サン・ジノサンの死神」だ。
「どれほど巧みに、力強く生きようとも、おいらのこの矢の一撃に逆らえる者などおりはせぬ。口をあけた蛆虫どもの餌食になるばかり」。
リジエ・リシエの周辺の彫刻家によるとされるトランシ立像(図21)は、掲げた左腕が欠けているものの、右手で銘文を記した石版をもつポーズは、「サン・ジノサンの死神」に似ており、当時知らないものはない名高いサン・ジノサン墓地の死神が、とくにこうしたトランシ立像の着想の源のひとつになったとしても不思議ではあるまい。
ブリュッセル出身の解剖学者アンドレアス・ヴェサリウスがパリ大学医学部で学び、のちにパドヴァ大学での研究を『人体の構造について(ファブリカ)』として出版したのは1543年であった。1547年頃に作られたと目されているルネのトランシ立像の解剖学的な正確さを見るにつけ、解剖学の金字塔とされるヴェサリウスの著作の挿絵が多分に影響を与えていると確信する一方で、いまだ中世の帳の中に息づく死神像もまた、愛の心臓の墓にひとつの形を与えたと思えてならないのである。
註
(註1) ルイ・アラゴン『断腸詩集・新断腸詩集』橋本一明訳
新潮社 1957年。19・20頁
(註2) 煉獄(prugatorium)との用語は12世紀に初めて文書に現れるが、天国と地獄との中間地帯という概念は古代から継承されて、12世紀以前のキリスト教思想の中で連綿と育まれてきた。
(註3) “Le Livre d’Heures de Jaques de II de Chastillon ”, Art de l’enlumineure, No.2, 2004. この記述および写本挿絵については、拙論「腐敗と救済―スペクタクルとしての死体と腐敗」石塚久郎・鈴木晃仁編『身体医文化論III 腐敗と再生』慶応義塾大学出版会 2002年。pp.66-88. 参照
(註4) ホイジンガ『中世の秋』(上)岩兼正夫・里見元一郎訳 角川文庫、1976年。279-280頁
(註5) 三分割埋葬についてはとくに以下を参照。カントーロヴィチ『王の二つの身体』小林公訳、平凡社、1992年。Ralph E.Geisey, The Royal Funeral Ceremony in Renaissace France, Genève, 1960.
(註6) 「心臓」についてはSpazio の連載をまとめた拙著『内臓の発見』(ちくま選書、2011年)最終章にて書き下ろしており、そこで、古代以来の心臓の形について考察している。
(註7) Les arts PARIS・1400 sous Charles VI(Catalogue d’exposition du Musée du Louvre), Réunion des musées nationaux, 2004.pp225・226.
(註8) アウグスティヌス「聖書において愛を意味する用語」泉治典訳、(『アウグスティヌス著作集13』『神の国3』第14巻第7章)教文館、1981年、224-227頁。
(註9) ロレンツェッティの作品およびその解釈については主に以下を参照。キアーラ・フルゴーニ『ロレンツェッティ兄弟』谷古宇 尚訳(『イタリア・ルネサンスの巨匠たち6』、東京書籍、1994年。44-48頁。
(註10) 心臓をめぐる医学・文学・思想に関する包括的な考察としては、以下を挙げたい。樺山紘一『歴史のなかのからだ』ちくま学芸文庫、1993年。15-68頁。
(註11) ルネ・ド・シャロンの墓碑については以下を参照。キャサリーン・コーエン『死と墓のイコノロジー―中世後期とルネサンスにおけるトランジ墓』小池寿子訳、平凡社、1994年。とくに103-105頁および159-160頁。
(註12) 同。103頁。