日本を想う ~東日本大震災に寄せて~

 2011年3月10日午後10時57分(アリゾナ時間)、私はインターネットで日本市場の終値を見ていたが、最後の3分間に日経225は、10,378円から10,300円に急落した。この3分間の大きな値動きに何かが起きたと直感した私は、テレビのスイッチを入れた。10秒後、そのスクリーンに映し出されたのは、3月11日午後2時46分頃、三陸沖でM8.9の地震が発生。青森、岩手、宮城、福島、茨城県の太平洋岸に、高さ10メートルの大津波が押し寄せるという警報だった。これほどのスケールに匹敵する地震は、この10年では2004年にスマトラ島沖で発生したM9.1の大地震くらいであり、海辺の観光地を襲ったあの大津波の映像の記憶はまだ薄れていなかった。これは間違いなく東北地方が未曾有の大災害に襲われると感じた私は、寝室にいた妻に「日本の三陸沖で巨大地震が発生して東北地方が大津波に襲われると警報が出た」と声をかけた。それから居間のソファに座りこんだ二人の目は、テレビジャパンの画面に釘付けになった。
 最初の映像は上空から撮影された千葉のコスモ石油コンビナートの火災だった。オレンジ色の炎が球形のLPGタンクを包みこむように燃え盛り、画面の奥で爆発が起きたのか、巨大な火炎が吹き上がった。レンズが望遠から広角に変わると、火炎はコンビナートの数か所から上がっている。この様子だと、LPGタンクが次々と誘爆し、コンビナートが壊滅するのではないかと危ぶんでいると、画面が変わった。釜石港を襲う巨大な津波が、岸壁に係留してある300トンクラスの遠洋漁船に、同じような大型漁船を衝突させ、そのまま岸壁の上に押し上げると、その恐るべき奔流はついに市街地へと侵入していった。次は名取市の上空を飛ぶヘリコプターから撮影した映像で、まるでコールタールのようなどす黒い巨大で幅の広い波が、田園地帯に押し寄せながら次々に家屋を押し流し、火災を発生させ、整然と並んだビニールハウスをなぎ倒し、道路を走る自動車を次々と巻き込んでいく。そして、カメラがパンすると、家屋や夥しい材木や自動車を浮かべたどす黒い波が、小高くなった道路に遮られてゆっくりと渦を巻きながら、堤防から溢れ出し、河川敷になだれ落ちていく。この凄まじい光景に、私たちは声を失った。
  CNNのニュースに切り替えると、地震で書類が床に散乱したCNN東京支局の室内の有様が映った。次に、東京のどこかのスーパーマーケットで棚から商品が落下、散乱している様子や、女子従業員と買い物客が唖然としている光景が映った。東京も大きな地震に襲われているのだと思った私は、親族の安否を確かめるため、東京に電話を掛けたが、録音された英語の音声で「只今、東京への回線は塞がっているので掛け直してくれ」と繰り返すばかりで、ついに通じなかった。その間に三陸を襲った激震と巨大津波の被害の様子が次々に明らかになってきた。明け方近くになってからテレビジャパンは、夜間に自衛隊機が撮影した気仙沼市の大半を焼き尽くしていく大火災の状景を放映した。
 翌日、午後になると、さらに愕然とする光景がテレビに映った。福島第一原発の沸騰水型原子炉の1、2号炉が、冷却不能に陥っているというニュースだった。福島第一原発には6基の沸騰水型原子炉がある。他の4基の原子炉は損傷しなかったのか。それに津波に襲われた東北地方には、青森県に東通原発、宮城県に女川原発、福島県には第一の他に第二原発、茨城県には東海第二原発がある。これらの原発がこれほどの激震と大津波で被害を受けないはずはないと思い、インターネットで調べてみたが、何も報道されていなかった。代わりにインターネットのABCニュースが、福島第一原発が1970年に建設されて以来の情報を伝え始めた。それを要約すると、まずGEが設計した沸騰型軽水炉・マーク1を設置。耐用年数は40年以上あるが、早くも70年代から安全性が疑問視されており、コストを下げるために安全性が犠牲になっているとして、米国原子力委員会(AEC)から製造中止を求められていたそうだ。さらに80年代に入ると、米国原子力規制委員会(NRC)のハロルド・デントン氏が、福島第一原発で稼働しているマーク1は「燃料棒が露出すると90パーセントの確立で爆発する」と断言したそうだ。その後の研究報告では、沸騰水型原子炉は冷却機能が失われて炉心溶解が起きれば、数時間以内に放射性物質が漏洩する可能性が高いとされていた。その指摘に対してGEは、これまで一度も燃料棒収納容器が破損した例はないと実績を強調したという。80年代の後半になるとGEの内部文書においてですら、マーク1の燃料棒収納容器の安全性は十分に検証されていないと、報告されるようになったそうだ。そのため燃料棒収納容器に圧抜き弁を取り付けるようになったが、NHKのニュースでは、福島第一原発の第1と第2号炉の圧抜き弁はうまく機能しなかったと報道されている。この福島第一原発の事故のその後については、NHK等のニュースで知らされ解説されているので、これ以上は述べない。いずれにしても、この福島第一原子力発電所の設計には、多くの欠陥があるのは誰も否定できない。事実、他の福島第二原発や東通原発や女川原発の原子炉は改良されたマーク2であり、地震を感知すると同時に制御棒が挿入されて炉は停止し、外部電源が切られると非常発電機が起動し、炉心の冷却を再開したそうである。そして幸いにも20メートルの津波の衝撃にも耐えた。それに対して、福島第一原発の非常発電機は浸水により起動せず、水素爆発を起こして大量の放射能を帯びた粉塵をまき散らし、チェルノブイリと同じレベル7という重大な事故を引き起こした。この事故を終息させるには、まだ多くの試行錯誤が重ねられ、多くの年月が必要だろう。そして原子炉を解体し、廃棄するまでの道のりは、さらなる困難と10年以上の年月と巨額の費用が費やされるだろう。そして、その費用は、結果的には国民が支払うことになるのだろうが、それはそれとしても、放射性物質に汚染された環境の中で、懸命に働く多くのみなさんの健闘と健康を心から願わずにはいられない。
 さて、CNNのニュース番組は、エジプトの民主化運動やリビア情勢などは報道せず、1週間ほど東日本大震災の惨状を次々と報道し続けた。3階建てのビルの上に大型の観光バスが、また2階建ての建物の屋上には、カタマラン型の観光船が乗り上げていた。また大船渡市近郊の或る漁村では、明治29年(1896年6月15日)に発生したM8.5の明治三陸地震の後、その村の庄屋が建立した石碑に“この石碑より下に家を建てるべからず”というような意味の文が刻み込まれている映像も映ったが、その教訓を今日まで村民は守り続けてきたので、今回の巨大津波でも一人の犠牲者も出さなかったそうである。
 その三陸震災の津波の高さは、青森県の八戸市や宮城県の女川町では3メートル余りだったが、岩手県の宮古市で19メートル、釜石市で8.3メートル、大船渡市で22.4メートル、綾里村では21.9メートルを記録している。また綾里湾の奥では、津波が谷上の入り江を遡上し、その高さは海抜38メートルにも達したそうだ。人的被害は2万1,959名、北海道6名、青森県343名、岩手県1万8,158名、宮城県3,452名。行方不明者44名、家屋の流失9,875戸、全壊した家屋1,844戸、船舶の流出6,930隻であったと記録されている。この大災害は明治初期に起きたもので、当時の日本の全人口は4千万人程度だから、その被害の大きさが分かる。しかも、M8.5程度の地震は、東北地方では数十年から100年に1度発生することは予想されていた。
 福島第一原発の建設時に想定した地震は、M8程度で、津波の高さは最大5.7メートルと聞いているが、この想定は過去の資料を無視した、ずさん極まるものだと言わざるを得ない。何故なら原発は、いったん事故が発生すれば、広い地域の環境を放射性物質で汚染し、多数の人々に多大な犠牲を強いる結果になるからだ。しかも今回の事故により、原発の新設は極めて困難になった。現在建設中、あるいは計画中の原発はその計画のすべてが頓挫し、産業の血液ともいえる電力の供給に支障をきたすだろう。その責任はさらに重い。東電の経営者も原子力・安全保安院の面々も想定以上の震度と津波であったと言い訳するが、むしろ想定自体が根拠薄弱なもので、これは天災ではなく、誰がみても明らかに人災である。過去に何度もM8以上の地震と20メートル以上の高さの津波が記録されていたにも拘らず、福島第一原発の設計時の想定は、震度M8、津波の高さは僅か5.7メートル。どこに科学的で合理的な判断があったのか。私は放射能汚染で避難を余儀なくされた多くの人々に代わって、この疑惑と無念さをあえて申し述べた。

 これらの面々に反して、自らの命を犠牲にして多くの命を助けた人達がいる。釜石市のある町の女子職員は、津波警報を放送するためにマイクを握り続けて、自分は津波にさらわれてしまった。また釜石市の、ある町の消防団の団長は、停電で緊急避難の放送ができなかったので、火の見やぐらに上り、半鐘を連打し続けて、町民の最後の一人までを避難させ、自らは津波に呑まれてしまったという。このような話を聞いて、誰が胸を打たれずにおられようか。
 この話で思い出したのが、国民学校5年の時の国語の教科書に載っていた“稲むらの火”である。
 これは安政元年(1854年の旧暦12月23日)に起きた安政南海地震の時の話で、村長の浜口五兵衛が津波の来襲を察知し、収穫したばかりの稲むらに火を放ち、村人を救ったという逸話だが、インターネットで調べたら出てきたので、読者各位にもぜひご一読いただきたい。
 この安政南海地震の32時間前、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という巨大地震が発生した。この地震は安政東海地震と呼ばれるようになったが、この地震で被害が最も多かったのは、沼津から天竜川河口に至る東海沿岸で、町全体が壊滅した場所も多数あった。また、甲府では町の7割の家屋が倒壊し、松本、松代、江戸でも倒壊家屋があったと記録されるほど、広範囲に災害をもたらした地震であった。地震発生後、数分から1時間前後に大津波が発生し、東海沿岸地方を襲った。伊豆下田、遠州灘、伊勢、志摩、熊野灘沿岸に押し寄せた津波で多くの被害を出した。伊豆下田では推定7メートルの津波が押し寄せ、948戸中927戸が流失し、122人が溺死したという記録が残っている。江浦湾でも7メートル、伊勢大湊で6メートル、志摩から熊野灘沿岸で5~10メートルの大津波が襲来し、数千戸が流出した。伊豆の下田では、折から投錨していたロシア軍艦“ディアナ号”が津波により大破沈没して、乗組員が帰国できなくなったが、下田の船大工を集めて、日本初の外洋船を建造、帰国させたという。
  清水から御前崎までは地盤が1~2メートル隆起し、清水港は使用不能となった。被害は流失家屋8,300戸、死者600人余と甚大なものだった。
 この地震は貴重な教訓を残した巨大地震でもあり、巨大地震の東海地震は記録されているものだけで5回発生しているが、そのうち4回は、その直後か2年以内に巨大地震の南海地震も連鎖的に発生するという、東海、東南海、南海の巨大地震の発生メカニズムを証明した。この史実は現在のわが国の地震予知に重大なキーワードをもたらすことになった。
 これらの地震記録は、東海東山道地震1586年(天正13年)、その19年後の1605年(慶長9年)に慶長地震。元禄地震1703年(元禄16年)、その4年後の1707年(宝永4年)に宝永地震。安政東海地震1854年(安政元年)、その32時間後に安政南海地震。次いで東南海地震1944年(昭和19年)、その2年後の1946年(昭和21年)に昭和南海地震が発生している。
  このように東海道で巨大地震が発生すると、短時間後に南海道でも巨大地震が発生するというメカニズムが歴史的に証明されている。
  昭和19年12月7日に発生した東南海地震は、太平洋戦争開戦記念日の前日であり、国民の戦意を失わせるとして公表されなかった。すべてのニュースは軍部の管制下にあり、新聞の下方に、諏訪地方に地震があったが損害は軽微ですぐに復旧することが掲載されているだけだった。だがハワイの地震観測所は、その振動を観察、記録していた。震度はM7.9であり、津波も観測していた。また、成都を離陸したB29が、津波の被害や名古屋近郊の半田市にある中島飛行場、小牧にある三菱航空などの軍需工場の被害状況を撮影し、日本の戦闘能力が激減したと、アメリカのみならず世界中に伝えた。またこの地震により、家屋の倒壊や津波の被害は、三重県、愛知県、静岡県の地域で1,200名以上の死者、行方不明者を出した。その震源地に近い尾鷲市を中心とした熊野灘沿岸は、津波で壊滅的な打撃を受けた。尾鷲市賀田地区では9メートルもの津波が観測された。この大地震については戦後になってから知ったが、その2年後の1946年12月21日午後4時に昭和南海地震が起きている。これはM8という強烈な地震だった。そして、この地震直後に津波が発生し、紀伊半島、四国、九州の太平洋岸を襲った。地震と津波による甚大な被害を受けたのは高知県の四万十市、須崎市、高知市、和歌山県の串本市、海南市に及んだ。四万十市は地震によって発生した火災で市街地の80パーセントが焼失し、串本町や海南市も津波による壊滅的な被害を受けた。死者は、行方不明者を含めて1,443名、高知県679名、和歌山県269名、徳島県263名、家屋全壊11,591戸、半壊23,487戸、流失1,451戸、焼失2,598戸に達した。この南海地震は、過去1000年余りの地震活動が記録として残されているもののうち、世界的にも例を見ない大地震であるとされているが、数年後、あるいは十数年後に、東海地方を襲うであろう大地震と巨大津波は、沿岸都市にどのような被害を及ぼすのか。駿河湾の沿岸都市、沼津、三島、富士、静岡、焼津、御前崎などの各都市はみんな河川の河口にあり、巨大津波に襲われたとき、近くに避難する高台もなく、多くの人命が失われる恐れがある。また東名高速道路は、富士市付近では波打ち際に建設されており、巨大津波によって崩壊するありさまが目に見えるようだ。また浜松は本田技研や、鈴木自動車、ヤマハ楽器の発祥の地であり、数多くの部品工場が稼働している。この部品工場群がもし巨大地震と津波で壊滅的打撃を受ければ、日本の基幹産業は長期間、麻痺状態に陥るだろう。これを防ぐにはM8程度の地震、それによる土地の液状化、さらに10メートル程度の津波に対する強固な建物に、生産設備を移転する必要があるのかもしれない。これには巨額の投資が必要だが、諸々の損失と比較すれば採算に合うだろう。この民間投資には政府の税制上の適切な配慮が必要である。

 今回の東日本大震災は、1944年に起きた東南海震災を超える未曾有の大震災であったが、CNNの人気キャスター、アンダーソン・クーパーはそういった被災地の生々しい現場を訪れ、累々と重なる瓦礫の荒野を背景に「ここ南三陸町という日本の東北地方の一町村を襲った津波は、街の80パーセントを壊滅させ、5階建ての病院をも襲い、入院していた患者や多くの医師や職員を呑み込み、生存者は5階と屋上に避難した数人のみだ」と、その惨状を報告していた。

 私は、その瓦礫と化し、廃墟になった映像を見ながら、大東亜戦争後の焼け跡を思い出していた。あれはアメリカのB29による戦略的無差別爆撃によるものだったが、1945年3月9日の夜半から未明にかけて、東京の東半分が焦土と化し、18万人もの死者・行方不明者が出たばかりでなく、人口10万人程度の都市に至るまですべて焼野原になった。
 その3月9日の夜、私は新宿馬喰町の親しい友人の家で、試験勉強をしていた。そして10時過ぎ、ラジオから、ブザーの音の後に「東部軍管区情報……東部軍管区情報……敵大編隊、八丈島南方にあり、関東地方、警戒警報発令」という男性アナウンサーの落ち着いた声が聞こえてきた。それは私たちが初めて聞いた空襲への警報だった。だが真夜中近くになってから、何の発令もなく、突然、頭上で轟音が響いた。
  私たちは思わず外に飛び出して、夜空を見上げた。低空飛行する巨大なB29の大編隊が西方から旋回して東へ向かっていく。私たちがただ呆気にとられて見ていると、警防団の小父さんに防空壕へ引きずり込まれた。だが爆弾が爆発したような振動もなく、3時間ほどでB29の爆音は聞こえなくなった。しばらくして空襲警報解除のサイレンが聞こえたので防空壕を出てみると、東の空が一面オレンジ色に光っていた。だがビルの陰で何も見えない。私たちはひそかに頷き合って京王線の線路が敷かれている甲州街道を駆け上がって行き、新宿駅東口の高架道の東側に立って東方を眺めると、幾本もの火炎が上がっていた。横にいた男が「ありゃお茶の水の方向だぞ」と言った。警防団の小父さんは「火災は神田須田町の向うだ」と言うと他の人が「いや深川あたりも爆撃されたようだぞ」と言った。そんな会話を聞いていると、ようやく夜が明けてきた。そして、やがて省線(いまのJR)の線路をぞろぞろとたくさんの人たちが歩いて来た。
 「私はあの避難してきた人たちを迎えに行ってくる。君たちは家に帰ってお母さんに、婦人会の人を集めて炊き出しをするよう頼んでくれんか」警防団の小父さんが言った。
  私と友人は急いで家に戻り、伝言した。時計は朝8時。すでにモンペ姿に白い割烹着を身に着けて愛国婦人会の襷をかけたおばさん達が握り飯を作り上げ、小松菜を入れた味噌汁を被災者たちに配っていた。被災者たちの防空頭巾やモンペには焦げ跡があり、火炎の中を逃れて来たことを物語っていた。彼らの一人が話してくれたことは信じられない話だった。焼けて根元がなくなった電柱が、火炎の竜巻に引き込まれて鯉のぼりのように斜めになって燃えていたとか、浅草方面から逃れて来た人々と、深川方面からの人々が、言問橋の真ん中でぶつかり合い、大勢の人たちが隅田川に飛び込んで溺れ死んだというのだった。
  その夜、来襲した325機ものB29が投下した1,800トンに達する爆弾と焼夷弾は、文字通りの火炎地獄をつくり、一夜で12万人もの命を奪った。

 この3月10日の空襲で東京の東半分が焼失した。その後、4月13日に王子、赤羽地区の中心が爆撃され、次は大森、蒲田の城南地区が焦土と化し、5月25日には470機のB29の大編隊が渋谷、広尾、東横線沿線や甲州街道の両側を絨毯爆撃した。そしてアメリカの目標は名古屋、大阪、神戸へと移ってゆき、各県庁所在地や人口1万人ぐらいの中小都市まで灰燼に帰した。7月26日に連合国は日本政府に対して無条件降伏を主眼とした13カ条項のポツダム宣言の受諾を要求してきた。鈴木貫太郎首相と内閣は、その13カ条項に国体の保持が明確でなかったために受諾を拒否した。それは新聞紙上に発表され、国民は本土決戦は避けられないと覚悟した。空爆は続行され、8月6日、広島にリトルボーイ(ウラニューム爆弾)が炸裂した。だが日本政府はまだ国体保持に拘っていた。9日、長崎にファットマン(プルトニューム爆弾)が投下され、ソ連軍が参戦した。ついに日本政府は天皇の意志で無条件降伏を受諾し、3年9か月の悲惨な戦争は日本の敗北で終わりを告げた。
  中学一年生になっていた私は8月15日、夏休みだったが、学徒動員されて工場で働いていた。その日の朝、正午に玉音放送があると予告されていたので、私たちは校庭に整列し、直立不動の姿勢で切れ切れに聞こえてくる天皇の声を聴いていた。「……耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」。私たち“軍国少年”には、これが敗戦の放送だとは信じられなかったが、8月の炎天下、飛行機の爆音は聞こえず、大空は青く澄み切っていた。私たちはその蒼穹を見上げながら、戦争が終わったことを悟った。
 それから戦後の混乱が始まった。日本政府が敗戦後、まずやったことは、何と進駐軍兵士のための性的慰安施設の設置だった。それは、リクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーション(RAA)と呼ばれ、そのオフィスは銀座8丁目の銀座パレスに置かれた。事務所の前には「新日本女性に告ぐ。女子事務員募集。年齢18歳以上25歳まで。宿舎、衣服、食糧、全部当方支給」と書かれた募集広告が張り出された。戦後で家も家族も失った“大和撫子”が、その広告に騙されて、進駐軍兵士相手の慰安婦にされたのだ。その慰安所の一つが大森に作られた、ほぼ一年後、16歳の少女があまりの辛さに脱走し、京浜急行の電車に飛び込み自殺した。この悲惨な事故によってRAAの存在が明らかになり、それを耳にした前ファーストレディのミセス・エレノア・ルーズベルトがGHQに圧力をかけて、RAAを廃止させた。だが職を失った女性たちは街娼婦にならざるを得ず、有楽町辺りのガード下でアメリカ兵に媚を売るようになった。やがて彼女たちのやり場のない痛切な悲哀を歌った『星の流れに』(作詞:清水みのる、作曲:利根一郎)が大流行する。特に最終章の歌詞ほど当時の世相をあからさまに表記しているものはないと、評判になった。あの東京の大空襲で生き別れてしまった妹を、今頃どこかで飢えてはいないかと気遣い、B29の爆撃で死んでしまった母には、一目でもいいからもう一度会わせてほしいと切々と歌う。そして戦争を起こした軍人と政治家を、泣きながら糾弾する。“こんな女に誰がした”と。
 次に日本政府がやったことは、アメリカ軍が使っていたリバティ型輸送船で中国や、マレーシア、フィリピンなどの戦地から、出征兵士たちを帰還させることだった。それを歌った『帰り船』(作詞:清水みのる、作曲:倉若晴生)という歌も、人気抜群の田端義男独特の歌唱力で大ヒットした。今でもインターネットで『帰り船』を検索する人は多いという。
 その復員兵たちが生きるために闇屋となった頃、新聞に関東地方だけで1万人の飢死者が出るだろうという記事が出た。食糧の配給はあったが、大豆の搾りカスや進駐軍が放出した玉蜀黍の粉ばかりだった。仕方なく殆どの家は庭を耕して芋類や菜っぱ類を作り、米は農家に頼みこんで、絹の着物と物々交換した(木綿の着物は何故か受け取ってもらえなかった)。
 中学2年になった頃から、私は趣味でしていたラジオの組み立てを生計の足しにし始めた。神田駅北口から須田町までの道の両側には、戦前からラジオの部品を売る店が並んでいた。私は金田商店という老舗で真空管や部品を買ってから、何か食べようと思って南口にあった闇市へ行き、見回すと、ドラム缶を切ったコンロに大鍋が掛けてあり、ぐつぐつと何かが煮えていた。“ビーフ・シチュー、どんぶり1杯が5円”という貼紙があった。これは安くはない。当時は超インフレで、1カ月毎に物価は25パーセント値上がりし、酷い時にはものによって2倍になることもあった。とにかく空腹だったので、そのシチューを頼み、食べ始めると、中から葉巻の吸い殻が出てきた。「こりゃ何だ!」私が憤然とすると、隣に座っていた飛行服の男が言った。「このシチューの材料は、進駐軍のガーベッジさ。でも毒は入っちゃいないよ」私が10円札を渡し、5円のおつりを受取って腰を上げると、私の前に立っていた戦災孤児がそのシチューを見ながら「それ食べないの?」と聞いた。私がうなずくと、「じゃあ俺にくれよ」と言うので、どんぶりを渡して「食べていいけど、腹をこわすかもしれないよ」と注意した。男の子は「食わないほうが死んじゃうよ」と笑った。「そりゃそうだね」私もつられて笑い、手の中の皺だらけな1円札5枚を、その子の胸ポケットに入れ、外へ出ようとすると、うしろから「おい中学生、君も昼食を食うつもりだったんだろが」と飛行服の男が聞いてきた。「ええ、どこかで食べます」と答えると「俺についてこいよ」と言う。私は黙って後についてガード下を通りぬけて南口に出ると、飛行服の男は『中島無線』と看板の出ている店に入って行き、店内を抜けて裏へ出た。そして向いにある小屋のドアを開けて、私を先に通した。そこは彼の宿舎らしく台所もあった。「まあ、座ってくれ」と言われて私は、テーブルを囲んで置かれた木の長椅子の一つに腰を下ろした。「飯は銀シャリだが、目刺と沢庵ぐらいしかないぞ」と男は私の顔を見て笑った。優しい顔だった。私は「銀シャリなら塩だけで結構です」と答えた。そして瞬く間にどんぶりで2杯、白米の飯を平らげた。
「俺は筒井だ。君は?」
「僕は乾です」
「では乾君、ちょっと聞くが、その紙袋は金田商店のものだね。部品でも買いに来たのかね」
「はい。ツーバンドの5球スーパーを2台作るんです」
「短波付きかね」
「5.6メガから18メガまでのものを頼まれたんです」
「すると、注文で作るのかね」
「そうです」
「君はポータブル・ラジオを組み立てられるかね」
「もちろん出来ます……コンバーター、1R5、中間周波が1T4、検波が1U5、出力が3S4のものなら作ったことがあります」
「それじゃ1台、試作してもらおうか」筒井さんは棚の上のボール箱を机の上に下ろし、蓋を開けて「キャビネットから真空管、67.5ボルトの積層乾電池まで全部部品が揃っている。これが巧く出来上がったら、あと10台組み立ててくれんか。組立賃は1台、200円出そう」と言った。
「あの……」
「少ないかね?」
「そうじゃなくてお米を貰えませんか」
「お母さんにあげるんだな」
「そうです」
「よし、米は別にあげるよ」
「筒井さんは見ず知らずの僕に、どうしてこんなに親切にしてくれるんですか」
「情けは人の為ならず、だよ」
「それ、どういう意味ですか」
「さっき君は、あの孤児にシチューを食わせてやり、5円くれてやってたね。いまどき、“浮浪児”にそんな情けをいちいちかける奴はいないのさ」
「僕はあのシチューが気持ち悪くて……」
「では金をやったのはどういうわけだね」
「たった5円ですし……。このことは僕、話したくありません」
「わかった」筒井さんは小屋の奥に入ると、米の入った袋と、風呂敷を持って戻ってきた。
「3升ぐらいだが、お母さんへお土産だ」筒井さんはそう言いながらその袋を僕の前に置くと、風呂敷で金田商店で買ってきた部品と、これから組み立てるべきポータブル・ラジオの部品箱をきっちりと包んで、米袋の横に置いてくれた。「いつまでに出来るかね」
「今日は日曜日ですから……今度の日曜日に持ってきます」
「1週間だな」
「はい。大丈夫です」
「ところで君は、オッシレーターを持っているのかね」
「自分で作ったやつですが、持っています」
「テスト・オッシレーターのキャリブレーションはどうやったんだね」
「5バンドのオールウエーブラジオを使って、キャリブレーションしました」
「なるほど!」筒井さんは膝をぴしゃりと叩いた。
「もう一つ訊くが、君は何歳だね」
「あさっての10月13日で14歳になります」
「14歳か!」筒井さんはまじまじと私の顔を見ていたが、「今度来た時、この店の若い奴と一緒に、君の14歳の誕生パーティーをやろうや」と微笑んだ。
「そんなことまで!」私は胸がつまり、ただ頭を下げた。
「どうってことはない」筒井さんは照れ臭そうににやにやして「君の家は何処だね」と訊ねた。
「少し遠いんです。世田谷のほうです。筒井さんは?」
「俺は復員船でビルマから帰って来たんだが、船の中で東京空襲の話が出てな、てっきり焼けてしまったと覚悟していたんだ。ところが広尾の家は奇跡的に焼け残っていたんだよ。女房も達者だったしな」
「それこそ不幸中の幸いですね」
「おかげさまでな」
「筒井さんは飛行兵だったんですね?」私は彼の飛行服を見ながら訊ねた。
「俺はビルマ戦線で一式戦闘機(隼)を操縦していたんだが、偵察が仕事で1機も撃墜していないんだ」
「人殺しをしなくてよかったですね」
「そういう考え方もあるか」元戦闘機乗りは苦笑した。
「じゃあな。俺はこれからもうひと仕事あるんでな」
「はい、今日は本当にありがとうございました」私は深く頭を下げた。
こうして私は、米の入った袋と風呂敷包みを両手に下げて、家路についた。
その米を母に渡した時の笑顔は、今でもはっきりと目に浮かぶ。

 戦後5年目の1950年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍が砲火を開き、朝鮮戦争は始まった。そして中国共産軍の参戦で戦いは泥沼化し、国連軍が北朝鮮軍と中国共産軍を38度線まで押し返し、1953年7月27日に休戦するまで続いた。その間に日本はアメリカ軍の補給基地となり、GHQは日本企業に兵器生産の許可を与えた。またアメリカ軍は製造会社に直接注文を行った。それは軍事用衣服、軍用毛布、土嚢用袋、テントなどの繊維製品、陣地構築用の鋼管、鉄条網、セメントなどの工業製品、航空機と軍用車両の修理であった。
  こうした朝鮮特需によって、日本は復興への足がかりを得たのだ。そして1957年、岸内閣は国民所得倍増計画を策定し、1960年年末に池田内閣によって推進された。この所得倍増計画は輸出産業を育成し、外貨獲得を手段としてGNPを倍増させ、雇用を拡大して完全雇用を目指した。この経済政策の目標は1960年度のGNP・13兆6,000億円の2倍、26兆円を10年以内に達成するというものであったが、その後6年で国民一人当たりのGNPは2倍になり目標を達成した。その当時、日本の自動車工業は飛躍的な発展を遂げていた。トヨタは初めてプレスでボディを作ったクラウンを、プリンス自動車はスカイラインを発売し、日産自動車はオースチン、いすゞはヒルマン、日野自動車はルノーと技術提携し、それぞれ新型車を生産していた。1964年10月には東京オリンピックが開催されたが、その準備として首都高速道路や新幹線の建設を進めた。日本は第二の経済成長期に入っていった。だが1971年に日本円は1ドル360円から308円に切り上げられ、さらに1985年9月のプラザ合意以後、円は256円から1988年には120円に上昇した。その間に自動車工業を始めとする輸出産業は“乾いたタオルを絞る”と言われた徹底的なコストダウンを図った。その典型的な手段としてトヨタのカンバン方式が生み出された。やがてこのカンバン方式は世界中の自動車会社が採り入れた。その間、1973年には第4次中東戦争が起きて石油価格は3ドルから5.12ドルに高騰し、1979年のイラン革命で12ドルに達した。日本の燃費の良い自動車の生産量は急増した。また日本は省エネの技術革新を行い、同じGNP当たりのエネルギー消費量はアメリカの5分の1、先進国中で最低のエネルギー消費で、世界3位の経済大国の地位を維持した。
 こうして過去を振り返ってみると、日本国民は戦後の廃墟から再起し、一時期の安かろう、悪かろうのメイドイン・ジャパンの汚名を返上すべく創意工夫を行い、多くの優れた企業家が新しい価値のある新製品を生み出し、やがて世界第二の経済大国の栄誉を獲得し、世界の奇跡と言われた。つまり、結果として災い変じて福となった。これこそが日本のお家芸、いわば、災難を幸福へ導く糧とする技に秀でているのだ。
 今回の未曾有と言われる東日本大震災も、必ずや災い変じて福となさなければならないだろう。
 それをなすにはやはり巨額の資金が必要だが、いまや、すでに敗戦後の日本ではなく、政府も民間企業も資金は持っている。その資金をもとに復興することになるが、それは単なる復興ではなく、まったく新しい未来都市の建設でなくては意味がない。
  その一例が、スマート・グリッドのケーブルを地下に敷設したエコシティの建設である。またスマート・グリッドとは、家庭に備えたスマートメーター等の計測・制御装置を利用し、リチウムイオン電池を備えた電気自動車や、プラグイン・ハイブリッド車を電力線に接続し、電力需要を自律的に調整して、省エネとコスト削減、そして信頼性の向上を目的とする電力網のことである。
  しかしスマート・グリッドは、現在の大都市への適用はその面積と過密な人口から考えると非常に困難であり、むしろ今回の東北大震災で壊滅的に破壊された市町村のほうが、スマート・グリッドによるエコシティ建設にはぴったりのスケールといえる。まさに災い変じて福となすという日本の特技をここでも発起できることになる。
  このスマート・グリッドの開発は、すでに技術的には完成の域に達していると推測できる。日立製作所はイギリスの電力会社とスマート・グリッドの実証実験に参加しているし、東芝は社内に実証実験設備を新設したと聞き及んでいる。ハワイでは日米共同で離島のスマート・グリッドの実用化実験を行っているそうだ。三菱商事は電気自動車を用いたスマート・グリッド関連システムの開発に着手していると発表している。また経済産業省もスマート・グリッドの推進母体になる協議会を立ち上げて、民間企業の参加を呼びかけているそうだ。
 このエコシティの建設は、復興と同時に新たな産業への投資となり、多くの雇用を創出し、東北地方に新風を吹き込み、繁栄をもたらし、かつ次期世代に安全で快適な生活を残すことができる。
 もし一カ所でもスマート・グリッドを利用したエコシティが完成したら、それを見本として新しい輸出産業を確立できるだろう。
  ここで問題なのはリチウムイオン電池の充電に要する電力である。太陽光発電、風力発電、バイオマス発電等があるが、東北地方の冬季に太陽光発電は期待できないだろう。風力発電については青森県で実験が行われ、その資料が各地の発電電力の可能性を明らかにするだろう。
  もう一つのアイデアは、三陸地方の沿岸はリアス式海岸で入り江が多く、その入り江にダムを築き、潮の干満を利用した発電所を建設できないかということだ。潮の干満は1日に必ず2回あるから、安定した電力供給源になる。もし潮位の変化が4メートル以上あれば、潮力発電所の建設の可能性は大きいのだが、三陸地方の潮の干満の差は1.5メートル程度なので、何かしらの工夫がないと潮力発電は難しい。
  この例から見ても、潮位の差が少ない東北地方の入り江にでも、10メガワット程度の小規模な発電所なら建設できるかも知れない。また昔、水車が回っていた小川や用水路でも、50キロワット程度のマイクロ水力発電が可能である。これを10基タンデムに並べれば500キロワットになる。この電力で電気自動車のリチウム電池に充電すれば、スマート・グリッドによって300所帯の電力需要を賄えるかも知れない。
  次は水道の問題。セドナの人口は郊外を含めるとほぼ15,000人、三本の井戸から充分に供給されている。また、日本ですでに実用化されていると思うが、アリゾナのある街では下水処理場で濾過された水をトイレット用水として再利用しようと計画している。これらを組み合わせれば災害に強い街が誕生するだろう。
 もう一つの提案は、東北地方に新しい産業として、海水に無尽蔵に含まれているリチウムの抽出工場を建設したらどうだろう。この抽出技術もすでに開発されていると聞き及んでいる。
  佐賀県伊万里市の佐賀大海洋エネルギー研究センターで、リチウムを海水から抽出するプラントが本格稼働を始めた。開発に携わった北九州市立大の吉塚和治教授によると、実験室レベルでの抽出はこれまでも行われているが、実用化を目指した施設の稼働は世界初であり、約30日間で海水14万リットルから塩化リチウム約30グラムを抽出することに成功したそうだ。
 今回の東日本大震災で家を失ったばかりか、避難先の体育館などでのプライバシーのない生活環境、度重なる激しい余震に身を震わせる毎日、肉親の安否の分からぬ不安、確認しなければならないご遺体、みなさんのご心労は察するに余りあるものがある。
  一方、被災者の方々が食事や給水時にも、整然と列をつくり、一人として割り込むような人はおらず、静かに秩序を保つ様子をテレビで見ていた隣家のアメリカ人は、我々は日本人に学ぶことが多いと感嘆していた。
  さて、最後にご報告を一つ。
 北アリゾナの山岳地帯にある人口1万の観光地セドナには、セドナが好きで腰を落ち着けてしまった日本の若い女性が結構いるが、そのような人たちの力も借りて、今回、東日本大震災で被害にあわれた人々のための支援金や義援金を集めるべく、さまざまなイベントが開かれた。以下はその報告である。
  今回、5月1日、14日、7月2日の3回にわたるチャリティーコンサートが実施され、寄付金の合計額は、約25,000ドルになった。こちらは支援金として、NPO団体ピースボートを通し、NPOオンザロード、NPOめ組JAPANの3団体に送られた。また、チャリティーガレージセールでは約7,000ドル集まり、そちらは義援金として福島県に送られた。なお、 Sedona Heart Japan Campaignでは、ひきつづきできるだけ、長期的支援をしていく予定である。

この折り鶴は、東日本大震災で被災された方々への支援金を集めるために開かれた「ジャパン・エイド・コンサート」で、寄付をして下さった人々に差し上げようと、セドナ在住の日本女性達が感謝の心をこめて折った千羽鶴。

(図1)この折り鶴は、東日本大震災で被災された方々への支援金を集めるために開かれた「ジャパン・エイド・コンサート」で、寄付をして下さった人々に差し上げようと、セドナ在住の日本女性達が感謝の心をこめて折った千羽鶴。

「ジャパン・エイド・コンサート」の開催主旨を表明するクリス・スフェリス氏。セドナ在住のミュージシャン中、最も名声高く、信頼されているリーダーである。

(図2)「ジャパン・エイド・コンサート」の開催主旨を表明するクリス・スフェリス氏。セドナ在住のミュージシャン中、最も名声高く、信頼されているリーダーである。

セドナ在住の女性と家族たち。彼女たちが協力し合って、「セドナ・エイド・コンサート」を成功させた。彼女たちはかつての小学唱歌“ふるさと”を美しく合唱した。

(図3)セドナ在住の女性と家族たち。彼女たちが協力し合って、「セドナ・エイド・コンサート」を成功させた。彼女たちはかつての小学唱歌“ふるさと”を美しく合唱した。


若手のミュージシャンの一人は、東日本大震災の被災者を思って、応援歌“Heart  beat of hope”を作詞作曲。友人と二人で聴衆に熱く支援を訴えた。

(図4)若手のミュージシャンの一人は、東日本大震災の被災者を思って、応援歌“Heart beat of hope”を作詞作曲。友人と二人で聴衆に熱く支援を訴えた。

和太鼓を豪快に叩く通称ケンちゃんこと小塩建一さん。彼はフェニックスで活躍中のミュージシャンである。

(図5)和太鼓を豪快に叩く通称ケンちゃんこと小塩建一さん。彼はフェニックスで活躍中のミュージシャンである。

コンテンポラリー・ミュージックを演奏するメドーラークの二重奏。

(図6)コンテンポラリー・ミュージックを演奏するメドーラークの二重奏。


5月1日正午から夜10時まで開かれた「ジャパン・エイド・コンサート」の出演者とプログラム。

(図7)5月1日正午から夜10時まで開かれた「ジャパン・エイド・コンサート」の出演者とプログラム。

セドナ在住の画家や写真家から提供された作品を、来場者に値段を付けて貰い、最高額の人に売却。その金額を寄付してもらい、それを支援金とした。

(図8)セドナ在住の画家や写真家から提供された作品を、来場者に値段を付けて貰い、最高額の人に売却。その金額を寄付してもらい、それを支援金とした。

チェリストのビクトリア氏が伴奏。クリス・スフェリス氏がギターで引き語りした。

(図9)チェリストのビクトリア氏が伴奏。クリス・スフェリス氏がギターで引き語りした。


セドナ在住のペルーの人たちも、よろこんで民族音楽を演奏してくれた。

(図10)セドナ在住のペルーの人たちも、よろこんで民族音楽を演奏してくれた。

寄付をしてくれる人々に、その支援金が“PEACE BOAT USA”といいうアメリカで承認されているNPOを通じて日本のNPO、“PEACE BOAT・JAPAN”に送金され、その支援金は実際に災害地でボランティアとして活動中の“め組・ジャパン”や“ON THEROADO”というNPOに分配されるという案内を出した。大口の寄付をしてくれる人の為に、税金控除の案内もした。中には千ドルから1万ドルの寄付を申し出てくれた人もいた。

(図11)寄付をしてくれる人々に、その支援金が“PEACE BOAT USA”というアメリカで承認されているNPOを通じて日本のNPO、“PEACE BOAT JAPAN”に送金され、その支援金は実際に災害地でボランティアとして活動中の“め組・ジャパン”や“ON THE ROAD”というNPOに分配されるという案内を出した。大口の寄付をしてくれる人の為に、税金控除の案内もした。中には千ドルから1万ドルの寄付を申し出てくれた人もいた。

5月1日のコンサートに引き続き、セドナの観光街、アップタウンのCanyon Breezeというレストランで“日本へ希望を”と題名を付けたコンサートを開き、支援金を募りました。

(図12)5月1日のコンサートに引き続き、セドナの観光街、アップタウンのCanyon Breezeというレストランで“日本へ希望を”と題名を付けたコンサートを開き、支援金を募りました。


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