アルバニア美術史紀行

アルバニアへ

 益田朋幸さんと私、浅野和生は今回、アルバニアへ行くことにした。アルバニアは、アドリア海に面し、ギリシアの北にある(地図)。私たちはこれまでにビザンティン帝国の旧領土、特にギリシアやトルコとその周辺のあちこちをかなり訪れていたが、アルバニアに行ったことはなかった。

アルバニア周辺の地図
イスタンブール、ミリオンの跡地(右、道路の横)

(図1)イスタンブール、ミリオンの跡地(右、道路の横)


テサロニキ、エグナティア通り。ガレリウス帝の戦勝を記念する凱旋門が、エグナティア街道に建てられた

(図2)テサロニキ、エグナティア通り。ガレリウス帝の戦勝を記念する凱旋門が、エグナティア街道に建てられた

 日本人の多くは、アルバニアという国のことをよく知らないか、またはあまりいい印象を持っていないのではないか。アルバニアと聞いて思い浮かべるのは、共産主義、鎖国、そして国家的な経済破綻と難民の流出といったところか。
 このようなアルバニア観を持っているのは、日本だけではない。隣国のギリシアに行くたびに、ギリシアの友人から「アルバニア人には気をつけろ。彼らが来てから治安が悪くなった」と言われる。
 しかし、ビザンティン帝国時代にはアルバニアは重要な地方だった。コンスタンティノポリスとローマは、街道で結ばれていた。コンスタンティノポリスから西へ延びる街道をエグナティア街道と呼ぶ。アギア・ソフィア大聖堂のすぐ前に、街道の起点となるミリオンという碑があった(図1)。エグナティア街道は、北ギリシアのテサロニキを通って(図2)、アルバニアのドゥラスでアドリア海に突き当たる。そこからは船で、海が一番狭くなったところをイタリアのブリンディシに渡る。道路はアッピア街道と名を変え、ローマに通じていた。
 このような場所に行ってみない手はない。ただ、日本では大きな本屋に行っても『アルバニア』というガイドブックは1冊もないが、英語のガイドブックは2冊入手した。ドイツ語の本は以前から持っていた。文化財についてはくわしいが、現地の事情はよくわからないまま、インターネットで調べると、まず現地の治安には問題はないらしい。それにしても、これほど予備知識なく外国に行くことは初めてだ。

ローマ、フィウミッチーノ空港、Hターミナル)

(図3)ローマ、フィウミッチーノ空港、Hターミナル

ティラナのホテルの部屋

(図4)ティラナのホテルの部屋

 日本からの直行便はないので、ローマ経由でアルバニアの首都ティラナに入ることにした。成田空港で益田さんと会い、アリタリア航空機に乗った。ローマ・フィウミッチーノ空港で飛行機を乗り換える。ティラナ行きが出るHターミナルは、がらんとした体育館のようなところだった(図3)。格安航空会社か、地方都市へ行く便ばかりだ。普通は高級ブランドの免税店や喫茶店などが並んでいるはずだが、駅の売店のようなものがひとつあるだけで、それさえも閉まっていた。
 飛行機が飛び立つと、ローマからティラナまではすぐだった。ティラナ空港に着いたのは夜中だったので人は少ないが、少なくともローマ空港のHターミナルよりはきれいだった。予約したホテルに迎えの車も頼んであり、運転手が待っていた。一般道を120キロのスピードで走るので肝を冷やしたが、ともかくもホテルに着いた。小さなホテルで、内装のセンスはぱっとしない(図4)。ここまでがアルバニアへの旅の1日目であった。(浅野)

ティラナの町

 北キプロスに迷い込んで警報を鳴らした(本誌69号「キプロス美術史紀行」の「アシヌウとラグデラ」の項参照)あとは、「ヨーロッパ最後の鎖国」であったアルバニアを旅する。時代遅れのスパイ・スリラーもののようだが、これがビザンティン美術史という商売である。今回は科学研究費補助金をいただいての公式調査団。浅野さんと私に加えて、早稲田大学の助手、菅原裕文君と、大学院生の武田一文君がメンバーである。後者2人は前途有望な、ビザンティン美術史の若手研究者であるばかりでなく、めっぽう写真に強く、また体力の衰え著しいわれわれの荷物をしばしば運んでくれた。若者2人はアルバニアから徒歩でマケドニア共和国に入り、われわれが帰国したのちも調査を続けることになる。
 アルバニアの通貨はレク。2010年8月、ユーロ経由の両替で1円が0.84レクであった。レートは毎日変化するし、こういうときには面倒なので、「1円=1レク」と考えることにする。情報のない国でも、前もってインターネットでホテルを予約できてありがたい。私たちが20代、30代の頃は、知らない町に着くとまず、重いスーツケースを持ちながら、とぼとぼと安宿を探して歩くことから旅が始まった。昔話をする年齢になったものである。

ティラナ市内中心部

(図5)ティラナ市内中心部


マザー・テレサの垂れ幕

(図6)マザー・テレサの垂れ幕

 ホテルに着いた翌朝は、まず本屋を探した。ティラナの中心部には高層・中層ビルが立ち並び、いきなりここに連れてこられたら、ここがアルバニアとわかる人はないだろう(図5)。ドイツ車、イタリア車の高級車がふつうに走っている。イタリアやギリシアよりも、車の水準が高い。国民みなが裕福であるとは考えられないから、貧富の差が激しいのだろうか。
 スカンデルベグ広場という首都の中心に面したオペラ座の一部にある本屋が、そこそこ大きいようだ。美術・考古関係の本を、あるだけ買う。同じ広場に面した国立歴史博物館に表敬訪問。近代史に関する展示が多く、私たちには面白くない。広場にはいくつか、マザー・テレサの垂れ幕が目立っていた(図6)。アルバニア系マケドニア人にしてカトリックの修道女。「アルバニア系マケドニア人」とはややこしいが、アルバニア人の両親のもと、マケドニアの首都スコピエで生まれた人である。ノーベル賞受賞者、福者(聖者の下の位)。アルバニアの国民的ヒロインなのだろう。国立考古学博物館・ティラナ大学・国立美術学校が面する広場もマザー・テレサの名を冠していた。ただし考古学博物館は週末休館という、のんきな営業状態であった。(益田)

ドゥラス往復

 ビザンティン時代の文化財の調査地としては、ドゥラスが最初となる。旧名はデュラヒオン。エグナティア街道の終点でもあり、海路への中継地ともなる港町である。

ティラナのバスターミナル

(図7)ティラナのバスターミナル


ドゥラスの円形競技場

(図8)ドゥラスの円形競技場

 ティラナからドゥラスまでは、バスが頻繁に出ている。ホテルから少し歩いたところにあるバスターミナルから乗った(図7)。町工場やショッピングセンターなどのある郊外を走り、やがて田園地帯に入り、1時間ほどでドゥラスのバスターミナルに着いた。
 まず、円形競技場を目指した。歩いて行くとほどなくその場所に着いた。ローマのコロッセウムと同じような、楕円形の大きな競技場であるが、上部の建物は円周の半分ほどしか残っていない。後の半分は上部は崩れ、また中央のアレーナは土に埋まっている(図8)
 古代ローマ時代、どの町にもこういう円形競技場が建てられ、そこでは剣闘士の闘いや、人間と動物との闘いが繰り広げられて人々をわき立たせた。だが5~6世紀にキリスト教が浸透する頃には、人間同士の殺し合いは非人道的であるとして、おこなわれなくなった。円形競技場は、うち捨てられたり、石材を取る場所になったりした。
 このドゥラスの競技場も、同じような運命をたどったはずだ。ただここが注目されるのは、1960年代の発掘により、この内部からモザイクが発見されたからだ。かつての客席だったところが改築されて礼拝堂が設けられ、その壁にモザイクがほどこされていた。皇女のような姿の聖母らしい女性、天使、聖人、寄進者などが描かれている。6~7世紀の作だという説が有力だが、10世紀説もある。
 以前、小学館から『世界美術大全集』が発刊されて私もその『ビザンティン美術』の巻の執筆にたずさわったが、そのとき、私はこのモザイクの写真を掲載しようとした。興味深い作例であるにもかかわらず、日本語の本で紹介されたことがなかったからである。そのときアルバニアはまだ不安定な情勢で、この作品の掲載はしばらく保留となり、やがて編集者から「ようやく現地の写真家が撮影することができました」と言われてゴーサインが出た記憶がある。
 円形競技場は、今では入場料を払って入るようになっている。私たちが行くと、切符売り場にいる若い女性が案内してくれた。客席や廊下は広く、かつての堂々とした姿をしのばせる(図9)。礼拝堂は、その中にひっそりと設けられていた。駆け寄るようにして一斉に写真を撮ったが、女性が先を急いでいるのでひとまずそこを離れた。修復や整備が終わって一般公開されている部分を一回り案内すると、女性はいつの間にかいなくなっていた。お礼をしなければならないかと思っていたが、向こうにはもともとそのつもりもなかったようだ。私たちはモザイクのところに戻って、思う存分見て、写真を撮った(図10)

円形競技場内の通路

(図9)円形競技場内の通路

円形競技場の礼拝堂のモザイク

(図10)円形競技場の礼拝堂のモザイク

ドゥラス、アナスタシウスの城壁

(図11)ドゥラス、アナスタシウスの城壁


円形競技場に撮影に来た花嫁

(図12)円形競技場に撮影に来た花嫁

 円形競技場を出ると、城壁があった(図11)。5世紀末から6世紀前半のビザンティン皇帝、アナスタシウスが建てたと言われている。アナスタシウスはこの町の出身であったから、町の発展に努めたに違いない。
 この日は、結婚式がたくさんあったらしい。花婿側か花嫁側かわからないが、家に大勢の人が集まり、前の道路にも立って酒を飲み、おしゃべりをしているところもあった。車にテープでお手製の飾りをつけて新郎新婦が乗り、その前後にたくさんの車が並んで市内を走っているのも見た。そして、この円形競技場の中や城壁の横に来て記念撮影をしているカップルも何組か見かけた(図12)。ちなみに、花嫁は白いウェディングドレス姿で欧米や日本と変わらない。花婿はスーツ姿だが、これも日本と同様に、それほど注目を集める存在ではないようだ。

ドゥラスの街角にある、社会主義時代の彫刻

(図13)ドゥラスの街角にある、社会主義時代の彫刻

 ドゥラスでは、ローマからビザンティン時代のフォールム(広場)の跡や、考古学博物館にも行った。博物館は、海岸の近くにある。それほど目を引く展示物はない。他の遺跡も、交通の要衝地であったにしては、やや物足りない。
 海岸にはホテルが立ち並んでいる。観光開発に力を入れようとしているのだろうが、まだ西ヨーロッパやトルコのリゾート地ほどのにぎわいは見られない。社会主義時代の彫刻が町中に残っているのが、現代史を物語るようでおもしろい(図13)
 アルバニアでは、その後で他の町でも感じたことだが、飲み物だけを出す喫茶店は多いが、食事のできるレストランが少ない。町中のバスターミナルの近くに戻って、ようやく食事をした。最後に港に行ってみようと私は言ったが、鉄道の線路のフェンスにさえぎられて、海辺まで行くことはできなかった。夕方ドゥラスを後にして、バスでティラナに戻った。(浅野)

アポロニアの遺跡

 4日目からレンタカーで各地を回る。ティラナ出発に先立って、アルバニアの教育・文化省に赴き、聖堂や遺跡の撮影許可を申請したが、現地で頼めとのことで、政府が許可を出すシステムになっていない。数か月前から日本で、アルバニア大使館を通じて交渉したが、梨のつぶてで、やむなく現地で許可申請に及んだものである。中世美術の調査でいちばん困難なのは、撮影許可をとることであろう。聖堂壁画の調査では、政府の許可に加えて、教会側の許可が必要な場合もある。許可を持ってはりきって現地に行っても、頑固な寺男が撮らせてくれないなどということも多い。私たちの調査は、臨機応変、風任せにならざるを得ない。

アルデニツァ修道院

(図14)アルデニツァ修道院


アポロニア、ブレウテリオン

(図15)アポロニア、ブレウテリオン

 レンタカーはドゥラス方面の渋滞を抜けたのちに南下して、フィエールに向かう。その数キロ手前のアルデニツァ修道院が、最初の目的であった。バシリカ式のカトリコン(主聖堂)をもつ、ひなびた修道院であった(図14)。壁画はポスト・ビザンティン(1453年のビザンティン帝国滅亡後)で、修復の手も入っておらず、保存状態はあまりよくない。
 フィエールからアポロニアに向かう。アポロニアはドゥラス(デュラヒオン)と並んで、アルバニアの古代ローマ時代の拠点であった。ドゥラスは今日も栄えた都市で、ローマ時代の面影をほとんど留めていないが、アポロニアは捨てられた都市の遺跡である。重要なローマの遺跡としてはアルバニア南部にブトリントがあるが、今回、時間の都合で訪れることができなかった。
 発掘された遺構では、ヘレニズム時代に遡るというブレウテリオン(議会)(図15)や、紀元後2世紀のオデオンが目立っている。発掘地図には劇場も載っているが、石材が点在するのみで、プランを確認することも難しい。私たちの目的は、城壁沿いにたたずむ、聖母マリアに捧げられた修道院であった。
 13世紀に創建されたと考えられる修道院の主聖堂は、アルバニアのビザンティン建築としてはもっとも大きい(図16)。ナルテクスには時の皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスの肖像が、共同統治帝ミハイル8世、ミハイル9世とともに描かれている(1281/82年)。後期ビザンティンのアンドロニコスは、聖堂を寄進するのが好きな皇帝として知られている。修道院の境内は、遺跡から発掘された彫刻の展示場となっていた(図17)
 修道院のトラペザ(食堂)には、14世紀前半の優れたフレスコがかなり残っている。アプシスを飾っていたのは「最後の晩餐」だろうが、剥落しており、その他「エジプトの聖マリアに聖体を与えるゾシマス」、「烏に養われる預言者エリヤ」(列王記上17:6)(図18)など、聖体のパンに関わる主題が興味深い。
 修道院をあとにしたのが午後5時、まだ明るいので、なるべく南下してしまう。しかし首都を離れると、道路事情はきわめて悪い。しばしば道は未舗装で、4人は頭を車の天井にぶつけながら進んだ。(益田)

アポロニア、聖母修道院

(図16)アポロニア、聖母修道院

アポロニア、修道院境内の彫刻展示場

(図17)アポロニア、修道院境内の彫刻展示場

アポロニア、トラペザの壁画

(図18)アポロニア、トラペザの壁画


ジロカストラ

悪路をバスの後ろについて走る

(図19)悪路をバスの後ろについて走る

 ホテルが見つけられないまま、いくつかの町を後にした。日が暮れてきて焦る。車があるから野宿は避けられるとは言っても、大の男が小型車に4人で一夜を過ごすのはきびしいだろう。道路は舗装されていないところが多く、細かい埃がもうもうと立って視界をさえぎる。益田さんは、長距離バスの後ろについて走った。前で光るテールランプが頼りだ(図19)
 もう夜になってジロカストラという町に着き、ようやくホテルを見つけた。旧市街のホテルはどこも満室で、道路沿いにあるレストランを兼ねた安ホテルだが、否やは言えない。部屋に荷物を置いた後、レストランに下りて行って遅い夕食を取った。豚肉の大きな切り身を焼いただけのものなど、野趣あふれる料理で、空腹も手伝っておいしい。
 ジロカストラは、多分ギリシア語の「丸い城」が語源だろう。歴史はギリシア神話時代にさかのぼり、ギリシアの王子アルギロスが建設したという伝説がある。ローマ時代やビザンティン時代の歴史はくわしくはわかっていないが、ここを扼すれば山と山の間を南北に通る平地を制圧することになるから、一貫して軍事的な要衝だったことが想像できる。

ジロカストラの城砦、時計塔

(図20)ジロカストラの城砦、時計塔

 1417年には、ジロカストラはオスマン帝国の手に落ちた。その支配下でも町は繁栄した。近代以後の歴史は非常に複雑である。20世紀のふたつの大戦の間だけでも、ギリシア、イタリア、アルバニアのパルチザンなどの勢力が、ジロカストラの支配をめぐって戦いを繰り広げている。
 山頂の高いところに突き出した時計塔は、町のどこからでも見える(図20)。急な坂を登って入り口にたどりつくと、城砦全体は思った以上に広かった。時計塔はその端に立っているに過ぎない。堂々とした要塞も残っていて、今は兵器博物館になり、激戦の歴史を物語る(図21)。大砲や戦車、冷戦時代に撃墜された戦闘機の残骸などが並ぶが、それほどわれわれの関心を引かない。
 城砦を取り巻く旧市街にも行った。トルコの民家のように、2階部分がせり出した構造になっている。バルコニーのような部屋のような空間を持つ民家も見られる(図22)。狭い道が五叉路になっているところが、旧市街の中心になっているようだ(図23)。このジロカストラの城砦と旧市街は世界遺産に指定されているので、観光客もいる。われわれが泊まったホテルの女主人も、英語は話さないがギリシア語とイタリア語は話した。

ジロカストラの城砦、兵器博物館

(図21)ジロカストラの城砦、兵器博物館

ジロカストラの古い民家

(図22)ジロカストラの古い民家

ジロカストラの旧市街

(図23)ジロカストラの旧市街


 このレストランの客から英語で「中国人か」と聞かれた。それまでにもたびたび「中国人か」と聞かれたことがあったので、「なぜ中国人と思うのか」と逆に聞いてみた。「携帯電話の基地局を中国の企業が建設していて、中国人の技術者がたくさん来ているからだ」との答えであった。日本でアルバニアが知られていないのと同様に、アルバニアで日本の影は薄い。ホテルの部屋にテレビがあれば、それは必ず韓国製だ。
 アルバニアでは、若い人は英語を非常に上手に話す。中年以上の人は英語を話せないことが多いから、あるとき教育制度が変わったに違いない。人々は全般的に親切である。あるとき、BMWの改造車に乗っている若いお兄ちゃんに、地名だけをどなって手振りで道を聞いたら、先方はわざわざ車から降りてきて、「ここを少し進むとロータリーがあります。そこを左に向かうと行けます」と丁寧な英語で説明してくれたので、大いに恥じ入った。ギリシア人は「アルバニア人移民は悪いやつ」と決めつけているが、思うに経済恐慌のときに、衣食足りて礼節を知るアルバニア人が国内にとどまったのではないか。

 ジロカストラのホテルは、私たちにとってのよい基地となった。ここから、周辺の町や聖堂を訪れる計画を立てる。  聖母マリア聖堂は、10世紀前半の建設と本に出ている。ガイドブックにはペシュカピ村の近くと書いてあるが、地図にはなくて行き方がよくわからない。順番に道に入っては少し走るが、それらしい村は見えて来ず、また引き返すことを何度も繰り返す。
 そのうちに車が通りかかり、聞いてみるとついて来いと言う。山の中をかなり走って、聖堂の前まで案内してくれた。われわれだけだったら、絶対に見つけられなかっただろう。
 あいにく扉は閉ざされていたが、それ自体もきれいな、そして風景の中にあってますます絵になる聖堂だった(図24)。このあたりの集落の規模を考えると大きな聖堂だが、かつてはドゥリイノポリス主教区の主教座聖堂だったと考えられている。現在はギリシアとアルバニアに分断されたこの山中に、ひとつの文化圏があったのだろう。
 もうひとつ、かなり探して見つけたものに聖コスマスの洞窟聖堂がある。これは地図に載っていて、そのあたりを走り回ってかなり探したはずなのに見つからない。
 ところが、別の場所に行った帰りにあっけなく見つかった。道路からすぐのところに、高さ数メートルの大きな岩があり、その岩に洞窟がある(図25)。その中に小さな祭壇が設けられて聖堂になっていた。岩を登った頂上にも、最近のものではあるが小さな祠がある。このような自然の造形物をめぐる信仰のあり方は、日本にも他の多くの文化圏にも似たところがあって興味深い。
 このあたりには、コンクリート製のトーチカや塹壕がいたるところに見られる(図26)。第二次大戦時のものではなく、その後の社会主義時代に作られたらしい。確かに、ギリシアの方から軍隊が北上して来るとすれば、山と山の間のこの平地を通らざるを得ない。しかし現代の戦争は、敵の歩兵部隊や戦車が進軍してくるというものではないはずだ。時代遅れになったが、いちいち取り壊し埋め戻すのも面倒で放置しているのであろうか。(浅野)

聖母マリア聖堂

(図24)聖母マリア聖堂

聖コスマスの洞窟聖堂

(図25)聖コスマスの洞窟聖堂

トーチカと塹壕

(図26)トーチカと塹壕


サランダ――40人の殉教者の町

 ジロカストラは世界遺産の観光地で、ホテルも多い。ギリシア系の経営者の安ホテルを見つけて、そこを根拠にサランダに向かった。ギリシア語で「40」の意味である。このあたりにはギリシア系の人が多く、道を尋ねるのも楽であった。主要道路には聖堂を案内する標識が立っているが、そこから脇道に入ると表示が消える。ある程度年配の住民に聞かないと、到底たどり着けない場所ばかりである。
 古代にはオンケスモスと呼ばれたこの町は、キリスト教時代にセバステ(現シヴァス、トルコ)の40人の殉教者を祀る聖堂が建立され、その名を得た。セバステの40人は、リキニウス帝時代にキリスト教の信仰を捨てず、凍った湖で殉教したとされる。小アジア、とくにカッパドキアにその信仰の痕跡が強く残っているが、この地にも何らかの聖遺物がもたらされたのであろう。
 町を見おろす山頂にある聖堂は、目下発掘の最中で、七葉形という複雑な構造をもつ聖堂下部に入ることはできなかった(図27)。ここからは9世紀の作と考えられる奇妙なフレスコが発見されている。十字のニンブスをもつところから、キリスト以外には考えられない人物が、ニンブスをつけた聖人の顎ひげを引っ張っているのだ。何らかのローカルな伝説に材を採ったのだろう。
 今日のサランダは、快適なリゾート都市である。しかし山頂の捨てられた聖堂を知る人が少なく、たどり着くのに数時間を要した。山頂からはコルフ(ケルキュラ)島が指呼の間に望め、涼しい風が私たちの頬を過ぎた(図28)
 サランダ往復の間に、メソポタミ村の墓地聖堂である聖ニコラオス聖堂に立ち寄った(図29)。初期キリスト教のバシリカ式聖堂の基部を利用して、ビザンティン時代に4ドームの構造を載せた、特殊な建築である。中央の主ドームなしに4つのドームを載せる形式を、私は他に知らない。内部に入れなかったので、どのような構造でドームを支えているか、確かめることができなかった。(益田)

セバステの40人の殉教者修道院

(図27)セバステの40人の殉教者修道院

山頂からのサランダの眺め

(図28)山頂からのサランダの眺め

メソポタミ村、聖ニコラオス聖堂

(図29)メソポタミ村、聖ニコラオス聖堂


ベラト

ベラト、城砦

(図30)ベラト、城砦


ベラト、城砦内部の町

(図31)ベラト、城砦内部の町

 ベラトは、ジロカストラからティラナの方角に戻りつつ、少し内陸部に入ったところにある古い町である。川が流れ、旧市街があり、急な山の上にはジロカストラと同じような城砦がある(図30)。ここでも先史時代以来、色々な勢力が争奪を繰り返した。ローマ帝国時代に町が整備されたのは他のところと同じである。
 440年にテオドシウス2世は城壁を補強し、姉のプルケリアにちなんでこの町にプルケリポリスという名をつけたという。テオドシウス2世はテオドシウス1世の孫で幼くして即位し、姉の後見を受けた。この町への強い思いがあったのだろうか。その後は、ビザンティン帝国、スラヴ人、オスマン帝国、アルバニア人などが順繰りにこの町を征服した。
 この町も、岩山の上に城砦がそびえ、そのふもとに趣きのある町が広がる。ただこの城砦の中は、ジロカストラとは少し違っている。そこは城の中ではありながら、家が建ち並ぶ町だ(図31)。ここに多くの聖堂もあり、それを統括する博物館もある。そこの学芸員の男性が、案内をしてくれた。
 どれも小規模な聖堂で、主に16~18世紀の、ポスト・ビザンティン時代の壁画がある。ところが城砦の中もアップダウンが多く、登り下りを繰り返すうちに、早足の学芸員に私はついて行けなくなってしまった。気温は毎日36度くらいの暑さの上、前日からの下痢のためもあって力が出なかったようだ。
 チームから脱落し、店でミネラルウォーターを買って座り込み、飲んだり頭や首筋にかけて冷やしたりする。ここからの記述と写真は、益田さんにまかせるしかない。(浅野)

ベラト、城塞からの眺め

(図32)ベラト、城塞からの眺め

 浅野さんが脱落した途端に、私たちは未発表の、言語を絶する美しいフレスコに出会った、というようなことでもあれば愉快であるが、そうはいかない。まずは城塞の端から、ゆったりと蛇行して流れる河と、城下町の落着いた瓦の色を眺めた(図32)。それに加えて一つ二つのポスト・ビザンティンの聖堂を見る。町としての風情から言えば、このベラトが、私たちの訪れたアルバニアではいちばん美しいかも知れない(図33)(図34)(図35)。(益田)

ベラト、聖三位一体聖堂と城下町

(図33)ベラト、聖三位一体聖堂と城下町

ベラト、パナギア・ブラケルネ聖堂外観

(図34)ベラト、パナギア・ブラケルネ聖堂外観

ベラト、パナギア・ブラケルネ聖堂のフレスコ

(図35)ベラト、パナギア・ブラケルネ聖堂のフレスコ


 やがて益田さんたちが戻って来て、私はキリストに呼ばれたラザロのように復活した。
 城砦を出て急な坂道を下り、学芸員の推薦してくれたホテルに着いた(図36)。古民家を改装したらしいレセプションがあり、その裏手に中庭を囲んで客室棟がある。ここは古い様式を模して新しく建てたようだ。客室はこぎれいで、無線LANも使える。浴室に入り、後頭部を冷水のシャワーでしばらく冷やしたら、気分が良くなった。
 夕食は、旧市街を見下ろす屋上で取る。料理は、ジロカストラのホテルに比べるとずっと洗練されていて美味だ(図37)。日が沈み、やがてモスクのミナレットの向こうに月が出た。

ベラトの夕食

(図37)ベラトの夕食

ベラトのホテル

(図36)ベラトのホテル


コルチャとその周辺

 アルバニアは西の海岸部に平野があるが、東側、南側は山地である。東の山地はオフリド湖を経てマケドニアに至り、またプレスパ湖はマケドニア、ギリシアとの国境線を含んでいる。両湖周辺はビザンティン聖堂の宝庫である。当然アルバニア側にも、十分な情報はないものの、美しい壁画が期待されるところである。この一帯の中心地はコルチャ。おそらく共産主義時代の産物と思われる、寒々しいホテルを根拠にして、あちこちを回った。

ムボリェ村のキリスト昇天聖堂

(図38)ムボリェ村のキリスト昇天聖堂


ムボリェ村のキリスト昇天聖堂、修復中のフレスコ

(図39)ムボリェ村のキリスト昇天聖堂、修復中のフレスコ

 町はずれのムボリェ村のキリスト昇天聖堂には、1389年の銘が残っている(図38)。撮影を断られたので、いったん町の府主教座に戻って、マケドニア系の青年に付き添ってもらい、撮影をした。アルバニアの多くの聖堂に共通することであるが、修復がなされていないために趣きはあるが、建築崩落や壁画剥落の危険が大きい。昇天聖堂では、細々とフレスコのクリーニングが行われていた(図39)
 翌日は終日プレスパ湖に遠征(後出)。翌々日、聖堂が集中していることで有名なヴォスコポヤ(ギリシア名モスコポリス、「牛の町」の意)に行くことをまず考えたが、フレスコは18世紀以降のもので、ビザンティン時代の作はない。私たちはビザンティンのフレスコを求めて南下、ボボシュティツァに向かった。
 この村にもギリシア系の住民が多い。何人かに尋ねて聖堂を管理する家に行き当たり、中学生くらいの子どもが鍵を持って私たちを案内してくれた。まずは洗礼者ヨハネ聖堂から。方形の建築で、現在の村の規模から考えると決して小さくはない聖堂である。ガイドブックには「13世紀の素晴らしいフレスコ」とあるが、ポスト・ビザンティン、16、17世紀の作であろう。しかし保存状態は良好で、鮮やかな色彩が薄暗い聖堂に輝いていた(図40)
 川沿いを歩いて、聖ディミトリオス聖堂に向かう(図41)。これは「17世紀」との情報で期待していなかったが、重要なビザンティンのフレスコが一部に残っていた。本堂の壁画は17世紀だが、ナルテクス東壁(本来の聖堂入口)扉口上の「聖母子」には「納まり得ないものの棲みか(コーラ)たる神の母」との銘文が付されている(図42)。この銘はビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)に今日も残るコーラ修道院のモザイクやフレスコに描かれた聖母子に起源をもつ。14世紀初頭の首都の波がこの地に及んだのは、14世紀中頃であろうか。この聖母子を囲むフレスコ、「洗礼」(左)と「聖堂雛型を捧げる寄進者を導く聖ディミトリオス」は、さらに古く、12世紀との印象を得た。詳細な調査が必要な聖堂である。
 子どもおとなを問わず、村人に案内をしてもらうときに、毎度困惑する。チップを要求し、こちらの渡す金額に露骨に不平を鳴らすすれっからしもいれば、金を渡すと怒りだす人もある。日本人が適正と考える金額が思いのほか大きく、その後のチップ相場を上げてしまう場合もある。ボボシュティツァの少年にはわずかな金額を渡すと、驚き、次に照れた顔で受けとってもらえた。(益田)

ボボシュティツァ村の洗礼者ヨハネ聖堂

(図40)ボボシュティツァ村の洗礼者ヨハネ聖堂

ボボシュティツァ村の聖ディミトリオス聖堂外観

(図41)ボボシュティツァ村の聖ディミトリオス聖堂外観

ボボシュティツァ村の聖ディミトリオス聖堂、聖母子

(図42)ボボシュティツァ村の聖ディミトリオス聖堂、聖母子


プレスパ湖へ

 ベラトから山を越えてさらに内陸に入ると、オフリド湖とプレスパ湖が並んでいる。どちらも南北が20~30キロ、東西が10キロ余りの湖である。オフリド湖はアルバニアとマケドニアの国境となり、プレスパ湖の中ではさらにギリシアとの国境線が引かれている。
 オフリド湖の対岸には、オフリドの町がある。ずっと以前、そのときも益田さんと一緒にオフリドを訪れた。当時はユーゴスラヴィアという社会主義の連邦国家で、内戦に陥る前のことである。私たちはオフリドにいるあいだ中、行く先々で3人の若い男に遠巻きにずっと監視されていたことを思い出す。
 プレスパ湖から南東に40キロほど行けば、ギリシアの町カストリアだ。ここも以前に益田さんと行った。オフリドへはマケドニアのスコピエから行き、カストリアへはギリシアのテサロニキから行ったが、何のことはない、現代の国境が邪魔をしているだけで、この湖を中心とした内陸部がひとつのまとまった地域であっただろう。ビザンティン帝国の支配下ではテサロニキがこの地方の中心であったが、9世紀頃からはブルガリア人が勢力を伸ばしてきた。
 山をずっと下って、プレスパ湖に向かう(図43)。プレスパ湖の中にマリグラドという小島があり、そこに聖堂があるはずだ。湖畔のリチェナスという村に、その聖堂の鍵持ちのおじさんが住んでいることは、ベラトの学芸員に聞いていた。村に着くと警官がいて、おじさんの名を言うとすぐ家を教えてくれた(図44)。その人が船も出してくれる。まだ午前中であるが、すでに一杯、いや数杯は引っかけているようだ。
 車で船着き場に行っていろと言うので先に行って待っていると、ボートが来た。小学生くらいの子どもが3人乗っている(図45)。2人は男の子、1人は女の子で、おじさんの孫だという。行儀の良い、かわいらしい子どもたちだ。3人とも英語を話す上、2人はイタリア語、1人はギリシア語も話した。挨拶程度ではない。ちゃんと流暢に話をする。(浅野)

プレスパ湖遠望

(図43)プレスパ湖遠望

リチェナス村では新しい聖堂が建設中だ

(図44)リチェナス村では新しい聖堂が建設中だ

ボートでマリグラド島へ向かう

(図45)ボートでマリグラド島へ向かう


マリグラド島の聖母聖堂

 島の名はスラヴ系の「小さな町」という語に由来するようだ。人の住む平地もない岩塊のような島だが、浅い洞窟の中にかわいらしい礼拝堂が建てられている。西外壁に描かれたフレスコも、直射日光に当たらないせいでよく残っている(図46)。この地方を治める領主(ケサル)のノヴァク、妻カリ、娘のマリアとアミラリスの肖像を見てとることができる。
 内部のフレスコも保存状態がよく、大部分は1369年に描かれたことが銘文からわかる。貴重な基準作例である。様式的には、ここから遠くないカストリアの聖アタナシオス・トゥ・ムザキ聖堂(1384/85年)と比較することができるだろう。美術という観点からは、この島の小礼拝堂のフレスコがもっとも美しかった(図47)
 アプシスの聖母子は、「プラティテラ型」と呼ばれる、後期ビザンティンのもっともふつうの図像であるが、聖母の胸に浮かぶキリストのメダイヨンの片端が、母の衣に隠されているのが面白い(図48)。不可視の神がまさに神秘的な受肉をする瞬間を描こうとしたものだろう。
 管理人には、ボートを出してもらったお礼も含めて、やや多いかと思える金額を渡した。と言っても、コンビニでアルバイトをするのにもはるかに及ばない。おじさんは上機嫌で、私たちを村のカフェに連れて行き、ラキ(アニスの香りの強い蒸留酒)を御馳走してくれた。運転担当の私はコーヒーで、憮然とせざるを得ない。(益田)

マリグラド島の聖母聖堂

(図46)マリグラド島の聖母聖堂

壁全面を埋めるフレスコ

(図47)壁全面を埋めるフレスコ

アプシスの聖母子像

(図48)アプシスの聖母子像


旅の終わり

オフリド湖畔

(図49)オフリド湖畔

 コルチャのホテルを出、オフリド湖畔へ行った。湖水浴を楽しむ人もいて、小さなホテルやレストランもいくつかある(図49)
 この道を進むと、ほどなくマケドニアとの国境がある。菅原君と武田君は、この国境を歩いて越え、近くにあるマケドニアの町からバスに乗って、オフリドやスコピエへと旅を続けるという。そういう旅行は、若い人の特権であろう。益田さんや私にはもうできない。
 検問所の手前で2人を車から降ろし、しばらく見守った。もし何らかの手違いで国境を越えられなければ、彼らがアルバニアの町まで戻るのはかなり距離があるからだ。アルバニア側の検問所は、遠目には土産物屋が並んでいるようにしか見えなくて、軍事車両もない。やがて益田さんの携帯電話に、菅原君から無事国境を越えたと連絡が入った。便利な世の中になったものだ。
 オフリド湖からティラナまでは、100キロほどに過ぎない。途中で昼食を取り、昼過ぎには問題なくティラナに到着して、最初に泊まったホテルにまたチェックイン。翌日の飛行機で、益田さんと私はローマに戻った。(浅野)

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