キプロス美術史紀行 浅野和生・益田朋幸

   益田さんと私、浅野との次の行き先は、キプロスになった。キプロスは、東地中海の行き止まり近くに、飛び石のように置かれた島である。島の東西は、くちばしのように伸びた半島まで入れても約200キロ。幅は数十キロに過ぎない。四国と比べるとふたまわりほど小さい。トルコの南岸からも、シリアの西岸からも100キロそこそこのところにある。私を乗せたエミレーツ航空機は、ドバイを出発した後サウジアラビアやヨルダン、シリアの上を飛び、地中海の上に出たかと思うと、ほどなくキプロス南岸のラルナカ空港に着陸した。
   キプロスは、美の女神アフロディテが生まれて吹き寄せられた島とされ、ギリシア神話の舞台という印象が強い。最近では、主にヨーロッパ人観光客向けのリゾート開発も盛んである。しかしあまり知られてはいないかもしれないが、ここはビザンティン美術の宝庫でもある。本稿は、ヴィーナスにもリゾートにも縁のない日本人中年男性ふたりが、ビザンティン帝国の夢の跡を訪ね歩いた記録である。

 キプロスの歴史について、初めに一言触れておかねばならないだろう。日本でも世界の多くの国でも、「(第二次大戦後の)今が一番平和な時代」と言えることが多い。キプロスには残念なことに、それがあてはまらない。
 キプロスは、古代にはオリエント文化とギリシア文化の交叉する地として栄えた。ローマ帝国が地中海全域を支配すると、当然その属州となる。帝国の東西分割と西ローマ帝国滅亡後は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の統治下で繁栄した。
 1191年には、十字軍に参加したイングランド王リチャード1世(獅子心王)がこの島を征服し、キプロス王国とした。その後キプロスは、しばらく西欧勢力の支配下に入る。1470年にはヴェネツィアがこの島を支配した。その間を通じて、島の文化はビザンティン帝国の影響下にあった。しかし1453年にはビザンティン帝国は滅ぼされ、1571年にはオスマン・トルコ帝国がキプロスを奪った。
 1878年には、英国がキプロスを支配した。英国から独立したのはようやく1960年のことで、しかも現在も英国はキプロスに軍事基地を置いている。このときの「キプロス人」には、ギリシア語を話すキリスト教徒と、トルコ語を話すイスラム教徒とがいた。1974年には両者の民族対立が勃発、それにトルコ軍が介入し、島の北側、約3分の1を「北キプロス・トルコ共和国」として独立させた。ただし、これを国家として承認しているのはトルコだけであり、日本政府は北キプロスを「トルコ軍実効支配地域」と呼んでいる。国連の平和維持軍が駐留して戦争こそ避けられているものの、キプロスは今も分断された国である。
 現在、南側にあるキプロス共和国はEUに加盟し、通貨はユーロが使われている。言語はギリシア語である。トルコはEUへの加盟を希望しているが、キプロスの分断問題は現在も解決の見通しが立たず、加盟交渉でのトルコの立場を難しくしている。(浅野)

ニコシアからカコペトリアへ

   私、益田にとっては、3度目のキプロスである。初めて訪れたのは1987年の春だった。20代後半から、50を目前にする今へ。記憶もところどころ曖昧だが、島中がジャスミンの香りにあふれていたような気がしていた。今回の旅も同じく春だが、あまりジャスミンにはお目にかからなかった。少し時期が違ったのだろうか。その代わり、島のあちこちでミモザの花が満開であった(図1)
   日本で「ミモザ」として通用しているのはミモザアカシア、ネムノキ科に属し、葉も合歓の木のような形をしている。しかし地中海沿岸地方でよく見かけるミモザの葉は柳のように鋭く、日本とは異なる種類である。5メートルを超える大きな木も少なくない。紙の上に黄色の水彩絵具をしたたらせたような、柔らかな花が、濃い緑の葉とよく映える。
   地中海の島は、私にとって特別な世界である。海の中に陸地があり、陸地に囲まれた地中海という海があり、その地中海の中にたくさんの島がある。このエッセイは、ビザンティンの聖堂を紹介することが目的だから、「地中海の島」について、長く語ることはできない。20世紀を代表するイギリスの作家、『アレキサンドリア四重奏』で有名なロレンス・ダレルが、何冊も島をめぐる紀行を書いていることのみ触れておく。『にがいレモン』はキプロス島、『予兆の島』はコルフ(ケルキュラ)島、『海のヴィーナス』がロドス島についての書物である(邦訳のない本は他にもある)。何かにつけて深刻になる兄ロレンスとは好対照、弟ジェラルド・ダレルによる抱腹絶倒のコルフ島の思い出、『虫とけものと家族たち』『鳥とけものと親類たち』を併せ読むと、もっと素敵である。

   さて、キプロスである。ラルナカ空港でレンタカーを借りて、首都のニコシアに向かう。ギリシア語ではレフコシア、白い街という。ニコシアはイギリス統治時代の英語名である。ニコシアの旧市街は、函館五稜郭のような城塞の中にある。大主教座聖堂(大聖堂、図2)にビザンティン美術館が附属する。キプロスで制作されたイコンと、北キプロスから救い出されたモザイクやフレスコの壁画の展示が見ものである。
   北キプロスの住民によって、ビザンティン聖堂のモザイクやフレスコがはがされ、売りに出された。さすがに出所は誰の目にも明らかで、すぐに回収されて、「北キプロスの横暴」をアピールする道具として展示されている。
   これまで2度のキプロス訪問では、この美術館で聖堂撮影の許可をとることができた。しかし担当者である大物の学者が引退したため、撮影許可を出すのは教会に一本化されたのだという。しかも私たちが用意したリストのうち、ここ大主教座で許可を出せるのはカコペトリアのアギオス・ニコラオス・ティス・ステギス聖堂だけ。他の聖堂は、5ヶ所の主教座や修道院で許可をとれ、ということになった。前途にやや暗雲がたれこめる。
   地元の高校生がたむろする大主教座前のサンドイッチ屋で、あぶった豚肉のサンドイッチを食べた。ミネラル・ウォーターの銘柄は「アギオス・ニコラオス」。トルコの発掘で私たちと縁の深い(?)、聖ニコラオスである。聖者の守護があるだろうか。ちょっとしたことで悲観的にも楽観的にもなる。これも旅の楽しみだろう。
   美術史的に価値の高いフレスコをもつ聖堂の多くは、モルフー主教座が管轄している。そしてそれらの聖堂は、キプロス島西側のトロオドス山脈のあちこちに点在する。5ヶ所で許可をとる時間の余裕はないので、明日以降モルフーに撮影許可申請のため出かけることにして、この日はまずトロオドスで根拠地を探すことにした。
   トロオドス山脈に宿をとるとしたらどの村がいいか、現地の人に尋ねると、たいていカコペトリアの名を最初に挙げる。山腹に開けた避暑地の小さな村である。ホテルをいくつか当たったが、夏にならないと営業しない。村の中心の狭い広場には数軒のレストランが軒を並べており、その一軒が2階の部屋を貸している。朝食付きで20ユーロ、他の選択肢がないのでここにした。
   裏には谷川が流れていて、広いヴェランダからは箱根に似た景色が広がる、と書くと素晴らしい宿のようだが、3月半ばの山は寒く、暖房なしでは凍えそうだった(図3)。昼間の太陽光で得た温水がシャワーになるのだが、頭を洗っているとすぐに凍るような水になる……。しかし我々は過酷な宿には慣れている。ビザンティンの教会さえあれば、たいていのことには我慢できる。妙に自虐的なファイトがわいてくるのであった。
   夕食は階下のレストランで、7ユーロのミックス・グリル。肉を各種、炭火で焼いただけのものだが、量も多く味もよい。とくにキプロス名物のシェフタリアという、シナモン風味の肉団子がよかった。(益田)

モルフー往復

 モルフーの主教座がモルフーの町にあるのかどうか、私たちは半信半疑だった。モルフーは、北キプロス、つまりトルコ支配地域にあるからだ。トルコ名ではギュゼルユルトと呼ばれる。でもトルコのイスタンブールにも、ビザンティン帝国以来続くコンスタンティノポリス総主教座はある。キプロス自体が小さいだけにそれほどの距離でもないし、ともかく行ってみようということになった。北キプロスへは、日帰りなら入ることができる。
 車を走らせると、ほどなく軍事境界線がある。戦車など物騒なものは見えないが、こういう場所では写真は撮らないに越したことはない。ブースがいくつも並び、そこへ行ってパスポートを見せる。するとパスポートではなく、別の紙にサインさせられ、「入国印」を押してくれる。パスポートに北キプロス入国のスタンプがあると、ギリシアなど反トルコの立場を取る国に入国させてもらえないから気をきかせてくれているとも聞くし、パスポートにスタンプを押す権限のあるのは「国家」だけだから、北キプロスは自分が国家として認められていないことをわきまえているのだとも聞く。
 次いで、自動車保険のブースがある。キプロスの保険は、北キプロスでは効力がない。先方はそれも知っていて、北キプロスだけで適用される自動車保険をかけさせられる。日帰りしか認められていないのに、最低3日間分の保険をかけなければならない。この種の商法はトルコでよくお目にかかったから、あまり驚きはしない。
 驚いたのは、町並みの明らかな変化である。南では、ギリシアとも西欧ともまた違う独特の町並みであるが、北キプロスに入るとトルコの地方都市そのものである。やや雑然として殺風景な町並みだ。ここまで来れば、トルコの南岸、キリキア地方とは一衣帯水だが、それにしてもトルコ軍の介入以来の数十年足らずで、よくこれだけ「トルコ化」したものだと驚く(図4)
 モルフーの町を車でぐるぐると回った。博物館があり、その横に聖ママスの大きな聖堂がある(図5)。聖ママスの伝承にはいくつかのヴァージョンがあるが、ここキプロスではモルフーの近くで修行をした人ということになっている。だからここは本家本元のアギオス・ママス聖堂である。修道院施設もついた立派な聖堂だが、壊されてこそいないものの、無人であった。
 警察署があったので、「ギリシアの聖堂はないか」と聞いてみた。デリケートな問題を日本人から聞かれたためか、相手は少し緊張しているように見えた。階級の高い警察官が町の地図を出して、「ギリシアの聖堂は聖ママスと廃墟になったここのふたつだけ。活動している聖堂はない」と教えてくれた。
 大きくはない町を一通り回ってみたが、やはり主教座は見あたらない。それに警察署でないと言うのだから、ないのだろう。あきらめてモルフーの町を後にした。
 再び軍事境界線を越えて、キプロスに戻った。今度はキプロス側の警察署があったので聞いてみると、疑問はあっけなく解けた。モルフーの主教座は、やはり北キプロスにはいられず、南のエヴリフーという村に亡命しているのだと言う。エヴリフーなら、カコペトリアからすぐだ。早速行ってみた。(浅野)

エヴリフーのモルフー主教座とアギオス・ニコラオス聖堂

 エヴリフーは山中の小さな村で、そこにやや大きめの民家のような主教座があった。ニコシアの主教座とは大違いだ。ただし高位聖職者は高級車が好きらしく、ニコシアの大主教座には古い大きなベンツとキャデラック、それに新しいBMWが並んでいたが、エヴリフーの主教座にはレンジローバーがあった。ともあれ、調査したい聖堂のリストを出すと、明くる日に許可をくれることになった。
 その足で、アギオス・ニコラオス・ティス・ステギス聖堂に寄った(図6)。「屋根の聖ニコラオス聖堂」という意味の名前だ。ここの調査許可は、ニコシアの大主教座でもらって来ていた。
 この聖堂が建てられたのは、11世紀である。次いで12世紀に、ナルテックスが増築されたらしい。もともとはビザンティン聖堂によくある、いわゆるギリシア十字式でドームを持つ建築だった。その後、12世紀末か13世紀初めに、全体を覆う大きな屋根と壁が、建物の保護のために建設された。外見は聖堂には見えず、まるで大きな民家か倉庫のようだ。そういうわけで、13世紀以後「屋根の」という名を付して呼ばれている。
 内部には、フレスコ壁画が全面に描かれている(図7)。時代は11世紀の部分を中心に、13、14世紀に描かれた部分もある。丹念な筆致、豊かな色彩感。非常に質の高い壁画である。ドームからはキリストが見下ろし、壁には「キリストの変容」「ラザロの復活」「エルサレム入城」などキリスト伝の諸場面や、数々の聖人像などが配置される。
 イコノスタシスの右、聖堂の南東角のニッチ(くぼみ)に特別扱いで描かれているのは、献堂聖人のニコラオスだ(図8)。かつて益田さんたちと一緒に、トルコの無人島で聖ニコラオスの聖堂を発掘した。距離はここから遠くないが、われわれの掘ったのは6世紀の聖堂であるのに対し、こちらには典型的な中期の、主教の姿のニコラオス像が描かれている。その足下に立つのは寄進者である。
 午前中は無駄足を踏んでいささか味気ない思いをしたが、すばらしい壁画を守って山の中にひっそりと立つこの聖堂に来て、すっかり気分が良くなった。(浅野)

キッコス修道院

 キッコス修道院にも寄った。この修道院に伝わる建立の由来を、この種の奇跡譚の典型として書いておこう。
 11世紀、アギオス・ニコラオス・ティス・ステギス聖堂が建てられた頃であるが、この山中でイザヤという隠者が修道生活を送っていたという。キプロス総督マヌイル・ヴトゥメテスは、山で狩りをしていて道に迷い、イザヤの庵にたどり着いた。ところがイザヤが総督に礼儀を払わなかったので、総督は兵士に命じてイザヤを懲らしめ、やがて山を下りた。それからしばらくして、総督は重い病気にかかった。総督は山の中での出来事を思い出して、イザヤに来てくれるよう願った。ちょうど同じときに、イザヤも夢で聖母マリアからのお告げを受け、総督のところへ行って、祈りにより病気を治した。お礼をしたいという総督に、イザヤは首都コンスタンティノポリスの宮廷で大切にされている聖母のイコンをキプロスにもたらしたいと言った。これは難題だったが、ともかく総督とイザヤはコンスタンティノポリスへ行った。皇帝アレクシオス・コムネノスの息女は、総督と同じ病気になっていた。そこで総督は、自分の体験談を皇帝に話した。イザヤが呼ばれ、祈りによって息女の病気を治した。総督とイザヤは宮廷にある聖母のイコンの下賜を願い出、皇帝はそれを聞き入れた。ところが皇帝は、そのイコンの模作を作らせて、模作をキプロスに送ろうとした。今度は皇帝の夢に聖母が現れ、模作を皇帝が持ち、オリジナルのイコンをキプロスに送るよう命じた。そうして聖母のイコンはここにもたらされ、皇帝はここキッコス山中に修道院を建てたという。
 このように修道院は11世紀の創建であるが、その後何度も火災に見舞われた。現在の建築は、18、9世紀に再建されている。さらにあちらこちらの壁にモザイクやフレスコがほどこされているが、これは後期ビザンティン様式を模して現代に作られたものである。新しすぎて、テーマパークのような感じがしなくもない(図9)
 聖母のイコンは今も修道院聖堂にあって、それはルカが聖母子を前にして描いたものであるという。この伝説は、ビザンティンのイコンでは定型のひとつだ。そのイコンは失われたと考えられているが、修道院側では修道院聖堂に収められていると言う。いずれにしても見ることができなかったが、壁に描かれたモザイクによるコピーから見ると、中期ビザンティン時代に流行した「エレウーサ(慈愛)の聖母」のタイプのイコンであるようだ。キッコス修道院は、建物は新しくてあまり私の興味をひかないが、しかし門を出てすぐの道路沿いには近代的な宿泊施設も設けられていて、ここを訪れる信者は多いように思われた。(浅野)

アシヌウとラグデラ

   とんだ誤解から、北キプロスのモルフーに「越境」した顛末は、浅野さんが上に述べたところである。キプロス人からは、「モルフーは占領下だから、主教がいるはずないだろ」と笑われたが、私としては一言言いたい。トルコ共和国のイスタンブール(ビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリス!)において、正教世界の精神的なトップとしてコンスタンティノポリス総主教がささやかに活動しているように、北キプロスでもモルフー主教が、南北キプロスの統一を願って正教の牙城を維持しているのだ、と考えたのだ。おかげ(?)でトルコの田舎町のようなモルフーのありとあらゆる路地を、数時間かけて踏破することができた。村を走る車のナンバープレートの桁数が少ないのが印象的であった。
   いくら探しても主教座が見つからず、ついに諦めて北キプロスを出国する。車を降りて検問所にパスポートを渡す。スタンプを押されてはキプロスやギリシアに入国できなくなるので緊張したが、向こうもわかっていて、挟み込みの紙に出国のスタンプを押してくれた。車に戻って、エンジンをかける。ゲートが開く。徐行してくぐろうとした瞬間、鋭い金属音がキーン、キーンと響いた。
   古来美術史家にはスパイが多い。カメラを手に辺境を旅する職業だからである。著書の邦訳もある著名なイギリス人美術史家が、ソヴィエトのスパイだった実例もある。急ブレーキを踏み、両手を挙げて弁解しようとした途端に、金属音はやんだ。シートベルトをしていない警告音であった……。
   さて、エヴリフーにある「モルフー主教座」から無事に許可を得た私たちは、まずアシヌウに向かった。ニキタリ村の集落から5キロほど離れたところに建つパナギア・フォルビオティッサ聖堂が目的である(図10)。名の由来となったのはフォルビアというヒメハギ科の植物で、女性のお乳がよく出る効果をもったハーブだという。粉ミルクのない中世に、お乳が出ないことは深刻な悩みだったろう。ビザンティンの聖母図像に「授乳の聖母(グリコフィルーサ)」という型があるが、これも若い母親が信心したものか。わが子に先立たれる逆縁の不幸を味わった母は、「ピエタ(嘆きの聖母)」に共感と慰めを見出したことも、想像に難くない。聖母マリアは、女性の喜怒哀楽を映す鏡であった。
   マギストロス(宮廷長官)という肩書をもつニキフォロス・イスキリオスなる人物が、この地にフォルビオン修道院を建立したのが1099年である。パナギア(聖母)聖堂は、修道院の主聖堂(カトリコン)であった。堂内のフレスコに記された銘文から、1105/06年に壁画が描かれたことがわかる。聖堂建設もほぼ同じ時期であろう。キプロスには12世紀末のフレスコが複数残っているが、アシヌウは12世紀初頭の貴重な基準作例(年代が確実にわかり、様式判断の基準となる作例)である。
   聖堂はヴォールト天井をもつ単身廊のバシリカ(単純な長方形の聖堂)であるが、14世紀に浅いドームをもつナルテクスが改築された。キプロスによくあることだが、後代に切妻の屋根が架けられて、外観は聖堂とは見分け難い。世界遺産に指定されたために、近くにはレストランなども何軒かできて、観光客が絶えない。
   12世紀初頭のオリジナルのフレスコは、アプシスの「使徒の聖体拝領」「受胎告知」「聖母の誕生」「聖母神殿奉献」、聖堂西(図11)の「ラザロの蘇生」「エルサレム入城」「最後の晩餐」「聖母の眠り」「セバステの40人の殉教者」などに見ることができる。ナオス(本堂)のその他の部分、そしてナルテクスには、14世紀を中心に何人かの画家の手が認められる。ややこしいのは聖堂南の扉口上に描かれた献堂図図12)で、パトロンのニキフォロス夫妻が聖母に聖堂を捧げる場面が描かれている。銘文もまた12世紀初頭の聖堂献呈のことを語っているが、しかし絵が描かれたのは14世紀である。14世紀にフレスコの描き直しをした際、画家は古い壁画を銘文ぐるみ写したものと見える。12世紀ののびやかで、少し愁いを含んだ作風は、14世紀のずんぐりしたプロポーションとは明らかに異なるので、注意深く見れば、両者の様式の差を間違うことはない。
   西壁の扉口上に「聖母の眠り」を配するのは、ビザンティン聖堂装飾の定番であるが、キプロスの聖堂ではこの原則がしばしば守られない。アシヌウの例は、珍しく「原則通り」である(図13)。臨終の聖母の床に弟子たちが集って、嘆き悲しんでいる。マリアの顔の近くにいるのは、彼女の後半生の面倒をみたヨハネである。かつての紅顔の美少年も、すっかり年老いた。ベッドの向かって右にいるのがペテロ、左がパウロである。キリストが天から下り、赤子の姿をしたマリアの魂を抱いて、天使に手渡そうとする。
   とくに図像学的な特異点はないが、マリアの頭が向かって右にあるのがやや少数派であろう。面白いことに北ギリシアのカストリア、パナギア・マヴリオティッサ修道院に残る「聖母の眠り」が、アシヌウとよく似た図像で、しかも左右が逆である(年代に議論があるが、私は11世紀と考える。図14)。ルネサンス以降の絵画であれば、版画を媒介にして図像が伝播するので、左右が逆になる場合が散見されるが、版画のないビザンティン世界で、なぜ図像の左右が逆転したのだろう。
   マリアの足元にいるパウロは、遠くイングランド、カンタベリー大聖堂のフレスコ(1180年頃)に、「蛇を火に投げ込む聖パウロ」という主題として現れることになる(図15)。ビザンティンの図像が「聖母の眠り」という全体ではなく、人物を切りとった形で伝わった例であろう。カンタベリーのパウロは、アシヌウと同じ向きである。してみるとカストリアのタイプの「聖母の眠り」が、何らかの理由で左右逆転してキプロスに伝わり、さらにパウロのみがイングランドまで遠い旅をしたことになる。当時ヨーロッパに紙は流通していなかったから、伝播した媒体は羊皮紙だっただろう。
   ナルテクスのフレスコで美しいのは、13世紀に描かれた騎乗の「聖ゲオルギオス」である(図16)。この部分を寄進した人が費用を惜しまなかったのだろう。背景をなすラピス・ラズリの青が鮮やかである。「最後の審判」を構成する諸モティーフが、ナルテクスの壁面を埋めている。
   続いてラグデラに向かうこととする。最短と思われたショートカットの道を行こうとしたのが裏目に出て、なぜかペリステロナ村にそれてしまった。当初見るつもりのなかった、アギイ・バルナバス・ケ・イラリオン(聖者バルナバとイラリオン)聖堂に寄って、聖母子を描いたフレスコ断片等を撮影する(図17)。昼食は車内で、甘い胡麻ペーストを練りこんだタヒニという菓子パンをほおばった。
   ラグデラに着いたのが13時半。15時半まで昼休みで閉まっているが、主教様の許可証がきいて、特別に開けてもらう(図18)。数年前まで、この聖堂は老修道士によって守られていた。20数年前の訪問の際には、トルコ軍の侵入によって、何ももたず裸足で逃げ出したことを、身振り豊かに語ってくれた。老僧は亡くなり、今は近くの村人が交代で番をする。
   パナギア・トゥ・アラコス(またはトゥ・アラカ)聖堂は、アラカスというマメ科の植物に由来する名をもつ聖堂、つまり「豆の聖母」である。春にはアラカスの、紫の花が咲く、と本に記されてはいるが、私は3度ともアラカスの花を見ることはできなかった。フレスコに記された銘文によれば、1192年に「アウテントスの息子レオン」なる人物が寄進した。パフォスのアギオス・ネオフィトス修道院(後出)を描いた、首都の画家テオドロス・アプセウディスの作風に極めて近く、恐らくラグデラもテオドロスの手になったものだろう。テオドロスがネオフィトス修道院を描いたのが1183年であるから、9年間、画家はキプロスに滞在して仕事をしたのであろうか。それともいったん首都に帰り、また出張してきたものだろうか。
   聖堂は一つのドームをいただく小規模のギリシア十字式であるが、例によって木造の覆い屋を架けているので、外観は聖堂に見えない(図19)。しかしこのささやかなお堂が擁するフレスコは、ビザンティン美術屈指の作品である。ネレヅィ(マケドニア)、コーラ修道院(イスタンブール)等、名作は数あるが、聖堂壁面のほぼすべてが、完全に近い状態で残っているのはラグデラのみである。1970年代の修復によってフレスコが甦ったとき、あまりの色鮮やかさに、修復家が再現の筆を入れたのではないかと疑われたほどであった(図20)
   ナオス(本堂)北壁には「聖母神殿奉献」、南壁には「聖母の眠り」の2主題が配されて、マリアの生涯の初めと終わりを語る。南壁下部には、聖堂名の由来となったフレスコ・イコン「豆の聖母」が堂々と描かれている(図21)。上部左右には天使がいて、マリアに受難具(十字架、槍、海綿を刺した葦の棒)を示し、将来イエスが受難することを告げる。すなわち聖なる母は、幼子を抱きながら、その子の将来の運命を知っておびえているのである。
   12世紀末の画家の筆は禁欲的で、マリアの哀しみを誇張して描き出すことはしない。マリアの愁い、不安は、ともすると見落とされそうなほどである。しかしこの母は、疑いようもなく沈んでいる。イエスの将来の受難を知る聖母、という図像は「受難の聖母」と呼ばれ、ビザンティン世界に12世紀になって現れた。ラグデラは、年代の確実な最古の作である。その後まもなく、この主題はイタリアに伝わり、爆発的に流行する。
   後期ビザンティンの聖母子図像を注意深く見るなら、ほとんどのマリアが憂鬱な表情をしていることに気づくだろう。イタリアではルネサンス時代になっても、この主題が画家の心をとらえ続けた。レオナルド・ダ・ヴィンチの《聖アンナと聖母子》、ミケランジェロの《階段の聖母》、ラファエッロの《ヒワの聖母》ほか多くの聖母子は、「受難の聖母」主題のイタリア風の解決である(これらの画像はWeb Gallery of Artで簡単に見ることができる)。
   ラグデラの壁画には、「受難の予感」というライトモティーフが一貫している。「豆の聖母」の対面に位置する「キリストを抱く祭司シメオン」は、「神殿奉献」の一部を独立させた主題であるが、シメオンは悲痛な表情で、キリストの将来の運命を嘆いている。幼い子は、その宿命からもがいて逃れようとするようだ(図22)
   名作に触れると興奮して、気疲れがする。短時間に写真をたくさん撮るせいもあるだろう。地図通り車を走らせたはずなのに、なぜか遠回りをして宿に戻った。夢の中にいるようである。夕食までベッドに体を横たえ、全身の力を抜いて休む。浅野さんとは20代の頃から旅をしているが、二人とももう若くない。体を休めつつ、なだめつつ、翌日に備える。(益田)

カコペトリアの旧村

カコペトリアの旧村落

(図23) カコペトリアの旧村落

崩れていく民家の壁

(図24) 崩れていく民家の壁

   カコペトリアは、日本で言えばさしずめ妻籠、馬籠と言ったところであろうか。車の通る道路をはずれると、旧村落が残っている。夕方、そこを散歩した(図23)
 狭い道の両側に、家が建て詰まっている。木造やしっくいの部分が多いので、日本の古い村に少し似ている。もう住み手を失って壊れかけた家もあるが、石積みの土台の上に日干し煉瓦を積み上げ、その上にしっくいを塗っている。手入れを怠ってしっくいがはがれれば、たちまち崩れ始めるわけである(図24)。人が住んでいる家は、どこもきれいにしている。ヴェランダや塀などの、木材の使い方が巧みである。
 谷越しに、大きなホテルが見えた。シーズンオフなので営業はしていない。この建物も、日本の大型観光ホテルに似通うところがある。あまり趣味がよいとは言いにくい。シースルーエレベーターがついているのが見えた。
 村を貫通している道は1本だけで、そこをまた戻った。高原なので、夕方になると風が冷たい。夏になればここもにぎわうのだろう。古民家に手作りっぽいガラス器などを並べた店もあった。そういうところも日本の観光地に似ているが、土産物はもしかしたら中国製かも知れない。日が落ちると急に寒くなって来たので、安宿に戻った。その宿の部屋もやはり寒いのだが。(浅野)

パナギア・トゥ・ムートゥーラ聖堂とアギオス・イオアニス・ランバディスティス修道院

アギオス・イオアニス・ランバディストス修道院 ポスト・ビザンティンの壁画

(図31) アギオス・イオアニス・ランバディストス修道院 ポスト・ビザンティンの壁画

)聖イオアニス・ランバディストスの聖遺物

(図32) 聖イオアニス・ランバディストスの聖遺物

イコン 聖イオアニス・ランバディストス 13世紀

(図33) イコン 聖イオアニス・ランバディストス 13世紀

   ムートゥーラの村も山あいにあり、ここに聖母に捧げられた小さな聖堂がある。建立は1279年から80年とされる。ドームは持たない木造屋根の聖堂で、内部にはフレスコ壁画がある(図25)。アプスには聖母子、その他新約聖書場面や聖人像などが描かれ、寄進者像もある。背景の赤い色が美しい(図26)
 壊れているところも多く、しっくいの面ばかりか石積みの壁体が見えているところもある。外では、何人かの作業員が外壁を丁寧に修理していた(図27)。日本ではあまり有名ではないが、これまでに見てきた聖堂と同様、ここも世界遺産に指定されている。

 ムートゥーラからほど近いところにアギオス・イオアニス・ランバディスティス修道院がある。カロパナヨティスという村から、セトラホス川の渓谷をはさんで反対側に建つ(図28)
 「アギオス・イオアニス」は、日本式に言えば「聖ヨハネ」。この名前はよくある名前であり、有名な聖人だけでも洗礼者ヨハネと福音書記者ヨハネがいる。ランバディスティスのヨハネは、11世紀のキプロスに生まれた人で、18歳で親によって婚約させられたが、それを破棄して清らかな暮らしを続け、22歳で亡くなったと言う。ランバディスティスという添え名は、彼が住んだ村に由来するらしいが、転じて「灯りを持つ人」という意味にもなっている。
 修道院聖堂は、建設年代の異なる三つの部分が集まってできている。一番古い部分は南側のギリシア十字式の聖堂で、11世紀に建てられ、アギオス・イラクリディオスという5~6世紀の聖人に捧げられた。イラクリディオスはキプロスの主教とされる。12世紀に、その北に聖イオアニス・ランバティスティスに捧げた礼拝堂が増設された。しかし14世紀に、12世紀の建物のほとんどが建て替えられ、また11世紀の聖堂と新設の聖堂全体の西側にナルテックスが増築された。15世紀末にはそのさらに北に礼拝堂が建てられており、17~18世紀にも修復や改築がおこなわれている(図29)
 壁画は、12世紀のものが一番古いが、ごく断片的にしか残っていない。南側には13世紀のフレスコがよく残っている(図30)。ドームからは厳めしいキリストが見下ろす。これは13世紀の作だが、アプスの聖母子や聖域のヴォールトの壁画は15世紀だ。北側を中心に、16世紀、ポスト・ビザンティン時代の壁画も描かれている。16世紀の壁画は、ルネサンス風の遠近法がつけられている(図31)。13世紀の部分と15、6世紀の部分がところどころ混じり合っていてややこしいが、しかしどの部分が何世紀の作と、年代をいちいち見定めようとするのは、美術史家の悪い癖に違いない。修道院聖堂の中には、アギオス・イオアニス・ランバティスティスの頭蓋骨を収めた聖遺物容器も安置されている(図32)
 修道院聖堂の南に、僧坊など修道院の施設がある。建物の間には小さい静かな中庭があって落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 修道院の門を出た外に、小さなイコン美術館がある。ビザンティン中期から後期の、非常に質の高いイコンをいくつも見ることができた(図33)。展示や照明もよい。これは意外な収穫であった。(浅野)

クリオン、パフォス

クリオン遺跡 グラディエーターの家床

(図37) クリオン遺跡 グラディエーターの家床モザイク

パフォスの宿からの眺め

(図38) パフォスの宿からの眺め

シェフタリア(肉団子)のサンドイッチ

(図39) シェフタリア(肉団子)のサンドイッチ

   カロパナヨティスから南下し、リマソル(ギリシア名レメソス)を経て、海岸を西に走り、パフォスに向かう。100キロほどの移動であるが、トロオドスの頂付近、針葉樹の森を抜けた際には、霰が舞った。ところが海岸に降りてくると、ミモザの花が鮮やかに咲き誇り、30度を超す炎天である。小一時間のうちに、冬から夏までを味わった。
   リマソル市街の西10キロほどのところにある、クリオンの遺跡に立ち寄る。古代ローマから初期キリスト教にかけての遺跡としては、キプロス島ではここクリオンとパフォスがもっとも見ごたえがある。美しい海に面した考古学公園である。このまま海岸をパフォスに向かって20キロも進めば、「ロミオスの岩」と呼ばれる、伝説のアフロディテ誕生の地に至るが、こちらは私たちの旅の任ではない。
   入口に近いあたりにあるのが、ヘレニズム時代の劇場(図34)と、初期キリスト教時代の「エウストリオスの家」(図35)である。劇場は前2世紀の末に建てられ、後3世紀、カラカラ帝の時代には猛獣の格闘を見せる競技場に改造された。眼下に広がる青い海には目もくれずに、血まみれの争いに人々は熱狂したのだろう。「エウストリオスの家」は、後3~5世紀に建てられた大規模なコンプレックスで、エウストリオスなる富裕な人物が、町の貧しい人のために浴場と涼しい避難所(公民館のようなものか)を寄進した旨のモザイク銘文が残っている。床モザイクの主題は、キリスト教のものである(図36)
   海を左に見ながら遺跡を北西に進んでいく。ミモザの大木が満開で、野もまた黄色の花に埋まっている。とくに重要な遺構は、初期キリスト教時代の主教座聖堂と、ローマ時代のアゴラである。「グラディエイターの家」「アキレスの家」というのは、床モザイクの主題にちなむ呼び名である(図37)
   夕刻にパフォスの町に入った。パフォスは上パフォス(旧市街)と下パフォス(新市街)に分かれており、初め私たちは海岸の下パフォスに宿を探した。しかし海岸線に延々と5キロほどにわたって軒を連ねるのは、ことごとく高級リゾート・ホテルである。上パフォスの崖の上に建つ、清潔な安宿に2泊する。ヴェランダからは180度以上海岸線を見渡せる(図38)。サングラスをかけないと空の青、海の青がまぶしいが、次第に日が暮れ、紫や朱を経て黒くなる景色を眺めながら、ビールを飲み続ける。私がビザンティン美術の研究などという変な仕事を選んだのは、こうした日のためかもしれない。
   夕食はシェフタリア(シナモン味の細長い肉団子)4つと大量のサラダをピタに挟んだもの(6ユーロで満腹、図39)。中東の食事の匂いが濃厚であるのも、キプロスの位置と歴史を考えれば納得できる。そもそもシェフタリアという言葉はギリシア語でない。トルコ語では「桃」の意であるが、関係があるかどうか。(益田)

アギオス・ネオフィトス修道院

 パフォスからの主な目的地は、10キロほど離れた山中にあるアギオス・ネオフィトス修道院である。ここでは修道院長に直接頼んで、撮影を許された。「少しならよろしい」ということであったが、私たちは「少し」を、デジカメのデータ量にして2~3GBと解釈した。
 アギオス・ネオフィトス修道院は、「修道院というものはこのようにしてできた」ということを物語るお手本のようなところである。ネオフィトスという人は、1134年にレフカラの町に近い、貧しい家庭に生まれた。彼は少年時代から修道生活に心を引かれていた。18歳のときに両親によって婚約させられるが、ネオフィトスは生まれ故郷の村を離れ、クツォヴェンディスのアギオス・クリソストモス修道院に入った。彼はそこで何年か修道生活に従事したが、それに満足せず、やがてそこを離れて隠者になろうとした。色々な困難はあったがやがて彼の願いはかない、崖の洞穴を使って、小さな庵(エンクリストラ)を持つことができた。1159年のことである。彼の徳は広く知られ、人々を呼び集めた。ネオフィトスは長生きし、生存中に1191年の十字軍によるキプロス占領と、イングランドのリチャード1世を国王とするキプロス王国の樹立をも体験している。
   16世紀に、この庵を眺めるところに大規模な修道院と修道院聖堂が建てられた。しかしおもしろいのはもちろんネオフィトスの住んだ洞穴の庵の方だ(図40)。小さな聖堂と、聖堂の聖域と、この聖人が居住に使っていた空間が連なっている(図41)
 彼が住んだ洞窟は、奧に棚のようなニッチ(くぼみ)があり、その手前に狭いベッドが岩に彫り込まれ、そしてベッドのすぐ手前には机がある(図42)。「起きて半畳、寝て一畳」にかなり近い。彼はここで膨大な量の文書を書いた。説教、聖書の注解、聖人伝などである。自分の生涯についての記録も多い。多分彼は、自分が死後に列聖されて聖人伝が書かれるのを期待しつつ準備していたのだろう。
 狭い洞窟には、ほぼ全面に壁画が描かれている。聖堂と聖域は、聖書の物語場面や聖人像などである。不定形の狭い空間にひしめく聖人たちは、広い聖堂に描かれたものより生き生きとしていて、こちらに迫ってくる感じがある。
 居住空間のベッドの横には、特に大きな画面の絵がある。キリストを聖母と洗礼者ヨハネが囲んで「デイシス(取りなし)」の構図を形作り、キリストの足下にネオフィトスがひざまずく。聖堂の方には、大天使ミカエルとガブリエルに囲まれたネオフィトスの姿も描かれている。これらの壁画は、1183年にテオドロス・アプセウディスという画家が描いたことがわかっている。肖像画に関して、画家の名前と、存命のモデルの名前が両方判明している例は、ビザンティン美術では数少ない。西ヨーロッパでも、14世紀を待たなければならないだろう。
 また先に益田さんが述べたように、ラグデラのパナギア・トゥ・アラコス聖堂の壁画も、この画家か、またはその工房に属する画家の作と思われる。テオドロスは、コンスタンティノポリスから招かれた画家と考えられている。当時、画家の工房がどのように活動していたかを想像させるおもしろい作例でもある。おそらく、テオドロスは首都に工房を構えていた画家で、要請があれば数人の弟子を連れて各地におもむいたのであろう。そして、首都の名高い画家がキプロスに来ているということが知られれば、他の聖堂からも注文が来て、テオドロス親方はもちろん、その指揮下に経験を積んだ弟子たちも筆をふるったのであろうと思われる。
 洞窟全体の前には、五連アーチの立派な玄関廊がついている。その脇には地下に降りていく階段があって、下では泉がわいている。巡礼地によくある道具立てだ。多くの信者がここで聖水をくんで持ち帰ったことだろう。
 新しい大きな修道院の方にも行ってみた(図43)。修道院聖堂には、それほどすばらしい壁画はないが、聖ネオフィトスの遺骸が銀でおおわれた棺の中に安置されている。聖堂を囲む修道院の中庭では、老僧や猫がのんびりと昼寝をしていた。(浅野)

パフォス

 パフォスの歴史も神話時代にさかのぼる。名彫刻家ピュグマリオンはキプロスの人であった。彼は自分の作った彫刻に恋をし、アフロディテが願いをかなえて、彫刻は生きた女性ガラテアとなった。ピュグマリオンとガラテアは結婚し、息子パフォスが生まれた。この町の名はそれにちなんでいる。古代ローマ時代までは、パフォスはキプロス最大の都市であった。
 だからパフォスの町中にも見どころは多い。まず古い時代のものでは、港に近い海辺に広大な古代遺跡がある(図44)。円形劇場や、「ディオニュソスの家」「オルフェウスの家」などと名付けられたローマ時代の大規模な邸宅などがあり、多くの邸宅の中では床モザイクを見ることができる。港の端には十字軍時代の要塞もある(図45)。海、陽光、古代遺跡、中世のロマン。この辺りが観光の中心である。
 そこからそれほど遠くないところに、初期ビザンティン時代の聖堂や町の遺跡がある。ここには4世紀に七廊式の大きなバシリカが建てられたが、7世紀にアラブ人の襲来によって壊された。その跡地に、11~12世紀にアギア・キリアキ聖堂が建てられて現在も残る(図46)。この遺跡の中には、聖パウロが縛られ鞭打たれたとされる柱がある。また、十字軍に従軍したデンマーク王エーリク1世は1103年にパフォスで死去し、ここに埋葬されている。
 様々な人々が通り過ぎて行ったこの町を、今は多くの観光客が通り過ぎる。海岸通りで食事をしようとしたが、この場所のレストランは高すぎた。密閉した袋に入った賞味期限7日間のクロワッサンを1ユーロで買って、貧しい昼食にする。
 ホテルの近くには市庁舎もあるので町外れではないが、観光客は少なく、レストランも庶民価格になる。食品や雑貨を置いた小さな店があり、益田さんは毎晩そこでビールを買った。
 そこの店主は、フィリピン人の女性であった。以前、日本に住んでいたこともあると言う。フィリピン人の女性が若い頃日本で働いていたなら、それは日本人の男に好感を持てるような職業ではなかったと想像される。そう思って私たちはそれ以上のことを訊ねなかったが、彼女は屈託なく日本語の演歌をいくつも歌ってみせ、それがかえって私たちを居心地の悪い気持ちにさせた。
 この人に限らず、カコペトリアでも出稼ぎに来たらしいアジア人の女性を何人も見た。中国人のように思ったが、国籍はどこかわからない。20歳前後と思われる若さで、ウェイトレスや店員の仕事をしている。キプロスは決して経済水準の高い国ではないが、その山村に出稼ぎに行くにはどういう事情があるのか、私たちの想像が及ばない。(浅野)

キティのモザイク

   この日はキプロスを発つ日であった。パフォスから高速道路に乗って、リマソルを経てラルナカまで、120キロほどの快適な移動である。飛行機の時刻まで余裕があったので、ラルナカの手前で高速を降りて、キティ(古代名キティオン)という村に寄り道をする。ここには6世紀の名高いモザイクをもつ、パナギア・アンゲロクティストス聖堂(天使が建てた聖母の聖堂)があるのである(図47)
   ところがモザイクのあるアプシスは修復中で、足場が組まれて何も見えない。中世美術の旅には、これがつきものである。浅野さんは悔しがったが、仕方がない。私が以前に撮った写真でご紹介することにする(図48)
   もともとは身廊と側廊からなる、木組み屋根の初期キリスト教バシリカ聖堂であったが、火事でその大半を失って廃墟となった。幸いに残ったアプシス部をとりこんで、ドームをもつ石造ヴォールトのバシリカを建てたのが11ないし12世紀のことである。堂内に15、16世紀のフレスコもあるが、何といっても重要なのは、アプシスに残る6世紀の「聖母子」モザイクである。
   キプロス島の初期キリスト教聖堂としては、北キプロスのリトランコミ、パナギア・カナカリア聖堂がある。こちらにも聖母子を描いたアプシスのモザイクがあったが、占領区域の住民によって剥離され、美術市場に売り出された。モノがあまりに有名であったために、幸いに阻止され、モザイクは現在ニコシアのビザンティン美術館に展示されていることは、先に述べたとおりである。
   キティのモザイクは、中央に立像の聖母子を配し、左右には天球を手にした大天使ミカエルとガブリエルが控える。背景は金地一色で、草木は描かれない。厳格な正面観の聖母が私たちを見つめる。天使の翼は孔雀の羽根のようである。古代ギリシア・ローマの自然主義的な表現は姿を消し、ここには抽象的な二次元性の中に、神の世界を描き出そうとする意志が認められる。
   ビザンティン美術の聖母マリアには「神の母 Meter Theou」という銘が付されるが、キティの聖母には「聖なるマリアAgia Maria」という珍しい称号が与えられている。まだキリスト教会で聖母マリアの扱いについて、統一見解が行き渡っていなかった時期の作例である。(益田)

ラルナカ

 国外からの飛行機はほとんどがラルナカ空港に着いて、ラルナカはキプロスの玄関口の役割を果たしている。また海岸通りには、大きな、しかしどこかしら安っぽいリゾートホテルやレストランが並んでいる(図49)。その中にあって、私たちの興味を引くのは、アギオス・ラザロス聖堂である。キプロスを離れる前にここを訪れた。
 新約聖書に書かれた「ラザロの復活」の物語は、絵に描かれることも多く、広く知られたエピソードになっている。ベタニアのマリアとマルタの兄弟であるラザロは病気になった。マリアとマルタは、イエスに弟を治してくれるよう頼むが、イエスはなかなか腰を上げず、そのうちラザロは死んでしまったという知らせが届く。そのときになってイエスはベタニアに行くと言う。ラザロの墓の前でイエスは、「埋葬して4日もたっているから、遺体が臭くなっています」と嫌がる人々に墓を開けさせる。イエスが「ラザロよ蘇れ」と呼びかけると、ラザロは生き返った。
 このラザロは、その後キプロスに来てキリスト教を布教し、主教になったという。やがてラザロは2度目の死を迎え、埋葬された。そこには小さな聖堂、初代のアギオス・ラザロス聖堂が建てられた。こうした「新約聖書第一世代」の登場人物の逸話が残ることからも、キプロスと聖地パレスティナ地方との近さが改めて感じられる。
 現在のアギオス・ラザロス聖堂は、ビザンティン皇帝レオン6世が890年頃に建て直したものである。彼はラザロの遺骨の一部をコンスタンティノポリスに移送する見返りとして、この聖堂を建てたという(図50)
 クリプトに入ると、ラザロの石棺なるものがある(図51)。また、イコノスタシスの手前にはラザロの頭蓋骨が安置されている。人々はガラス越しにそこに口づけをして行く。日本人にとっては異様だが、しかし正教圏ではよく見る光景である(図52)
 ラザロの聖遺物は13世紀の第四次十字軍に奪われたが、その小片が市民によって守られていたのだという。南フランスのマルセイユ近辺にもラザロやマグダラのマリアらが渡って住んだという伝説があるが、これは第四次十字軍が略奪して西ヨーロッパにもたらした聖遺物に由来するのだろう。
 アギオス・ラザロス聖堂は、石積みの、重厚な聖堂である。ドームがあったことが天井の内側からもわかるが、ドームはトルコ占領時代に取り壊されたという。オスマン・トルコは、コンスタンティノポリスのアギア・ソフィア聖堂などのドーム建築にあこがれて、自分たちのモスクにはドーム屋根を建設する一方、キリスト教徒がドーム屋根のある聖堂を持つことを禁じた時期がある。ドームが壊されたという言い伝えは、その歴史と符合する。それでもこのアギオス・ラザロス聖堂は、修道院施設も備え、トルコ占領下でもキリスト教徒の拠点として活動した(図53)。(浅野)

旅の終わり

 ラルナカ空港でレンタカーを返す際に、後輪のホイール・キャップが一つ外れているのに気づいた。これを弁償するしないで少々もめたが、キプロス島800キロの旅は無事に終わった。2010年現在、キプロスの南北統一には目途が立っていない。トルコがEUに加盟するためには、北キプロスを手放すことが条件であろうが、そもそもEU自体がギリシア問題で揺れて、前途も不明な状況である。北キプロスにはクリソストモス修道院という、12世紀初頭の美しいフレスコを有するビザンティン聖堂があるのだが、さて、生きているうちにこれを見ることができるだろうか。
   私たち二人は、ラルナカからクレタ島のイラクリオンに飛んだ。「地中海の島」をめぐる旅は続くのであるが、いったんここで筆を擱く。(益田)

SPAZIO誌上での既発表エッセー(浅野和生氏) 目次

  • 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記1 (no.54 1996年12月発行)
  • 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記2 (no.55 1997年6月発行)
  • 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記3 (no.56 1997年12月発行)
  • 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記4 (no.57 1998年6月発行)
  • 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記5 (no.58 1999年4月発行)
  • 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記6 (no.59 2000年4月発行)
  • クロアチア美術史紀行 (no.68 2009年8月発行)

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