異端	-フラメンコの深淵 5-

日蝕の朝

その日はイベリア半島の全区域で大規模な日蝕が見られるということだった。私はいつものようにチピオナ(註1)郊外の松林の中にあるBARで朝食をとっていた。マンテカ・コロラーと呼ばれるラード(註2)を3センチほどの厚さにこんもりと塗りたくったトーストとエスプレッソコーヒーがアンダルシア(註3)の由緒正しい朝食だ。コレステロールを気にしていては、アンダルシアでは生きていけない。トシーノ(豚の脂身の部分)の塩漬けをうすく切ってパンにはさんだものを朝食にとる人もいる。

時計を見ると午前10時。日蝕の始まる時間まで約1時間。
外に出ると、あたりはすでにひんやりと薄暗くなっていた。BARの隣にある食糧品店に駆け込んで、
「はじまるわよ」と言うと、中で買い物をしていた女性数人が飽食した猫のような無表情な目で私を見た。
「なにがはじまるって?」
「なんか楽しいことあったの? 興奮してるけど」
予想外の反応に私はたじろいだ。
「え‥‥に、日蝕がはじまる‥‥んだけど」  
“日蝕(eclipce-エクリプセ)”という言葉を発音したことを私は急に後悔した。チョリソ(腸詰め)(註4)を切っていたサグラリオが、
「それがどうしたの?」
とまじめな顔で聞き返してきた。
「ええと。ゆうべ、テレビで言ってたの、見なかった? エクリプセよ、太陽が蝕するの、月の影が太陽光線をさえぎって、つまりその‥‥」
私は言葉に詰まり、絶望的に空を指差した。冷たい風が吹きはじめ、周囲にはざわざわと不吉とも言えるような感じさえ漂い、私は戦慄をおぼえて思わず身震いした。
「ああ、そういえば今日、日蝕だって言ってたけど」
「それがうれしいわけ?」
女性たちは淡々と買い物カゴを充填している。私はすがる気持ちで向かいにあるキャンプ場に目を馳せたが、今は5月。避暑地のキャンプ場に人がいるわけもなかった。巻き毛のやせた犬が一匹、水をさがしてうろついている。  

昔、小学生だった頃、私たちは日蝕を見るために、数日前からわくわくしながら暗緑色の小さな長方形のガラスを用意し、世紀のスペクタクルを一秒でも逃すまいと日蝕の始まる2時間前から太陽を5秒おきに観てはいなかっただろうか?授業は日蝕観察に充てられ、私たちは呆けたように宇宙の神秘に感嘆し、何十年に一度の貴重な体験に巡りあえた偶然を世界に感謝し、その興奮は夜までつづいたのではなかったか。‥‥あれは他の惑星での出来事だったのだろうか。

買い物をそそくさと終わらせてバイクに乗り、松林を通り抜けて家に向かう途中も私は落ち着かずに太陽をちらちらと見ていたが、道端には誰一人として太陽を見あげている人はいなかった。空が昔の“総天然色”のような色調に変化していた。家に着くなり溶接に使うマスクで太陽を観察しはじめた私を、マヌエル(註5)が「あわれな奴だ」という顔で冷ややかに一瞥した。自分の行為を正当化するために、私は科学的な説明を試みた。
「つまりね、太陽に月の影が映ってるわけよ」
「ほお!」
マヌエルが後ろにのけぞり、おおげさに驚くふりをしてみせた。マヌエルはヒターノ(註6)で、フラメンコの唄い手だ。読み書きができないにもかかわらず、彼の頭の中には三日三晩唄いつづけても尽きないほどの膨大な歌詞が整然と詰め込まれている。
「つっきっのかぎぇ! 月に影があったとは。これはこれは。ふあっふあっ」
完全にバカにした口調でマヌエルが大口を開けて笑うと、派手な金歯(註7)が薄暗い大気の中で鈍い光を放った。
「こう、太陽と月と地球が一直線になってね」  
私は太陽を気にして上をちらちらと見ながらも、地面にローズマリーの枝で太陽と月と地球の相関図を描いた。
「ほおおおお。これが太陽。でもって。おおっ。こ、こんなところに月があるとは知らなかった。そして、これが、ちきゅう。ちっきゅっうっ。」  
公転の軌跡を描き加えながら、
「そうです。地球と月は自転しながら公転もしているわけです」
私はなぜかていねいな口調で応対した。
「太陽も自転はしていますが、公転はしていません」
ここまで言ってしまってから、我ながら本題からそれてしまったことに気づき、私は口をつぐんだ。
「・・・これだからインテレクトゥアレ(知識階級)は無知なんだ、自分が何を言ってるのかもよくわかってない」 マヌエルが鼻をふくらませて叫んだ。一部、鋭い真理を含んでいることに私はぎくっとした。太陽はいよいよ翳りを増し、ワーグナーか何かをバックミュージックに従えて、日蝕がいよいよ始まるという雰囲気をいやでも盛り上げていた。
「いつも言ってるけど地球は動かない。不動のものだ。99歳まで生きてたじいさんが言ってたんだからまちがいないっ」  
マヌエル家の説によれば、地球は不動不滅のもので、太陽や月は勝手に昇ったり隠れたりしている舞台の書割のような存在でしかない。
「だって、eclipseっていう言葉が出てくる歌詞、いくつか唄ってるじゃないの。信じてない現象を唄ってるわけ?」
と反論すると、マヌエルの笑い顔が一瞬停止した。が、千年の知恵を身に付けた狡猾なヒターノである彼は、即座に返答をしてきた。
「たしかに日蝕は存在する。唄に出てくることは、すべて真実だ。真実ではないことは唄えない。しかあし。あれはただの自然現象で、月の影などというたわごととは関係ない。だいたい、月に影があるわけがない」  論理的な解説をあきらめた私は、即物的に証明をしようとした。
「ほら、太陽を見てみてよ。いつもより黒っぽいでしょ。空も暗いし」
太陽の端が欠けはじめた。オスティア(註8)をかじったみたいだ、ととっさに思った。
マヌエルは一瞬空を見あげ、
「そうか?」  
と首をかしげた。
「なにしろね、これ逃したらあと数十年観られないかもしれないんだから。生きてるうちにもう二度と体験できないかもしれないのよ。それがどういうことかわかる?」
ガラス越しの太陽をうっとりと見上げながら弁解がましく言うと、
「それがどうした」
と言ってマヌエルはふんぞり返った。
‥‥たしかに。日蝕を見ないからそれがどうしたというのだろう。日蝕を見そこなったからといって、食いはぐれるわけでもなければ、世界が終わってしまうわけでもなかった。でも。人はパンのみにて生きるにあらずなのではないか。‥‥しかし、本当にそうなのだろうか?

私は人生の真実という大きな壁に突然立ちはだかれた感じがして、口をつぐみ、なんとなく戦いに負けた思いで天体の観察をつづけた。マヌエルは勝ち誇った顔で、古いサエタ(註9)を唄いはじめた。

los cielos se oscurecieron 空が暗くなった

se eclipsó el sol y la luna 太陽と月が蝕した

porque lo ponen en cueros なぜなら(イエス・キリストを)裸にして

y le dan azotes crueles 円柱に縛りつけ

amarraito a una columna 残酷な鞭打ちを与えるからだ

唄い終わった後、
「唯一の真実はこれだ」
とつぶやいた。
4分ほどの日蝕が終わり、太陽は呪縛から解き放たれ、忌まわしい月の影からついに逃れ出た。ちょうどそのとき、
「カナコ、何してるの?」
塀越しに声が聞こえてきた。隣家のひっつめ(註10)が不思議そうに私を見ている。
「・・日蝕」
ちょっと躊躇して答えると、
「あっ、うちの子が今日学校で見るってそういえば言ってた」
とひっつめが言った。 ――ああ、よかった。 他にも日蝕を観察する人間がいることを知り、私は心の底から安堵感を抱いた。
「ふーん。そういうものに関心があるとは知らなかったわ。あ、ところで今度の日曜、パブロのプリメラ・コムニオン(註11)だから、よかったら来て」
ペピの脇にはびん底メガネをかけた8歳くらいの愛くるしい男の子、パブロが佇んでいた。
「え、その子‥‥」
「そう、妹マリ・カルメンの子、おぼえてるでしょ?」
「あ、もちろん」
声が少しかすれてしまった。どうして私がこういう反応をするのかというと、この子はペピの二十六人兄弟の末の妹マリ・カルメンと兄ホアン・アントニオの間に出来た、つまり近親相姦の結果だといううわさがチピオナの町中に飛び交っていたからだった。真偽のほどはまるっきり不明だった。マリ・カルメンはパブロを出産した5年後に、隣町の青年と教会で正式に結婚し、パブロは善きカトリック教徒としてコムニオンを与えられるまでに成長したというわけだった。真実だとしたら大変な話だが、うそだとしたらひどい話だ。
思案にふけっている私の反応を見て、ペピが眉をひそめて尋ねた。
「もしかして、中国にはプリメラ・コムニオンないの?」
私は中国ではなくて日本の出身だが、ここではそれは大した問題ではない。
「私たち、カトリック教徒じゃないもんで」
と言うと、ペピはぎくっとし、
「ケ・ラスティマ!(かわいそうに!)」
とため息をついた。カトリック教徒ではなく、プリメラ・コムニオンを祝うこともない私たち日本人を彼女は
「かわいそう」
だと思ったのだった。
「あっ、でも七五三って言って、プリメラ・コムニオンとだいたい同じようなものがあるから。名前が違うだけで、同じよ。だいじょうぶ、心配してくれなくても」
とあわてて言うと、ひっつめは心からほっとした顔で
「ああ、よかった」
と言った。
ふと足もとを見ると、砂の地面に描かれた地球と月と太陽の相関図を、愛猫のコストゥレーラが前足でしゃかしゃかとかき崩しているところだった。数百年前、
「それでも地球は動く」
と叫んだ(実際には小声でつぶやいたらしいが)ガリレオの血と汗と涙の結晶は、猫のトイレとして儚く消えたのだった。

異端審問

ndebé del cielo 天の神

en la inquisición 異端審問

como consiente undebé del cielo 天の神はどうして容認するのか

que yo pase tanto 私がこんなに辛い思いをしていることを

「異端」はスペイン語では「herejía(エレヒーア)」。herejíaという言葉はギリシア語の「hairesis(ある教義を信仰するグループ)」から来ている。スペインの国語辞典『real academia española』を見ると、この言葉には「異端」の他に「不適切な行動」「第三者に対する重大なののしり言葉」「ある人または動物に対して不正な害やひどいダメージを与えること」などという意味がある。

tú me la tienes que pagar 犯した罪はつぐなわなければならない

has echo conmigo herejía 私にひどい害を与えた

y no te puedo perdonar あなたを許すことはできない (ブレリア・パラ・エスクチャール)(註12)

異端審問は中世に南ヨーロッパを中心に行われたが、スペインの異端審問は特筆されることが多い。異端とはあくまでもキリスト教徒の中で正統ではない者を摘発することだが、スペインではモリスコ(キリスト教の洗礼を受けたモーロ人)(註13)やコンベルソ(やはりキリスト教の洗礼を受けたユダヤ人のこと)を見張る、コントロールする、あるいは破壊するために異端審問が巧みに利用された。他の国の異端審問と違い、スペインではローマ法王の意向を仰がずに異端者を裁くことができ、また財産を自由に没収することができた。
スペインでは異端であるかそうでないかは死活にかかわる重大な問題であったのだ。

異端審問において「異端」と判断された場合には、財産を没収される他にもさまざまな処罰があった。たとえば「アナテーマ(anatema)」と呼ばれる村八分によく似た制裁が行われることもあった。また、「サンベニート(sambenito)」と呼ばれる、赤い聖アンドレスの十字架の付いた黄色いウールの衣服を着せられ、はだしで町を歩かされるのも制裁のひとつである。スペインでは黄色は不吉な色とされているが、その理由はこのサンベニートが黄色い色をしていたからだとも言われている。ユダヤ人はモーロ人に比べれば小数ではあったが、自分のアイデンティティを奥深くに隠しながら排斥に耐えてこなければならなかった点では同じで、「marrano(マラーノ-豚)」などと呼ばれ、かなり痛烈な扱いを受けた。

eres como los judíos お前はまるでユダヤ人のようだ

aunque te queme la ropa 着ている衣服を焼いても

no niega de lo que has sido 自分が誰かということを否定することはできない

ヒターノは異端審問の砲火を直接には受けないで済んだが、これはヒターノたちが特定の宗教を持っていないため、カトリック教と真っ向から対峙することはないという性格があるためだ。また、流浪の果てにスペインにたどり着いたヒターノたちには没収すべき財産もないという事実が彼らを救ったと言えるかもしれない。

異端とはつまり正統ではないということである。正統を大多数、異端を少数派と言い換えることもできる。異端は時と場所によって簡単に逆転する。日蝕を観察することが異端であり、コムニオンを祝わないことが異端である時代と場所がある。逆に日蝕を観察しないことが異端であり、コムニオンを祝うことが異端になることもしばしばある。スペインのように異民族と異宗教が常に混在してきた共同体では、何が正統で何が異端であるかを瞬時に把握しなければ生き残ってこられなかったという現実がある。

フラメンコというと一般にヒターノが築き上げた芸能というイメージが強いようだが、実際にはモーロ人の存在が大きく関与している。旋律的にもアラビア音楽の影響は顕著だが、現在唄われている歌詞の中には「モアシャハ」(註14)と呼ばれる9~10世紀の詩に起源を持つものがかなり多い。

西ゴート王国を滅ぼしたイスラム帝国は711年から1492年にわたって800年近くもスペインを支配したが、この時代にアラビア語で書かれた詩がモアシャハである。モアシャハは1行8音節で(フラメンコの歌詞も1行8音節)、最後の部分は「ハルチャ」(註15)と呼ばれ、この部分だけがアラビア語ではなくてアルハミヤー(当時の民衆の言葉をアラビア語で表記したもの)で書かれているというユニークな形式を取っていた。このハルチャが原型とほとんど変わらない形でフラメンコの歌詞として現在も脈々と唄われつづけているのである。ヒターノがスペインに入り、フラメンコのゆりかごと呼ばれるヘレス・デ・ラ・フロンテーラ(註16)に定着したのは今から約500年前のことだから、フラメンコの原型はヒターノたちがアンダルシアに到着する数百年前にはすでに形づくられていたことになる。ハルチャを起源とする歌詞には感情の突出とも言えるような、直接的なものが多い。たとえば、

ponte donde a ti te vea 私の見えるところに立って

gustito le da a mi cuerpo 私の身体に快さを与えるから

aunque otra cosa no sea それ以上のことではないにしても

この歌詞は日本語に訳すとかなり意味がわかりにくいが、スペイン語でも聞いた瞬間に意味を理解する人は少ない。結婚前の若い男女が遠くから目を交わしただけで周囲が大騒ぎになるといったような、繊細で微妙なイスラム文化を把握していないと理解しにくい歌詞がフラメンコにはかなり存在する。

スペインのヒターノはモーロ人とかなり深く混血してきた。レコンキスタを境にスペインでのモーロ人の立場は正統から異端へ、大多数から少数へと逆転したわけだが、彼らが同じ少数民族であるヒターノと共生し、混血することも多かった。この共生体にはコンベルソであるユダヤ人も加わり、この三つの民族の文化が混じりあい、高度に洗練されたエッセンスという形で練り上げられたのがフラメンコという芸能である。マヌエル自身、ヒターノではあっても、実際にはユダヤ人とモーロ人の血が微妙に混血している。
異端者である彼らは常に周辺部落、つまりアウトサイダー部落に居住してきた。周辺部落でも特に有名なものとしてはセビージャ(セビリア)のトリアーナ地区などがある。セビージャから見ると「川向こう」に存在するこのトリアーナ地区には、現在は世界各国の人間が住んでいるが、数十年前までは完全な周辺部落で、住民たちは夜になると焚き火を囲んでフラメンコに興じることが多かった。このトリアーナは無数の唄い手や踊り手、弾き手を輩出している。

周辺部落が周辺部落であるために大切なことは、常に大多数(正統)の居住する区域のすぐ近くに寄り添うようにして存在するということである。まったく独立しては存在していけない。物乞いをしたり、物品の売買をしたりなどという適度な交流があり、何らかの形でお互いに共存関係にあるのが正統と異端である。
世界のほとんどの地域において、芸能というものはもともと異端者あるいは身分の卑しい者、娼婦などといったいわばアウトサイダーたちが担ってきた。コリン・ウィルソンによれば「アウトサイダー」の定義はひどくストイックで厳密であるが、ここではただ単に「内部(正統)に完全には属していない者」というふうに考えたい。 フラメンコという芸能もヒターノやモーロ人、ユダヤ人といった異端者の間で発達してきた。内部には完全には属していない、あるいは迫害されているという緊張感がフラメンコという芸能には不可欠である。表現者は異端者でなければならない。異端であるというフラストレーションがばねになり、踊る(あるいは唄う、弾く)強さを与えてくれるのだ。フラメンコとはそういう芸術である。

「世界平等人類みな兄弟姉妹」と誰もが考え、生活から宗教の影響力が薄れ、混血が進む現在、「異端」という概念はかなり薄まりつつある。たとえばスペインでは養子を迎える人が日本と比べると格段に多いが、養子の半分以上はロシアと中国から来ている外国人である。毎月2000人以上の中国の子どもが養子として迎えられているそうで、このままで行けば、20年後には中国の血を受け継ぐスペイン人がたくさん出現しはじめることになる。  民族や宗教の観点から「異端」として存在しつづけることは難しくなる時代がやってくるのだ。表現者は意識的に異端である環境を作りだし、そこに身を追い詰めていかなければならなくなる。  マヌエルと私が、新しく建てたばかりの瀟洒な別荘よりも、「瓦礫の山」と言った方が正しい周辺部落の田舎家に居心地の良さを感じるのも、強いて異端の環境に身を置く表現者としてのストイックな姿勢と言えなくもない。

スモモの攻防  

太陽はいつもの輝きを取り戻し、気温が上がりはじめていた。正午。摂氏30度。5月のアンダルシアでは特に珍しくもない気温だ。あと1週間ほどで海水浴のシーズンが始まる。外庭に出ると、鋭い棘で武装したうちわサボテンをマヌエルが余念なくスモモの木に吊り下げているところだった。スモモが熟すまでにはまだ3週間ほど待たなければならないが、おいしそうに色づいてきたスモモを隣のヒターノの子どもたちが放っておくわけがない。彼らは朝の4時に音もなく外庭に侵入し、まだ青くて固いスモモにかじりついて熟し具合を試し、子ギツネのように悪態をつきながら歯型の付いたスモモを地面に散りばめていくのだった。ちいさな歯型の付いた黄色いスモモは蝕している太陽のようだった。うちわサボテンは彼らがスモモの木を襲撃しないための工夫だった。
「もう、食べごろ?」
 愛くるしい巻き毛の男の子が門のところから尋ねてきた。卵返し(註17)だ。今年がプリメラ・コムニオンに当たるはずだが、彼らヒターノの子どもは特にそういうものを祝ってもらうこともない。歯型付きスモモの張本人である彼は、「それは自分の仕業ではない」ということを証明するためにわざわざこういう質問を私たちにしたのだった。
「試してみる?」
一番陽の当たる枝に生っている大きな実をもいで手渡すと、卵返しは
「毒、入ってない?」
とあどけない顔で聞いてきた。 
――ということは「異端」はまだ存在するのだ。 この言葉を聞いて私は感心した。心配する必要はなかったのだ。異端を意識的に探し出さなくても、異端は脈々と生き続けている。ヒターノというだけで濡れ衣を着せられた時代、毒を盛られた時代の異端を21世紀生まれの彼らは自然に呼吸している。
――あと百年は安泰だ、と私は特に根拠のない数字を頭の中ではじきだした。
「今日の午後、猛毒を撒く予定だ。食べたらいちころだからな」
とマヌエルが言うと、卵返しはしたたかな笑みを浮かべて風のように走り去った。

unos dicen que muera, muera ある者は「死ね、死ね」と言う

otros dicen de porque 他の者は「どうしてか」と言う

qué delito he cometido 何の罪を犯したというのか

pobresito de caló かわいそうなヒターノ

(註1) チピオナ(Chipiona) スペイン南端のカディス県に位置する海辺の町。夏には近隣からの避暑客で人口が10倍に膨れ上がる。筆者が1993年から2009年まで在住していた。

(註2)  マンテカ・コロラー(manteca colorada) 「赤いラード」という意味で、豚のラードににんにく、塩、オレガノ、ローリエ、赤ピーマン粉などを加えたもの。ひき肉の入ったもの、ゆでた角切り肉の入ったものなどもある。

(註3) アンダルシア(andalucía) スペインの地方自治体のひとつ。最南部に位置する。フラメンコはスペインを代表する芸能のように思われているが、実際にはこのアンダルシアの芸能である。

(註4) チョリソ(chorizo) スペインで最もポピュラーな腸詰め。豚肉を挽いたものに赤ピーマンの粉、塩、黒こしょう、にんにく、ナツメグ、オレガノなどを加えて混ぜ、腸詰めにして乾燥させる。

(註5) マヌエル 稀代のカンタオール(フラメンコの唄い手)、マヌエル・アグヘタ(Manuel Agujeta)。筆者の前夫。純粋な形のフラメンコの最大にして最後の後継者とみなされている。

(註6) ヒターノ(gitano 女性ならgitana) スペインのロマ民族のこと。ジプシー。「ジプシー」と同様、「egiptano(エジプトの、エジプト人)」を語源としている。この言葉を差別的だとみなして「ロマ」という言葉を積極的に使っていこうという運動がスペイン国内外にあることはあるが、ヒターノ自身は誇りを持って自分たちを「ヒターノである」と自称している。

(註7) 金歯 20年以上前にメキシコで交通事故に遭ったマヌエルは、前歯6本を18金の差し歯にしている。

(註8) オスティア(hostia) 聖体。イースト菌を使わない円形の小さなパン。

(註9) サエタ(saeta) 唄の形式のひとつで、セマナサンタ(聖週間)のときに、キリストやマリア様のパソ(山車)に向かって唄われる。「矢」の意味があるという。16~17世紀にはすでにフランシスコ修道会の僧が唄い、あるいは唱えていたという記録が残っている。フラメンコではシギリージャという唄の形式にのっとって唄われる。

(註10) ひっつめ チピオナの周辺部落に住む隣人。髪をひっつめにしているので「ひっつめ」というあだなが付いた。

(註11) プリメラ・コムニオン(primera comunion) 聖体拝領。8~9歳になるとスペインでは聖体(オスティア)を拝受する儀式を行う。年々この儀式はエスカレートしてきており、近年では3500ユーロほどの出費が平均となっている。出費の主な内訳は衣装代、披露宴の費用、写真代など。披露宴は以前は朝食の時間に当たっていたらしいが、近年は豪華な昼食をふるまうのが一般的になった。女子は純白のドレス、男子はセーラー服か海軍大将の制服を着るのが一般的。

(註12) ブレリア・パラ・エスクチャール(bulería para escuchar) 3拍子系の唄の形式で、最もヒターノ的な形式とも言える。

(註13)モーロ人 イベリア半島に定着したアラブ人やベルベル人のこと。

(註14) モアシャハ(moaxaja) アラビア語で「二重のベルト(あるいは首輪)で装飾された」というような意味。1行8音節の詩形のことを指し、アブデラマン3世(891-961)の時代にMuqaddam ibn Muafa(コルドバ県カブラ村の詩人、9~10世紀)によって創始されたと言われている。その最後の部分はハルチャと呼ばれていて、当時の民衆の言葉であったロマンス語で唄われていることが後年発見され(アルハミヤーと呼ばれるアラビア表記のために発見が遅れた)、ヨーロッパのロマンス文学の起源に関しての定説が大きく塗り替えられることになる。

(註15) ハルチャ(jarcha) 「出口、終末」といったような意味。 アラビア語で書かれた長詩モアシャハの末尾の部分で、ロマンス語で書かれている。 アブデラマン3世(abderramanⅢ)

(註16) ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ 南スペイン、カディス県にある都市。フラメンコの揺りかご、またはシェリー酒の産地として名高い。アンダルシアが世界に誇るカルトゥジオ種(アンダルシアン種)の馬もここが産地。

(註17) 卵返し 隣家の子ども。「卵返し」はあだな。近隣の闘鶏の卵を普通のにわとりの卵とすり変えて持ち去るのを趣味にしているため、この名がついた(闘鶏のひよこは普通のひよこよりも高く売れる)。

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