消えたローマの海港都市 オスティア1 小川 熙

  古代ローマが次々と先住民を征服して版図を広げて行ったとき、各地に新しい植民市を築いた。近代ヨーロッパの多くの都市はその礎の上に発展したのである。イタリアでいえばミラーノ、ボローニャ、ヴェローナなどなど。しかしローマの滅亡とともに役割を終えて消滅した都市もあり、それらは今日 寂寞とした遺跡として往時を偲ばせるが、近年の考古学的調査によって、ローマ文化研究の重要な資料を提供している。そうした古代都市遺跡のうちの三つを取り上げて紹介する。

オスティア地図

『世界美術大事典』(小学館 1988年)より


個人的な序章

  ローマから最も近い海といえば、都心からテーヴェレ河にほぼ平行するように南西に向かうオスティエンセ街道を車で25キロほど走ったところにあるリド・ディ・オスティアという地中海沿岸の町である。夏にはヴァカンスに行けない市民が日帰りできるもっとも手近な海水浴場としてにぎわうが、とりたてて風光明媚な場所でもなく、砂浜も貧弱で、地中海沿岸としては魅力に乏しいところである。
  そこより少し北に離れた疎林の中に、「ズバルコ・ディ・エネアSbarco di Enea」という一軒の瀟洒なレストランがあるが、近くのフィウミチーノ港で獲れる魚料理が秀逸で、私はかつてローマ滞在中の12年間にしばしば車を飛ばして食べに行ったものだ。この奇妙な店名は「アエネアスの上陸」という意味であり、つまり伝説のローマ建国の祖アエネアスが、トロイから亡命して最初に上陸したのがすぐこの近くのテーヴェレ河口の港だったとされることに因んだものだ。ローマの歴史はすべてここから始まったという思いが、とりわけ観光客をうれしくさせてくれるだろう。そして事実、ここから徒歩で3分のところに、現代のオスティアとは離れたかつての港町オスティア・アンティーカOstia Anticaの遺跡がある。
  遺跡は有料で公開されおり、中に入ってすぐにスラの時代(前1世紀)に造られた市壁の門の一つポルタ・ロマーナ(ローマ門)の跡を過ぎると、糸杉と松に囲まれた広大な廃墟が眼前に広がり、たちまち心踊らされる(図1)。一部に残る古代の舗床の部分を除けば、ほとんど露出する地面いっぱいに四季を通じて生い茂る名もなき野花が風に揺れ、二千年の時間差を歩む人の心を愛撫してくれるのだ。古代ローマの都市遺跡として最も有名なポンペイとの比較については後に詳述するけれど、現代の風景としていうならば、ポンペイは完全に石畳で舗装された都市空間の幻影であるため、緑の草木がほとんどないのに対して、こちらの方がはるかに自然に包まれ、それだけに古代人の生暖かい息吹そのものが感じられるような錯覚に捉らわれるのかもしれない。ローマ遺跡の観光地としてポンペイ(およびエルコラーノ)が圧倒的に人気があるというのは、火山の噴火によって一夜にして都市全体が埋没するという稀に見るドラスティックな悲劇によって、人々の関心が高められるためであり、それは至極もっともなことではあろうが、特に日本人の団体旅行の対象からはずれたオスティア・アンティーカの魅力が、一般に知られていないことは不当であり、私は残念に思う。もし私にローマおよびその近郊で最も好きな三つのスポットをあげよといわれたら、ためらうことなくその一つとしてオスティアをあげるだろう。(あとの二つは秘密にしておく。)

創設と終焉

  伝説によればアエネアスの孫に当たるロムルスがローマの地に都市を開き、王政を築いたのは紀元前775年とされるが、パラティウムの丘の北側を流れるテーヴェレ河を、水運に利するために河口に向かって勢力を伸ばし始めたのは、第4代の王アンクス・マルキウスのとき(前620頃)とされている(1世紀前後の歴史家ティトゥス・リウィウスによる)。そして河口の左岸(南側)に最初の都市が築かれ、「入口」を意味するラテン語ostiumをもじってOstiaと名づけられた。当初この一帯を必要とする目的は、河口付近に広がる塩田を確保することにあった。一時期のローマ兵士の給料が塩で現物支給されたことはよく知られているが、その塩の塊がテーヴェレを遡って運ばれたのである。ちょうどいまフィウミチーノ空港があるあたりの河口付近の右岸(北側)はエトルリアの都市ヴェイイが占有していたが、前396年にローマがこれを制圧すると、両側の塩田を領有することになる。
  しかしやがてカルタゴの脅威が増大するにつれ、オスティアはティレニア海防衛の拠点となり、城塞が築かれ、河口は軍港として整備された。しかしこの段階ではまだ都市としての体裁が整えられていたわけではない。城壁は内陸から運ばれた凝灰岩で造られたが、その後商業区域に組み込まれて姿を止めていない。なおテーヴェレ河口付近は1557年の大洪水によって地形が変り、古代には現在よりも南寄りに、つまり現在の遺跡に接する地点を流れていた。
  もうひとつ特筆すべきことは、文献資料によれば、前5世紀頃からすでにローマは食糧の主要を占める小麦を、南イタリアとシチリアのギリシア植民市から輸入しており、人口増加の一途を辿るローマにとって外港としてのオスティアの重要性は計り知れないものだったのである。ローマを起点とするオスティア街道もすでに建設され、陸上による交通も行われていたとはいえ、古代における物流にとって水運がはるかに便利だったことを念頭に置く必要があるだろう。
  そんなわけで前2世紀にカルタゴとの間のポエニ戦争が終結し、もはや軍港としての重要性を失うと、代ってオスティアは商港として変貌することになる。(ちなみに後のアウグストゥスは海軍基地をナポリに近いミセーノに移設した。)この時点からオスティアは法的にもローマの植民市となり、都市としての建設が着手される。すなわち前述のスラは前80年頃、1756メートルの城壁を構え、69ヘクタールの都市空間を囲んだ。ローマと直結する街道に向かう「ローマ門」、南東からの入口としての「ラウレンティーナ門」、河口から海に向かう「マリーナ門」(いずれも現代イタリア語読み)の三つの城門を設けた。河に面した北側だけは開いていた。  帝政期に入ると、アウグストゥス、ティベリウス、クラウディウス、ドミティアヌスなど歴代の皇帝たちは、他のすべてのローマ植民市に共通する理念のもとに、オスティアの都市設計に意を用いた。すなわち「ローマ門」から「マリーナ門」までの東西方向の道路デクマヌス・マクシムスDecumanus maximusと、南側の「ラウレンティーナ門」から入って南北方向に伸び、デクマヌスと直交するカルドゥス・マクシムスCardus maximus(図2)の二本の主軸道路を造り、その周辺に種々の機能をもった街区を配置するやり方である。デクマヌスに接してアグリッパにより、ローマ都市に不可欠な劇場が建てられ、2世紀末に煉瓦造りで完成した。現在は部分的に改修されてはいるが、4000人ほどが座れる扇形の観客席と、オルケストラ(舞台)の部分はほぼ原形を留めており(図3)、スケネ(楽屋)は完全に消滅してしまって裏側が素通しだが、その裏通りに立ち並んでいた列柱のマスケラ(仮面)を象った彫刻(図4)がいまも残っている。
  なおギリシア・ローマ世界に数々現存する劇場遺跡では、いまもなお、しきりに演劇の上演がなされており、イタリアではシラクーサで毎年六月頃開かれる古代演劇祭が特に知られているが、オスティアでも時にギリシア劇の公演があり、私は12年間の在留中に二回だけ見に行ったことがある。実はもう40年も前のことで、大切に保存していたプログラムがどうしても見当たらず、うかつにも演目を覚えていないのだが、一回目はたしかソポクレスかエウリピデスの有名な悲劇であり、二度目はこの古代劇場を利用した超モダンの芝居だったと思う。いずれにしてもひんやりとした石のシートに座りながら涼風に吹かれ、マイクもなしにマイムを多用しながら俳優たちが演じる光景を眺めていた夏の夜のひとときは、私にとって夢のひとかけらのようである。
  すでに共和政末期にはデクマヌスとカルドゥスの交差点にフォールム(公共広場)が造られる。ただローマのフォーロ・ロマーノと違って、面積も小さく、現在は遺構として見るべきものはほとんどない。しかし前1世紀の終り頃フォールムの北側に、ローマ三神(ユピテル、ユノ、ミネルウァ)を奉ったカピトリウムCapitolium(図5)が建設され、この一帯が聖・俗ともに市政の中心となった。20段の石段の上の煉瓦造りのカピトリウムは、屋根を除いてかなりの部分が威容を留めており、石段の上から四周を一望すると、ローマの植民都市の構造的一体性を把握することができる。
 その間市内には物資保存のための倉庫(ラテン語horrea)(図6)が次々と建てられていった。というのも前述のように、商港として最も必要だったのが小麦をはじめ、木材などの輸入品を貯蔵する倉庫だったのである。この点が大規模な商業活動とは縁遠いポンペイとの違いの一つということができる。大型の倉庫は120×80メートルほどの敷地内に数十の仕切りで区分けされたものもいくつかあり、こうした大型倉庫はもっぱらローマに移送するまで、物資を一時的に保管するのに用いられたと思われる。そしてこれらとは別に、オスティア市民の需要のための小型のhorreaも確認されている。
 この際、文献によって知られるオスティアの輸入品のリストを挙げてみよう。前述の小麦と木材のほか、肉類(イタリア各地、ドナウ河地方)、酢(エーゲ地方、エジプト)、織物や衣類(北イタリア、プーリア、ガリア、エスパニア、エジプト)、皮革と皮製品(ドナウ、オリエント)、金属(エスパニア、ブリタニア、特に金はダキア)、コルク(エスパニア)、象牙(アフリカ)、香料、貴石、真珠、香水(オリエントなど)、パピルス(エジプト)などであり、これらのほとんどがローマに送られた。
 オスティアならではの施設といえば、劇場の後側に位置するピアッツァーレ・デッレ・コルポラツィオーニPiazzale delle Corporazioni(現代名)であろう。「職業組合の大広場」という意味だが、現代風にいえば「商工会議所」ということになろうか。107×68メートルの長方形の広場は、河に面した北側を除く三辺が壁で囲まれ、内部の壁に沿った回廊には61の部屋が設けられていた。つまりここにはローマとの貿易に従事していた各地の商社の出先機関、船主などの組合がオフィスを構えていたのであり、それぞれの部屋の舗床には職業を象徴すると思われる魚、いるか、船などを象った白黒のモザイク(図7)がいまも歴然と残っている。
 こうして繁栄したオスティアは、2世紀頃人口約5万を擁していたと考えられている。碑文その他の文献により、住民の多くはローマ市民権をもつ平民であり、当然ながら奴隷と解放奴隷もいたことが推定されている。ある調査によれば40パーセント以上の住民の苗字がラテン系ではなくギリシア系だったとされ、いかに地中海世界からの移住が多かったかを物語るが、一方ローマでは、ギリシア系が60パーセント以上だったという資料もあり、この時代の民族移動のすさまじさに驚かされる。
 さて2世紀初頭、テーヴェレ河口付近に土砂が溜まって不便になったため、トラヤヌス帝は対岸に新たな港ポルトゥスPortusを建設する。このためオスティアはローマの外港としての地位を奪われることになった。さらにその後、周辺の湿地帯に発生したマラリヤの蔓延が人口の減少に拍車をかける。以後は文献の記録も途絶え、おそらく5世紀中頃には完全に放棄されたものと考えられている。千年以上の荒廃の後、オスティア・アンティーカが考古学調査の対象となったのは、ようやく20世紀に入ってからであり、1938年から4年間、組織的に発掘が行われたのであった。(海岸に最も近い西側一帯の四分の一ほどが未発掘。)ローマ史研究の資料としてポンペイやエルコラーノと比較するなら、一方が西暦79年に突然地上から姿を消したのに対して、こちらはその後の帝政の黄金期を生き抜き、しかもその後の中世にほとんど改変されることなく廃墟として残ったということに、比べようのない価値があるということである。あるイタリア人研究者の言葉を借りるなら、オスティアはローマを理解するための「拡大鏡」なのである。

住宅と商店

 5万人が住んでいたのは、ドムスdomusという個人住宅とインスラinsulaという共同住宅であり、基本的にはポンペイ、エルコラーノのものと変らない。ドムスというのは原則的に1階建てで単一家族のためのものである。平面計画としては敷地全体を外壁で囲い、入口を入ると屋根のないアトリウムという広間があり、周辺にいくつかの部屋を配するというもので、さらに奥に列柱に囲まれた中庭(ペリステリウムperisterium)をもつものもあった。この形式は共和政末期から帝政初期までのローマ住宅の典型であり、ポンペイの「ヴェッティイの家」などがよく知られているが、オスティアでもその時代の住居のほとんどがこの形式だったと思われ、13件ほどのドムスの跡が現在までに発掘されている。
 しかしオスティアの市民の住居として、より代表的なのはインスラである。1世紀以降人口が急速に増えるにつれ、市内には平屋建ての住宅のためのスペースが不足し、必然的に登場したのが4..・5階建ての共同住宅(アパート)であった。富裕な市民が建物を所有し、自らは1階(日本式の呼称)に住み、上階の数室を賃貸したのである。ローマの法律ではすでに建築の高さ制限があり(!)、住宅の場合60ピエーデ(約17メートル)と決められていたので、この階数となったのだろう。insulaとは現代イタリア語のisola「島、隔離」に当たるが、まさに「アパートメント」の意味でこの語を使った最初の人がキケロだという。現在までに66件のインスラの遺構が確認されている。上階の部分はほとんど姿を留めていないが、遺跡の一隅にあるオスティア博物館(Museo Ostiense)やEUR(エウル)にあるローマ文明博物館(Museo della Civiltà Romana)には4階建てのインスラの復元模型(図8)が展示されている。なお複数のインスラが左右に隣接したり、平行する二本の道路に背中併せに接合したりして、一種の「マンション街」を構成していることもあり、その一塊の建築群はカセッジャートcaseggiatoと呼ばれ、162件を数える。ちなみにローマそのもので現在見られるインスラの遺構といえば、カンピドリオの丘の麓のヴェネツィア広場側と、チェリオの丘のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パウロ聖堂地下にわずかに残るのみである。
インスラの一階はドムスとは逆に、外部に向かって開かれていた。多くの場合、そこにタベルナtaberna(商店)が入っていたのである。そこでは日常生活に必要なありとあらゆる商品が売られていたはずである。たとえば小麦を馬力で挽いた臼のある一角(図9)があり、パン屋が各所にあったであろう。デクマヌス通りに面した一角には、だれにも目につく一軒の魚屋(taberna dei pescivendolo)の跡(図10)があり、生簀だったと思われる大理石の囲いや、手前の調理台がそのまま残っている。もちろん食品類の現物が残留しているはずはないが、いくつかの商店には石板に浮彫で表された各種の絵画的な「看板」が残っていて、往時の商店街のにぎわいを偲ばせる。なおこれらはローマ美術史の貴重な資料でもある。わたしが個人的におもしろいと思うのはパン屋の看板(図11)で、台の上にうず高く積まれた丸いパンが見えるが、表面に十字の切り込みを入れて中が空洞のロゼッタというこの素朴なパンは、いまでもローマ地方の最も代表的なパンであり、しかも地産地消の国イタリアの他の地方、まして日本の「イタ飯屋」では絶対にお目にかからないものである。
タベルナという建築にはいわゆる居酒屋、レストランも含まれていた。この種の店は現在確認されているのは38個所を数える。そのうち中心部に近いテルモポリウムThermopoliumという店の跡を覗くと、壁際には造り付けのベンチがそのまま残り、別室には調理場とおぼしき設備もあって、これこそイタリア式バールの元祖であることを実感する。印象的なのは壁に掛けられたフレスコ画のタブロー(図12)である。これはローマ絵画として見れば全く異例の主題、つまり一種の静物画といえるものであって、左側に描かれているのは、おそらくグリーンピースと蕪であり、中央にはオリーヴ油かなにかを入れたコップがあり、右側の壁に吊るされた二つの丸い塊についてはチーズ、メロン、ざくろ、あるいは楽器などの諸説があるが、いずれにしても、この店が提供していた食物、飲料、音楽などを暗示する看板なのである。ちなみにこの時代に最も人気のあったドリンクは、ワインに蜂蜜、胡椒、種々の香辛料を混ぜたお湯割りだったそうで(Carlo Pavolini: La Vita Quotidiana a Ostia, Ed. Laterza, 1986)、こういうカクテルがいまでも日本のバーなどで作られるのかどうか、私はカクテルに詳しくないが興味がある。
ローマ都市につきものの公衆浴場は、ご多分にもれずオスティアにも二十個所ぐらいあったらしい。しかしローマの大浴場に比べれば規模が小さく、ほとんどは町内の銭湯といった類のものだったと思われるので、ここでは割愛しよう。ポンペイで有名な売春宿(lupanare)の存在は確認されていないが、オスティアのような港町ならではの、そのような商売がなかったとは考えられず、居酒屋や旅館などが随時そうした営みに使われたにちがいないと推測されている。

神々の饗宴

 世界に開かれた商港都市オスティアの特徴は、多くの外国人が在留していたことであるが、そのことによって多様な異国の宗教と接触することになった。オスティアは他に類例を見ない古代の多神教の坩堝だったのである。
 共和政時代のオスティアで最も有力だったのはウルカヌス崇敬であり、その神殿があったことが文献で知られるが、神殿の遺構は不明である。ついで前述のカピトリウムのローマ三神が、いわば帝政期の国家宗教となるわけだが、やがて台頭する皇帝崇拝に対応するために、フォールムの南端に「ローマとアウグストゥスの神殿」がティベリウス帝によって建立される(礎石のみ現存)。しかし一方では極めてローカルな民間信仰も行われており、一つはラツィオ地方のボーナ・デーア(善き女神)の信仰であり、前2世紀に遡る二個所の「聖所」が確認されているが、一つは「マリーナ門」の外側にある。この豊穣の女神への入信は女性に限られ、秘儀の内容はかなり猥褻なものだったという説があるのだが、そうした理由から異例の城外の場所を拠点としたのかもしれない。これに対して古い伝統をもつ森の神シルウァヌス崇敬は、奴隷、解放奴隷、職人といった下層階級の間に浸透し、小さな祠などに神像が奉られていたらしい。
 それよりも際立つのは東方よりもたらされた数々の宗教である。南東の一角に「アッティスの礼拝堂」(Sacello di Attis)(図13)というのがあり、鉄柵を通してフリギアの牧神アッティスの横臥像(図14)に接することができる。門扉の両側には二体のパンの立像がある。神話によればアッティスはやはり豊穣の女神のキュベレに愛されたが、貞節を守らなかったために去勢されるということだが、この彫像はいかにもという美少年ぶりである。近くには「キュベレの祠」もあるが、この方はなにも残っていない。
 さらにエジプトの神イシスとセラピスの崇敬も早くから行われていたが、セラピス神殿が建てられたのは127年のハドリアヌス帝の時であり、ここで詳述する余裕はないが、ある碑文によればセラピスとユピテルの宗教の混淆が行われたらしい。イシスは一つには航海の守護神であったから、おそらく河口に近い地区に神殿があったと考えられるが、遺構はまだ発見されていない。
 最も盛んだったと思われるのがペルシア起源のミトラ教であり、この遺跡だけで17(または18)個所のミトラ神殿(mitreo)が存在する。ミトラ神殿はローマ市内ほか各所で見ることができるので、ここで特筆することはないだろう。
  さて1961年、フィウミチーノ空港付近の道路工事の際に、「マリーナ門」を出てわずかの地点でユダヤ教のシナゴーグ跡が発見された。1世紀に建設され、4世紀に補修がなされたことが確認された。これは歴史的に極めて重要な発見であった。西暦66年にティトゥス帝によってエルサレムが破壊され、すぐにユダヤ人のディアスポラ(離散)が始まるのだが、その一部がこのオスティアにいち早く到達しており、しかも歴代皇帝によって保護されていたことが実証されたのである。
   そして最後に、キリスト教もまた明らかに到来していたことがいま明らかになりつつある。オスティア城外に2-3世紀の地下墳墓の存在が知られており、本格的発掘には至っていないのだが、断続的に発見されている碑文や石棺などから、すでにキリスト教徒の共同体が形成されていた可能性が指摘されている。そして4世紀後半、デクマヌス通りの先端近くに、浴場跡を利用して「キリスト教聖堂」(basilica cristiana)が建てられた。いまはもちろん屋根もなく、列柱とアプシスの一部を遺すのみである。しかし皮肉にも313年にキリスト教が公認されたその頃から、帝国の首都はローマからコンスタンティノポリスに移り、オスティアは歴史の舞台から消え去ろうとしていたのである。

SPAZIO誌上での既発表エッセー ≪イタリア12都市物語≫ 目次

  • ペルージャ―エトルリアからペルジーノまで no.55(1997年6月発行)
  • モーデナ―ロマネスク街道の要衝 no.56(1997年12月発行)
  • ピーサ―中世海港都市の栄光 no.57(1998年6月発行)
  • パードヴァ―中世における知の形成 no.58(1999年4月発行)
  • シエーナ―中世理想都市の運命 no.60(2001年3月発行)
  • ヴェローナ―北方との邂逅 no.61(2002年4月発行)
  • ウルビーノ―新しきアテネ no.62(2003年4月発行)
  • マントヴァ―ある宮廷の盛衰 no.63(2004年8月発行)
  • フェッラーラ―小さなルネサンス no.64(2005年7月発行)
  • パルマ―フランス文化の投影 no.65(2006年6月発行)
  • ベルガモ―ヴェネツィア・ルネサンスの波及 no.66(2007年5月発行)
  • ラヴェンナ―ビザンティン美術の宝庫 no.67(2008年9月発行)

※イタリア12都市物語のバックナンバーは、『イタリア12小都市物語』(里文出版より、2,650円)として刊行されております。是非こちらもご参考になさってください。

目 次

Copyright © 2010 NTT DATA Getronics Corporation