イタリア12都市物語-8 マントヴァ -ある宮廷の盛衰- おがわひろし

[1]エトルリア、ケルト、そしてローマ

 北イタリアのガルダ湖から流れ出すミンチョ河は、やがてロンバルディア州の東のはずれあたりでポー河に合流するが、その少し前の川沿いにある都市がマントヴァ Mantovaである。といっても川が市内を貫流するわけではなく、ミンチョ河から派生したスペリオーレ、メッツォ、インフェリオーレという三つの湖に市の北側半分が抱かれるようになっている。南側にもパイオーロと呼ばれた第四の湖があったのだが、18世紀末の都市計画によって埋め立てられた。四周を水に囲まれた地形が防衛的にみて都市の形成を有利にし、しかもその後の無秩序な拡張を防いだことは容易に想像できるだろう。それはともかく、東側の国道10号線をパードヴァ方面から車でこの町に近づいて来る時に湖越しに見える風景は、いたる所が美しいイタリアの中でも屈指の景観の一つだと思う。

 マントヴァに最初に都市的集落を築いたのはエトルリア人であった。エトルリア人の本来の領土(エトルリア・ティレーニカ)は、現在のトスカーナ州とウンブリア州の一部を含む地域に限られていたが、紀元前6世紀頃の絶頂期には域外への植民的進出が始まり、特に北方ではアッペンニーニ山脈を越えてポー河流域まで足跡を伸ばし、マントゥア(現マントヴァ)を含む十二の都市を築いた。エトルリア・ティレーニカでは主要な十二都市による政治同盟の体制が確立していたが、北部でも偶然に都市の数は十二であり、これをエトルリア・パダーナ(ポー河のエトルリア)と呼ぶ。
 マントヴァの語源となったマントゥアはその中でポー河の左岸(北側)に位置する唯一の都市であり、エトルリア民族の存在の北限の地ということができる。マントゥスというエトルリア固有の冥界の神の名に由来すると思われるが、定かではない。実際の創設者は、タルクイニアなどの都市を建設した伝説の英雄タルコンテとする説もあれば、ペルージャの王子アウクヌスによるという文献もある。近年の考古学調査によって、周辺地区に幾つかのエトルリア人住居址が見つかり、青銅器、赤像式陶器、それに十五点のエトルリア語の碑文が発掘されている。しかし紀元前7世紀頃から早くも北方のケルト人のイタリア侵入が始まり、前5世紀頃には北エトルリアの諸都市は次々とその支配下に入ったと思われる。北の最前線にあったマントヴァではおそらく最も早くケルト人との衝突が起こったことだろう。ちなみに「ケルト人」というのはギリシア語に由来し、ローマ人は「ガリア人」と呼んでいた。
 エトルリア・パダーナは規模が弱体だったからケルト=ガリア人は容易にこれを征服したと思われる。この時代以降この地域が「ガリア・キサルピーナ」(アルプスのこちら側のガリア)と呼ばれることになる。やがてエトルリア・ティレーニカに侵入した彼らはブレンヌスという大将を先頭にローマへの進攻を開始し、外交交渉に失敗したローマは、前390 年7月18日に陥落する。なにしろケルト人の軍事力の強さは大変なものだったらしく、ラテン系よりは背が高く、ほとんど裸体に近く金髪を振り乱したそのいでたちの恐ろしさが歴史書に生々しく記述されている。しかし彼らがローマを占拠していたのはわずか数か月であり、相当の身の代金を手にして北方に引上げて行った。歴史上「ローマの強奪」(sacco di Roma)と呼ばれる事件が数回起こっているが、これがその屈辱の最初の事例だったといえる。
 その後はローマが勢力を蓄え、エトルリア12都市を次々と支配下に収め、エトルリアの歴史が事実上終わる過程はよく知られている通りである。しかし、ケルト人との抗争は簡単には止まなかった。トスカーナに残っていたケルト人はタラモーネでの最後の戦い(前225年)で敗北してアッペンニーニ山脈の北側に撤退を余儀なくされたが、ポー河流域では勢力を保ってリーミニなどのローマ植民市を脅かし、幾度となく衝突を繰り返したあげく、ローマ人が北イタリアをほぼ平定するのは前2世紀の初め頃のことである。なお本来のガリア人の住むアルプスの向こう側(ガリア・トランサルピーナ)にまでローマ人が勢力を拡張するのは、より後のカエサルの時代であるのはいうまでもないだろう。
 ちなみに、ケルト人の南進の動機は、おもしろいことにワインに対する執着であったとみなされている。かれらがどうしてワインを知ったかというと、ユニークな伝説をローマの史家リウィウスが伝えている。すなわち、キュージの有力者アルンテという男が妻を寝取られる。相手の男は最高の権力者の息子であって手強いので、復讐を果たそうと願った彼はケルト人に応援を頼むことを思いつき、ガリアの地まで出かけてワインを振る舞って援軍を勧誘したというのである。もう一つ、プリニウスの記述によれば、しばらくローマに滞在したエリコンというヘルヴェティア(現在のスイス北西部)の鍛冶屋が帰国に際し、干しいちじく、オリーヴ油、ぶどう、ワインなど、地中海の食品を持ち帰り、以来北方にワイン文化が広がることになったという。
 とはいえこうしたほぼ三百年にわたる北イタリア占拠の間に、ケルト人は必ずしも先住民の抹殺を図ったわけではなく、同居あるいは通婚によって緩やかな文化的同化が行われたものと思われる。現在のイタリア人の体格や風貌について言えば、ローマ以南は黒髪で背が低く、北には背がより高くてみごとな金髪の人が多いという一般的な相違が存在するが、北イタリア人のそうした特徴は、より近くは中世初期に到来するゴートやフランクの血統に由来するのだろうが、一部には古代ケルト人にまで溯る可能性も否定できないであろう。
 こうして古代のマントヴァは、最初にエトルリア人が都市を築き、次にケルト人が侵略したわけだが、前214年、最終的な勝利者のローマ人がやってきてその植民市となったのであった。しかしローマ時代のマントヴァはさほど重要な役割を果たさなかった。ただ特筆されるべきは古代ローマの最高の詩人、ウェルギリウス(前70~19)がこの地(近郊)で生まれたことである。その代表作『アエネーイス』はトロイの王族によるローマ建国の神話を歌い上げた壮大な叙事詩であり、後には『神曲』の中でダンテを地獄に案内する役として登場し、イタリア人にとっては基礎的な教養としてあまりにもなじみの深い存在である。ただし彼はマントヴァでは少年時代を過ごしたのみで、クレモーナで学んだ後ローマに出ることになるのだが、それでも13世紀に市の中心部に建てられたパラッツォ・デル・ポデスタの外壁にウェルギリウスの肖像(作者不詳)が浮彫で取り付けられていて、その時代の市民の誇りを読み取ることができるし、1773年にはオーストリア女帝マリア・テレーザの命によってアッカデーミア・ヴィルジリアーナが設けられ、ウェルギリウス研究の核となっている。なお一説によるとウェルギリウスはガリア人の血筋を引くとされ、つまりケルト人とローマ人の同化がすでに完了していたことがわかる。

〔2〕キリストの血がこんなところに

 中世初期のマントヴァは、北イタリアの多くの都市と同様に、北から次々と侵入する諸民族の抗争の舞台であった。すなわち、西ローマ帝国滅亡の後、まず東ゴートが占拠し(493-552)、これをビザンティンが追放してラヴェンナの管区に組み入れる(552-603)が、次に来たランゴバルドには敗退してその領有に帰する(569-774)。そのあとフランクの伯領となり(809-859)、その間にキリスト教化が進んだものと思われる。9世紀には司教が配属され、しかもそれが世俗の伯を兼ねて都市を統治する「司教伯」(vescovo-conte)という中世特有の形態が現れる。
 しかし歴史をひもどくと、10世紀末には司教と並んで世俗の伯の存在が確かめられる。それは「カノッサの屈辱」として史上名高いあのドラマの脇役を勤めたカノッサ城の一族であり、1076年の事件当時の女城主だったマティルデ自身も1052年からマントヴァ伯の称号を与えられているのである。カノッサというのは現在はエミーリア州のアッペンニーニ山脈中の小さな集落に過ぎないが、マティルデはその伯であると同時にトスカーナ、フェッラーラ、モーデナ侯を兼ねていて、相当な勢力を張っていたことがわかり、教皇グレゴリウス7世が賓客として滞在していたというのもうなずけよう。
 しかしマティルデの死後は傑出する人物が現れることなく、1105年以降マントヴァは時代の趨勢に応じてコムーネとなる。初めは五人の行政長官を中心とした自治が行われていたが、やがて成り行きとして何人かの有力者たちが勢力争いを繰り返したあげく、ピナモンテ・ビナコルシが「市民総隊長」(capitano generale)に選ばれ、以後約半世紀にわたるビナコルシ家の領主制度が続く(1272~1328)。この一族は評判が悪かったとみえ、市民勢力とヴェローナのデッラ・スカーラ家の後押しを得たルイージ・ゴンザーガ Luigi Gonzaga が反乱を起こして政権を奪い、ここからゴンザーガ家の栄光の世紀が始まるのである。
 都市マントヴァの物語の最大の主役となるのがここから南に50キロほど離れた同名の村出身のゴンザーガ一族であるが、それについては後述するとして、その前に中世のキリスト教建築を見ておこう。マントヴァにはしかし、特筆すべきほどの建築は建てられなかった。唯一の見るべきものはロトンダ・ディ・サン・ロレンツォと呼ばれる小さなロマネスク聖堂である。これは市の中心にあるエルベ広場に面していながら、隣のパラッツォ・デッラ・ラジョーネや背の高い時計塔、それに反対側のサンタンドレーア聖堂などに威圧されて窮屈そうに見えるのだが、それというのもこの二つの建物は、より後のマントヴァの絶頂期に完成したものなので、それより古いロトンダは広場を囲む建築計画の中で孤立してしまったのだろう。しかもこの地区はその後ユダヤ人のゲットーに組み込まれたため長い間教会としての機能を失い、原状を回復したのはようやく20世紀に入ってからであった。
 そもそも初期キリスト教の聖堂建築は、ローマのサンタ・コスタンツァに代表される集中式、つまり円形プランと、サン・ピエートロをはじめとする長方形プランのバシリカ式の二つの対照的な原理に基づいて展開した。前者は古代以来の墳墓の形式を踏襲するものと思われ、マントヴァのロトンダ・ディ・サン・ロレンツォ聖堂もその数少ない一例なのである。内部は中央の祭壇を囲む一列の柱列によって壁に沿った回廊が作られ、壁側の上階にはマトロネオ matroneo (本来ビザンティン教会に由来する婦人専用席)が見られるのがめずらしい。外壁にも内部にも装飾的な付加物がほとんどなく、祈りの場にふさわしい静寂が漂っている。この異例の聖堂は1082年に建てられたことがわかっているから、教養あるマティルデ・ディ・カノッサの関与があったことはまちがいないだろう。
 その他のキリスト教建築についていえば、ルドヴィーコ・ゴンザーガ3世(一般に男子名ルドヴィーコはルイージといわれる場合もあり、最初のルイージから数えると「3世」となるが、筆者によってはこの人物を「2世」としているので注意を要する。)の依頼を受けて有名な建築家アルベルティが設計に携わったサン・セバスティアーノとサンタンドレーアの二つの教会がある。とりわけエルベ広場に面して立つサンタンドレーアはアルベルティの最後の作品であり、ローマのマクセンシウスのバシリカに想を得た堂々たる建築であって、ある解説書には「16世紀ヨーロッパの全建築家に影響を及ぼす模範作品となった。」と書かれている。ところで内部のクリプタ(地下祭室)には聖遺物「キリストの血」が金の小壺に麗々しく納められている。伝説によれば、十字架上のキリストの脇腹を槍で突いたローマの兵士ロンギヌス(のちに聖人となる)が直接マントヴァに運んできたというのだから恐れ入る。事実は中世の一時期、この都市の栄光を誇示するためにどこかの商人から買い取ったものだろう。ただそのおかげでヨーロッパ各地から巡礼者を集めて市に潤いをもたらす観光資源の役を果たすことになった。なおこの聖血の一部は13世紀にここからイギリスのヘイルズ修道院にも渡ったとされる(青山吉信『聖遺物の世界』1999:山川出版社)。

〔3〕ゴンザーガ家の栄光

 さて前述のごとく、1328年ルイージに始まるゴンザーガ家のマントヴァ支配は、1707年にオーストリアに併合されるまでの四百年近く、十八代にわたって続いた。中世の身分社会における地位という意味からすれば、三つの段階に分けられる。第一は capitano del popolo(行政長官)の時代(1328~1433)。第二は marchese(侯)の時代 (1433~1530)。第三は duca (公)の時代(1530~1707)。
 まず最初の四代の行政長官は統治者としてさほど強い力はなかったようである。かれらが専ら腐心したのは、この時代のいわば国際社会における地位の確定であった。ルイージは時の皇帝ルートヴィヒ4世(バイエルン公)にマントヴァ統治を認めさせることに成功して最大の問題をクリアしていた。より大きな脅威は近隣のミラーノとヴェネツィアの存在であり、これらとの緊張関係はその後長く続くのだが、ミラーノのヴィスコンティ家やリーミニのマラテスタ家とゴンザーガ一族とのいわゆる政略結婚が繰り返されることによって安定が保たれた。しかし当初から文化的な関心は高かったようで、すでに形成されつつあったミラーノやパリのような宮廷文化の創造に意を用いるようになる。2代目のグイードはペトラルカをしばしば招いたことが記録に残っている。そして、市の北東部のソルデッロ広場に面したパラッツォ・ドゥカーレと、それに接するサン・ジョルジョ城が建設されるなどして都市の整備が始まるのはこの時代、14世紀の末のことである。
 5代目のジャンフランチェスコの頃、マントヴァは最大に領地を拡げ、富が増大した。そして1433年、12.000フィオリーニの金貨をもって皇帝ジギスムントより marchese の資格を買い取る。皇帝はみずからマントヴァに赴き、戴冠の儀式を執り行なった。ここから宮廷的文化が花開くことになる。ジャンフランチェスコのメセナ活動として記憶されるべきは、ヴェネツィアにいた人文学者ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ Vittorino da Feltre を招いて学塾を開かせ、自分の息子たちの教育も委ねたことである。(建物は現在残っていない。)パードヴァとヴェネツィアで修業したヴィットリーノはラテン語、ギリシア語をはじめとしてプラトン、アリストテレス、アウグスティヌスなどのみならず、体育をも重視して、フェンシング、競走、舞踏など、幅広い科目を教授し、イタリア各地から貴族の子弟たちがその門を叩いた。前号で述べた通り、ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公もまた少年時代にここで基礎的な教育を受けたのである。みずからの著作としては『正字法』(De ortographia)が残されているのみだが、作家としてより教師として当代第一級の人物だったといえよう。ウルビーノにいた画家ユスト・ダ・ガンによる肖像画(ルーヴル美術館)や、ピサネッロによる記念メダル(フィレンツェ、バルジェッロ国立美術館)によって風貌が偲ばれる。
 ジャンフランチェスコの息子、ルドヴィーコ3世もヴィットリーノの薫陶を受けた一人だが、その治世下においてマントヴァはウルビーノと並んでルネサンス文化を謳歌する最大の都市の一つとなったといってよい。ルドヴィーコがもっぱら意を用いたのはパラッツォ・ドゥカーレを美化し、宮廷にふさわしい豪華さを演出することだった。まず1444年、当時フェッラーラにいたピサネッロを招いて、客間の一室、現在「ピサネッロの間」と呼ばれている部屋に壁画を描かせた。実はこのフレスコ画はその後塗り変えられてしまって存在が忘れられていたのだが、1969年にようやく再発見された。復元されたのは全体の一部に過ぎないが、興味深いことに、描かれているのは「アーサー王物語」から取材した騎士道にまつわる場面なのである。甲兜に身を固めた騎士や優美な貴婦人たちがぎっしりと描き込まれている。イギリスやフランスで人口に膾炙していたこの伝説に基づく主題がイタリア美術に現れることは決して多いとはいえないが、傭兵隊長としての武勲によって権力を勝ち得たゴンザーガ家が騎士道精神の影響を強く受けていたことを示すものだろう。しかしルドヴィーコはこうしたゴシック的な宮廷文化の枠内に止まることに甘んじなかった。そのことがパードヴァの画家マンテーニャ Mantegna の招聘という形で現れる。彼はアチェルビ通りに現存する一軒の邸宅を与えられ、1460年から1506年に世を去るまでの五十年近い後半生をマントヴァでゴンザーガ家のお抱えの画家として過ごすことになるのである。15世紀中頃のパードヴァではフィリッポ・リッピ、ウッチェッロ、アンドレーア・デル・カスターニョ、ドナテッロなどのフィレンツェの芸術家たちが活躍しており、マンテーニャはかれらとの交流を通じて古典古代への関心をふくらませていた。ルドヴィーコがマンテーニャに期待したのはまさにそういう彼の素養であった。
 はじめサン・ジョルジョ城内の礼拝堂のために一連の宗教画を描いたらしいが、なんといっても最大の仕事は1463年頃から74年までを費やして制作した「夫婦の部屋」(Camera degli Sposi)の壁画である。この部屋はいわゆるピアーノ・ノービレ(字義的には貴族の階という意味だが、通常は2階にあって最も美しく飾り立てた大きな客間をいう)の北東の隅にあり、実際には夫婦の寝室なぞではなくて初めはラテン語で Camera picta(描かれた部屋)と呼ばれ、謁見の間の一つとして使われたと思われるが、17世紀頃から誤って現在の呼称となったらしい。部屋は一辺が約8メートルの完全な正方形プランの空間であり、四つの壁面と天井の全面に絵がかかれている。絵の具は単純なフレスコではなく、テンペラも併用されている。

SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次
  1. イタリア12都市物語 <1>
    ペルージャ――エトルリアからペルジーノまで no.55(1997年6月発行)
  2. 同  上 <2>
    モーデナ――ロマネスク街道の要衝 no.56(1997年12月発行)
  3. 同  上 <3>
    ピーサ――中世海港都市の栄光 no.57(1998年6月発行)
  4. 同  上 <4>
    パードヴァ――中世における知の形成 no.58(1999年4月発行)
  5. 同  上 <5>
    シエーナ――中世理想都市の運命 no.60(2001年3月発行)
  6. 同  上 <6>
    ヴェローナ――北方との邂逅 no.61(2002年4月発行)
  7. 同  上 <7>
    ウルビーノ――新しきアテネ no.62(2003年4月発行)

 北側の壁面の主題は一般に「宮廷」と呼ばれ、描かれているのは一堂に会する二十一人の同時代の宮廷人の姿である。人物の特定に諸説あるのは常のことだが、左から二番目の椅子に座っているのがルドヴィーコであることは他の肖像画などから証明されている。その向かい、左から数えて九番目に座っている女性は妻のバルバラであろう(図1)。夫妻のあいだには男女二人の子供がいる。かれらの背後に立つ人物たちはいろいろの説に別れて定かでない。画面右側には八人の男性が外から迎え入れられるような感じに描かれているが、これらはいずれもゴンザーガ一族のメンバーや付き人であって、他の国への出張からの帰国の場面ではないかと思われるが、具体的な事実については五・六通りの意見があるから、紹介は差し控えたい。

(図1)
マンテーニャ「宮廷」(部分)パラッツォ・ドゥカーレ<夫婦の間>

 西側の壁は描かれた装飾的な柱によって三つの画面に分かれているが、背景の山野の風景は一つに繋がっている。三つのうちの左端の区画には、奇岩の頂上に、おそらくマントヴァ北郊のゴーイトにあった城と、やはり現存しないゴンザーガ村の館が描かれ、手前には一頭のみごとな葦毛の馬と数匹のグレートデンを引き連れた人物が描かれていて、狩猟の情景を思わせる。この部屋の唯一の出入り口のある中央の区画には、プットたちが大きな碑文の額を掲げており、ラテン語で「いとも高名なマントヴァのルドヴィーコ侯とバルバラ夫人のために、パードヴァの画家マンテーニャが1474年、この作品を制作する。」という意味が記されている。一方右側の区画は「出会い」と呼ばれ、ルドヴィーコの第二子で枢機卿となったフランチェスコの一時帰国を家族が出迎えている場面と推測されている(図2)。やはりここでも十二人の人物の完全な特定には至らないが、左から三番目が確実にルドヴィーコであり、六番目がフランチェスコであろう。他には子供たちと、アルベルティ、マンテーニャ自身、そしてこの時同行したとされるピーコ・デッラ・ミランドラなどを想定する意見もある。遠景にはコロッセーオとおぼしき建物があって、枢機卿のローマからの帰還を暗示している。

(図2)
マンテーニャ「出会い」(部分)パラッツォ・ドゥカーレ<夫婦の間>

 他の二つの壁面についてはさほど重要でないので省略するとして、複雑に装飾された天井画に目を向けたい。天井の真ん中には直径270 センチの円窓が表され、青い空と白い雲が描かれている。こうした擬似的な天空の表現は、キリスト教美術ではラヴェンナのビザンティン美術から近世のバロック様式に至るまで、聖堂の天井画にしばしば現れるが、ここでは一種の趣味的なトロンプ・ルイユとして扱われている(図3)。非常におもしろいことには、天窓の周りに一羽の孔雀が止まり、五人の女と八人のプットが下をのぞき込むようにして空間の虚構性を強めているのだが、特に立ち姿のプットたちは下から見上げて自然に見えるように「寸詰まり」で表されている。これは広義の遠近法から派生した短縮法を仰角に応用した場合の「ソッティン・スー sotto in su」という技法であり、マンテーニャが非常な関心をもって他の場所でも駆使しているものである。
 マンテーニャの「夫婦の部屋」に一貫しているのは、古代ローマへの直接的な言及もさることながら、たとえばローマの「アラ・パキス」におけるアウグストゥス一族を想起させるような、ルドヴィーコ3世の家族の肖像のリアリズムであり、そこからマントヴァの宮廷は中世主義的な貴族趣味を超克してルネサンス文化の真の担い手となったのであった。

(図3)
マンテーニャ<夫婦の間>天井(部分)
▲画像クリックで拡大


〔4〕ルネサンスの秋

 ルドヴィーコの孫に当たるフランチェスコ2世は1484年、フェッラーラのイザベッラ・デステと結婚する。前号で述べた『宮廷人』の著者バルダッサッレ・カスティリオーネをはじめとする文人たちと親交をもち、ひときわ教養豊かなルネサンスの女性イザベッラは、戦線に出て不在勝ちの夫に代わってメセナ活動に熱意を燃やし、図書や絵画、彫刻、工芸、家具、宝石などを意欲的に収集し、マンテーニャのほかペルジーノ、コッレッジョらを招聘して宮廷の一層の美化を図る。
 梅毒で死んだ(1519年)フランチェスコの後を継ぐフェデリーコ2世は皇帝カール5世に忠誠を誓い、皇帝より duca の位を授けられる。今度は身分を金で買ったのではなかった。……それはともかく、フェデリーコもまた母の影響を受けて文化への理解は高かった。しかも複雑な政治的理由のため教皇ユリウス2世の人質として幼年時にローマに抑留を余儀なくされ、しかしそのおかげで古代ローマ美術に触れ、ブラマンテやミケランジェロたちが推進していたローマ・ルネサンスを直接目撃していた彼は、政権に就くや、ラッファエッロの弟子としてローマで活躍していたジューリオ・ピッピ(通称ロマーノ) Giulio Romanoを次の時代の宮廷画家として移住させ、マントヴァに新しい時代の息吹を吹き込ませようとした。まず現在のマントヴァ市の南端にある別邸、通称パラッツォ・テ Palazzo Te(「テ」は中世の地名 Tejeto に由来)の設計と装飾に当たらせる。
 フェデリーコは幼少の頃から母親の侍女たちに囲まれて甘やかされて育てられ、何人かの女たちとは相当際どい手紙のやりとりもしたらしいが、そうした環境が彼の好色な資質を助長したと見える。長じてカスティリオーネの姪に当たるカルヴィザーノ伯夫人イザベッラ・ボスケットという美女を公然たる愛人とし、もっぱらその逢引の場所としてこの館を造らせたのだった。(ただしこの時彼はまだ独身であり、別の女性、マルゲリータ・パレオーロゴと結婚するのは1531年のことである。)その少し前、ローマではメディチ家出身の枢機卿ジューリオのヴィッラ・マダーマや銀行家アゴスティーノ・キージのためのヴィッラ・ファルネジーナがまさにラファエッロの設計で建てられており、古代ローマ貴族のひそみに倣ったそうした別荘の所有が王侯貴族のステータス・シンボルとしてヨーロッパ各地に流行しようとしていた。ジューリオ・ロマーノはそこでラファエッロの助手をしていたのである。

 パラッツォ・テは、正方形の四辺を中庭を取り囲むかたちで巡らされた一階建ての低い建物で、当初は中庭には迷路の植え込みが作られていたが、いまはない。東側は大きく開かれていて広い庭につながり、その先端にエセードラと呼ばれる半円形の列柱アーチが設けられて外部との境界となっている(図4)。館内には二十数室の部屋があり、その各所にジューリオが大勢の弟子を動員して描いたフレスコ壁画およびストゥッコ装飾(1526~34頃)がある。主要なものだけについて説明すると、西側の現在の入り口を入って左に進むと、北側部分にまず「オヴィーディオの間」があり、オウィディウスの『変身物語』に取材した主題が扱われている。ついで「ムーサの柱廊」には音楽や詩の寓意像とともに「オルフェウスとエウリュディケ」の場面が描かれている。

(図4)
ジューリオ・ロマーノ、パラッツォ・テの東の庭からエセードラを見る

 その先の「馬の間」(図5)は謁見やパーティーに使われた大きな部屋である。擬似的に描かれた柱間にはギリシアの神々が表されているが、ここに入ってすぐ目に付くのは壁の前面に立つかのように描かれている優美な四頭の馬の姿である。実はこの館の建てられた場所はもともと放牧場であって、ゴンザーガ家が飼育した馬はヨーロッパの各宮廷から引く手あまたであり、その後のイギリスのサラブレッドの源流となったといわれている。ゴンザーガ家に仕えたザニーノ・オットレンゴという名の獣医が著した『馬の疾患』という本(マントヴァ、ダルコ財団蔵)もあり、馬に関してはマントヴァは抜きん出ていたようだ。ここに描かれた四頭は、「バッターリア」「ダーリオ」「モレル・ファヴォリート」「グロリオーゾ」という名前まで記されていて、自慢の名馬だったのだろう。

(図5)
ジューリオ・ロマーノ<馬の間>(部分)パラッツォ・テ
▲画像クリックで拡大

 北東の隅の「プシュケの間」は1530年にカール5世を迎えて晩餐会が催された部屋である。天井周辺にはアプレイウスの『黄金のロバ』に由来するアモルとプシュケの交歓の図が繰り返して描かれ、西側の壁は「粗野な宴会」、南側の壁は「高貴な宴会」という二つの饗宴図で占められ、そこにはメルクリウス、ホライ、ウェヌス、マルス、バッコス、ポリフェモスなどを含め、多くの男女の神々がほとんど全裸で登場する。別の一隅にはあからさまに勃起したゼウスがオリンピアスに挑む図などもあり、これはヘレニズム美術に原型があるとはいえ、あまりいただけない。なおプシュケはイザベッラ・ボスケットの、クピドがフェデリーコの、ウェヌスがその関係に反対する母親イザベッラ・デステの寓意であるとする意見もある。いずれにせよ、この部屋の主題はエロスの饗宴であり、氾濫のイメージである(図6)

(図6)
ジューリオ・ロマーノ<プシュケの間>(部分)パラッツォ・テ
▲画像クリックで拡大

 いくつかの部屋を省略して東南の角に進むと、絵画的には最も興味深い「巨人の間」がある。主題はヘシオドスやオウィディウスに由来し、天井の雲に現れたゼウスが雷光を放って巨人族を打ちのめすさまが四周いっぱいに描かれている。崩れ落ちる石塊に挟まれて大仰にあわてふためく巨人たちの姿は、あまりにも非現実的とはいえ、強烈な迫力がある。この部分は1531年から34年に制作されたのだが、最初に手がけられた西側の部屋で見たような淫靡な逸楽のイメージはここでは姿を消しているのに気づく。それというのも、フェデリーコはすでに正式な結婚もして公の称号をもち、加えて1532年にカール5世をここで再び迎えることになるという事情があり、いまや肩で風を切るような権勢の象徴がこの主題に託されているということができよう。
 ジューリオ・ロマーノはその後、ゴンザーガの本邸であるパラッツォ・ドゥカーレのいくつかの部屋にもギリシア神話にまつわる壁画をかいた。ところでジューリオのこうした絵画表現をマニエリズモ様式と呼ぶ。日本語でマンネリズムというと独創性に欠ける二番煎じという意味合いがあって芳しくないが、美術史学ではもう少し積極的な意義が与えられていて、すなわちラファエッロを一つの頂点とみなし、画家はもはや自然から直接学ぶことをやめ、完成した造型言語(マニエーラ)を駆使して新しい絵画世界の構築を企てた様式という評価がなされている。ルネサンスは秋を迎えた。ジューリオはローマにおいて、まさに成立しつつあったマニエリズモを経験し、マントヴァでその成果をいっぱいに実らせたのだった。

〔5〕幻の美術館

 さてゴンザーガ家の歴史の最後のところをもう少し語ろう。フェデリーコ2世の後、数十年にわたってマントヴァ公国の繁栄は続く。16世紀の半ば頃、市の人口は四万三千人、公国全体で十七万という記録がある。経済の隆盛をもたらしたものは、とりわけ羊毛と絹織物の生産と、ユダヤ人入植者の手中にあった銀行業であった。二千人を数えるユダヤ人たちはこの都市で得た特例的な保護の見返りに格別の税を納めていたのである。
 美術史的に重要なことを一つだけいえば、1600年、ヴィンチェンツォ1世の時に、ヴェネツィアにいた画家ルーベンスをマントヴァに招き寄せたことである。公はオランダ絵画の新風について著しい関心を抱いていたのだろう。そしてルーベンスは寛大な主君の計らいによってローマにも派遣され、古典研究の機会を与えられる。八年間のイタリア滞在の後、アントウェルペンに帰るわけだが、このような経緯によってあの華麗なオランダ・バロック絵画が成立するのである。
 それはともかく、公の位を得てから六代目のフェルディナンドとその弟のヴィンチェンツォ2世にはいずれも子がないため、フランスのヌヴェールにあった分家のカルロ1世がゴンザーガ家を継ぐことになる。以後その家系は3代続いたが、西欧の諸公の熾烈な抗争の中で急速に力を失い、マントヴァ公国はオーストリアに併合されて三百年の歴史を終えた。
 ところでゴンザーガ家のメセナ活動は、すでに述べたような文人、建築家、画家を直接に保護するだけに止まらなかった。すなわち、イザベッラ・デステからヴィンチェンツォ1世までの6代にわたって精力的に行われた美術品の収集こそが、この宮廷の名を馳せしめた特筆すべき事業だったのである。対象は古代彫刻をはじめとして、同時代のイタリアおよび各地の絵画、工芸など多岐にわたり、1627年に編纂された総目録によれば、絵画作品だけでも1800点にのぼった。
 ゴンザーガ・コレクションは二つの意味において、近代的な「美術館」の先駆的な存在だったということができる。第一に、それらは王室の奥深くに秘蔵されて王家に独占されたものではなく、友人や客人はもとより、一部ではあろうが時には市民にも公開されていたことがうかがえるのである。ヴィンチェンツォに仕えたアドリアーノ・ヴァレリーニという俳優が書いた記録が最近発見されたが、それは『La celeste Galeria di Minerva 』(妙なるミネルヴァの回廊)と題され、galeria (この場合は“l”が一つだから念のため)という語が「画廊」という意味合いをもち始めているように感じられよう。第二には、1627年の総目録に見られるように、収集品を一つの基準にしたがって分類・整理し、近代的な意味でのカタログを作成し、文化財としての価値を固定化しようとしたことである。近世王侯貴族に始まる美術収集の歴史の第一歩を築いたといえるだろう。
 ところが、そんな話をきいていまマントヴァのパラッツォ・ドゥカーレを訪れても期待は完全に裏切られることになる。あるのは前述のいくつかの壁画だけであって、1800点の絵画はひとかけらもない。……その理由はこうである。
 17世紀に入る頃からさすがのゴンザーガ家にも経済的疲弊が現れる。しかもヴィンチェンツォを継いだカルロ1世はもはや芸術愛好の心は乏しく、1628年に英国のステュアート家のチャールズ1世に、なんと159 点の絵画と200 点ほどの彫刻をまとめて売却してしまう。さらに悪いことには1630年から31年にかけて、政情不安に乗じて入り込んだオーストリア皇帝の兵士たちによって、ほぼ完全に略奪されてしまうのである。なお英国のチャールズ1世は、周知のごとく、清教徒革命によって処刑されるから、以後コレクションは世界中に四散することになる。こうしてゴンザーガ美術館は姿を消した。
 2002年の秋、マントヴァのパラッツォ・テとパラッツォ・ドゥカーレを会場として、「ゴンザーガ・妙なる回廊」という展覧会がイタリア国大統領の後援のもとに開かれた。五年の準備をかけて実現したこの催しは、三百六十年前に散佚したゴンザーガ・コレクションを一堂に集めて「幻の美術館」を再現しようとしたものである。絵画、美術工芸、小彫刻、武具、音楽の五部門に分かれていて、借り出した現在の所蔵先の数は、外国が48の機関、イタリア国内でも39という膨大なものであった。1627年の目録に明示されているそれらの作品の本来の設置場所に展示するというわけにはいかなかったが、カタログには明記されているので興味深い。

 絵画部門は90点ほどであるが、現在の所蔵者と元の設置場所をほんの一部だけ紹介してみよう。コレッジョ「キューピッドの教育」(ロンドン、ナショナル・ギャラリー:鏡の間)、マンテーニャ「死せるキリスト」(図7)(ミラーノ、ブレラ美術館:貴婦人の小部屋)、ティントレット「悔悟するマッダレーナ」(ローマ、カピトリーノ美術館:グロッタの小部屋)、ジューリオ・ロマーノ「バッコスの誕生」(マリブ、ポール・ゲッティ美術館:フェルディナンドの小部屋)、クラナッハ「ルクレツィア」(シエーナ、国立絵画館:フェルディナンドの小廊下)、ブリューゲル「農民の婚礼」(ダブリン、国立美術館:サンタ・バルバラの廊下)、ルーベンス「三歳のエレオノーラ・ゴンザーガ」(ヴィーン、美術史博物館:サンタ・バルバラの廊下)。いずれも画集に必ず出てくるような名作ばかりである。近年コンピューター・グラフィックスを活用した仮想のアーカイヴの製作がしきりに試みられているが、それに反してこれは実物を動員した極めてアナログ的な二度とありえない夢の実現だったといえる。
 ついでながら、この美術展に併せてゴンザーガの宮廷料理の研究書も刊行された。1662年、カルロ2世公に仕えた料理人バルトロメーオ・ステファーニが書き残した記録をもとにして、四十七種の料理が再現され、写真で紹介されている。イタリア料理といえば米を食べることで知られているが、唯一の産地であるポー河流域に米の栽培が導入されたのは15世紀であり、マントヴァにはフェデリーコ2世の時の記録があるという。なおマントヴァでは普通のリゾットのほか、米をベースとしたミネストローネが名物となっている。

(図7)
マンテーニャ「死せるキリスト」(部分)1480 ミラーノ・ブレーラ美術館


〔6〕オペラはマントヴァで生まれた

 さてゴンザーガ家がイタリア文化史の上で果たした役割についていうなら、音楽に関する話を忘れるわけに行かない。イザベッラ・デステの時からすでにマントヴァ宮廷は演劇や音楽のこよなき愛好者であったのだが、音楽史上画期的な出来事は、1607年にマントヴァでクラウディオ・モンテヴェルディのオペラ「オルフェーオ」が初演されたことである。
 モンテヴェルディは1567年にマントヴァ西方60キロのクレモーナで生まれた。この都市はヴィスコンティ家のミラーノ公国に属し、きっかけはよくわからないが早くから優れた弦楽器製作者を輩出していた。16世紀から17世紀にかけてアンドレーアとニッコロ・アマーティの名があり、次の世紀にはあまりにも有名なアントーニオ・ストラディヴァーリが現れることになる。そうした環境の中から作曲家モンテヴェルディが育った。そして1590年にヴィンチェンツォ1世によってマントヴァの宮廷に雇われた。この頃毎週金曜日の晩に「鏡の間」で演奏会が開かれていて、モンテヴェルディの最初の役職はヴィオラ奏者であったが、95年には宮廷楽長に昇進する(ヴルフ・コーノルト『モンテヴェルディ』1998: 音楽之友社)。
 彼がクレモーナ時代から作曲していたのは主として三声や五声のマドリガーレなどであった。マドリガーレはまさにこの時代に流行した典型的な世俗音楽である。宮廷の成立とともに、文学や美術と同じく、演劇や音楽も世俗化が進む。そうしたなかで、フィレンツェで1598年、リヌッチーニの「ダフネ」、1600年にペーリの「エウリディーチェ」という二つの音楽劇が上演された。これを「オペラ」と呼ぶべきかどうかは意見が分かれるようであるが、ともかく長い間「サクラ・ラプレゼンタツィオーネ」(聖劇)として教会で行われてきた上演様式が、ギリシア神話を主題とする内容に移行したことを示すであろう。ヴィンチェンツォ1世はこの上演に招かれており、大いに発奮しておそらくモンテヴェルディに作曲を指示したのであろう。かくして1607年2月14日、パラッツォ・ドゥカーレの「鏡の間」において、アッカデーミア・デリ・インヴァギーティの会員たちといういわば知識人たちの前で「オルフェーオ」が発表されることになったのである。
 この曲の新しさは、前記の二つの音楽劇が主役のモノディーを軸にして進行するのに対して、複数の弦楽器、木管、金管、チェンバロ、オルガン、それに一台のハープという重厚な楽器編成が指定され、華麗なアリアや合唱もふんだんに織り込まれ、要するに音楽の美しさによって主題の感動を与えようとするものだということである。これをもって「オルフェーオ」が「最初のオペラ」と定義づけられるのも理由なしとしないだろう。モンテヴェルディ自身はその後ヴェネツィアに移ることを余儀なくされ、サン・マルコ聖堂の楽団長となるが、ここでオペラ「アリアンナ」や「ポッペーアの戴冠」などを作曲し、いまなお我々を魅了するオペラの時代が幕を開けたのだった。
 ところで、パラッツォ・ドゥカーレの現在の「鏡の間」は、1779年にヴェルサイユ宮殿の例に倣って以前からあった大広間を改装したものであり、ヴィンチェンツォの頃毎週金曜日の夜音楽会が催されていた部屋は、別の場所であったらしい。そこにも大きな鏡が嵌め込まれていて確かに「鏡の間」と呼ばれていたが、いまはすっかり様子が変わってしまったということだ。個人的な話をすれば、戦後間もない貧しい時代に藤原義江によってオペラという芸術の世界に導かれた私が、マントヴァを最初に訪ねた時の大きな期待の一つは、「オルフェーオ」が初演された部屋に立って自分の姿を映してみたいという願いだった。パラッツォ・ドゥカーレの見学はガイドの引率が義務付けられており、「鏡の間」は足早に通り過ぎるので私は後ろ髪を引かれる思いだったが、あとで以上のような事情を知って、更なる失望を覚えることになった。……物体は移ろい行き、そして芸術は残る。


<<< 63号の表紙へ ↑このページの最初へ 次のページへ >>>

NO.63 コンテンツ一覧
文化広報誌 『SPAZIO』 のページへ


© 2004 NTT DATA Getronics Corporation