はじめに
今回はある機会に恵まれ、南イタリアのカラブリア地方にあるコセンツァという町を訪れることができた。イタリア本島はよく長靴の形に譬えられるが、その足の甲の踝に近いところとでも言えるであろうか。内陸側で、どちらかというとイオニア海よりもティレニア海に近く、訪ねて行くのには恐ろしく不便なところである。
この機会というのは、カラブリア大学(私立)で日本研究の学会が催されたことである。イタリアにある全国的な規模の唯一の日本研究の学会はAISTUGIA(Associazione Italiana per gli Studi Giapponesi)と呼ばれ、毎年一回国内のどこかで研究発表会と総会が催されることになっていて、それが今回2003年9月18日から20日にかけてカラブリア大学で行われたのである。コセンツァの郊外には、古くからの町レンデ(Rende)があるが、その周辺にはレンデの何何という町がいくつかあり、そのひとつレンデのアルカヴァカータ(Arcavacata)が大学の所在地で、コセンツァから約10キロ、丘を切り開いて200ヘクタールに及ぶ広い範囲にわたる地所が大学のキャンパスになっている。1973年創設のこの大学は六つの学部をはじめ、広い競技場や宿泊設備も含めて全部このキャンパス内に収まり、イタリアの大学としてはむしろ珍しい。新しいこともあって、近代的な設備を誇っている。ただし、この町、というよりは村に近いところには大学以外にはほとんど何もない。学会の平の会員は大学の宿舎には泊まれず、外部のホテルに分散したのだが、数人の会員とともに私の泊まったホテルは、レンデのもうひとつの村クワットロミリア・ディ・レンデ(Quattromiglia di Rende)にあり、大学から歩いて30分ほどであった。村といっても、かなり高級なアパートと思われる住宅も含め近代的な新しいビルがびっしり建ち並ぶ新開地である。コセンツァと大学を結ぶバスは1時間に1本あり、ホテル近くにも停留所がある。そして、ある1日学会の研究発表はサボり、大学とは反対側に向かうバスに乗ってコセンツァ訪問を果たすことができた。
コセンツァ(コゼンツァ)の名は、ギッシング著『南イタリア周遊記』を読まれた方にはお馴染みのところかもしれない。東に大小のシーラ山を控え、この有名な山の麓に位置し、私が訪れた時も常に広い範囲にわたって山容が遠く望めたが、もっと山に迫られるようなところと思い込んでいたので、山並が意外に遠く感じられた。生憎やや霞がかかっていたが、穏やかな起伏を見せて美しい、というよりもどこか心和む眺めであった。しかし、特にこれといって有名な美術品もないところから、私自身も名前は知りながら、この日まで訪れる機会には恵まれなかったのである。バスは鉄道のコセンツァ駅の裏側が終点で、そこから歩いて新市街を抜け旧市街に向かったのだが、大通りの左右にびっしり高いビルの並ぶ商店街はまったく新しく、賑やかに人も行き来し、豊かさを感じさせる。むろん表面的な印象に過ぎないが、南イタリアは貧しいという決まり文句はまったく嘘に思える。ただし、駅の裏手に貧しげな集団住宅がいく棟かバスの窓から見えたのは確かだが、ごく僅かなものに過ぎない。また、二、三言葉を交わした人々も、往来する人々ものんびりと余裕があって気持ちが良い。後で気づいたことだが、南イタリアは物騒だという噂もまるで嘘のように、一人でぶらぶら歩いて行っても何の危険も感じられなかった。ナポリやシチリアのパレルモなどでは、街を歩いていても絶えず緊張を強いられ、本能的に気をつけざるを得ないが、その感触は全然なかったのである。南イタリア一帯にかけてのマフィアの存在も超有名ではあるが、おそらく日常生活の深いところには結びつきがあったり、選挙の折などには表面にも出てくるのかもしれないが、一介の旅行者には無縁なことで、第一丸一日にも満たない通り過ぎの観光客には何も感取できないのは、むしろ当然であろう。
あまりにも近代的な町並みに見とれつつ、もしギッシングがこの発展振りを見たらさぞや仰天するだろうなどと思いながら、歩けども歩けども一向に旧市街らしい雰囲気は現れない。不安になって道を尋ねること2回、それでも方向は間違っていないらしい。余談になるが、私は方向感覚というものには大変弱く、間違えて当たり前くらいに思っているので、怪しい時にはすぐ人に訊くことにしている。今回も駅のあたりから左右を間違えたのではないかと思ったのだが、そうではなくて新市街がそれほど広かったのに過ぎない。たっぷり30分は歩いて、つまり2キロ近く新市街が続いていたことになるが、ようやくサン・ドメニコ教会に辿り着いた。
コセンツァの町の起原は紀元前5世紀のマグナ・グラエキア、つまり古代ギリシャの植民地のひとつに遡る。歴史的には大変ややこしい運命を辿るが、乱暴に言ってしまえば、その後ローマの支配下に入り、中世から近代にかけてはほぼナポリに従って運命をともにしたようである。ギッシングは西ゴート族の王アラリックがこの地に葬られたというギボンの伝える話に惹かれている。丘の上の旧市街の下を流れるブゼント川とクラティ川の合流点(現在は合流してからクラティ川と呼ばれている)に数多の戦利品とともに埋葬されたというのである。実は、現代のガイドブックによると、20世紀の初めにイタリアの考古学者たちが発掘調査を行ってみたが、それらしきものは発見されず、今では「伝説」ということになっている。
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SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次
- 教会巡りの楽しみ(1)
no.53(1996年7月発行)
- 同上 (2) グラードを訪ねて
no.54(1996年12月発行)
- 同上 (3) カオルレのカンパニーレ
no.55(1997年6月発行)
- マンタ城のフレスコ画について
no.56(1997年12月発行)
- 教会巡りの楽しみ(4) ムラーノ島の教会
no.57(1998年6月発行)
- 同上 (5) ロレンツォ・ロットの作品を求めて
no.58(1999年4月発行)
- 同上 (6) チヴィダーレ・デル・フリウーリを訪ねて
――ロンゴバルド美術の魅力――
no.60(2001年3月発行)
- 同上 (7) ヴェネツィアの好きな教会
no.61(2002年4月発行)
- 同上 (8) ヴェネツィアにおけるスクオーラ・グランデ
no.62(2003年4月発行)
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サン・ドメニコ教会
新市街の外れに近く、ブゼント川の手前に、左右新しい建物に挟まれた狭いファサードが見える。逆に言えば、昔の町の外、川向こうに建てられたことになる。一見ロマネスク風のファサード(図1)だが、隣接のドメニコ派修道院とともに1448年創建である。しかも18世紀以来改築を重ね、内部も部分的にはゴシック様式を取り入れてはいるが、近代になって古式を取り入れたものである。イタリアの地方の教会建築には往々にしてこういう様式の混在が見られ、それほど珍しい例ではない。
狭いファサードから判断して、小さな教会に見えるが、左右の建物が背が高く、正面からでは大きなバロック様式のドームもまったく見えない。アプスの方に回ってもドームがあることと、全体に思いがけないほど大きな教会であることは分かるが、やはり、橋を渡って川向こうから眺めた方が木立に囲まれた全容がよく見渡せる(図2)。
内部(図3)は、教会自体は長方形の一身廊で純白、まず清潔ですっきりとまとまった印象を受け、漆喰を盛り上げたレリーフが方々に見られ18世紀の作とのことである。主祭壇の左右には絵画を収めた壁龕が見られ、そのひとつにはコセンツァ出身の画家アントニオ・グラナータによる「十字架降下」(1793年)が収められている(図4)。身廊に沿って左右に三つずつアーチ形に開けた空間があり、それぞれ突き当たりの壁は絵画で装飾されている。身廊右側だけ、アーチを戴いた空間の壁の後ろに当たるところにいくつもの部屋のような空間が付け足され、あるいは小礼拝堂として使われるのかもしれないが、教会建築としてはかなり異例な構造になっている。おそらくは、独立した教会ではなく、修道院とともに発展したため、様々な用途の必要に応じて付け足されたのであろうと想像できるような空間である。身廊に入ってすぐ右側に奥に伸びる長方形の礼拝堂があり「ロザリオの礼拝堂」と呼ばれ(図5)、木組み天井が美しいが、がらんとした大きな空間である。ただ、左の壁にそって「マルトゥッチ家の礼拝堂」が開け、そこに大理石づくりの祭壇が設けられ、中央に聖母子、左右一段低く聖人の像が左右一体ずつ彫刻で表され、16世紀の作である(図6)。この小礼拝堂の床は実に美しいタイル造りになっている(図7)。「ロザリオの礼拝堂」の奥左側にはもうひとつの大きな礼拝堂「ロザリオのオラトリオ」への入り口があり、天井をはじめ、壁から床まで豪華なバロック装飾になっており、17世紀の作である(図8)。ただし、私が訪れたときには鍵がかかり、鉄格子の隙間から覗けただけであった。バロック装飾というものは、どうかするとごたごたして、威圧的な感を受けるものも多いが、これは品良く繊細で、鄙には稀と言ったらコセンツァの人に叱られるであろうが、思いがけず好感が持てた。
身廊右側の壁の外に沿って並ぶ、上記のいくつかの空間のひとつには、二人の寄進者らしい人物に挟まれた聖母子像の美しい祭壇も見られる(図9)。一見15世紀風だが、おそらくずっと後世のものであろう。その近くに「クラティ家の礼拝堂」と呼ばれる小礼拝堂があり、「キリスト洗礼」を表す祭壇画は18世紀のものだそうで、しっかりした描法を感じさせる(図10)。気をつけて見ると、今でも生花が飾られ、クラティ家の子孫が健在なのか、ともかく生きている信仰が見て取れる。
主祭壇の背後、普通の教会建築ではアプスにあたるところは、ほぼ正方形の空間になっていて隣接の八角形の部屋とともに、現在は聖器室として使われ、机や椅子、事務用品などが散らばっているが(図11)、建築構造は15世紀創建当時のものが随所に残っていて興味深い(図12、13)。また、元来は修道僧たちの祈祷室として使われていたそうで、1653年作の木彫りの見事な祈祷席も残っている(図14)。
話が前後するが、ブセント川を渡り、サン・ドメニコ教会のアプスを対岸から眺めた後、いよいよ旧市街に入ることにする。この日の川は川底が見えるほど水が少なく、滔々と流れる川の眺めを楽しむことはできなかった。2003年の夏はイタリア中異例の猛暑に加えて、各地で水不足となり、その名残がここにも見えるようである。旧市街のメインストリートは登り坂で(図15)、でこぼこ道の左右は、もともと手工芸品の多い通りだったそうだが、今でも散在しているし、その他の小さな商店も並び、左右に入る小道(図16)は、右側はかなり急な上り坂で階段が多く(図17)、いかにも古めかしく、特色があるが、同時に新市街と違って貧しさを感じさせる。洗濯物が翻る様子はナポリの下町を思わせるし、南イタリアに限らず、地方の旧市街はどこも似ているなという印象を受ける。現代のイタリア人は、経済的余裕が出来ると旧市街から離れた新市街に移ってしまう傾向が強く、歴史的由緒のある旧市街は、とかく貧しい人々の代々の住処として取り残されがちなのである。ともあれ、坂道をしばらくのぼって行くと、左手の広い階段の上にドゥオーモが堂々たるファサードを見せている(図18)。ここは丘の頂上ではなく、ドゥオーモの向かって右脇をさらにのぼって行くと頂上の大きな「3月15日」広場に達する。左手に県庁の立派な建物、右手に市立劇場が見え、広場の向こう側は広い公園になっていて鬱蒼たる緑に覆われている。この公園はギッシングが訪れた時にもすでにあったようで一言触れられている。引き返してドゥオーモに戻ることとしよう。
ドゥオーモ
この教会はさすがに起原が古く、12世紀半ばに建造されたものである。ところが、1184年の大地震で大変な被害を受け、13世紀に再建され、1222年の奉献式には、かの有名なフェデリコ(フリードリッヒ)二世も出席したとのことである。さらに18世紀には大改築を受け、教会全体がバロック様式に改築されたが、1831年にはファサードはゴシック様式に改築され19世紀終わりには教会全体をバロック様式からゴシック様式に戻そうとまたもや大改築や修復が行われ、ようやく1950年に終わり、ファサードも本来の形を取り戻したのである。
イタリアは何せ全国にわたって古くからの美術遺産が豊かで、それぞれの町が経済的に発展すると、その時代の趣味に合わせて改築、変更、修復を行ってきたので、栄えた町ほど美術品の元の姿は失われがちである。特に建築の場合この傾向が目に映りやすいが、絵画作品でも平気で塗りつぶしたり、描き加えたりといったことが盛んに行われてきたのである。19世紀後半からは、本来の姿に戻すという傾向が強まり、今でもその方針が続けられている。例えば、中世の建物あるいはその他の美術品をルネサンス時代に時代趣味に合うよう変更し、それをバロック時代にはさらにバロック風にし、その上、新古典主義が隆盛になれば、またそれに合わせて改造・改築し、それを現在は本来の中世に引き戻そうというのであるから、膨大な時間・手間・費用が要求される。現代の「歴史主義」というものはそれほど正しいのであろうかという疑問が生じても不思議ではない。実際、たまたま、悪く(としか思われない)修復された絵画などを見ると、表面の汚れを取ることはともかく、どうしてそれだけにしておかなかったのかと悲しい思いを抱かされることもある。これは無論修復や改造の成功如何にも関わってくる問題ではあるが・・・・このドゥオーモにせよ、サン・ドメニコ教会にせよ、あらためてこういう問題を考えさせる要素が多かったのである。
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(図1)
コセンツァ、サン・ドメニコ教会ファサード
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(図2)
ブセント川を隔てて見たサン・ドメニコ教会・修道院全貌
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(図3)
サン・ドメニコ教会内部
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(図4)
アントニオ・グラナータ作「十字架降下」
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(図5)
サン・ドメニコ教会内
「ロザリオの礼拝堂」内部
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(図6)
サン・ドメニコ教会内
「マルトゥッチ家礼拝堂」の祭壇 ▲画像クリックして拡大
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(図7)
「マルトゥッチ家礼拝堂」の床
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(図8)
「ロザリオのオラトリオ」祭壇部分
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(図9)
「聖母子と二人の寄進者」壁龕
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(図10)
クラティ家礼拝堂内「キリスト洗礼」
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(図11)
サン・ドメニコ教会、奥の聖器室
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(図12)
聖器室の壁から天井にかけて

(図13)
聖器室の壁面一部
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(図14)
聖器室に残る祈祷席、部分
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(図15)
コセンツァ旧市街のメインストリート |

(図16)
コセンツァ旧市街の横町
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(図17)
コセンツァ旧市街の階段のある横町
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(図18) ドゥオーモ、ファサード
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さて、内部に入ってみると、太い角柱によって分けられた三身廊で、左右の側廊に沿ってかなり大きな礼拝堂が並び、その装飾はやはり圧倒的にバロック風が多い。しかし、右側廊の内陣近くには、一面に見事なレリーフが施された、初期キリスト教時代の石棺(4世紀)がぽつんと置かれ(図19)、その近くには同時代と思われるモザイクの床が僅かに残っていたり、角柱の上に「受胎告知」を表す15世紀のフレスコ画が見られたり、さらに主祭壇にも「キリスト磔刑」像(図20)が見られ、これも古く15世紀作とされている、という風に歴史的価値のある作品が散在している。この磔刑像が風変わりなのは、キリストの頭部が異様なくらい前に突き出し、がっくりと項垂れている様子が強調されていることである。あらゆる時代の磔刑像の中でも、私の知る限り珍しい表現であるし、見事に成功していると言わざるを得ない。なお、左内陣には木彫り彩色の「聖母子像」が15世紀風のレリーフを施した龕に収められ、台座のレリーフとともに、おそらくはずっと時代が下がり18世紀頃の作であろうが、佳品である。ここにも生花が飾られ、生きた信仰を示している。
さて、教会の外に出て、もう一度右脇の道を辿り、教会の後ろのアプスの方に回ってみると、正面からは見えなかった鐘楼が見える(図21)。17世紀後半に造られたもので、がっしりとはしているが、教会の大きさに比べ、珍しいほど低い鐘楼である。中央や北イタリアのすっきりとそびえ立つ瀟洒な鐘楼の姿を見慣れた目には、これが鐘楼であろうかと不思議に思われる。教会の右脇から後ろにかけては、びっしりと建物が密着していて、アプスははっきりとは見えない。一つにはここには昔大司教座が置かれ、大司教館が教会と廊下でつながれているせいでもある。教会の真後ろは一段と低くなり、何の建物なのか判然としなかったが、現在も工事中である。
コセンツァの町にはまだ他にも教会があり、中でもサン・フランチェスコ・ディ・パオラ(パオラの聖フランチェスコ)教会とサン・フランチェスコ・ダッシジ(アッシジの聖フランチェスコ)教会が立派な教会として知られている。 しかし、生憎お昼休みの時間にぶつかり、残念ながらふたつとも中に入ることはできなかった。教会巡りには、このお昼休みというものが大変な障害になる。 イタリア国内でも、極めて有名な教会はお昼休みなしに朝から夕方まで開いているが、普通は12時になるとピッシャリ閉まってしまい、特に南イタリアでは4時頃まで開かないことが多い。実は、前述のドゥオーモも12時15分に追い出され、その後だめだろうと思いつつ、このふたつの教会に行ってみたのだが、やはり入れなかった次第である。
前者はちょうどブセント川とクラティ川の分岐点に面した崖のように小高くなったところにそびえ立ち、サン・ドメニコ教会の方から仰ぎ見る形になり、旧市街に入ると左側によく見える(図22)。修道院とともに16世紀に建造されたものが、18世紀に改築され、19世紀半ばと1908年に地震の被害を受け、その後再建されたのだが、内部には16、17、18世紀の作品がいくつか残っているそうである。
なお、この教会の近くの道路上には4軒くらいのワラ細工の小さな店が並び、今でも手造りの籠などを売っていて、観光客の人気の的となっている。この教会からクラティ川に沿って進むと、対岸の旧市街の住宅街が見渡せ、一様に古く、しかも貧しげな家並である(図23)。
もう一つのサン・フランチェスコ・ダッシジ教会は、メインストリートに戻って反対側の胸つくような坂を上ったところにある。ここも大きな修道院と教会が同時に建造され、起原は1217年と大変に古いが、1854年に地震の被害を被り、さらには1943年の爆撃を受け、修道院はまったく破壊されてしまった。ファサードは地震の被害後に再建されたものである(図24)。教会の裏手に回ってみると、まるで遺跡のように、爆撃の被害が未だに見られ、巨大な壁の一部がそびえ立っている(図25)。さぞや立派な修道院であったろうと想像される。このあたりは急坂の左右に極めて貧しげな家々が建て込み、痩せた野良猫がうろついて、いかにも荒れ果てた地域である。教会内部には15世紀の「キリスト磔刑」像やフレスコ画、また17、18世紀の美術品が何点か残っているそうで、見られなかったのは残念至極ではあるが、ファサード周辺も荒れ果てていて、一体夕方まで待って開くものかどうかも分からず、結局、この次のお楽しみ、と負け惜しみ半分につぶやきながら諦めざるを得なかった。
教会巡りからは少し外れるが、このコセンツァの町には国立美術館がひとつあり、それもごく最近、2003年になって公開されたばかりなので、一言ご紹介しておきたい。
旧市街に入って左手、サン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会のある側に、 教会を左手に見ながら右手のもうひとつの丘の方にのぼって行くと、まるで別荘のようなパラッツォ・アルノーネという建物がぽつんとひとつ丘の頂上に建っている。16世紀に建てられ、その名が示すようにアルノーネ家の住居であったが、公共機関に買い取られ、長い間裁判所や牢獄などに使われ、それが1970年代まで続く。それを80年代に文化財・文化活動省が買い取り、国立美術館(Galleria Nazionale di Cosenza )にしたものである。コセンツァもしくはカラブリア地方出身の絵画作品蒐集が目的であるらしい。まだ完全には整備できていないものの、すでに収集した美術品を公開する目的で2003年2月から8月にかけて特別展が行われ、その期間が延期されて運良く間に合ったのである。 国立美術館としてはまだ小規模で、一階は特別展に当てられ、現代作家のデッサン展を行い、二階が蒐集品の展示に当てられているが、五、六室に過ぎない。
古い美術品は二点あり、そのひとつは前述のフェデリーコ二世がドゥオーモの奉献式に出席した際ドゥオーモに寄贈したと伝えられる小聖遺物器(スタウロテカStauroteca)がガラスケースに入れて展示されている。これは十字形をした、金や宝石類で豪華に装飾された容器で、中には十字架の一片が収められている。ノルマン人の金銀細工師によってパレルモで造られた12世紀半ばの作で、フェデリーコ二世としては正に当時創られた最高級品のひとつを寄贈したわけなのであろう。もうひとつは絵画で「ピレリオのマドンナ」と呼ばれる、ビザンチン風の聖母子を表すイコンであり、13世紀後半の作とされている。古いものはこの二作だけで、その他はずっと時代が下がり、主としてマッティア・プレーティ(1613-99)とルーカ・ジョルダーノ(1632頃-1705)二人の絵画が数点ずつ展示され、しかも、ほとんど全部実に質の高い作品で、折に触れ見る機会のあったこの二人のバロック画家の力量を再認識することになった。
今回の旅は、行ったことがなく、しかもなかなか行けそうもない町を学会に便乗して訪れることができたが、ぜひ見たい美術品を目的にした旅ではなかった。しかし、例外的と言ってよいほど美術品の豊富なイタリアの国は、どんな田舎に行っても何かしら面白い作品や思いがけぬ作品に出会うことができるので、今回も例外ではなく、あらためて無限に近い豊かさを痛感させられたのである。
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(図19)
ドゥオーモ、古代の石棺のレリーフ ▲画像クリックで拡大
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(図20)
ドゥオーモ、主祭壇の「キリスト磔刑像」 ▲画像クリックで拡大
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(図21)
ドゥオーモの鐘楼
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(図22)
サン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会、ファサードと鐘楼
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(図23)クラティ川の対岸に見える家並
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(図24)
サン・フランチェスコ・ダッシジ教会、ファサード
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(図25)
サン・フランチェスコ修道院跡
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