ドイツ美術はなぜ「醜い」か

秋山聡 (あきやま あきら 東京学芸大学教育学部助教授)


「美とは何であるかを私は知らない」


 アルブレヒト・デューラーは、ついに完成を見ることがなかった「絵画論」の草稿中で、繰り返しこのように記しています。1505年初夏から1年半、彼はヴェネツィアに滞在して最先端の美術に触れると同時に、自信に満ちた創作活動を展開、画家や学識者たちにも一目置かれるまでになっていました。イタリアの地に愛着を感じ、帰郷を目前に「ここでは紳士だが、故郷では居候」扱いであることを嘆くほど意気軒高だったデューラーが、なぜその後まもなく着手し始めた理論的草稿で、このような悩みを吐露するようになったのでしょうか。

 その背景には、当時のイタリアとドイツにおける美への考え方の相違があったようです。古代ギリシア・ローマの流れを承けたイタリアの美術理論では、美とは絶対的なものであり、何が美しく、何が美しくないかが、はっきりと区別できました。美についての理論的考察に興味を抱き始めていたデューラーは、ヴェネツィア滞在中に、このような理論に親しく接したものと思われます。しかし、このような審美観にデューラーは、違和感を持たずにはいられなくなりました。というのもイタリアの絶対的な美の規準をそのまま受け入れてしまうと、自らのこれまでの画業はもとより、そもそもドイツの美術を全否定することになりかねないからです。そこで、イタリアにおいて学んだ古代ギリシア・ローマ由来の美の理論と、自らが根ざす美術的伝統との間に、いかに整合性を見出すかを考察しはじめたデューラーから、思わず洩れた本音が、冒頭の一節だったのです。


SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次

  • デューラーの《蝿》をめぐる謎   no.62(2003年4月発行)

イギリスでも物議

 今日でもドイツの美術には、外国人にとって馴染みにくく、理解しにくいところがあるようですが、ドイツ人の制作した作品が、その衝撃的な美しからざる表現のためにスキャンダルになった例は、中世にも認められます。1306年4月15日、ロンドンの聖ミルドレッド教会附設コニーホープ礼拝堂に、新しい木製磔刑像が設置されたところ、大変な話題を呼び、多くの信徒が押しかける騒ぎとなりました。やがてロンドン大司教や聖ポール大聖堂参事会が、この磔刑像を問題視するところとなり、磔刑像は差し押さえられ、教会の主席司祭や磔刑像の制作者の査問が行なわれました。
 実はこの磔刑像はティデマンというドイツ人が制作したのですが、当時のドイツで流行していたいわゆる「フォーク型磔刑像」というタイプのものでした。これは十字架の横木が水平ではなく、V字状に上方を向いているためフォークのように見え、そこにキリストが極めてむごたらしい様で吊り下げられているかのように表現された磔刑像なのです。教会側は、極端にデフォルメされたこの磔刑像は人々の信仰にとって危険だとみなし、教会からの撤去を決定。制作者には代金と磔刑像が返還されましたが、以後、イギリスでは、このような像の販売はもとより、人々に見せることも禁止されました。

フォーク型磔刑像の一例、14世紀末

ドイツ中世は醜い形象に満ちていた


 イギリスではスキャンダルにまで発展した磔刑像が、ドイツにおいては何の問題もなく受け入れられ、普及していました。中世後期のドイツでは、極めてむごたらしく打擲され傷つけられたキリストの姿を赤裸々に示した絵画や彫刻が、数多く制作されています。またピエタ像においても、死せるキリストを抱えて悲しみに沈むマリアの面貌は、通常私たちに馴染み深い若く美しいマリアではなく、老いさらばえて苦悩に顔を歪める母親として表現されます。キリストを嘲笑し、十字架刑に処した人々の顔にも、考えられる限りの醜さの指標が与えられ、結果として、極めて個性的で印象的な人物像が幾多も生れています。キリストの幼時を主題にした作品を別とすれば、逆に「見た目に美しい」図像は稀と言ってもよいかもしれません。デューラーが生れた15世紀後半になっても、この傾向は弱まるどころか、むしろ強まり、今日の我々が目を背けたくなるような陰惨なキリスト殉教図が数多く制作されたのです。

キリスト教、転倒の論理

 中世後期のドイツ美術は、なるほど他の地域に比べて美しからざる形象に満ちていますが、キリスト教の主たる物語は概して陰惨悲痛なものなので、忠実に再現しようとすると、こうならざるを得ない、とも思われます。そもそもキリスト教の教義自体が、他の宗教と比較しても相当特殊なものです。キリスト教の根底には、普通の価値観を覆すような「転倒の論理」とでも言うべきものがあるのです。
 おぞましい刑死を遂げた大工の息子を、神の子であり神であるとする教義は、もともと決してわかりやすいものではありませんでした。また教典である聖書も、その洗練とはほど遠い無骨な文体は、教養の高いローマ人にとっては嘲笑の的であったようです。しかし自らも高度な古典的教養を備えていたアウグスティヌスは、極めて巧みにこれを正当化しています。「低級な文体(セルモ・フミリス)」で崇高な対象を語ることこそ、神が卑しい人間の姿をして、地上に一時的にせよ現れたというキリスト教の本質にふさわしいと主張したのです。目立たない、場合によっては卑しい外観と、そこからは計り知れない崇高な内容というキリスト教特有の結び付きが、公式化されたと言えるのかもしれません。美術においてもハンス・ゼードルマイヤー(1)のように、初期キリスト教時代以来、キリスト教のこの逆説的な真理を示すべく、「低級な文体」の美術版「アルス・フミリス」が展開していたのではないかと考える研究者もいますが、具体的作例に即して通史的に、この「アルス・フミリス」を指摘するのは容易ではないようです。

『ピエタ』(菩提樹材による木彫に彩色)、
14世紀半ば、ボン、ライン州立美術館(模写)
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カールスルーエの受難画の画家、『キリスト捕縛』、1440年頃、カールスルーエ州立美術館
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ヤン・ポラック、『キリスト嘲笑』、1490-92年頃、ミュンヘン、バイエルン州立美術館
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イェルク・ブロイ、『キリスト嘲笑』、1502年頃、メルク修道院
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マルクス・ラインリヒ、『キリストの鞭打ち』、1506年頃、ミュンヘン、アルテ・ピナコテク
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(1)
ハンス・ゼードルマイヤー
様式分析を批判し、構造分析を提唱した美術史家。主著に『中心の喪失』、『ゴシック聖堂』、『光の死』などがある。

非類似の象徴

 「刻んだ像を造ってはならない」という禁忌(モーセの十戒・第二戒)を有するユダヤ教から派生したキリスト教では、神の像を造ること自体をめぐって様々な議論が展開されました。8-9世紀の東ローマ帝国でのイコノクラスム(聖像破壊運動)、16世紀初頭のドイツやスイスでの宗教改革は、偶像禁止派が積極的に活動を起こした典型的な事例です。一方、絵画や彫刻などのイメージを許容しようとする人々は、それを何らかの形で正当化しなければなりませんでした。西ヨーロッパではイメージの効果が重視され、とりわけ、[1]文字の読めない人々にとっての聖書、[2]記憶の補助装置、[3]感情を揺さぶることにより信仰心を高める道具、などとしての側面が強調され、普及が進んだようですが、イメージが人々を誤解させる危険性については、常に警鐘が鳴らされていました。例えば、美しく荘厳な神の像を危険視する「非類似の象徴(ディッシミリア・シグナ)」というユニークな理論があります。

カールスルーエの受難画の画家、『十字架に打ち付けられるキリスト』、1440年頃、カールスルーエ州立美術館
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リンダウの哀悼(ピエタ)の画家、『ピエタ』、1410-20年頃、リンダウ市立美術館
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 偽ディオニュシオス・アレオパギテス(2)の『天上位階論』(6世紀初頭)では、基本的に人間には隠蔽されている不可知、不可視の神に関わる真理について、それがどのように啓示されうるかが、二通り論じられています。一つは、神的な存在を、見た目に美しく崇高な形象で表現する道ですが、地上における美しい形象は天上的な美からはほど遠いもので、所詮似てもいない形象表現に過ぎず、全くありそうもない不適切なものを作り上げる方法に他ならないので、ともすると人々に誤った神のイメージを抱かせかねないものだと述べられています。

(2)
偽ディオニュシオス・アレオパギテス
パウロによって改宗したディオニュシオス・アレオパギテスの名を使って500年前後に書かれた『神秘神学』、『神名論』、『天上位階論』などの書物や書簡の著者をこう呼ぶ。長くパウロによって回心したアテネの最高法院議員アレオパゴスのディオニュシオスと思われていた。中世の神秘主義の基本を形成するほどの影響力を有した。

 そこでこれよりも望ましいとされるのが、神的な事柄を「非類似の象徴」によって表現すること、つまり似ても似つかないように表現することです。「非類似」という言葉の背後には、神の似姿としての人間という旧約聖書以来の概念があり、似ていないとは、とりもなおさず醜いことを示唆しています。神に関わる真理が似ても似つかない醜い形象によって表わされている場合、それを見た人は困惑を余儀なくされ、その意識はいきおい神の存在について向かう、つまり、醜悪な形象は聖なる事柄への探求心を喚起し、魂のより高次への上昇を鼓舞する機能を果たすというわけです。偽ディオニュシオスの著作は、ヨハンネス・エリウゲナ(3)によるラテン語訳と註解によって、9世紀以降、ヨーロッパに普及してゆきます。真の神的な美は、所詮、人間には知覚不可能であり、地上においては、美しい形象よりもむしろ醜い形象において啓示されるというこの逆転の美学は、アルプス以北において、中世が進むにつれて、独特な発展をみせることになりました。

(3)
ヨハンネス・エリウゲナ(810年頃-877年)
アイルランド出身の神学者、哲学者。ギリシア語に長じ、偽ディオニュシオス・アレオパギテースの著作をラテン語に訳し、キリスト教的ネオプラトニズムのヨーロッパにおける普及に貢献した。主著に『ディオニュシオスの天上位階論註解』、『ヨハネ福音書註解』などがある。




美と醜の転倒

 「私は地を這う虫vermisであり、人ではない」という一節が聖書の「詩篇」にあります。この一節は中世後期、しばしば、地上に受肉した神としてのキリストと関連付けて論じられました。キリストは本来神であり、この世のものでない美しさを有していたものの、その美しさは人間にとっては知覚不可能なものでした。人間が目にすることができたキリストは、大工の息子として生れ、十字架上で刑死した人物としてであり、その本来の美しさは隠蔽され、普通の人々には醜くしか映らなかったと考えられました。そして真の信仰を有した者のみが、その一見醜いと思われる姿に、真の美しさを窺い知ることができるというのです。ハンス・ローベルト・ヤウス(4)は殉教録の陰惨な描写を論じながら、「焼かれた肉体の臭いを、異教徒はただ知覚の世界におけるおぞましいもの、拷問と受け取るが、キリスト教徒にとっては、全てが美酒であり、芳しい香りになる」と述べています。外観の醜さの中に真の美しさを見出すことが、真の信仰の証にもなったのです。12世紀後半に改宗したあるユダヤ人の手記にも、改宗前にキリスト教の教会を訪れて磔刑像を目にした折は、おぞましいとしか思えなかったと述べられており、ここにも一般にはおぞましいと映る表象が、キリスト教の信仰を得た者のみに、崇高な美として立ち現れるという図式がうかがえます。

(4)
ハンス・ローベルト・ヤウス
1960年代、コンスタンツ大学を中心に勃興した受容美学の主導者の一人で、文芸学においてドイツを代表する研究者。主著に『挑発としての文学史』、『美的経験と文学解釈学』などがある。

 中世後期の神秘主義者たちは、キリストの地上における苦悩や苦痛を、追想あるいは追体験することによる礼拝実践を率先して行ないましたが、その基盤には多かれ少なかれ、このような美と醜をめぐる逆説がありました。例えばハインリヒ・ゾイゼ(5)は、先の「詩篇」の一節を引きながら、「おお、汝、なんと美しい地を這う虫よ!」と呼びかけています。さらに「私は世界から謗られています。しかしそれ故に私はあなたに受け入れられています。…私は世界から軽蔑されています。しかしそれ故にあなたに愛される価値があるのです」と述べています。さらに中世末期の神秘主義の極端な路線を代表したのが、カルトジオ会のディオニュシオス(6)で、彼は「鉄の頭と銅の胃袋」を誇り、蛆のわいたバターや虫の食い荒らしたさくらんぼ、また腐った塩漬けの鰊を好んで食べ、苦痛と悲惨に満ちた描写を得意として人々を一種ショック療法的に刺激し、信心や美徳への希求心を喚起しようとしたといいます。中世後期のドイツにおける醜い形象の流行には、こうした背景が存在していたのです。

(5)
ハインリヒ・ゾイゼ(1295年頃-1366年)
ヨハンネス・タウラーと並んで、マイスター・エックハルトの高弟であったドイツ中世の神秘主義者。主著に『永遠の知恵の書』、『真理の書』などがある。

(6)
カルトジオ会のディオニュシオス(1402/03-1471年)
レーケンあるいはレーウェンのディオニュシオスとも称される神学者。神秘的な体験を繰り返し、博学で知られ、著作数は200を越えるという。

デューラーにとっての美

 このような転倒の論理、倒置の審美観が、中世末期に顕著に認められるアルプス以北の出身であるデューラーが、美術の先進地帯イタリアにおいて、先端的な美術理論を熱心に吸収しながらも、違和感を覚えずにいられなかったことは不思議ではないでしょう。結局、デューラーは悩みつつも、イタリアの美術理論と、アルプス以北の審美観に根ざした己の美学とを止揚すべく、奮闘します。結果的に、彼が当初構想していた一大絵画論は、完成を見るには至りませんでしたが、その一部は生前『人体均衡論四書』(人体比例論四書ともいう)としてまとめられ、その死の直後に出版されました。ここでは人体の理想的体形が一つではなく、実に29例も取り上げられています。この書物のための草稿には「我々はあるものを幾つかのものの中では美とみるが、他の物の中では美とみないであろう。両方とも美しい二つの異なるものについて、どちらがより美しいかを認識することは容易ではない」とも「異なる二つの像が作られて、両者全く似ずに、一方は肥え、他方は痩せた形態をしているとして、そのどちらがより美しいかをよく判断できないということも十分にありうる」とも記されています。この脈絡でデューラーは、「多くの物に美はつきものであるけれども、美とは何であるかを私は知らない」と表白しているのです。デューラーにとって、究極の美とは不可知、不可視なもの、つまりは神の領域に属するものであり、それ故に絶対的な美そのものに到達することは所詮望むべくもないことで、せいぜい可能に思われたのは、美よりも知覚が容易な醜さを認識し、それを排除することによって出来る限り美に近づくということでした。この点は、人間にとって不可知の神は「神は~である」という形では決して把握できず、所詮「神は~でない」としてしか認識できないとする否定神学との類似をうかがわせます。実際デューラーは、絶対美を創造する才能は「高きものからくる」とも記しています。

デューラー、『1500年の自画像』、ミュンヘン、アルテ・ピナコテク
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正面向きという構図は当時においては、イコン特有のものであり、通常生きている人間の肖像には採用されることはなく、異例なものと言えます。デューラーは、造物主による創造行為が、美術家の制作活動と類似していることを、正面構図の採用とともに銘文における動詞effingereの選択によっても強調しています。また動詞の時制が未完了過去形であることは、古代の大画家アペレスに倣ってのことと思われます。つまりこの自画像においてデューラーは、創造者としての神と、古代最大の画家アペレスに、自らを重ね合せているのです。デューラーには、当時の人文主義的傾向を備えた人々に通有の特徴として、極めて謙虚な側面と、強い自信が表裏一体に矛盾なく同居していました。この自画像では、成功途上にあった若い画家の抑えがたい自信が溢れ出し、神への冒涜的行為の一歩手前にまで迫っているように見えますが、それはこの絵が自宅に留め置かれ、ごく内輪の人々のみを鑑賞の対象としたものであったからこそ可能だったのでしょう。

「内面重視」の傾向

 ところで、デューラーは晩年、荘厳華麗なスタイルよりも、単純素朴なものを良しとして、「簡潔さこそが芸術の最高の誉れであるということを理解した」と、宗教改革の理論家として名高いフィリップ・メランヒトン(7)が伝えています。デューラー自身も『人体均衡論四書』中の「審美論補遺」において、「画法を心得た熟達した美術家が、そうでない多くの者が大きな作品に示す以上に、その大きな力量と理論を、より劣った材料に描かれた粗野な農夫の形姿にも示すことができるのである。この意見は奇異に思われるかもしれないが、力量のある美術家は、私の述べることの真実なるを、理解することができよう」と記しています。この一節において、デューラーは、古代ギリシア・ローマ修辞学における文体論の図式を用いながら、アリストテレスが『詩学』や『修辞学』において展開した「表現対象に対する表象の優位」という議論と、キリスト教神秘主義における美と醜を倒置した審美観を、止揚しています。端的に言えば、誰が見ても美しいと認識できる荘厳華麗な作品ではなく、一見無骨で醜悪な対象を描いたものに、真の芸術が宿るのであり、そのことは本当に目の肥えた人にしかわからないと、デューラーは主張しているのです。
 外観の華麗さ、見かけの美しさへの不信感や、外見からはわかりづらい内面性こそを重んじるという傾向は、形姿を様々に変えながら近代以降のドイツ美術にも残存しつづけます。赤裸々に社会の現実を暴き立てるようなリアリズムや、感情移入を峻拒し、鑑賞者の意識を覚醒させてしまうような強烈な色使いなどを特徴とするドイツ近代の美術作品は、時に外国人にとっては不快なものに感じられます。このようなドイツ美術の特徴については、イタリア・ルネサンス美術やフランス印象派が、外面的な美を追求したのに対し、ドイツ美術は昔も今も内容・内面こそを重視するために、一見美しくないようにも見えるのだという説明が、ともすると加えられがちです。こうした図式は、しかし、ここで見たように、中世の神学的な美の考察にまで遡り得る根の深いもので、神秘主義の流れをひくドイツ特有の審美観に立脚したものなのです。
 今日に至るまでのドイツ美術のある種の「醜さ」あるいは「見難さ」の一因は、強固な伝統の流れをひく独特の審美観にあるようです。

(7)
フィリップ・メランヒトン(1497年-1560年)
マルティン・ルターと共にドイツ宗教改革を代表する理論家の一人。晩年のデューラーと親交があった。主著に『神学要覧』がある。


主要参照文献
  • R.Assunto, Die Theorie des Schönen im Mittelalter, Köln 1963.
  • E.Auerbach, Sermo humilis, in: Id., Literatursprache und Publikum in der lateinischen Spätantike und im Mittelalter, Bern 1958, pp.25-53.
  • J.Bialostocki, Vernunft und Ingenium im Dürers
    kunsttheoretischen Denken, in: Zeitschrift des deutschen Vereins für Kunstwissenschaft, 25(1971),pp.107-114.
  • P.Binski, The Crucifixion and the Censorship of Art, in: P.Linehan/J. L.Nelson(eds.), The Medieval World, London/New York,pp.342-360.
  • H.Rupprich(Hg.), Albrecht Dürer. Schriftlicher Nachlass,3Bde., Berlin 1956-69.
  • J.Ch.Schmitt, Die Logik der Gesten im europäischen
    Mittelalter
    , Stuttgart 1992(邦訳:『中世の身ぶり』(松村剛訳)、みすず書房 1996年)
  • H.Sedlmayr, Ars humilis, in: Id., Epochen und Werke,Gesammelte Schriften zur Kunstgeschichte, Bd.3, Berlin 1982.
  • Hans Robert Jauss, Die klassische und die christliche Rechtsfertigung des Hässlichen im mittelalterlichen Literatur, in: Poetik und Hermeneutik 3(1968), pp.143-168.
  • 木俣元一、「Pro lectione pictura est?  グレゴリウス1世、イメージ、テキスト」、『西洋美術研究』第1号、三元社 1999年
  • 下村耕史、『アルブレヒト・デューラーの芸術』、中央公論美術出版 1997年
  • 下村耕史編訳、『デューラー、<人体均衡論四書>註解』、中央公論美術出版 1995年
  • 下村耕史編訳、『デューラー <絵画論>註解』、中央公論美術出版 2001年
  • L.B.シロニス、『エリウゲナの思想と中世の新プラトン主義』、創文社 1992年
  • 前川誠郎訳編、『デューラーの手紙』、中央公論美術出版 1999年
  • 『西洋中世思想集成』第3巻(「天上位階論」(今義博訳)、平凡社 1994年
  • 秋山聰、『デューラーと名声』、中央公論美術出版 2001年

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