ペトラルカ=ボッカッチョ往復書簡

ルネサンス交友録

(10-2)

近藤恒一(こんどう つねいち ルネサンス思想史・文芸史)

SPAZIO誌上での既発表の章 目次

  1. (はじめに)/未完の文通・・・・・・・・・・・・・No.53(1996年 7月発行)
  2. フィレンツェの出会い――そして都ローマから・・・・No.54(1996年12月発行)
  3. 放浪の詩人と母国フィレンツェ・・・・・・・・・・・No.55(1997年 6月発行)
  4. 友情の危機――詩人のミラノ居住をめぐって・・・・・No.56(1997年12月発行)
  5. 古典の探索と収集・・・・・・・・・・・・・・・・・No.57(1998年 6月発行)
  6. 自著の交換・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・No.58(1999年 4月発行)
  7. ダンテをめぐって・・・・・・・・・・・・・・・・・No.59(2000年 3月発行)
  8. キケロからホメロスまで・・・・・・・・・・・・・・No.60(2001年 3月発行)
  9. 中世文化の継承・・・・・・・・・・・・・・・・・・No.61(2002年 4月発行)
  10. 精神的危機(次号へ続く)・・・・・・・・・・・・・No.62(2003年 4月発行)

X.精神的危機(承前)

本書簡の背景

 1362年春、ボッカッチョはシエナの修道士の訪問をうけ、自分の死が2~3年後に迫っていること、文学研究を放棄すべきことを告げられる。この修道士によれば、おなじ修道院のピエトロ・ペトローニが臨終の枕もとにキリストの訪れをうけ、そのようなお告げをえたというのである。
 この報告にボッカッチョは動転。文学研究の放棄を真剣に考え、自分の蔵書をすべて売りはらおうとするが、まずペトラルカに相談しようとして手紙を書く。これへの返信が、本章に訳出する書簡である。
 ペトラルカ書簡によれば、ボッカッチョ自身にかかわる警告は二つである。すなわち、ボッカッチョの生涯は終わりが間近で、すでに2~3年しか残っていないということ。つぎに、かれは詩学(韻文学)の研究をやめるべきだということ。――おもにこの二点をめぐって、ペトラルカは5月28日付けで長大な返信を書く(『老年書簡集』第1巻5)
 ペトラルカはまず、友の死が間近という予言に驚愕し悲嘆にしずむが、手紙全体を通読すると冷静さをとりもどし、まず予言そのものを問題にする。詩人はいう。
 「死すべき人間の目でキリストを見たというのがもしほんとうなら、これはたしかに大変なことです。しかし嘘や作り話で敬虔さや神聖さをよそおい、神意という衣で人間の欺瞞をおおいつつむのは、古くからよくある手です」。
 それから、予言というものについて、詩人は古今の事例や古人の見解を紹介しながら論じる。そして死の予言とのからみで生と死の問題をとりあげる(以上、前号に訳出し掲載)。さらに、この問題を展開して自分の死生観を述べる。その部分を以下に訳出する。

生と死について

二つの死生観

 しかし、ここまで述べてきたこの問題〔生と死の問題〕に、もう少しこだわりたいと思います。この問題は前述のように偉大な人たちによって論じられ解答されており、かれらの論述ばかりか権威にも圧倒されますが、この問題についてほかの人たちの考えを聞いてみるのも、おそらく無駄ではないでしょう。
 さて、つぎのような二つの見解があります。そのひとつは、「生と呼ばれるこの人生とは死である」というもの。この見解は、キケロが若くして『国家論』第6巻〔第14章〕に記しており、晩年にも『トゥスクルム対談』の第一日目にくりかえしています〔第1巻第31章〕。第二の見解も、おなじ『トゥスクルム対談』の第1巻において主張されています。すなわち、「人間にとっては生まれないのが最善であり、なるべく早く死ぬのが次善である」〔第1巻第48章〕。どちらの見解もおそらく、キケロ自身が別の箇所でも述べ、ほかの人たちもまた述べているでしょう。

大グレゴリウスの見解

 まず第一の見解ですが、生には無数の禍いがあるので、この見解はむろん真であるばかりか、きわめて真であると思われます。とはいえ、生は死なりと単純に言いきるのは、ほんとうに真で中正な見解というよりも、むしろ大胆な見解と思われます。それで、大グレゴリウスが日常的説教のなかで述べている穏健な見解のほうが好きです。
 「この世の生は、永遠の生にくらべると、生というよりもむしろ死というべきです」。
 このほうが、より穏当で健全だと思います。

ラクタンティウスの見解

 しかし第二の見解について、そしてまた第一と第二それぞれの見解についても、ご覧のように偉大な著作家たちの証言がありますが、博学にして雄弁なラクタンティウス・フィルミアヌスの考えをここに紹介するのも場ちがいとは思われません。かれは自著『神学体系』において、その第何巻においてかは覚えていませんが、人間の忍耐力の無さについて述べています。
 「死を善であるかのように願望し、生を悪であるかのように避ける人たちは誤っている、と言わずしてどう言うべきだろうか。かれらはわずかな悪を多くの善によってつぐなおうともしない不正な人たちである。なぜならかれらは、さまざまな贅沢(ぜいたく)な快楽のあいだで暮らすことに慣れきっていて、たまたま何かつらいことに出あうと、死にたいと思う。このようにかれらは、ときどき不幸だったので、幸福だったことがないかのように思うのである。それで、生を全面的に断罪し、生は悪だけに満ちているとみなす。ここからあの馬鹿げた考えが生まれた。すなわち、われわれが生とみなしているものは死であり、死としておそれているものは生であって、第一の善は生まれてこないこと、第二の善は早く死ぬこと、という考えである。
 この考えは、いっそう権威づけるためにシレノスに帰せられている〔キケロ『トゥスクルム対談』第1巻第48章〕。キケロは『慰め』(15)において言う。

(15)
キケロの『慰め』は、娘トゥリアの死にさいして書かれた作品で、現在は失われている。

 〈生まれてこないこと、そして人生の岩礁のあいだに落ちこまないこと、このほうが最善だが、しかし生まれてきた以上は、いわば運命の業火(ごうか)から、なるべく早く(のが)れるのが次善である〉。
 キケロがこの文言をひきたてようとして、いくらか独自の表現を加えているところをみると、かれ自身もこの浅薄な考えを信じていたのはあきらかである。だが、なにかが善であるか悪であるかは感覚によってしかわからないのに、感覚をそなえた人がだれもいないとき、いったいだれが、生まれないのが最善だと思うのだろうか。さらに、いったいなぜ、人生はすべて岩礁や業火にほかならないとみなしたのだろうか。まるで、われわれは生まれてこないこともできたかのようであり、あるいはまた、われわれの生は神ではなく運命が与えてくれるもので、生きるとは火災にさいなまれるようなものであるかのようである」〔『神学体系』第3巻第19章〕。
 このようにラクタンティウスは述べています。

人生は天国をめざすべき旅路

 ご覧のようにぼくは、だれかの見解に(くみ)していると思われないように、さまざまな著作家の異なる見解をわざと意識的に取りあつめました。きみは、これぞと思う見解をえらびとってください。そうしても、真理はその居場所にとどまるでしょう。しかしぼくとしては、当面の問題に戻りますと、ただつぎのことを言いたかっただけです。――これまで話してきた多くの見解のどれがより真理であるにせよ、ぼくらの人生は、これをあまり愛しすぎてはならないし、また最期まで耐えなければなりません。そしてこの人生をつうじて別の生をめざし、いわば困難な旅路をたどって憧れの母国〔天国〕をめざすべきです。
 ぼくらはむろん、いまとなっては、生まれなかったことは不可能です。しかし、人生が不確かで、危険にみち、悪しきものであるとしても――むなしい快楽によって盲目になり正しい自己認識や判断をうしなった人はべつとして、生を()けている者ならだれでもこれを疑えないと思いますが――悪しきものから望ましい良き結末が生じるのです。そしてこの人生は嘆かわしいものだとしても(おそらく人生それ自体がそうだということをぼくも否定しませんが)、嘆かわしいのはこの人生が終わりをもつからではなく、人生が始まったからです。
 ある民族は生まれつき哲学的資質にめぐまれていると言っても至当で、かれらは自分の子どもの誕生をなげき、死をよろこぶのが習慣のようになっています。われわれが死をおそれるのは、生の享受が短かくなるからというよりも、永劫の責め苦にたいする恐怖心からです。永劫の責め苦は、たとえ先送りすることはできても、徳の力と〔神の〕憐れみの助けなしには避けることができません。いな、先送りすることさえできません。

死の省察

 ですから、死をおそれるべきではありません。死をおそれても無駄です。むしろ生を正すべきです。これだけが、死をおそれないようにしてくれるでしょう。それとともに死と慣れ親しむべきで、死という恐ろしい名前だけでなく、死そのものの本性や具象的な現われかたに、いつも思いをいたすべきです。そうすれば、しばしば死について省察し、死が訪れても恐れないで受けいれることができ、死を知らないために仰天することもありません。
 これがプラトンの教えであり、かれにつづくすぐれた哲学者たちの教えです。かれらによれば、哲学そのものと賢者たちの全生活は「死の省察」です。使徒パウロも、自分は「日々(ひび)死んでいる」というとき、おなじことを考えていました〔『コリント前書』第15章31〕。なぜなら、自然の法によればだれも一度しか死ぬことができないので、たびたび死ぬためには、また、俗見(ぞくけん)によればもっとも苛酷なもの〔死〕を、習慣によって(やわ)らげるためには、自然ではなく不断の省察が必要です。この省察が〔異教の〕哲学者たちにとってどのようなものであったかは、かれら自身が知っています。

キリスト者の省察

 われわれの省察、つまりキリスト者の省察は、それ以前の省察よりもはるかに透徹したものです。この省察の核心はキリストにあります。生命(いのち)に満ちたその死、死にたいするその勝利にあります。この問題については、アンブロシウスの勧めを無視することができません。それはこの問題に深くかかわるもので、兄弟の死にかんする前記の書物にみられます。ぼくがこの著作家をこれほど利用しても驚かないでください。ぼくは十年近くミラノに住み、丸七年間もかれの客人だったのです(16)。かれは言います。

(16)
ペトラルカは1353年6月ごろからミラノを生活の本拠としたが、61年6月なかば、ペストをのがれてパドヴァに移住。しかし62年1月早々、プロヴァンスゆきを意図してミラノに移るが、戦火に妨げられてプロヴァンスゆきをあきらめ、同年5月初めミラノを発ってパドヴァに戻る。詩人は生活の本拠をパドヴァとヴェネツィアに移してからも、ミラノの統治者ヴィスコンティ家と親交をたもち、たびたびヴィスコンティ家の客となった。詩人が「丸七年間もアンブロシウスの客人だった」というのは、53年6月ごろから59年11月初めまで聖アンブロシウス聖堂のそばで暮らしたことを意味するであろう(本稿第7章および第9章の解題を参照)。なお、同聖堂内にあったアンブロシウス像との日常的な対面や対話は、ペトラルカ『ルネサンス書簡集』(岩波文庫、234頁以下)所収の書簡(『親近書簡集』第16巻11)にもみられる。

 「キリストとは、肉体の死、霊の生でなくてなんであろう。それゆえ、キリストとともに生きるために、キリストとともに死のう。死ぬことが、いわば、わたしたちの日々の習慣と愛になってほしいものである。そうすれば、わたしたちの魂は、いわゆる離脱によって肉的欲念から離れることをまなび、いわば、地上的欲望が魂を(とりこ)にしようとしても近づきえないような高みに昇り、そして死の実相を直視して、死の恐怖から解き放たれるであろう」〔『兄弟の死について』第2巻40〕。
 あとは略します。これだけでもきみの望む以上に書いたとすれば、ご容赦ください。じっさいそれらはみな、悲嘆のあまり失われていた心の平静へと、きみを連れもどそうとするものです。すなわち、生をあまり愛しすぎないように、また生の終わりを嫌悪したり恐れたりしないように、そしてまた、すでに老齢の身には最期が近いということに驚かないように、うながしています。まことに最期というものは、幼少年期にもけっして遠くはなかったし、ただ、ひどく遠いように思われただけです。 
 むしろ、古今をつうじてヘゼキア王のほかはだれにも生じなかったと思われることが、たまたまきみの身に生じたことに驚いてください。すなわち、きみの予言者のことばによれば、きみはまだ確実に何年か生きのびられます。どれほどわずかにしろ、すくなくとも二年はあるでしょう。それで、死すべき人間はだれしも一日どころか一時間さえ保証されていないのに、きみは何年も保証されているのです。ただし、死の近いことを予告されるとこれを信用し、余命がどれほどかを知らされると信用しないのでなければのことです。これはむろん、このような根拠なき予言に付きもののやっかいさで、凶事の予言からはきまって恐怖や悲嘆が生じ、吉事の予言からは(ぬか)よろこびや(むな)しい期待が生じます。

美徳と名誉によって人は後世に生き永らえる

 いずれにせよ、ウェルギリウスの詩句を思い出すとよかったのではないでしょうか。
  
  人それぞれに日数(ひかず)さだまり、
  人みなの生涯(いのち)みじかく
  とりかえしは利かねども、
  (いさお)にて誉れを永く伝えるは
  これただ美徳のなすところ。

(『アエネイス』第10巻467-69)

 ここにいう功とは、むろん、名声というはかない音をもとめるのではなく美徳そのものをもとめる功業のことです。そして美徳はかならずその後ろに真の名誉という影をひきずるのです。この込みいった問題においては、これこそが健全な勧め、しかも唯一の勧めである、と言いたいところです。ただし、これは詩的表現による勧めであることをおもえば、きみの耳に入れるのをさしひかえたくもなります。この種の考察はすべてきみの耳には禁じられているのですからね(17)

(17)
ボッカッチョがペトローニの臨終の予言によって詩学研究を禁じられたことをさす。


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