時計回りの文化、反時計回りの文化(1)

高野義郎 (たかの よしろう  横浜国立大学名誉教授/素粒子論)

1.時計回りのギリシア文化

  ギリシアとローマとの関係、あるいは、それらの比較は、これまでもさまざまな観点から論じられてきた。しかし、ここで、まったく新しい観点に立って、これら二つの文化の対比を試みたい。それは、時計回り、あるいは、反時計回り、いずれの習慣、伝統を持つかを調べ、その由来を探ることによって、文化の本質に迫ろうとするものである。単なる回り方の向きに過ぎず、原始的とさえ思われることの、いかに広く、いかに深く、文化の本質にかかわっているかが明らかにされるであろう。
 さて、時計回りは、ギリシア文化のいたるところに息づいている。
まず、古代のギリシア聖地巡礼の記録ともいうべき、パウサニアースの『ギリシア案内記』に目を通そう。
パウサニアースは、アテーナイ(図1)へ入ると、アクロポリスの西北麓に広がるアゴラーから、アクロポリスの北麓、東麓、南麓を回って、つまり、アクロポリスの周りを時計回りして、そして、西斜面に付けられている参道を登り、パルテノーン神殿へ詣でている。また、デルポイでは、先に、パルナッソス山へ登って、アポローンの神殿に詣で、その後、この聖なる山の周りを時計回りしているのである。

(図1) 古代のアテーナイ
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(図2) ペロポンネーソス
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 それに、パウサニアースは、ペロポンネーソス(図2)を巡るのにも、東北部のアルゴリスから、東南部のラコーニア、西南部のメッセーネー、西北部のエーリス、北部のアカイアーと時計回りして、最後に中央部のアルカディアーを訪ねている。
パウサニアースは、2世紀後半、ギリシアがローマの支配下に収められた時代に、ギリシア人としての自覚を持って、聖地を巡り、この書物を著したことを強調しておかなければなるまい。

(図4) アテーナイの貨幣

 
 日常手にする貨幣にしても、前5世紀半ば以降は、ギリシアの貨幣(図3)は、そのほとんどが、刻字は時計回りに付けられている。
前5世紀の半ばに至るまでは、ギリシア諸都市が造る貨幣には、刻字に時計回りのものが多かったとはいうものの、反時計回りのものも少なくはなかったのだが、ペルシア戦争後、アテーナイの主導の下に、ヘラスの一体化が進み、度量衡や通貨を共通のものにしようとする流れの中に、貨幣の様式もしだいに統一されていったのであろう。そして、アテーナイの貨幣(図4)は、前6世紀から、主に表の刻印は兜に聖木オリーヴの葉を飾った守護女神アテーナーの頭像、裏は聖鳥フクロウに三日月と聖木オリーヴの枝があしらわれ、刻字は一貫して時計回りであった。

(図3) ピュータゴラース(ピタゴラス)ゆかりのメタポンティオンの貨幣

 

(図6) アルキメーデース『螺線について』の挿入図

 
 もっと抽象的な、幾何学についてはどうであろうか。幸いアルキメーデース(前287年~前212年)の著作はかなりの数が伝えられ、しかも、後世の手のほとんど入っていないと思われるものが多い。例えば、『球と円柱について』では、挿入された円ΑΒΓΔなどの図(図5)には、記号のアルファベットがきまって時計回りに付けられている。また、『螺線について』に挿入された、螺線ΑΒΓΔΕΖΗの図(図6)は、時計回りに広がって行き、記号のアルファベットも、中心のΑから時計回りに付けられているのである。

(図5) アルキメーデース『球と円柱について』の挿入図

 

(図8) アルファベットの筆遣い

 
 もっとも、エウクレイデース(ユークリッド、前300年頃)の『原論』については、ギリシア語で印刷されたものでも、版によって、挿入図の時計回りと反時計回りとが、いくつか入れ替わっているのが見受けられる。例えば、第3巻命題25は、円の切片が与えられて、それを含む完全な円を描く作図であって、挿入図には、グリュナエウス版(1533年)では、記号のアルファべットが時計回りに付けられているのに、ハイベルク版(1883~1916年)では、反時計回りに付けられているのである(図7)
これは主に底本とされた手写本の違いによるもので、古代末から中世にかけて写本が作られたとき、挿入図に手の加えられたことを示している。おそらく、ギリシアからローマへの時代の流れに応じて、挿入図が時計回りから反時計回りへ描き替えられることが多かったのではなかろうか。
それに、アルファベットそのものも、例えば、α、β、γ は時計回りにペンを運ぶのに、a、b、c の筆記体は反時計回りにペンを運ぶのである(図8)

(図7) エウクレイデース(ユークリッド)『原論』の挿入図
―版によって時計回りと反時計回りとが入れ替わっている―

 

(図10)風の塔
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 建造物としては、ミーレートスの港を守るライオン像(ヘレニズム時代)(図9)は、二頭とも首を右に向けているので、港口の両側に、ともに顔を水路の方へ向けて、二つ巴のように置かれていたと思われる。そして、首の向きからして、この二つ巴は時計回りになっているといってもよかろう。
反時計回りの例もないわけではない。アテーナイにある、八角柱の「風の塔」(図10)は、前2、あるいは、前1世紀に、アンドロニーコスによって建てられたもので、日時計、水時計、風見の三つの働きをしていた。その各壁面の上部には、例えば、北の壁面には、北風の神ボレアース、西の壁面には、西風の神ゼピュロスなど、それぞれの風の神の浮彫が施されていて、屋根の頂きに付けられた海神トリートーンの風見が回転し、杖でこれらの浮彫りを指して、風向きを報せるようになっていた。ところで、風の神々は、いずれも、向かって左から右へ飛翔する姿で彫られていて、したがって、これら八つの浮彫は、塔の周りを反時計回りしていることになる。
それでは、なぜ、風の神々は、向かって右から左へ飛翔するようには彫られなかったのであろうか。それは、私たちの視覚が、向かって左から右へ進むものは「来る」、向かって右から左へ進むものは「行く」と感じるからなのである。西から吹いて「来る」のが西風なのだ。

(図9)ミーレートスの港を守るライオン像

 

(図12)『阿弥陀二十五菩薩来迎図』(鎌倉時代、知恩院)
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 造形芸術には、このような私たちの視覚の特性が考慮されていることはいうまでもない。例えば、キリスト教における『受胎告知』の図像には、処女マリアが向かって右に、大天使ガブリエルが向かって左に配置されているものが多い(図11)。大天使は向かって右を向き、マリアのもとへ飛んで「来た」のを想わせるのである。また、佛画の『来迎図』(図12)にしても、そのほとんどは、阿弥陀如来や二十五菩薩が、向かって左上から右下へ迎えに来られる。
演劇でもそうだ。例えば、能の舞台には、向かって左奥から橋掛かりが付けられていて、すべての役者がそれを通って登場、退場する。歌舞伎でも、主な配役は舞台の向かって左の袖から登場し、左の袖へ退く。花道も舞台の左方への延長と考えてよかろう。
それに、北半球では、つむじ風も反時計回りに吹くのである。

(図11)フラ・アンジェリコ『受胎告知』(1440~50年、フィレンツェ、サン・マルコ修道院)

 

(図13)パイストスの円盤(前1700年頃、イラクリオン博物館)
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 なお、きわめて古く、クレータ島でも、パイストスの円盤(前1700年頃)に彫られた絵文字(図13)は、周縁から中心へ、時計回りに読まれたと考えられている。
そして、近くは、アテネで開催された、第1回近代オリンピックのトラック(図14)競技では、現在のように反時計回りではなく、時計回りに走ったのであった。この時計回りの徒競走は、10年後にふたたびアテネで開かれた中間大会まで続いたのであった。

(図14)第1回近代オリンピックが開催された競技場スタディオン

 

(図17)カエサルの貨幣

 

2.反時計回りのローマ文化

  ローマについては、何はさておき、凱旋式を見物することにしよう。凱旋行列は、今のヴェネツィア広場の西の辺りから出発し、牛広場を通り、大競技場内を回って、東側からフォルム・ローマーヌムへ入り、カピトーリウムの丘の、ユーピテル(ジュピター)の神殿に詣でた。この道筋が反時計回りであることはいうまでもあるまい (図15)
また、アウグストゥス帝(前63年~後14年)が、行政上ローマ市を区分けしたとき、その順序は、南のアッピア街道に沿うI区から、ティベリスの河向こうのXIV区まで、ほぼ反時計回りに付けられた(図16)のであった。
貨幣の刻字については、ギリシアの時計回りに対して、ローマの貨幣は、前3世紀以来、共和政期の末までは、ほとんどすべて反時計回りだった。しかし、前1世紀の中頃から、時計回りのものが混じってくる。例えば、カエサルは、時計回りのものも、反時計回りのものも造っている(図17)。そして、約100年後、帝政期の初め、後1世紀の中頃以降は、ローマの貨幣もほとんどすべて時計回りになってしまった。
このような、ローマの貨幣の、反時計回りから時計回りへの急激な変化は、どのような理由によるものであろうか。ギリシアとの接触が深まるにつれて、ローマ人たちの、ギリシアの先進文化への憧れが、時計回りの貨幣を造らせ、ローマの独自性を強調したい気持が、反時計回りの貨幣を造らせたのであろうか。

(図15)ローマ凱旋行進の道筋

(図16)アウグストゥス帝によるローマ市の区分け

 

(図18)ブルートゥスの貨幣

 
 それに、この時代には、権力者が貨幣に自分の肖像(横顔)をあしらうのが通例であり、刻字の数も増えて、反時計回りにすると、刻字が頭の上で逆立ちになるのを嫌ったこともあるだろう。例えば、カエサルを刺して民主制を守ろうとしたブルートゥスは、反時計回りの貨幣を造ったのだが、頭の上にきた自分の名前は、逆さにならないように、時計回りの刻字にしている(図18)のである。
 

(図20)トラーヤーヌス帝記念柱

(図21)トラーヤーヌス帝記念柱、基部の浮彫
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 構造物としては、アントーニーヌス・ピウス帝の記念柱(161年~62年)は、ヴァチカンにあって、その基部は、騎馬行進の高浮彫で飾られているのだが、これもやはり反時計回りに進んでいる(図19)
また、トラーヤーヌス帝記念柱(106年~113年)は、トラーヤーヌス帝の広場に、そして、マールクス・アウレーリウス帝記念柱(176年~193年)は、コロンナ広場にあって、ともに、反時計回りに、下から上へ螺旋状に続く浮彫に飾られている(図20、21)
さらに、四頭立ての馬車競争も、競技場を反時計回りしたようだ。ペルージアに近いフォリーニョの博物館には、ローマの大競技場における四頭立て馬車競走の浮彫(3世紀後半)(図22)があって、それを確かめることができる。映画『ベン・ハー』の、馬車競走の場面も思い起こされよう。
しかし、馬車競走については、この乗り物を操作する便宜上、反時計回りするのではないかとも考えられる。御者は右手で鞭をふるい、左手で手綱をひかえたであろうから。ギリシアでも、二頭立ての馬車競走は、反時計回りであったようだ。それは、ホメーロスの叙事詩『イーリアス』に歌われている、二頭立て馬車競走――アキレウスが親友のパトロクロスの死を悼んで催した――の様子から窺うことができる。
それに、ギリシア人にはバランス感覚があって、何か一方へ偏るのを好まなかったようなところもあるのを忘れてはならないだろう。例えば、ギリシアでは、劇の幕間スタシモンに、合唱隊コロスが歌い踊りながら、オルケーストラーの上を移動して行くのだが、それにはストロペー、アンティストロペーの二つの歌や踊りがあった。これらはどのように踊ったのか伝えられてはいないけれども、これらはともに、コロスの一人一人が体を旋回させながら、オルケーストラーの上を回ったのではないか、そして、これら二つは、回る向きが逆だったのではないかとも考えられている。
また、クレータ島のゴルテューンに遺されている、前5世紀前半の法典は、ブーストロペードン牛耕式と呼ばれる書式で、石に刻まれている。それは、牛が畑を耕すときの動きに似て、一行ごとに左から右へ、右から左へと向きが替わり、それに応じて、文字の向きも一行ごとに替わり、鏡映文字が現れる。

(図19)アントーニーヌス・ピウス帝記念柱を飾る騎馬行進の高浮彫
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(図22)浮彫『ローマの大競技場における四頭立て馬車競走』(3世紀後半、フォリーニョ博物館)
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(図24)2次元極座標

 なお、ローマにおける反時計回りの習慣は、西欧に起源する文化のさまざまな面に現れている。例えば、発掘されたポンペイの遺跡は、九つの区(レギオー)に分けられ、IからIXの番号が、反時計回りに付けられている(図23)
幾何学においても、2次元極座標系(図24)では、点の位置は二つの座標、動径rと方位角φとで表されていて、方位角は反時計回りに増大するように取られるのである。

(図23)発掘されたポンペイの地図

 
 これに関連して、惑星の運動など(図25)、中心力に働かれる物体の運動を取り扱うとき、それは、一般に、2次元平面運動になり、その面をどちら側から見るかによって、時計回りにも、反時計回りにも見えるのだが、それを図示するときには、反時計回りに見える側を選ぶ習慣になっている。
また、現在、徒競走は反時計回りに定められているが、これは、右が利脚(ききあし)の人の方が多いという、生理的な理由によるものとされてはいるが、やはり、その背景には、ローマ以来の伝統が息づいているように思われる。
トラック競技ばかりではなく、スケート・レース、自転車競走、それに、野球なども反時計回りであることはいうまでもあるまい。

以上二節にわたって考察を進めてきたように、ギリシア、ローマには、それぞれ、時計回り、反時計回りの習慣、伝統のあったことは明らかであろう。さて、それでは、なぜギリシアは時計回りの文化であり、ローマは反時計回りの文化なのであろうか。これはまことに興味深い問題ではあるが、それを論じる前に、時計回りの文化、反時計回りの文化の典型として、マックス・ヴェーバーの術語を借りれば、理想型Idealtypusとして、時計回りの佛教、反時計回りのキリスト教について先ず論じておくべきであろう。

(図25)惑星の運動
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3.時計回りの佛教、
   反時計回りのキリスト教

  佛教では、須弥壇(しゅみだん)の周りを巡って行(ぎょう)をするとき、須弥壇を右に見て、すなわち、時計回りに歩む。これは「右遶」(うにょう)と呼ばれている。
例えば、東大寺へ参詣するときを思い浮かべてみよう(図26)。大佛殿(金堂)の前庭は回廊で囲まれ、中門からまっすぐ石畳の道が付けられている。南大門を通ってきた参詣者は、中門はふだんは開かれていないので、回廊の向かって左、西の端から入り、回廊を中門のところまで行き、そこから石畳の参道を進んで、大佛殿へ入る。そして、大佛様を拝んだのち、須弥壇を右に見て一巡りし、また、石畳の道を中門のところまでもどり、今度は回廊の逆の端、東の端から出る。すなわち、須弥壇の周りを巡るのも、全体の道筋も、ともに時計回りになっている。

(図26)東大寺平面図

 

(図27)四国八十八ヶ所遍路道
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 また、四国八十八ヶ所の遍路道(図27)も、阿波国(徳島県)の一番の札所から、土佐国(高知県)、伊予国(愛媛県)を通り、讃岐国(香川県)の八十八番の札所まで、全体として四国を時計回りしているのである。
それに、小豆島(しょうどしま)にも、八十八ヶ所のミニュアチュアー版があって、島四国(しましこく)と呼ばれているが、ここも時計回りに巡るのはいうまでもあるまい。

他方、キリスト教では、祭壇を巡って儀式が行なわれるとき、祭壇を左に見て、反時計回りに進むのである。
それを示すよい例は、フィレンツェの、オル・サン・ミケーレ聖堂にある、アンドレーア・オルカーニア作のタベルナコロ(小祭壇、1349~59年)(図28-1であろう。この小祭壇の基部には、一連の浮彫、聖母マリアの一代記(図28-2が施されていて、その順序から、祭壇を左に見て、その周りを反時計回りに巡るのが予想されていることが分かる。

(図28-1)オル・サン・ミケーレ聖堂のタベルナコロ(1349~59年)

 

 

(図28-2)


(図29)サンタ・クローチェ聖堂

(図30)サンタ・クローチェ聖堂平面図

 それに、聖堂内は、参詣者たちも、反時計回りに歩む習慣がある。これを観察するには、やはりフィレンツェの、サンタ・クローチェ聖堂をお奨めしよう(図29、30)。この習慣も、祭壇の周りを反時計周りに歩む伝統に伴うものであろう。
祭壇ばかりではなく、カトリック教会では、聖なる所はどこでも、それを左に見て巡る、すなわち、反時計回りをするのである。例えば、フィレンツェの大聖堂、サンタ・マリーア・デル・フィオーレの前に建つ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂(図31)にしても、その有名な三つの門扉はすべて、彫られている物語の順序からして、向かって左から右へ進みながら、すなわち、反時計周りに歩きながら観るように作られている。
このように、聖なる所を反時計回りするのは、カトリック教会だけではなく、オーソドックス教会でも同様であり、さらには、新教諸派にも引き継がれている。
しかし、アングリカン教会だけは、例えば、ウエストミンスター修道院もそうだが、逆に、時計回りをするのであって、これについては後に触れよう。

4.佛教と農耕社会、
   キリスト教と遊牧社会

  佛教における時計回り、右遶は、インドにおける礼法――敬意を示したい対象(尊者、聖所など)に右肩を向け、その周りを時計回りに巡る――が 取り入れられ、それを三度繰り返す、「右遶三匝」(さんぞう)の礼法が調えられたと考えられている。
それでは、インドにおける時計回りの礼法は、そもそも何に起源するのであろうか。
佛教成立期のインドは、とりわけ、釈尊が足跡を印した地域、インド東部、ネパールからガンジス河中流域にかけては、稲作を中心とする、農耕社会であったと思われる。

(図31)サン・ジョヴァンニ洗礼堂の北の門扉

 佛伝によれば、釈尊の父は、漢訳では浄飯(じょうぼん)王、サンスクリットやパーリ語ではシュッドーダナと呼ばれていて、その名に飯、オダナ odana という語が含まれており、また、釈尊が、成道(じょうどう)を前にして、スジャーター(図32)から供養を受けたのは、米を牛乳で煮た粥であった。
  さて、インドにおける右遶の礼法は、農耕祭祀に由来するのではないだろうか。稲作農耕にたずさわる人々は、稲の神の在す田の周りを、太陽になぞらえて、時計回りに巡りながら、豊作を祈ったのではなかろうか。
農耕文化は太陽の文化である。太陽の恵みによって、春夏秋冬の四季は巡り、東南西北の四方は定まり、穀物は実る。農耕にたずさわる人々にとって、大地を巡る太陽の運動こそが、もっとも高貴なる、聖なる運動でなければなるまい。そして、時計回りは、この大地を巡る太陽の運動を象徴するものに外ならないのである。

(図32)スジャーターの村

 
 ちなみに、時計の針の回る向きは、北半球における、日時計の針の影の回る向きに定められたのであった。
それに、右遶のみならず、佛教の太陽とのつながりは深い。釈尊の成道(図33)も、日の出を告げる明(あけ)の明星(みょうじょう)の輝く時であった。また、華厳経(けごんきょう)において、全宇宙を包括する佛は、大日如来と呼ばれている。

さて、稲の神を祭るのに、その神域を時計回りする祭事は、日本でも行なわれている。

(図33)ブッダガヤーの大塔と釈尊の成道ゆかりの菩提樹

 

(図35)伏見稲荷大社稲荷山案内図
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 例えば、京都の伏見稲荷大社は、いうまでもなく、稲の神ウカノミタマノカミを祀る社(図34)で、初めてこの神の祭祀が行われたのは、社殿の背後の山中、御膳谷(ごぜんだに)であったといわれ、毎年1月5日に行なわれる大山祭では、御膳谷での神事の後、この谷の周りに連なる峯々を時計回りに巡るのであり、日常の参詣者も、同じ様に、お山を時計回りに巡るのが慣わしになっている(図35)
また、東京の向島(むこうじま)にある三囲(みめぐり)神社(図36)は、弘法大師の勧請(かんじょう)によるものとされ、初め田中稲荷、次いで、明治の頃までは、三囲稲荷と呼ばれていた。三囲の名は、文和(ぶんな)年間(1352年~56年)、園城寺(三井寺)の僧源慶が荒廃した社殿を再建しようとしたとき、土中より、稲を荷い、白狐に乗った翁、ウカノミタマノカミの像が現れ、その周りを、源慶の捧持していた、伝教大師一刀三礼の地蔵菩薩が三度巡られた、あるいは、いずくからともなく現れた白い狐が三度巡って、またいずくへともなく消え去った、などの言い伝えに由来する。ここではとくに右遶と言われてはいないが、むしろそれは当然のこととされているのである。

さて、佛教が農耕社会に根差す宗教であるのに比べて、キリスト教は、遊牧社会に根差す宗教であると言ってもよかろう。キリスト教の聖職者は牧師と呼ばれ、聖書に記された「迷える仔羊」の譬えもよく知られている。 農耕文化が太陽の文化であるのに対して、遊牧文化は星の文化である。羊飼いたちは、夜、星に導かれ、草や水を求めて進む。東方の三博士も、星の示すところによって、救世主の誕生を知ったのであった。

(図34)伏見稲荷大社の神田

 

(図36)三囲神社

 そして、夜の星々は、北極星の周りを、反時計回りに巡るのである。北極星は、指導者に、救世主になぞらえられる。すなわち、反時計回りは、北極星を巡る星々の運動を象徴するものであり、遊牧にたずさわる人々にとっては、もっとも高貴なる、聖なる運動に外ならないであろう。
ちなみに、西アジアからアフリカへかけての国々には、その国旗に星をあしらったものがきわめて多く(図37)、また、星と三日月との組み合わせは、イスラム教の象徴ともなっている。
それに対して、日本の国旗は、いうまでもなく、白地に赤い日の丸であり、インドに接するバングラデシュの国旗は、緑の地に赤い日の丸(図38)なのである。

時計回りは、大地を巡る太陽の運動を象徴し、反時計回りは、北極星を巡る星々の運動を象徴する。佛教は、聖所を時計回りに巡り、キリスト教は、聖所を反時計回りに巡る。佛教は、農耕社会に根差し、キリスト教は、遊牧社会に根差す。農耕文化は、太陽の恵に支えられる、太陽の文化であり、遊牧文化は、星の示すところに従う、星の文化である。

さて、それでは、なぜギリシアは時計回りの文化であり、ローマは反時計回りの文化なのであろうか。次回は、この問題について論じることになろう。そして、これに関連して、聖なる数について、とくに、偶数、奇数と時計回りの文化、反時計回りの文化との対応について考察される。さらに、日本文化は時計回りであること、時計回り、反時計回りと右優位、左優位、左側通行、右側通行との関係についても言及されるであろう。



(図37)イラク、シリア、イスラエルの国旗

(図38)バングラデシュの国旗




参考文献

  1. 高野義郎:『古代ギリシアの旅――創造の源をたずねて――』(岩波新書、岩波書店、2002年)。とくに、165~180ページ。
  2. 高野義郎:「『受胎告知』の図像における処女マリアと大天使ガブリエルとの配置について」 SPAZIO、 No. 56、 7~20ページ(日本オリベッティ、1997年)。
  3. Franke,P. R. und M. Hirmer: "Die Griechische Münze", 2te Aufl.Hirmer Verlag,1972.
  4. Kent,J. P. C., B. Overbeck, A. U.Stylow: "Die Römische Münze"Hermir Verlag,1973.
  5. Fattorusso, Giuseppe: "Wonders of Florence" Impronta Press, 1956
  6. Micheletti, Emma: "Santa Croce" Bicocci Editore, 1982.
  7. 中村元、福永光司、田村芳朗、今野達編『岩波仏教辞典』(岩波書店、1989年)
  8. 渡辺照宏:『新釈尊伝』9版(大法輪閣、1975年)
  9. 井上満廊:「深草の渡来人と稲荷社の成立」 あけ朱、45号、77~84ページ(伏見稲荷大社、2002年)
  10. 『墨田区古文書集成II――三囲神社関係文書――』(墨田区教育委員会、1988年)

SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次

  • 『受胎告知』の図像における処女マリアと大天使ガブリエルとの配置について no.56(1997年12月発行)
  • 聖なる数10をめぐる随想――女神ヘーラー信仰とピュータゴラース―― no.58 (1998年4月発行)
  • 哲学のふるさとミーレートス――その都市計画に秘められたもの no.59 (2000年3月発行)
  • ――知の楽しみ、創造の悦び――逸話で辿る知の世界 no.60 (2001年3月発行)

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