アメリカの天国と地獄 乾 竜三

 “チェンジ”を旗印に多数の若者の支持を得て、バラク・オバマ候補が当選し、2009年の2月に就任してから1年半以上経ったが、大統領の政策に反対する共和党のみならず、一部の民主党議員の批判もあって、重要法案は一つとして議会を通過させていない。オバマ大統領の最大の公約である医療保険制度は、大幅な増税を実施しなければ実現できないばかりか、アメリカを社会主義化する危険性があると、共和党の有力議員が指摘したことによって、世論が喚起された。
 また“ティ・パーティ”と呼ばれる保守的な市民の政治団体は、公的医療保険に反対し、オバマ大統領の再選を阻止するキャンペーンを全国的に展開している。今年の4月初旬、オバマ大統領は医療制度改革法案を議会に提出し、民主党議員の多数で可決したが、その内容は、病気になっても保険会社の医療保険に加入できるといった、およそ公約とは程遠いものであった。しかもそれは、2013年から施行されることであり、オバマ大統領が再選されなければ廃案になるのは必定なのだ。5千万人に及ぶ医療保険に加入し得ない人々は失望し、オバマ大統領に対する信頼は地に落ちてしまった。
 では、アメリカの医療保険はいったいどんなものかというと、大企業は従業員に対する医療保険に加入する法的義務を負っているが、従業員は解雇されれば、その日に医療保険を失うことになる。
 一方、一般市民が、手術や入院費用の全額負担の医療保険を契約しようとすれば、月額で2000ドルは支払うことになるし、65歳以上になると、どこの保険会社も加入を受け付けないのだ。ちなみに5月25日に発表されたアメリカの平均失業率は9.9パーセントで、その実数は1000万人を超えていると言われている。オハイオ州15パーセント、ミシガン州14.7パーセント、ネバダ州13.0パーセント、ロードアイランド州12.7パーセント、サウスカロライナ州12.6パーセント、カリフォルニア州12.5パーセント、農業地帯のワイオミング、ノースダゴダ、サウスダゴダ、ネブラスカ州は、3から4パーセントの失業率を続けている。そしてこれらの州の失業者が急病に罹り、救急医療を受けて二週間の入院を余儀なくされれば、15万ドル以上の治療費を請求されるであろう。この金額は平均的従業員の持ち家の金額に等しい。事実、多くの人々が治療のために家を失い、路頭に迷っているのだ。この悲劇を逃れるには、自己破産を裁判所に認めてもらう以外にない。そしてこの費用は次の患者に請求される。
 アメリカにおいては医療保険を買える者と買えない者の差は、天国と地獄ほどの差がある。このように医療制度に関しては、アメリカは後進国であると言わざるを得ない。
 この世界第一の経済大国アメリカの社会的矛盾を改革すべく立ち上がったのが、バラク・オバマ大統領候補であった。オバマ候補が、大統領に就任した当時の支持率は79.8パーセントだったのが、いまや彼の支持率は47パーセントに低下している。何故このような事態になったのか? 理由は極めて単純なことなのだ。
 オバマ大統領の政策を共和党の候補者ジョン・マケインは社会主義的であると決め付けた。こうした考えを持つ保守的な人々が住む地域は、ミシシッピー河の西岸にあるミネソタ、ノースダゴダ、サウスダゴダ、アイオワ、ネブラスカ、カンサス、ミズーリ、アーカンソー、オクラホマ、ルイジアナ州である。またバイブル・ベルト(聖書地帯)と呼ばれているアメリカの中西部から南東部にかけて複数の州にまたがって広がる地域(ウエスト・バージニア、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア、フロリダ州の北部、アラバマ、ミシシッピー、テネシー、ケンタッキー、ミズーリ、アーカンソー、カンサス、ルイジアナ、そしてテキサス州の東部)の各州でキリスト教根本主義の福音派プロテスタント教徒が熱心に信仰している地域であり、キリスト教会への出席率の群を抜いた高さも特徴になっている。
 彼らは非常に保守的であり、1925年の事ではあるが、テネシー州のデイトンの高校教師ジョン・スコープが生徒に進化論を教えたとして裁判にかけられ、陪審員は有罪の評決を下した。このキリスト教原理主義的な思想は今でも脈々と生き続けている。その彼らこそが、アメリカの精神的主柱であり、マジョリティなのだ。そして彼らの大多数がオバマ大統領は社会主義者であり、社会主義者は神の存在を否定した悪であると主張しているのだ。

 ちなみにかつてロシア正教会がロシアの母なる大地の7割を領有し、司教達は農民に労働は天国への道だと説教し、彼らを農奴化し、その領有地を耕作させて穀物を収奪した。レーニンは、ロシア正教会に呪縛されている、これらの農奴を開放しなければ、プロレタリア革命は達成できないと考え、神を信仰することは、アヘンと同じだと農民達に演説した。しかし、このような史実を知っているアメリカ人は極めて少なく、1パーセントにも満たないだろう。この種のアメリカ人の社会主義に対する無知が、オバマ大統領の推進しようとする改革を阻止しているとも言えよう。

  いま遡って思い出すと、2009年11月の初旬、私はいつものように夜のCNNニュースを観ていた。そのとき、オバマ大統領候補の勝利演説集会に集まった数千人もの人々の顔が映し出されていた。集会にはアフリカ系アメリカ人は無論のこと、多くのヒスパニック系や東洋系アメリカ人が参加していた。特に目立ったのは政治に無関心であった多数の青年男女が歓喜の叫びをあげ、黒人最初のアメリカ大統領の演説を真剣に聴いていた場面だった。あの青年達の熱気はいったいどこへ行ってしまったのか?
  アメリカの社会は、オバマ大統領当選以来、彼の旗印であった変革を何一つ実現させなかった。この現実に青年達は失望し、政治への関心を失っていったのだ。

 また忘れてならないのは、ブッシュ政権の負の遺産と言えるイラク侵攻以来の、戦死者の家族や傷病兵の心の傷がいまだ癒えていないことだ。これはPTSD(POST-TRAUMATIC STRESS DISORDER)、日本語では心的外傷後ストレス障害と呼ばれており、心に加えられた衝撃的な傷が元となって、様々なストレス障害を引き起こす疾患である。一例をあげれば、戦闘中、砲弾によって戦友の手足が吹き飛ばされるのを見て、自分も一瞬にして吹き飛ばされて殺されるという恐怖にとらわれ、それ以後気を緩める暇もないという状態が続き、兵士たちは金切声で啜り泣きをしたり、金縛りで動けなくなったりする。そして感情が麻痺し、無反応になってしまう。
 パットン将軍の伝記映画で、野戦病院に戦傷者を見舞う場面があったが、病棟の片隅で一兵士が啜り泣いているのを見たパットン将軍が、その兵士を卑怯者と罵倒し、平手で殴りつけた。兵士はPTSD疾患に罹っていたのだろう。イラク・フリーダム作戦後、アメリカ政府が公表したPTSD疾患に罹った兵士は、2001年から2009年10月まで(アフガニスタンでの戦闘も含め)約14万人にのぼる。この人数は湾岸戦争とイラク・フリーダム作戦に参加したアメリカ軍兵士の20パーセントに達しているのではないかと思われる。これがアメリカの地獄でなくて何だろう(インターネットで調べたが、実際に派兵された兵士の数は分らなかったので推察した)。
 オバマ大統領は、バグダッドからアメリカ軍を2011年までに撤収させ、アフガニスタンへ3万人のアメリカ駐留軍を追加増派することを決定した。この増派決定は、あの勝利演説集会で熱狂したアフリカ系アメリカ人やヒスパニック系、東洋系アメリカ人や多くの青年達に強い失望感と怒りを与えてしまった。

 もう一つのブッシュ政権の負の遺産である金融危機に対するオバマ大統領の経済政策も、社会主義的だと非難された。その典型がGMの再建策である。オバマ政権の立役者の一人、ガードナー財務長官は2009年6月1日に、GMの再建を成功させるために、連邦破産法第11条の適用を申請すると発表した。財務省は、連邦破産法11条の下でGMの再建を迅速に進めるため、301億ドルを供与する。米政府は、新生GMの優先株と債務約88億ドルを引き受け、新生GM株の約60%を取得する。新生GMは、全米自動車労組(UAW)の退職者向け医療保険基金を創設し、GM株の17.5%と、新生GM株2.5%分のワラントを受け取る。これが再建策の骨子であるが、誰の目から見ても破綻した巨大企業の国有化であり、その株主は事実上、国家と労働組合なのだ。そして、その国家の財源は国債と税金である。
 GMの再建計画では年間販売台数1000万台を目指すとしており、私は、この台数が実現できればGMの再建は軌道に乗り、やがて、アメリカ政府がGMの株式を市場で新規に上場することも可能になる、と予想していた。ところが、その結論も出ていない段階で、2010年11月18日、GMが再上場することに決まった。GM株の予想価格は26ドルから29ドル程度であったが、GMのスポークスマンは、18日にこれを32ドルから33ドルに引き上げると言明した。
 このエッセイを書き始めた8月には、これほど早くGMの再上場が決まるとは予想だにしていなかった。11月4日の中間選挙で圧勝した共和党議員にとっても、オバマ大統領を社会主義者と決め付ける材料が一つ減ってしまったといえるのかも知れない。

 このエッセイを締め括るにあたって、アメリカの天国と地獄の実例を書いておきます。
 私共が住むセドナにも、不法越境してくるメキシコ人が住んでいます。彼らはサークルAというコンビニの傍の空地にたむろし、土木仕事や大工の手伝いなどで稼ごうと、自分たちを拾いに来る客を待っているのです。私はその彼らを見て、かつて東京の山谷でたむろしていた、日雇い労働者たちを思い出しました。

 もう一昔前になりますが、私共がセドナに移住してきた2000年の1月初旬からゲストハウスのリモールドと庭造りを始めました。私は娘の紹介でアメリカ人の大工を雇い、その大工が連れてきたメキシコ人も雇ったのです。彼は22歳であり、28歳の兄と、メキシコとアリゾナの国境に張られた鉄条網の下に穴を掘り、越境してきたと私に打ち明けました。そして、彼の兄は、国境警備の警官に追われ、アリゾナ南部の砂漠をさまよい、携帯していたペットボトルの水を飲み干し、熱中症で死亡したのだそうです。これこそ、アメリカ(セドナ)の地獄と言っても過言ではないでしょう。
 ではアメリカの天国は何処にあるのか? それは金融工学の手法を使ってサブプライム・ローンを証券化し、巨億の利益を得ながら、一世紀以上の伝統を誇ったリーマン・ブラザーズ証券を破綻させ世界、中の人々を塗炭の苦しみに陥れた、一握りの男達が住むウォール街が、アメリカの天国なのです。

(いぬい りゅうぞう 小説家)

SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次

目 次

セドナの天国と地獄

Copyright © 2010 NTT DATA Getronics Corporation