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チピオナの守護聖母 「レグラのマリア様」 |
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チピオナ郊外を流れる水路脇のユーカリの道 |
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細長いユーカリの葉 |
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ヒターノたちが涼をとっていた木陰 |
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友人宅のパティオ ―サンルーカル |
“地獄の季節”
6月のある日、私たちはバイクで南に向かって走っていた。午後5時半。摂氏46度。10分前に海から上がったばかりだというのに、髪はすでに乾ききり、とうもろこしの穂のようにぱさぱさになっている。
スペイン南部のチピオナという海辺の町に15年前から棲みついている私は、いつものように夫のマヌエル・アグヘタと海でひと泳ぎした後、家に戻る途中だった。いくら日本より空気が乾燥していて体感温度が低いといっても、42℃を越えるあたりで理性はどこかに行ってしまい、1℃上がるごとに着実に現実感は希薄になっていく。強烈に照りつける太陽の熱で道路のアスファルトが溶岩のように一部熔けだし、描かれた白線が大きく歪んでいる。くちびるがからからに干からび、熱風で目が充血し、呼吸するたびに鼻孔が痛い。私たちの50ccバイクは、まるで熱湯の中をかきわけてたよりなく進んでいくちいさなボートのようだ。
ゆらゆらと陽炎のたちのぼる高速道路を左折し、チピオナ郊外を流れる水路に出た私たちは、ここでようやくほっと一息ついた。水路の両岸に植えられたユーカリの巨木が涼しい木陰を作っていて、ここだけ気温が5℃位低い感じがする。木陰に身を隠すようにしてゆっくり走っていくと、ふたつの黒い人影と一頭のロバが水のほとりに佇んでいるのが見えた。近づいていくうちに、その人影が知り合いのヒターノだということに気がついた。左の、50歳前後の女性は黒の長袖ブラウスに黒の長いスカートですっぽりと身を覆っている。1か月前に寡婦になったばかりのカルメンだ。右側の男性は彼女の息子で、やはりこの暑さの中長袖の黒いシャツを襟元まできっちりとボタンでとめ、長い黒ズボンをはいている。バイクを停めてあいさつをすると、これから隣りの町サンルーカルに歩いて行くところなのだが、あまりに暑いので木陰で休んでいるところなのだ、と彼らは言った。ご主人が亡くなってロバの世話をすることができなくなったので、義兄のところに連れていくところだそうだ。ご主人はペラオール(ロバの毛を刈る人)で、同時に馬やロバの病気の治療を仕事にしていた。
サンルーカルまでは8キロの道のりだ。夏のスペインでは日が沈むのは午後10時半だが、太陽が傾いてすこし涼しくなる8時まで、あと2時間半待たなくてはならない。
涼しくなるのを待ってから家を出発すればいいのに、と言いかけて、私は口をつぐんだ。彼らにとって、2時間半木陰で暑さをやりすごすのはなんでもないことだ。
――時間はたっぷりある。
とふたりの顔は言っていた。
――急いでも急がなくても、私たちが最終的にたどり着く場所は同じなのだから。
地下鉄や私鉄を走って乗り換える夢にいまだにうなされるパジャの私などが口をはさむ余地のない、悠久の哲学が彼らの身体には染みついている。たった1か月で銀白に変容したカルメンの三つ編みを見ていて、私はファンダンゴの歌詞を思いだした。
- El día que yo me muera
- No te vistas de luto
- Tú no has sido buena pa’ mí
- Porque quieres engañar al mundo
- Con ese vestido negro
- No te vistas de luto
- 私の死んだ時には
- 喪服を着るのはやめてくれ
- 善良ではなかったお前が
- どうして世界をあざむこうとするのか
- その黒の喪服で
- 喪服を着るのはやめてくれ
私たちは目礼してその場を走り去った。
――またひとつの図書館が消えた
とマヌエルがつぶやいた。

“ひとりのヒターノが死ぬということは
ひとつの図書館が世界から消えるということ”
統計によると、スペインに住むヒターノは約70万人。その40パーセントは16歳以下だそうだ(出生率の高さが原因)。「流浪の民」というレッテルを貼られている彼らだが、アンダルシア地方に到着したヒターノはかなり早い時代から定住を開始してきた。1420年代にはフランスから移動してきたヒターノたちがヘレス・デ・ラ・フロンテーラを始め、アンダルシアの各地に定住しはじめた、という記録が残っている。温暖で肥沃な土地に根を下ろした彼らは農作業や鍛冶職に従事し、パジョ・ユダヤ民族・モーロ人と混血を繰り返してきた。現在では生粋のヒターノは少なくなってきている。
彼らの60パーセントは読み書きができないといわれているが、亡くなったペラオールは獣医よりも動物の病気に精通していることで有名だった。彼に限らず、ヒターノは一般に博学だ。ただ、この豊富な知識を文字に残さず死んでいくため、「ヒターノがひとり死ぬと図書館がひとつ消える」という言葉が生まれた。私の主人アグヘタもヒターノで、読み書きはほとんどできないが、彼の頭の中には数百のフラメンコの歌詞が詰まっている。3日間唄いつづけても同じ歌詞を繰り返すことは絶対にない。しかも、ただ雑然と歌詞が詰まっているのではなく、きちんと分類されてそれぞれのひきだしに入っているところがすごい。
考えてみれば、「読み書きができない」と私たちは身勝手に表現するが、彼らヒターノにとっては「読み書きを必要としない」というのが本当のところだろう。やたらと紙に文字を書き付けなければ知識を保存できない私たちは、記憶力の乏しい退化した人間、ということもできるわけだ。長年の迫害に耐えてきた老獪な彼らは、読み書きという俗悪な道具にたよらず、知識という財産をすべて頭の中に詰め込んで世界を歩いている。これなら、記述したものを「紛失する」恐れもなければ、他人に「盗まれる」危険性もない。読み書きを必要とせず、文献を残してこなかったこの民族は、フラメンコという形で人生の真実を口述し、語りついできた。
- A quién le contaré yo
- La fatiga que estoy pasando
- La fatiguita que estoy pasando
- Se lo contaré a la tierra
- Cuando me estén enterrando
- La fatiga que estoy pasando
- 私の苦悩をいったい誰に
- 語ればよいのだろう
- 私のこの苦悩を
- 土に語ろう
- 私が埋葬されている時に
- <ソレア>
- 語ればよいのだろう
また時には史実を記録する役目も果たしてきた。
- Qué negrito era el toro
- Que a Ponce mató
- Cómo murió
- Llamando a Cristina
- Mira qué dolor
- Qué negrito era el toro
- Que a Ponce mató
- Que a Ponce mató
- なんと真っ黒なのだろう
- ポンセを殺した雄牛は
- クリスティーナを呼びながら
- 彼は死んでいった
- なんという痛み
- なんて真っ黒な雄牛だろう
- <シギリージャ>
- ポンセを殺した雄牛は

“フラメンコを踊るということは
フラメンコを生きるということ”
今朝は早起きをして畑の空豆を20キロ収穫した。アーティチョークや梨、ぶどうも新緑をすくすくと伸ばしている。プラムは今年、500キロの収穫が見込まれている。
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我が家はフラメンコを生業としているが、公演旅行の合い間にはなるべく土に触れる生活をするように心がけている。チピオナ郊外の田舎家にこもって畑を耕したり、レンガを自分たちで積んで家を増改築したりしているのもその一環だ。この特異な芸能は、生活の中から自然に出てくるものでなければならない。グレン・グールドがあの平均律クラヴィーアを弾くのにバッハと同時代の生活をする必要はなかっただろうが、フラメンコという非クラシック=非普遍的な芸能を理解し実現するには、フラメンコを「生きる」必要がある。日々感じることがそのまま歌詞に直結し、踊りの一挙一動に歌詞を呼吸するのでなくてはならない。フラメンコとは、流浪の民が幌馬車の脇で焚き火を囲んで唄い踊るものではなく、固定した大地をしっかり素足で踏みしめ、その匂いで肺を満たすところから生まれてくるものだ。
この真実にある日気がついた私は、ヒターノと結婚し、人里離れた大平原のただなかで井戸水を汲む生活をはじめた。15年という時間はあっというまに過ぎてしまった。最初の数年間は電話すらなかった。
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黒いちじくの巨木の下に椅子を置き、空豆をむく。指がたちまち真っ黒になる。20キロすべてをむき終わったところでこれを井戸の水で洗い、袋に小分けにして冷凍すると、冷凍庫はほとんど満杯になった。現在、ふたつある冷凍庫には牛1/2頭、豚1.5頭、そして羊1/3頭が部位ごとに仕分けされて冷凍されている。いずれも家で屠畜したものだ。数字が中途半端なのは、次々に解凍して食べていっているからだ。野菜を育てる他に、肉類もできるだけ自分たちで育てて屠畜し、冷凍して保存している。最初の頃は抵抗のあった屠畜だが、毎年行っているうちにすっかり慣れてしまい、血まみれの豚の頭を目前にしながら平気でピンチート(香辛料の効いた豚肉の串焼き)を食べられるようになった。
生は一瞬のうちに死に翻る。
解体されたばかりの豚の肋骨部分を小ナイフで一本ずつに切り離していくのは私の仕事だ。肋骨はまだほんのりと温かい。「生まれてくること」と「死ぬこと」という、世界でただふたつの真実を手で実感しながら私は黙々と肋骨を切り離していく。純白の骨を見つめる私の脳裏に、シギリージャが響きはじめた。
- Si yo supiera el sitio
- Donde te enterraron
- Opaito de mi alma
- Yo sacaría todo lo huesecito
- Para masamarlo
- Donde te enterraron
- あなたの埋葬されている
- 場所がわかっていたなら
- 私の魂のお父さん
- 骨をすべて掘りだして
- 剥製を作ることができるのに
- 場所がわかっていたなら
肉塊に襲いかかるハエと闘う私の中で、シギリージャはさらに鳴りつづく。
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- Dios mío, qué es esto
- Qué me está pasando
- Como sin sueño ni calentura
- Me estoy muriendo
- Qué me está pasando
- 神さま、これはいったい何なのだろう
- 私に何が起こっているのだろう
- 眠けも熱も感じない
- 私は死にかけているのだ
- 私に何が起こっているのだろう
――救済はない。
「私たちは死ぬために生まれてくる」という容赦ない真実を、フラメンコは一分の狂いもなく私たちに呈示してくれる。
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