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SPAZIO発刊40周年によせて

【第3回】 SPAZIOが見ていたぼくの40年

著者: 石井 髙

1973年クレモナ市からの依頼で『IL LIUTAIO(ヴァイオリン作り)』というヴァイオリン製作プロセスの写真集を作った。
撮影現像、焼付けともぼくが担当した。
これは表紙のカバー写真。

早いもので、SPAZIO創刊の年1970年にイタリアに渡り、ぼくがクレモナに住みついてから、40年が経った。青春時代を経て成年になったばかりの26歳、ぼくはソ連船「ハバロフスク号」で横浜を出港したのだが、今はすでに老年の域に達している。SPAZIOの40年はまさにぼくの人生とそっくり重なるのだ。
クレモナでは、東京での修業期を含めて、ヴァイオリン製作10年にして1975年にマエストロとなったが、ほとんどヴァイオリンは売れず、貧乏暮らしが続いた。当時のクレモナでは、まだヴァイオリン製作は今のように知られておらず、ほとんどの住人が、昔ここでヴァイオリンが作られていたことを知らなかった。クレモナ方言でヴァイオリンはViuleenと言うが、形が似ているからか尿瓶のことでもある。尿瓶を作りに、はるばるクレモナまで来たのかと、冗談半分によく言われたものである。

(図1) 5月31日クレモナに着く。スイスから入ったので、何と汚れた町かと思って少々がっかりした。
(図2) 1968年、笠川貞道先生の仕事場。一番手前がぼくの机。この仕事場にはごく親しい人しか入れなかった。ぼくが今こうしてクレモナにあるのは、この先生のお陰である。

1970年5月  クレモナに着いた時には、日本人はおろかアジア人はぼく一人だった(図1)。日本では東京理科大学を中退、国家公務員としての東大工学部研究室を退職して、東京の笠川貞道ヴァイオリン製作工房に、内弟子として住み込んだ(図2)。
1965年のことである。当時ヴァイオリン製作界はすべてドイツ指向だった。ぼくは製作協会面々の目を押し分け、イタリアに向かったのだった。イタリア語は全くできず、英語はクレモナでは誰も分からず、やむなく勉強を始めたが、教室は居酒屋だった。従ってぼくのイタリア語は、クレモナアクセント・居酒屋なまりである。アパートが居酒屋の2階だったから多くの友人もできた。ヴァイオリンが売れないものだから(当時警察が厳しく学生ビザでの販売を禁止していたこともある)、彼らの家庭の家具の修理や壁のニス塗り、ラジオ修理で何とか生活していた。
そして、4カ月分の家賃を払えず、家主から逃げ回っていた頃の1977年、SPAZIO誌16号に、ヴァイオリン製作に関しての原稿依頼があった。砂漠で水を見つけたような気持ちだった(図3)。
ちなみに、ぼくの40年間の目次は大きく分けると、病気、交通事故、結婚、天正少年使節の楽器製作、ヴァイオリンのニスの悩み、皇太子殿下とヴィオラ、NHKドラマなどになるが、主な事項を一応年代順に書いてみる。

(図3) 1977年  SPAZIO誌16号に寄稿。題名「クレモナにて ~ヴァイオリン作りのこと~」
(図4) サナトリウム。裏山には柵があって、抜け出せなくなっていたが、ぼくは毎日のごとく秘密の仕事の場に行った。リスなどの野生動物が多くいたし、薬草も多く見つけた。時にはビールも持っていったが、まさに天国の感がした。
(図5-1) 『川の流れはヴァイオリンの音』ポー川でのロケ。クレモナ側から撮す。対岸はレッジオ・エミリア州パルマ近郊。
(図5-2) 『川の流れはヴァイオリンの音』のロケスタッフ。Duomoの階段前。
(図5-3) 『「川の流れはヴァイオリンの音』のポー川ロケは、主にこのあたりで撮った。2007年のエルマンノ・オルミの映画「ポー川の光」は、この対岸近くが撮影現場だった。
(図6) 自作ヴァイオリンの絵はがき。「もしこの絵はがきでなかったら」これほど多方面の素晴らしい人たちには、めぐり会えなかっただろう。これは印刷屋を開業したばかりの友人が試しに作ってくれた物で、インクが少しずれていた。
(図7) 古楽器制作開始の1981年頃、今思い出しても大変な仕事量だった。これらはすべて売り先の決まっていない楽器だったから、収入は妻ジュージーの病院勤務に頼った。親戚が結婚に反対したのも当然であろうか。
(図8) 結婚式を教会で終え、近くのビッジョの居酒屋に皆集まった。写真機を持ったことのない人にNikon Fを渡し、前の寄宿舎の2階に行かせた。フイルムの巻き上げ方を知らないから、撮れたのは貴重なこの1枚だけ。
(図9) 松田毅一先生の書斎にて。松田先生には、お会いしてお話を伺ったばかりでなく、手紙でのやりとりも50回を超えた。

1979年  肺結核にてSondrio州Sondalo村のサナトリウムに強制収容(図4)。この少し前から、後に妻となるジュージー(クレモナ病院の看護婦)と付き合いはじめたのだが、この病気も結婚反対の材料になった。
ところでサナトリウムでの生活は、実に面白いものだった。大体本当の結核患者はぼくも入れてほんの僅かで、多くが国家からの保険金と衣食住確保のための南イタリア人がほとんどで、皆元気だった。この時はっきりと南北の違いを思い知らされた。食事はフルコースでワインも付いてかなり豪華だったが、まずいと騒ぐのは決まって南の人間たちだった。地元に帰ればパンさえも食えないのにと、北イタリア人たちは眉をしかめた。また南でもカラブリア人、シチリア人、ナポリ人は全く違う人種だということもわかった。
この賑やかなサナトリウムで、ぼくはヴァイオリンを1台作りあげた。朝6時にストマイを打つと後は自由で、ヴァイオリン作りに格好な仕事台となる大木の切り株のある裏山に登った。またそこからは、目の前に素晴らしい岩山が見え、正に国立公園の特等席だった。ヴァイオリンの材料や道具は少しずつジュージーが持ってきてくれたし、時々はスクーター、ベスパ150でクレモナまで往復した。結核とは思えない生活だったが、ヴァイオリンが仕上がる8月中頃、突然医者から来月15日に右肺切除という晴天霹靂の宣告があった。院長からだったが、外科医はその必要はないから、早くここを退院しろと言った。ぼくはこの病院をそれほど信用していなかったから、その頃すでに日本の結核の医者にコンタクトをとっていた。8月末に退院して、9月、日本で診察を受けたが、全く手術の必要はないし、第一ほとんど治っていると言うことだった。後で分かったことだが、院長はサナトリウム維持のため偽患者を多く作り、国から金を貰って自分のポケットにも入れていたのであった。その後、逮捕されたと元同室の仲間から連絡があった。彼は新婚まもなく大腸結核の診断で大腸を切り取られたのだが、誤診とわかった。手術の必要は全くなかったのだった。

1980年  クレモナ市民賞(ストラディヴァリ賞)を市長から受賞。クレモナ人との友好の他に日本人の目をクレモナに向けさせた功績に対する賞。

1980年  「文化庁芸術祭大賞」受賞のNHKドラマ『川の流れはヴァイオリンの音』で、ぼくは佐々木昭一郎氏の演出の助手、サブ・ディレクター役を果たした(図5-1、図5-2、図5-3)。
このドラマロケに関わったことで、ぼくの人生は大きく変わったように思う。ぼくはクレモナに住んでから今にいたるまで、日本にノスタルジーを感じたことは一度もない。ただ、この頃、無性に日本の放送を聞きたくなっていた。言葉に対する郷愁かも知れない。NHKでは海外放送をしていたから、ローマ支局に絵はがきを出して、周波数表を送ってくれるよう頼んだ。この絵はがきは自作ヴァイオリンの写真だった(図6)。もしこれがクレモナ市街の名所の写真だったら、ぼくの人生の風変わりなドラマは始まらなかっただろう。ドラマ・ディレクターの佐々木昭一郎さんが、ドラマの新シリーズを「川・Rivers」と決め、最初にイタリアのポー川を選び、ローマ支局長の佐藤公一さんに相談を持ちかけた時、とっさに思い出したのがヴァイオリンの絵葉書と石井 髙の名前だったという。その後佐々木さんから直接電話があり、シナリオが送られてきた。ぼくはポー川でその台本を大きな声で全部録音して、クレモナの友人の中から役に適当な出演者を選んだのだった。ロケは10月に始まり、20日しか時間がなかった。こんな短期間の作品で芸術祭大賞を受けるなんて誰が思っただろう。このロケによって、グループで一つの作品を作り上げるという素晴らしい経験をしたのだが、これを機会に、佐々木作品「川シリーズ」の次作「アンダルシアの虹」や「猿之助イタリアを行く」「名曲アルバム」など、NHKのテレビに関わったのであった。「川の流れはヴァイオリンの音」に関しては、インターネットで広く紹介されているからそちらに任せるが、ぼくの人生が変わったというのは、これによって大変多くの世界中の人たちと巡り会えたということだ。「もし」という言葉は使い出すときりがないが、もしあの時の絵はがきが・・・と想像するだけで、今までの人生はすべて「もし、の奇跡」が重なってきたのだとつくづく思う。

1981年  NHKドラマ「アンダルシアの虹」(撮影スペイン、グラナダ)佐々木昭一郎作で演出の助手をつとめた。

1981年  鈴木善行首相イタリア訪問の折、ローマのイタリア大使より招待を受ける。この年あたりまでジュージーとの結婚は、ぼくの貧乏と収入不安定、外国人、病気、将来の不安などの理由で猛反対を受けていた(図7)。日独伊協定(昭和15年)の時に出版された日本人の習慣(男尊女卑)を、妻になるジュージーに無理矢理読ませていた。妻の実家はイタリアの田舎クレモナのまた田舎だから、非常に保守的であり権威に、まことに弱いのである。地方テレビ局のカメラ助手、村役場の事務員にまで平身低頭するのだから、日本国営テレビNHKロケでの助監督、コーディネーター、運転手、通訳などでの活躍、そして鈴木首相ローマ訪問のおかげで、ぼくは何かは分からないけれど偉い人と思い違いしてくれたのであった。結婚は許された。

1981年12月20日  クレモナ サン・ミケーレ教会で、仏教徒のままイタリア方式で結婚(図8)。式の5時間前に仕上がったばかりの自作ヴァイオリン演奏に迎えられて入場。カトリックしか許されないところ、ヴァチカンの特別許可でミックス結婚式が正式に出来た。サン・ミケーレ教会1000年の歴史始まって以来とのことである。

1982年12月8日  長男アンドレア誕生。イタリアではマリアの祭日、日本では開戦記念日。日本名 玲介。アンドレアはヴァイオリン製作の祖アンドレア・アマティから拝借。

1984年9月  浩宮(現皇太子)殿下御来伊の際、クレモナを御案内。このときヴィオラ製作のお話をする。

1985年  東宮御所からお招きあり、プライベートルームで皇太子殿下(現天皇陛下)、美智子妃殿下、浩宮(現皇太子殿下)と茶菓にて歓談、2時間余にわたる。その後1993年には天皇皇后両陛下に、ミラノにて在伊日本人代表の一人として、親しく音楽や楽器についてお話をかわす栄誉を得た。

1982年  この頃から天正少年使節がヨーロッパから日本に持ち帰り、聚楽第で秀吉の御前で演奏した楽器の資料調査、研究を始めた。日本では主に長崎を中心として使節に対する文献を探しまわった。使節に関するものは大変多く出ていて問題はなかったのだが、音楽、楽器についてはそれまで調べた以上には見つからなかった。長崎で終わろうかと思ったとき、ふと使節研究や作家の友人からリストを貰っているのに気がついた。
面会不可能の印が付いている松田毅一先生の京都長岡京のご自宅に思い切って電話をしてみたら、30分なら時間があるとのことで早速伺った。おびただしい書籍の書斎でお話を伺ったが、何と4時間以上にもなった(図9)。途中先生は書棚の古書を抜き出し、裏に隠してあったフランスワインの栓を抜いて、乾杯して下さったのだが、ワインといい、講義といい、極上だった。その後、日本に行くたびにお邪魔したから、ワインの乾杯は6度になった。先生の基本は文献至上だったから、想像でものを言うことを厳しく禁じられた。亡くなる数日前「天正少年使節は日本の音楽は一切弾いていない」旨、石井 髙に伝えるようにとのことだった。
その後、本のデザイン決定、製作を開始した。

1986年7月14日  パリ祭の日、長女ジュリアーナ誕生。妻ジュージーが重症の妊娠中毒で、二人の生死が危ぶまれた。ジュリアーナの誕生予定日は8月15日であった。そうなればアンドレアがマリアの祭日、日本開戦記念日、ジュリアーナがこれまたマリアの祭日、日本終戦記念日になった筈である。

1989年9月  7年間ほとんど無収入で製作した天正少年使節の楽器が10台完成。またこの年11月、脊髄脊椎腫瘍(テラトーマ)で、10時間以上の手術。先天性だが40歳過ぎてから発症するのは、世界でも100症例以下の奇病なので、治療法が確立されていない。ぼくの症状はいまだに記録され続けていて、この病気の参考文献となっている。なおこの病気以後、ステッキが離せなくなった。

1989年  主婦の友『秀吉が聴いたヴァイオリン』を単行本として出版(絶版)。2年後の1991年、三信図書から『秀吉が聴いたヴァイオリン』の文庫本出版。ぼく自身、大変気に入っている本で、後書きはNHKディレクター・友人の佐々木昭一郎氏、歌手・友人のさだまさし氏が執筆して下さった。

1989年9月  古楽器完成後から「秀吉が聴いたヴァイオリン」をテーマタイトルとして、日本各地で講演会、コンサートなどの開催が始まる。皮切りは東京イナックス「甦る天正古楽器の音色」。結果的には大変成功したが、このホールでの開催前に、イナックス幹部からヴァイオリン製作者には貸せないというクレームが出た。理由は日本の製作者たちの人柄に問題があるというのだった。現在ではまったく体質が変わっているが、当時の状況からすると、そういわれても仕方がないことでもあった。すでにぼくが製作者協会を脱会していたのが幸いした。数日して皆の杞憂もなくなった。「名古屋デザイン博覧会」、「長崎旅博覧会」、「大阪IMPホール さだまさし、石井 髙の時空を超えたコンサート」、「埼玉県草加市アコスホール」、「仙台青葉城址県立博物館」、「埼玉県さいたま芸術祭」、「東京芸術大学奏楽堂」、「東京御茶の水カザルスホール」、「ミラノ サン-フェデ-レホール」、「ミラノ トスカ邸デザインセンター」、「クレモナ サン-ダニエレホール」、など次々にイベントが開催された。これは2009年現在まで続いている。

(図10) 皇太子殿下のヴィオラ。すべて40年以上の経年変化のある最良の材料を使った。

1998年  お約束のとおり皇太子殿下にヴィオラを製作、お渡しする(図10)。なお、この件に関しては、少々説明が必要と思う。皇室は誰からも個人的に物品を受付けない。ぼくのヴィオラはクレモナで、皇太子殿下にお話を個人的にしてあったので、それを考慮して東宮侍従長が「とりあえずお預かり」ということで受け取られた。東宮御所からは、献上という言葉は国家と関わることであり、ぼくのヴィオラのお渡しは非常に珍しいケースで、正確に言うと献上という事項ではないので、その言葉は使わない方が望ましいとのお達しだった。したがってお預かりということで、ぼくが皇太子殿下にヴィオラをお貸ししているということになる。なんと嬉しく名誉なことだろうか。

1991年3月3日  この日は天正少年使節による聚楽第での秀吉御前演奏から、ちょうど400年目にあたる。前年の秋、歌手のさだまさしさんが突然、クレモナのぼくのところに遊びにきた。それ以後、親しい友人としてお付き合いしているのだが、工房では天正少年使節の話で意気投合した。彼自身ヴァイオリンを弾くし、使節の演奏日が来年の3月3日が400年目と聞いて、彼の直感ですぐに記念コンサートを思いついた。そしてこの日、大阪IMPホール「さだまさし、石井 髙の時空を超えたコンサート」が実現した。4時間半にわたる長いイベントで、第1部は二人の対話、第2部はさださんのトークで、少年使節の一人中浦ジュリアンの物語。話の間にぼくが復元した古楽器を使って、この日のために編成された「クレモナ・サン・ミケーレ・アンサンブル」の演奏した曲目は、ぼくが、1990年に制作した純金のCD「400年前の音楽と古楽器」(石井 髙選曲)の中から、この場の雰囲気に合うように厳密に選曲されたものだった。すばらしい演奏を披露してくれた「クレモナ・サン・ミケーレ・アンサンブル」は、当時一流の古楽器演奏家のグループで、リーダーはリコーダー奏者の勝俣敬二さんであった。このコンサートでもまたぼくは、グループで何か一つの共通した目的に突き進む活動に、得も言われぬ喜びを感じた。それはヴァイオリン製作という仕事が、工房に一人閉じこもって黙々と格闘している毎日だからである。一方、共同作業というのは、意見の異なる人たちとの駆け引き、融和など、いろいろな条件、事情を乗り越えてできあがるという大変貴重な体験であった。現代は一人の工房に戻っているが、ぼくのヴァイオリンに、また味と大きさが加わった気がする。
1992年から2009年までは病気と事故の連続だったが、2010年の現在、今までのことは忘れたごとく健康になったので、他人の病気や事故などの話は煩わしいだろうから省きたいが、ご参考までに少しばかり書いてみる。53歳の10月、クレモナでの交通事故。相手が対向車線に入ってきて、ぼくの車と正面衝突。この事故は数日にわたり新聞に報道された。ぶつかってきたのは自殺目的だったからだ。ぼくは信号が青になったばかりの低速だったから、死を免れた。しかし車は大破し、ぼくは意識を失い入院。数カ所骨折、頭部強打、全身打撲で濃緑色になり、2カ月の重体。日本に行く5日前だった。日本でのトークショー、イベントなどはすべて中止。損害賠償で訴えようとしたが、相手は1カ月後末期ガンで死んでしまった。この上なく腹立たしい許せない事件であった。ただし保険金がおりた。生活費は少し助かった。
2007年9月もう一つの事故となる。ヴァイオリンのニス塗り中、失神で転倒。刷毛を持ったまま頭部、脊柱強打。脊椎骨折で入院1カ月。退院後安静2カ月と言われたが守らず、仕事。保険金がまたおりた。保険金目当てに怪我をしているわけでは無いが、助かったことは言うまでもない。

2009年  65歳(1月から3月まで入院)。下咽頭ガン。東京のある病院で、声帯切除手術を強く勧められたがこれを断った。もしこのときの医者が、親切に手術の説明をしてその有効性をぼくに納得させてくれていたら、ぼくは声を失っていたし、風呂にも入れなくなっていた。今でも声を出せるのは、その横柄な態度の悪い医者のお陰であり、この意味では感謝しているし、再発するかどうかは別の問題である。東京医療センターでの放射線、抗ガン剤治療。入院3カ月だったが、今までの病院で一番居心地が良かった。抗ガン剤の副作用は予想以上だったが、辛いと思わずにあくまでも楽天で通した。担当医長がチェロを弾くので、ここでも音楽をやっていることが幸いした。4人部屋に簡単な仕事の道具を持ち込んで、楽器の調整、鑑定のほかにニス塗りもした。さだまさしさんから頼まれた「歌手生活35年の記念彫刻品」もここで仕上げた。ベッドはいつも作品でいっぱいだったが、仄かに甘い蜂蜜の匂いが室内に漂った。ぼくはヴァイオリンのニスに、蜜蜂が作るプロポリスを入れているからだった。
以上、本来なら病気などは隠すものであるが、あえて披露するのは、病名からすれば大病の連続ではあるが、ぼく自身は大病と思っていないからである。大病であるかどうかは本人の意識にもよると思う。入院中、死をも含めて自分をよく見ることが出来たが、死に対する恐ろしさは全く感じられなかった。すべて気の持ちようであり、直ると思えば直るものであるという楽天的な性格が幸いした。だがこれは、全部のガンが早期発見だったことにもよる。胃ガン、肝臓ガン、下咽頭ガンの三つは、医師が「異常なし」と言うのを、むりやり医師たちに検査のやり直しをやらせたから見つかったのであった。このことを皆さんに言いたいがために、書かなくても良いことを書いた。余計なお世話かも知れないが、ご参考になれば嬉しい。ぼくは検査を義務としてと言うより、きわめて単純に趣味にしたのである。
さて、現在のヴァイオリン製作について一言言いたいことがある。「ヴァイオリンの鑑定」は先ず全体の姿から見始め、最初からラベルは見ない。また音響面では、鑑定の参考にはならないので、前もって演奏はしない。ごく細部まで詳しく見て、何時、何処で、どこの国の誰がということまで調べるが、このとき大事なのは作者によっていろいろある特徴、癖が非常に重要になるので、多くの楽器を観察していることが大前提だ。10年や20年の経験ではできないし、またヴァイオリンが作れるからと言って、修理はできない。最近のヴァイオリンは技術的には、ストラディヴァリなどの名器を超えるほど非常に素晴らしく、ぼくなど足下にも及ばないが、反面みな規格どおりで個性が感じられないものが多いから、誰が作ったヴァイオリンか、見分けがつけにくい。ストラディバリでも誰でも、それぞれ製作方法に癖があって、よく見ると失敗もある。考え事をしていて手が滑ることもある。そこがヴァイオリンに人間らしさが感じられる所以でもあるが、最近はうっとりと、ほれぼれする物も少なくなった。昨年の長崎の工房では多くの楽器を見たし、修理もしたが、中でも3台のヴァイオリンには非常に驚いた。持ち主は、作者について全く知らなかったのだが、Gaetano Sgarabotto, Ferdinando Saccono, Ferdinando Garimbertiだったからだ。Gaetanoはぼくの師匠 Pietro Sgarabottoの父上で、お会いしたことはないがSacconi先生の晩年には、クレモナで彼の名著書『ストラディヴァリの秘密』に記述してあるニスを一緒に作ったり、Garimberti先生からは、ミラノの工房でニスの指導をうけた。3台ともそれぞれ特徴のあるヴァイオリンだから、一目ですぐに分かった。非常に懐かしく思いながら修理をしたのだが、こういうことは今後次第になくなってくるだろう。これから50年後には、現在作られている楽器の多くが鑑定不可能となることを心底、憂えているが、少なくともぼくのヴァイオリンは、その頃鑑定可能な希少なヴァイオリンとなることを確信しながら、仕事台に向かっている(図11)。

(図11) 仕事場はぼくの世界だ。ジュージーは「私とどっちが大事か」と愚問を発するが、それほど好きだ。

締めくくりに、2010年の友人宛年賀状を、SPAZIOの読者の方々にも読んでいただき、ぼくのご挨拶としたい。

(図12)長崎歴史文化博物館1階ホールでの1回目のトークショーでは、大村文化博物館の村嶋寿深子さんが司会役だった。1990年1月に東京お茶の水のカザルスホールで行われたティータイム・トークショー以来、実に20年ぶりの再会だった。チラシは、天正少年使節の楽器に一つヴィオラ ダ ブラッチョである。
(図13) 長崎ヴァイオリン工房。博物館内の体験コーナーの隣に、即席ヴァイオリン工房を開設した。大勢の訪問客があり、多くの楽器の調整、修理をした。ついこの間なのだが、ずいぶん昔のことのようにも思える。皆の喜んでいた様子を思い出すにつけ、またやりたいつもりになっている。
(図14) 長崎の工房で、皆が削ったモミの木のヴィオラの表板。裏側に写真のようにサインをしてもらった。

2009年10月1日から11月3日までの長崎歴史文化博物館内のコーナーでのヴァイオリン製作、調整、修理の企画は大成功裏に終わりました。
(図12、図13、図14)最終日館内のホールでの送別会場に入った途端15人の奏者がぼくの修理した楽器で「アイネクライネ・ナハトムジク」を演奏しはじめぼくを迎えてくれました。やって良かったことを知りましたがこのイベントで大きな実験をしました。もちろんぼくが考案した楽器ヴィオラ ダ オーラです。巨匠カザルスはヴィオラはもっと大きくあるべきでチェロの音色に近づけられないかと現在のヴィオラの音に不満でした。だが当然なことでヴィオラの寸法を長くすることは演奏不可能で誰にもカザルスの期待に応えるようなヴィオラはできませんでした。ヴィオラを何とか出来ないものかと誰からの注文もなく収入にならないけれど今のぼくの全能力をあげての仕事でヴィオラの体積を演奏可能な限り大きくする工夫をしました。製作方法はストラディバリ時代当時のものとし、10分の1まで測る精密な現代の測定器は使わずコンピューターの情報を一切排除しすべてカン、コツ、経験に頼りました。このヴィオラ ダ オーラは11月1日のトークショーでまだニス塗り途中でしたが未完成のまま初演奏し、文化の日の「ながさき音楽祭」最終日コンサートでも演奏されました。実験は予想を遙かに超えて成功しました。ぼくのやり方は正しかったと思っています。同時に自信と意欲が沸いてきました。カザルス先生のご期待に少しは応えられたと信じています。

これを機会に相変わらず陰の存在のようなヴィオラ作りも大いに力を入れたいと思っています。ぼくは今後も極力コンピューター情報に頼らない、ある意味で無視してヴァイオリンを作っていきたいと思っています。ストラディヴァリの時代までさかのぼるのではなくガリンベルティ先生の時代、つまりコンピューターのなかった頃のヴァイオリンを先生方の指導のまま踏襲して行くつもりです。ヴァイオリンはあまり注文がないけれど仕方ない、数は少なくとも石井の楽器が欲しいという人がたまにはいます。ぼくはこれでよいと思っています。コンピューターという要因が人間的ヴァイオリンから機械的ヴァイオリンへと本来のヴァイオリンのあるべき姿を変えている現在、少しはこういう製作者がいてもよいでしょう。

イタリアに戻ってからまだ1カ月しか経っていないのにずっと昔のできごとのようにも思われます。今はいつもの生活です。ご心配をおかけしました下咽頭ガンは日本で2度の検査で全く問題がないとのことでした。ただ副作用はまだ残っていてこれからも居候を続けるでしょうが元気が戻りましたのでどうかご安心ください。
2010年はクレモナ在住40年、ヴァイオリン生活45年目になります。いろいろありましたがよくここまで来たなと言うのが実感です。ぼくは5年を一区切りにしていますから今年から新5カ年計画の始まりです。まずヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを3台同時に作り始めました。さらに良い楽器を目指します。再度の長崎行きや他の楽器の調整や修理で困っている町に行くことも考えています。

新年からまたよろしくお願いいたします。皆様くれぐれもお体ご自愛なさり健康であることを、病気を次々にやっつけてきた一見病身な実は頑丈なぼくより心をこめてお祈りいたします。

クレモナ 石井 髙

石井ファミリーとアンドレアのフィアンセ

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