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SPAZIO発刊40周年によせて

【第2回】 科学と芸術の境界領域をSPAZIOとともに生きてきて…

著者: 坂根 厳夫

日本オリベッティ社の広報誌SPAZIOの編集者から、創刊号に何かエッセイをと依頼されたのは、もう40年ほど前のことである。大阪万博の年だったが、当時は私自身、新聞社の家庭部から科学部に移り、科学と芸術の境界領域に強い関心を持ち始めていた頃だった。1960年の世界デザイン会議前後から、ブルーノ・ムナーリやエンツォ・マーリのファンだった私は、彼らのデザインによるオリベッティ社の製品もいくつか使っていたし、広報部の方とも顔馴染みだったため、つい、一つ返事で引き受けてしまったように思う。

しかし、いまから思うと、当時は私自身にとっても、人生の大きな変動期にさしかかっていた頃だった。1967年のモントリオール万博に参加して、世界のアート・アンド・テクノロジー時代の到来を予感し、大阪万博途中の1970年8月には、ハーバード大のNieman Fellow研究員制度に応募して、ボストンで1年間の滞米生活を始めた頃だった。翌1971年の8月には帰国して科学部デスクとなり、さらに1975年秋からは学芸部に移り、家庭欄では「遊びの博物誌」を、文化欄では「科学と芸術の間」といった連載を始めることになったが、なんとその5年の間に、このSPAZIO誌には11回ものエッセイを連載していたのである。いわばSPAZIOは、その当時の私の問題意識にまで、さまざまに触発の機会を与えてくれたメディアの一つだったと、思わないわけにはいかない。

いま当時のスクラップを読み返してみると、滞米時代前後の社会現象や人やものとの出会いのなかからさまざまなテーマを拾い出して、連想ゲームのようにエッセイを綴っていたことを思い出す。

吉本キューブ: MoMAのショップで扱っている吉本直貴作Yoshimoto Cube。(立方体のなかから、もう一つの立方体が現れる。)
裏返しの美女: 人形作家片岡昌作の彫刻。SPAZIO No.7, 1974から

当時はベトナム戦争がまだ続いていて、アメリカの若者たちの間に強い反戦運動が高まり、ヒッピー・カルチャーが広がり始めていたころだった。彼らの間では、なぜかM.C.エッシャーの版画まで流行しはじめていた。翌71年の春には、デザイン評論家の勝見勝さんから、7月にウィーンで開かれる世界グラフィックデザイン団体協議会ICOGRADAに出席しないかと誘いがかかり、ちょうどNieman Fellowの任期が終わりに近づいていたこともあって、思い切って2週間のヨーロッパの旅にでた。最初にスペインのバルセロナを訪ねた後、1960年代からの友人で、当時ローマに留学していた小川煕さんと会い、彼の運転する車で、イタリアのナポリから、ポジターノ、アマルフィを見て回った。その後も小川さんは長くローマに残り、数年前に漸く帰国されてからは何冊もの著書を刊行されると同時に、このSPAZIOの寄稿者としていまでも健筆を振るっておられる。

じつは、当時、彼と訪ねたアマルフィ付近の風景からエッシャーの作品の印象を思い出したのもきっかけで、ウィーンに向かう途中オランダでエッシャーを訪ねようと思いたった。幸いにも、芸術家のための養老院にいたエッシャーと、短時間でも面会することができたが、その翌年には彼が亡くなったため、それが唯一の貴重なエッシャーとの個人的な想い出にもなっている。

SPAZIOの連載には2号目から「科学散歩」の通しタイトルがついた。エッセイのなかでは一応は科学記者らしく、科学史のなかの故事も例にひきながら、私自身の身辺雑事や体験からの思いを綴っていった。ただ実際には、難しい科学理論などは避けながら、想像力を逞しくして、知覚現象や無意識や、存在論にまで連想の輪を広げていったが、いささか若さにまかせて牽強付会の弁を弄しすぎたのではと今では反省している。
なかでも科学と芸術の境界領域は、その後の私のライフワークのテーマにまでなったが、そのきっかけともなったいくつかの出来事や人や作品との出会いも、このエッセイのなかには何度か登場している。戸村浩氏の幾何学的造形や、吉本直貴氏の作品で、後にニューヨークMoMAのパーマネント・コレクションとなり、Yoshimoto Cubeとしていまでも売られている作品とのふれあいの感動を織り込んだり、テレビ番組の人形劇「ひょっこりひょうたん島」の人形作家で、ひとみ座の片岡昌氏の独特な裏返しの美女の造形を、ガモフの裏返しの宇宙像との文脈から取り上げたりもした。


Kees Boekeの「Cosmic Zoom」表紙
Kees Boekeのいた小学校(2003年撮影)
Ken Knowltonのモザイク・アート、
貝殻のモナ・リザ
[MONA LISA、合板に貝殻、
32inch×26inch、
©2005 Ken Knowlton Collection Laurie M. Young]

当時取材したアート・アンド・テクノロジー展の新しい作品の話題も、このエッセイでとりあげた。たとえば、1969年に東京で開かれたElectra Magica展やCross Talk Intermedia展には、世界から当時の最先端のメディア・アートの作品が紹介され、その作品のいくつかに感動して、当時の科学欄の連載「美の座標」で紹介もした。その一つは、草月会館で展示された最初のコンピュータ・プログラムによる映画「ポエム・フィールド II」で、当時、ベル研究所の技術者だったKenneth Knowltonがコンピュータのために開発した映像用プログラムBEFLIXを使って、映像作家のStan Vanderbeekがイメージを制作したものだった。 それも一つの縁で、1970年から1年間ボストンに住むことになった私は、MITでバンダービークに再会もできたし、ニューヨーク郊外のベル研究所にKen Knowltonを訪ね、その後いまに至るまで、Kenとの交際が続いている。彼自身が、まさに技術と芸術の境界領域を生き抜いた人であり、人がその一生のあいだに、専門分野への関心がどのように変貌し、作品や美意識までが変容していくかを示している好例である。

ケン・ノウルトンは、30代の頃から、Bell研のプログラム技術者として多くの映像作家の協力者の役割を果たすと同時に、自分自身でもアート的な表現にも強い興味をもち、すでに当時から電子部品の細かいパーツを組み合わせて、遠くからみると横たわるヌードの像が浮かび出る作品まで作って、話題になった人だった。その彼は、一方では自分が技術者としてしかみられていないことに不満を抱き、表現者としての可能性に挑戦し続けていた。その後、自然界の貝類や石ころなどを部品として使ったモザイク絵画を作り始めたが、その活動はいまに至っても続いていて、退職後の今も、自分のホームページで、貝殻で出来たモナ・リザを初め、無数の作品を発表し、販売までしている。

私自身、この30余年の間に、彼を何度か訪問したが、3年前には、朝日新聞の日曜版に依頼されて書いた久しぶりの連載「目の冒険」でも、その一回分を、彼の最近のモザイク絵画の紹介にあてたほどである。また、SPAZIOの連載「科学散歩」では、最終回「多面体の幻想」(1975年10月)のなかで、秋山泰計氏のおびからくりなどの話と並んで、ケン・ノウルトンが発見した数学的な造形「起き上がりさいころ」の話にも触れている。これは数学界で以前から問題になっていた多面体のさいころで、どんな転がし方をしても、最後には必ず一つの面で落ち着く“多面体サイコロ”の、面の最小数を割り出すという問題への挑戦結果だった。それまでの数学者が43面体とか、21面体による解答を出していたのだが、ノウルトンは当時、コンピュータを使って解析し、この19面体の“起き上がりさいころ”の解答を得たという。私自身、彼から送ってもらった図面をもとに、プラスティックスでこの奇妙な形のさいころを作り、転がしてみてその結果を確認できたために、SPAZIOの連載には写真つきで紹介している。

また、ハーバード滞在中に、同大学の講演に招かれたチャールズ・イームズとは、1967年のモントリオール万博の帰途にロス郊外のアトリエに立ち寄って以来の知己だったが、その講演会で紹介された「パワーズ・オブ・テン」の映画は、イームズ夫妻がその数年後に完成するカラー版の下敷きになったモノクロ作品だった。私自身、その作品のインパクトの強さに触発されて、何度か新聞などで紹介したし、このSPAZIOのエッセイでも取り上げた。イームズが亡くなってから、数年後、完成したカラー版をもってレイ夫人が来日され、六本木の国際文化会館で披露された日のことも、いまは懐かしい想い出である。
それにしても、歳月は刻々と過ぎていく。勝見勝さんもイームズもいまは亡くなったし、ブルーノ・ムナーリは1986年ごろに来日して再会し、こどもの城のシンポジウムで、岸田今日子さんたちともご一緒することができたものの、そんな彼らともいまはもう会えない。

そういえば、SPAZIO自体は、日本オリベッティを引き継いだNTTデータ ジェトロニクスで、文化活動の一環として発行され続けてきたが、2004年からはWebサイトによる電子版になって、以前のように切り抜いてスクラップすることはできなくなってしまった。しかし、その代わりに、いつどこからでも、だれにでも読むことができるのは、さすがに時代の変遷である。最近は、さきの旧友の小川煕さんのエッセイや、やはり1970年代初めにオランダのご自宅でお会いして以来、ときどきお便りをいただいている吉屋敬さんが、このSPAZIOで健筆を振るっていられるのに接して、懐かしさを禁じ得ない。
吉屋さんにはオランダのパノラマメスダグから魔女秤の家やフェルメールの美術館まで案内していただいたし、M.C.エッシャーの作品集を翻訳するときには、吉屋さんと吉屋さんのパートナー の近藤信之さんから、詳細なオランダの地名の和名を教えていただいた。また、イームズの映画「パワーズ・オブ・テン」の発想の下敷きとなった書物「Cosmic View」の著者で、オランダの小学校の校長先生だったKees Boekeの学校を探そうと永年思ってきて、2003年9月にようやく二十数年ぶりに探し当て、訪ねることができたのも、近藤さんの協力を得たおかげである。

今回、NTTデータ ジェトロニクスの文化情報サイトLIT's cafeでは、来年がSPAZIO発行40周年に当たるのを記念して、当時の寄稿者によるリレーエッセイを始めることになったそうで、私にも当時の想い出を綴るよう編集者から依頼された。おかげでいまでも心に残る人たちとのさまざまな体験を回想することができたことに、心からお礼を申し上げたい。SPAZIOがそのユニークな電子版を通して、これから先も、時間と国境を超えて、さらに人々の間に愛されていくことを期待して、心からのお祝いと声援を送りたい。


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