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SPAZIO発刊40周年によせて

【第1回】 すべては1972年の <<ルッカ8>> から始まった

著者: 小野 耕世

ルッカ市 (イタリア)

1972年10月、私はいわば一種の世界一周旅行をした。最終目的地は、イタリアのルッカ市である。いまでこそ、国際的なコミックス・フェスティバルといえば、フランスのアングレーム市の大会が有名だが、当時のヨーロッパでは、ルッカ市が毎年10月末から11月初めにかけて開催しているコミックスとアニメの国際大会が、最も知られていた。1960年代から、ヨーロッパのコミックス研究者やファン、出版社などと手紙のやりとりを続け、日本のマンガの本とヨーロッパのコミックス(BDベデというフランス語も、ようやく定着しはじめた頃である)を互いに送ったりもらったりしていた。日本にもヨーロッパのマンガに夢中になっているおかしな奴がいるぞ――と思われたのか、1972年10月の第8回ルッカ大会(LUCCA8)に日本から初めて私が招かれたのだった。

せっかくの機会なので、私はうんとまわり道をしていくことにした。まず東京からサンフランシスコに飛び、当時さかんになっていたアンダーグラウンド・コミックスの作家たちに会う。いちばんの目的は、この分野の第一人者ロバート・クラムを訪ねることで、幸いにも彼のアパートに招かれ食事をした。そのときそばでギターを弾いていた男がいて、彼は30年後に「クラム」という長編記録映画を作り一躍有名になる。この映画は日本でも公開されたが、私は「クラム」が上映された香港国際映画祭で、このテリー・ツヴァイコフという男に再会したのだった・・・。

「スパイダーマン」 (from Wikipedia)

話を1972年に戻すと、私はサンフランシスコからニューヨークに飛び、「スパイダーマン」や「X-メン」などのヒーローたちを生みだしたマーヴル・コミックスの編集者兼作家のスタン・リーに会う。それまで手紙のやりとりはしていたが、会うのは初めてだった。その後、ロサンジェルスや東京で彼にしばしば会うことになる。(近年の彼は「アイアンマン」や「ハルク」などの映画に、必ずちょっと姿を見せており、齢をとっても相変わらず元気なスタン・リーを、スクリーンで見るのは楽しい。)
ニューヨークからロンドン、さらにパリに行き、そこで多くのフランスのマンガ家たちに会う。『バーバレラ』という映画化されたBD(コミックス)の作者ジャン=クロード・フォレストや、この3年後の1975年にユマノイド・アソシエという出版社を興し、『メタル・ユラン』というSFファンタジーのコミックス誌を創刊することになる若きジャン・ピエール・ドネーに会ったのもこの時だが、パリでの最大の収穫は、コミックス・ファンである映画監督アラン・レネにインタビューしたことだ。レネとも私は前から手紙のやりとりもしていたが、レネには、スタン・リーの脚本によりニューヨークで映画を撮る企画があったのである(制作費が集まらず実現しなかったが)。
そしてパリからスペインのバルセロナに飛ぶと、現地のマンガ出版社が私のためにホテルを予約しておいてくれたことに感動した。その名もホテル・ガウディで、もちろん私はそのホテルから、サグラダ・ファミリアなどのガウディの建築を見てまわった。出版社の秘書の女性が、親切に私をあちこち案内してくれたのである。


『タンタンの冒険』メインキャラクターのタンタンとスノーウィ (from Wikipedia)

バルセロナからイタリアへ。ピサの街のとなりに位置するルッカに着くと、パリで会ったマンガ家たちが皆来ており、同じホテルに泊まっていた。そこで思いがけなく私は『タンタンの冒険』シリーズの作者であるベルギーのマンガ家、エルジェに会った。私は1950年代からのタンタン・ファンであり、彼を崇拝していたので、エルジェの前に立った私はふるえ、どきどきしてしまったが、それでも彼に絵を描いてもらった。ふつう彼にサインを頼むと、タンタンと愛犬のミルーの絵を描くのだが、私は「ぜひハドック船長を描いてください、大好きなのです」と頼んだ。この三者を描いてくれたエルジェの絵は、私が翻訳したマイクル・ファー著『タンタンの冒険 その夢と現実』(ムーランサール・ジャパン刊)の私のあとがきのページに載せてある。2001年3月、東京・渋谷のザ・ミュージアムで「タンタンの冒険展」が催されるのに間に合わせて翻訳した本であり、このアジア最初の「タンタン展」を、私は監修したのだった。私がエルジェに会ったのは、1972年のルッカが最初で最後だったが、結局私は、エルジェに会って絵を描いてもらった唯一の日本人となったのである。


「コルト・マルテーズ」の主人公マルテーズ (『SPAZIO』第5号より)

ルッカでは、ふたりの重要なイタリアのマンガ家に会った。ひとりはユーゴ・プラット(Hugo Pratt)で、彼は『コルト・マルテーズ』という海洋冒険コミックスによりヨーロッパで非常な人気があった。豪快に笑う親分肌の彼のまわりを、いつも多くの人たちがとりまいていたが、この年ルッカに招かれたゲストのなかでも最も遠いはるか日本から来た私に気をつかってくれた。もうひとりはミラノ出身のグイド・クレパックス(Guido Crepax)で、知的で官能的なコミックス『ヴァレンティーナ』の作者として知られ、私は彼の作品に夢中になっていたのである。彼に会うと、最新刊の『ビアンカ』(Bianca)というエロティックなコミックス単行本を私にくれた。ハンサムなクレパックスのそばに、髪をボブヘアにした美しい夫人がいた。彼女はヴァレンティーナそのままの容姿であった・・・。

グイド・クレパックス描く「ヴァレンティーナ」 (『SPAZIO』第5号より)

35日間のアメリカ・ヨーロッパ旅行から帰った私が、SPAZIO誌にルッカ大会について書くことができたのは、画家の久里洋二氏の紹介による。日本におけるアート・アニメの先駆者である久里氏のアニメは、すでにヨーロッパで高く評価されており、ルッカでも彼の短編が上映され人気を呼んでいた。さらにこの旅行の詳細や、映画監督アラン・レネとのインタビューは、キネマ旬報に発表したし、それは1974年に刊行された私の最初の著書『バットマンになりたい』(晶文社)に収録されているし、その30年後の2004年に出した私の本『アメリカン・コミックス大全』(晶文社)にも、そこに収めきれなかった内容を収録することができた。レネはアメリカのコミックスのファンなのである。
1972年のルッカ大会の成果としては、まず、グイド・クレパックスから贈られた『ビアンカ』を、私が翻訳して1975年に東都書房から刊行したことをあげなくてはならない。この官能的なコミックスの日本版の序文を、作家の吉行淳之介氏が書いてくださった。その序文のなかに、私の父の名が出てくるので驚いたが、吉行氏は私の父・画家でマンガ家の小野佐世男(1905-1954)のファンであり、吉行氏が戦後『モダン日本』という雑誌の編集をしていたとき、私の父と仕事をしたことがあるのだった。小野佐世男は1954年に48歳で急逝したのだが、その死のいきさつが吉行淳之介の『踊り子』という作品に記されている。久里洋二氏も、小野佐世男の絵のファンであることを後に私は知った。
『ビアンカ』の日本版は、装丁・造本が美しくぜいたくで、クレパックスから「イタリア版よりすばらしい」と感謝の手紙が届いた。東都書房とは、講談社のなかにある別名義の出版社だったのだが、結果として『ビアンカ』が、東都書房名義で出された最後の本となった。

私は1980年代に、もう一度、クレパックスの8ページの短編を、ある雑誌のために訳したことがあるが、知っている者は少ないだろう。
近年、クレパックスが日本で評価され『O嬢の物語』などの翻訳が出ているのは嬉しいが、作者名がギイド・クレパックスとなっていたりするのは奇妙に感じる。フランス文学の専門化が訳しているようで、名前をイタリア語読みでなく、フランス語読みで記しているのかもしれない。1970年代に、私は集英社の月刊PLAYBOY誌のために、クレパックスの「アニータ」という作品を紹介したことがあるが、私が作者名をグイド・クレパックスと記しても、編集者がギイド・クレパックスと直すので、困ったことがある。電車の吊り広告にも、ギイド・クレパックスと出てしまったが、最終的にはグイド・クレパックスと正しく雑誌に載ったのでほっとしたものだ。どうやら編集者の知人にフランス語のできる男がいて、執拗に「ギイド」だと言い張っていたらしい。作者はフランス人ではなくイタリア人だというのに。(なおフェデリコ・フェリーニ監督の映画「8½」で、マルチェロ・マストロヤンニ演じる主人公の名がグイドで、この映画を見ると、私はクレパックスを思い出す)

ルッカで会った人たち――「タンタン」のエルジェもクレパックスも、そして吉行淳之介氏も、もはや亡い。ユーゴ・プラットも故人だが、彼のヨーロッパでの人気は、死後もたかまるばかりで、多くのアーティストたちが彼の影響を受けたことを私に語っている。
1972年に私がルッカを訪れたころは、日本でヨーロッパのコミックスに注目する者はほとんどいなかったのだが、私はその後、パリに何度も行き、マンガ家たちに会った。ここ数年は、来日するヨーロッパのマンガ家たちに会ってインタビューすることが続いている。最近はBD(ヨーロッパのコミックス)の研究者も出てきているが、1970年代を体験している者はいない。
これまで、アメリカやアジアのマンガについての本を出してきた私だが、ヨーロッパのマンガ状況を、1960年代からの体験にさかのぼって、今年は『ヨーロッパ・コミックスの冒険』という本を出す予定である。


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