地中海
佐々木巌 (ささき いわお)
医療法人社団 ウェルネス ササキクリニック院長。1959年生まれ。医学博士。専攻は内科学。ギリシアほか地中海諸国を訪れ、伝統的な健康食とは何かを追い求めながら、現在、地中海式ダイエット歴は5年。そのおかげでストレスを解消し、肥満を免れ、病気知らず。日々の診療では、地中海(サレルノ)式健康法を説き、患者のストレス管理にも役立てている。

癒しとストレス

地中海
(図1) トルコ、アンタルヤより地中海を望む
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 日本はいま癒しのブームです。これほど癒し癒しと言われるからには、よほど、この国は暮らしにくい国なのか、ストレスの多い国なのかと思ってしまいます。つまり、癒しを語るにはストレスを語らなければならないし、ストレスとは何かを知らなければなりません。ただ、いきなりストレスの話をして、皆さんがストレスになっては申し訳ないので、まずは癒しの空間について、特に地中海世界の話から始めてみます。
 そのあと、医学的な見地からストレスのことに触れて、地中海(図1)がなぜ癒しの空間となりうるのかということ、そして温泉療法、食療法、ダイエットなどの話に移ります。

西洋最古の医学校――サレルノ(南イタリア)、モンペリエ(南フランス)

サレルノ湾に沿う海岸通り
(図2-1) サレルノ湾に沿う海岸通り。きれいな遊歩道が1キロにわたる
 
サレルノ大聖堂
(図2-2) サレルノ、大聖堂へ連なる路地を行く学生たち
 サレルノ。西洋最古の医学校発祥の地サレルノは、ナポリから一時間ほどの距離にある、ティレニア海を望む美しい町で、中世には海洋都市として栄えました(図2-1~2-5)。医学校の前身は、7世紀の半ばにまで遡ると言われます。以前、イタリアへ行く飛行機の中で、となりのイタリア人に、今回の旅の目的はサレルノに行くことだと言ったら、びっくりしていました。なんで日本人がサレルノに、何の用事があるのか、そんな反応でした。
 二番目の医学校はモンペリエと言われていますが、三番目はちょっとわかりません。しかし、ヨーロッパで最古というと、異論が出てくるような気がします。中世スペインのコルドバにはイスラム医学が栄え、学校もあったらしいのですから。

 サレルノ医学校の正確な創立年度は、わかっていないようです。7世紀半ば、ユダヤ、ギリシア、サラセン、ラテンの四人の医師がサレルノに集まったのが起こりだという伝承があります。サレルノという場所は保養地として名高かったため、集まってきた患者の多くは裕福な人々だったと言われています。
 いずれにしても、今日西洋医学と呼ばれている近代医学のルーツは地中海にあるということで、間違いはなさそうです。

サレルノ風景
(図2-3) サレルノ風景。サレルノはティレニア海と小高い丘にはさまれ、農牧業が発達し、古くから豊かな食文化の伝統がある
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サレルノ湾に沿う海岸通り
(図2-4) サレルノ湾に沿う海岸通り
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コスティエラ・アマルフィターナ
(図2-5) コスティエッラ・アマルフィターナ。ソレントからサレルノまでの40キロの海岸線は、世界で最も美しいと言われる
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「サレルノ養生訓」

サレルノ大聖堂
サレルノ大聖堂
(図3-1,2) サレルノ大聖堂の一部が医学校の校舎として使用された
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中世、医学校の授業風景
(図3-3) 中世、医学校の授業風景
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 写真はサレルノの大聖堂です(図3-1,2)。7世紀半ば、サレルノに医学校ができて、この聖堂も校舎の一部として使われた(図3-3)と言われていますが、その後四百年経って、11世紀末には、医学校の校長を中心にして養生訓が編纂されました。「サレルノ養生訓」です。
 この養生訓の書き出しは、サレルノの医師団がイギリス王(ノルマンディー候ロベール)へあてた手紙で始まります。このロベールという封建時代の王は、十字軍の遠征にも出かけたとされており、たえず忙しく、烈火のごとく怒ったり、暴飲暴食をしたりで、たいへんストレスの多い不健康な生活をしていたらしいのです。それでこの手紙の冒頭には医師団の忠告が、こんな具合に書かれています。

  • 気苦労を背負い込まず、烈火のごとく怒ることは避けなさい
  • ワインの痛飲は止め、晩餐は軽くとり、さっと目を覚ましなさい

 今日的にいえば、生活習慣を正せということでしょう。飲酒、食事、睡眠についてのアドバイスです。

医者要らずの三つの習慣

 ところで、そのあとの結びには、次のように書かれています。

  • まずゆったりくつろぐこと
  • 次にくよくよしないこと
  • 最後によい食事をとること

サレルノ海岸公園
(図4-1) サレルノ、海岸公園にて。午後のひと時、トランプ遊びに興じる人たち
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南国のスローライフ
(図4-2) シチリア州都パレルモの街角で、南国のスローライフを伝える光景
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トレビの泉前
(図4-3) ローマ、トレビの泉前で、人々が憩う
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 そして、これからはこの三つの習慣があなたの医者代わりになるので、それを日々忘れないようにしなさい、と……。
 医者要らずの習慣として、この三つは医者の私がとても気に入っています。ストレスの多い患者さんにも、この箇所を見せて、忠告しています。医者が医者要らずの忠告をしていたら、患者さんが来なくなると心配される必要はまったくありません。ほとんど、百パーセントの人が、頭でわかっていても、実行困難なことだからです。
 もし、これが実践できれば、医者は要らないし、病気にならない。最後のよい食事を取ることくらいは実行できそうです。でも、なかなか難しい。とくに前二つ、精神衛生に関わることの実践がむずかしい(図4-1~4-3)。医者で、現在これといった病気もない健康体の私が、つくづくそう思うのですから、患者さんにとっては、もっと難しいはずです。だからといって、日本を脱出して、イタリアに引っ越すわけには行かない。
 実は、この三つの習慣は、これから述べるストレスを緩和するために最も大事なことなのです。よい食事を取ることがストレスの緩和になるなんて、と思われるかもしれませんが、まちがいなくなるのです。それはストレスはストレスでも、心理的、社会的ストレスとは別の、生物学的ストレス、あるいは酸化ストレスを軽減するための一番大事な手段となるのです。

ストレスは人生の薬味である

スパイス
(図5) 香辛料、スパイスとハーブ。スパイスは適量用いるのがコツ
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 うまいことを言う人がいます。ストレスは人生の薬味であると。薬味はスパイスと置き換えることもできます。香辛料は料理にまったくないと寂しいが、使いすぎると料理を台無しにする。地中海料理でも香辛料は必須ですが、温帯地方では香辛料として、刺激の強いスパイスよりも、ハーブを用いています。日本人にはアラブ料理より、イタリア料理のほうが好まれるのは、香辛料としてハーブを用いているからだと思います(図5)

ストレスと癒し

  • 癒しを待っていては、遅い
  • 積極的にストレス・ケアを行う
  • ストレス緩衝系としての地中海式生活法をどのように活用すべきか

 日々ストレスの多い忙しい人にとって、癒しの空間は必要です。私自身も、毎日外来で大勢の患者さんとお会いして、正直、体調が悪いときもあります。精神的にいらいらすることもある。そんなときに限って間が悪く、学会が重なったりします。発表の準備がなかなか進まない、さあ、困った。自身、ストレスを感じながらスライドの準備をしていたりして、癒しの話など、とてもできないと思うわけです。

ギリシア、ナフプリオンの海辺
(図6) ギリシア、ナフプリオンの海辺で、ひとり釣りにいそしむ至福のひと時
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 現代医学では、高血圧や糖尿病などの病気は、遺伝的素因、生活習慣の乱れに加えて、ストレスが引き金になると説明されています。生体は生体内部の恒常性、ホメオスターシスと呼ばれますが、その恒常性を内分泌、神経、免疫が相互に調節し合って維持していると考えられています。慢性的なストレスは、この神経や内分泌、あるいは免疫系にまで悪影響を及ぼすとされ、血圧が上がったり、血糖値が高くなったりするだけでなく、免疫がおかしくなれば、癌にも罹患しやすくなると考えなければなりません。
 一方で、日常的なストレスはライフストレスといわれ、これにうまく対処できないと、睡眠、運動、食事、飲酒、喫煙などの生活習慣の乱れを生じ、高血圧、狭心症、糖尿病などの生活習慣病を悪化させると指摘されています。
 とにかくストレス管理が重要。癒しを待っていては遅いのです。積極的にケアーしてゆくことが必要です(図6)。そのためにストレス緩衝系、あるいは癒し系としての地中海グッズなどをどのように活用すべきかが問われます。

ストレスの正体

 そのためには、ストレスの正体をよく知らなければならない。
 ストレスの語源は、工学や物理学の用語であり、外から力を加えられたときに生じる物体のゆがみを意味します。生体に当てはめてみると、何らかの刺激が生体に加えられた際に生じるゆがみがストレスということになり、この刺激に相応する言葉はストレッサーです。つまり、ストレッサーとストレスは原因と結果の関係になります。

 生体では、ストレッサーにさらされたときにさまざまな反応をして、そのストレスに適応してゆこうとする。この一定の状態を保つ営みがホメオスターシスであり、ホメオスターシスが破綻した状態が病気ということになります。
 図で説明しますと、ボールに石がぶつかった場合、石に相当するのがストレッサーで、ボールに生じたゆがみがストレスとなります(図7)。この石が大きかったり、ぶつかる速度が速かったりすれば、それだけゆがみは大きく、ゆがみが大きすぎてボールがパンクした状態がストレス性疾患です。ライフイベントと呼ばれる震災のストレスによって、心血管事故が起きるのがそれに相当します。また、小さな石でも絶えずボールの同じ場所にぶつかっていたら、ボールは傷んでパンクすることがあり、その小石に相当するのが、ライフストレスと呼ばれるものです。
(図7) ストレス図
ストレス図

ストレスにどう対処すべきか

  1. 大きな石であれば削る
  2. ボールに当たる石の速さを調節する
  3. 当たる石の数を減らす
  4. ボールの空気を抜く
  5. 割れない丈夫なボールに代える

 ストレッサーにどう対処するか。ボールをパンクさせないようにするための手段に相当するのが、ストレスマネージメントです。そのために、1のようにストレッサーとなる石の大きさを小さくしてみたり、いろいろと工夫をするわけです。ここで、1から3までは、ストレスの要因となるストレッサーを減らす工夫を指し、4、5ではストレスに対する感受性や耐性を改善させることを意味しています。
 地中海世界にはストレス感受性を改善し、ストレス耐性を向上させるコンテンツが溢れていますが、でもその前に、ストレスにはどんな種類があるのかをみておきます。

ストレスの種類

  • 心理的ストレス
  • 社会的ストレス
  • 生物学的ストレス(酸化ストレス)
  • 物理的ストレス

 ストレスの種類については、心理的、社会的ストレスなどはよく知られています。社会の変革が著しい今日、既存の組織、人間関係が通用しなくなり、職場、学校、家庭などあらゆる生活空間で、心理的、社会的ストレスが増大していると言われます。一方で都市部の騒音問題、オゾン層の破壊がもたらす紫外線など、物理的ストレスも増してきていますが、ここでは三番目の生物学的ストレス、特に酸化ストレスと言われているものについて考えてみます。

註:近年の日本では、産業、経済、医療などすべての分野で変革が進行中であり、その背景には、情報化社会、経済のグローバル化による経済効率の追求、競争原理の導入、価値観の多様化などが指摘されています。こうした変化が労働環境にも大きな影響を及ぼし、それに適応しなければならない勤労者の心理的、社会的ストレスが増していると説明されています。

生物学的ストレス、とくに酸化ストレスについて

  • 生体の酸化反応と抗酸化反応のバランスが崩れ、前者に傾いた状態
  • 酸化ストレスは、身体の細胞や組織、遺伝子を傷つけることによって、動脈硬化や癌の発症要因となる
  • 抗酸化機能を高めるために、ビタミンE、C、βカロチン、フラボノイドなど、抗酸化物質を多く含む植物性食品を摂る

 最近、酸化ストレスということが、医学の領域で大変話題になっています。
 生体内では、酸化反応と抗酸化反応のバランスが保たれていることが大事ですが、酸化ストレスとは、酸化と抗酸化のバランスがくずれ、酸化に傾いた状態を言います。つまり私たち人間の体内では、酸素を用いてエネルギーを生産する過程で、活性酸素と呼ばれる酸化物質が必然的に生じてくるのですが、何らかの理由で、酸化物質が過剰に生産されたり、また加齢などによって生体に本来備わる抗酸化機序が十分働かなくなると、体内に酸化物質が残存しますから、ストレスが生じます。それを放置しておくと、動脈硬化や癌を引き起こします。

色とりどりの野菜や果物
(図8) 色とりどりの野菜や果物が動脈硬化、癌を予防する
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 酸化と抗酸化のバランスをいかに保持するかには、食事や運動、安静、睡眠などの生活習慣がきわめて深く関わっていると考えられています。とくに食事では植物性食品に抗酸化物質が多く含まれており、積極的に摂取することが必要になります(図8)
 人生50年の時代は、酸化ストレスをあまり考える必要はありませんでした。しかし、現在平均寿命が男性78歳、女性85歳(2002年)と世界最高になり、50歳以降の人生を健やかに過ごす、あるいは健康寿命を延ばすためには、酸化ストレスをいかに抑えるかが大事になります。

生活習慣病の三大要因と酸化ストレス

  1. 遺伝的素因
  2. 環境要因(放射線、紫外線、ダイオキシン)
  3. 生活習慣要因(不規則な食生活、過度の飲酒、喫煙ほか)

 高血圧や糖尿病など、生活習慣病といわれる疾病の三大要因は、遺伝的素因、環境要因、生活習慣要因の三つですが、これらは酸化ストレスと密接な関わりがあります。

  1. 遺伝的な素因として、生来体内に必然的に生じる活性酸素の除去能力が低下していることがあると指摘されています。
  2. 環境要因として、放射線、紫外線、ダイオキシン、農薬などさまざまですが、先に述べた活性酸素を体内組織で発生、酸化ストレスを増大させるものが多数あります。
  3. パレルモ郊外モンレアーレにある青果店
    (図9) シチリア、パレルモ郊外モンレアーレにある青果店の店先に、太陽の光を一杯に浴びた、色鮮やかなシチリア産の野菜が並ぶ
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  4. 生活習慣の中には、酸化ストレスと密接な関係があるものが多く、喫煙、過度の飲酒、不適切な食生活によって、容易に酸化ストレスは増大すると言われています。その結果、脂質の過酸化反応が起きれば動脈硬化が進行し、酸化的DNA傷害が引き起こされれば、癌が発生するわけです。中でも特に大事なのは食生活です。地中海地方の食事には、オリーヴオイルを初めとして、酸化ストレスをおさえる物質が豊富に含まれています(図9)
註:日本人の食生活嗜好が、近年、大きく変化しています。とくにエネルギーの栄養素別摂取比率で、脂肪比率が25%以上となっていますが、活性酸素と呼ばれるものは、脂質やたんぱく質と反応してこれを変化させ、過酸化物を生産して反応をさらに拡大してゆきます。生体において、エネルギー代謝で必然的に生産される活性酸素の悪影響をできるだけ抑えるために、抗酸化機能を高めることが、酸化ストレスによる障害を防止する最も的確な方法といえます。あとで詳しく述べますが、地中海式ダイエットを構成する食品群には、オリーヴオイルをはじめとして、その抗酸化機能を高める物質が豊富に含まれているのです。

地中海世界にはストレス耐性を高めるコンテンツが溢れている

エトナ山とイオニア海
(図10-1) シチリア、エトナ山とイオニア海
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タオルミーナの古代ギリシア劇場
(図10-2) シチリア、タオルミーナの古代ギリシア劇場
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パレルモ新市街地区の広場
(図10-3) パレルモ新市街地区の広場に集まる若者たち
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ビアナ宮殿
(図10-4) スペイン、コルドバにあるビアナ宮殿。優美な12のパティオがあることで有名
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シラクーサのドゥオーモ広場
(図10-5) シチリア、シラクーサのドゥオーモ広場。ヨーロッパの諸都市では、大聖堂の前には必ず広場がある
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  1. 神話的(物語的)時間
  2. 人間関係を円滑にするような都市空間
  3. 地中海式生活法(ダイエット)
  1.  哲学者の鶴見俊輔氏が神話的時間ということを述べておられます。子どもを寝かしつけるために半ば義務感から本を読み聞かせていた母親が、次第に本を読む行為そのものに没入し、幼い子どもと物語の世界を共有している、そういう幸せな状態が神話的時間である、と。時計の針に支配される近代的時間に追われている私たちが、そういうゆったりとした時間をもつことは、ストレスに対する有効な対処法と考えられます。
     以前シチリアに行ったときの思い出ですが、シラクーサからタオルミーナに出かけました。イオニア海、エトナ山を見ながら電車に揺られて、冬の休暇中のことですが、日本とはまったく時間の流れが別だったことを思い出します。私にとって懐かしい神話的時間の一つです(図10-1,10-2)
     活火山のエトナは古代イタリア医学の祖であるエンペドクレスが、噴火口に飛び込んだという伝説も残っていますが、このエンペドクレスの四大元素説がもとになって、後で述べるように、ヒポクラテスが四体液理論を作ったともいわれています。

  2.  南イタリアやスペインなどには、町のあちこちに心地よい広場があり、共同住宅には素敵なパティオ(中庭)があります。心地よい戸外での生活空間が開けている、隣近所のコミュニティー、共有空間が発達していて(図10-3)~(図10-5)、陣内秀信氏の著書にもあるように、人間関係を円滑にする工夫がほどこされています。
  3.  地中海式ダイエットは、酸化ストレスの軽減のためになくてはならない抗酸化物質を豊富に含みます。ダイエットとは古代ギリシア語の生活方法に由来する言葉ですが、ただ単に健康によいオリーヴオイルとか、ポリフェノールの多い赤ワインという話ではなくて、家族や友人たちとゆっくり時間をかけて食事を楽しむという伝統的な食生活のスタイルも含めて、毎日の仕事や人間関係から生じる心理的、社会的ストレスも軽減させるものと考えられています。

コス島――医聖ヒポクラテスの島

ヒポクラテス像
(図11-1) コス島にあるヒポクラテス像
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コス考古学博物館にあるモザイク
(図11-2) コス考古学博物館にあるモザイク。2-3世紀に製作された。船に乗ってやってきた医神アスクレピオスをコス島民が迎えている有様を、岩に隠れたヒポクラテスが注意深く見守っている
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 神話的時間が出てきたところで、その神話の世界に飛び込みたいと思います。ギリシアのエーゲ海に浮かぶコス島は、西洋医学の祖、ヒポクラテスの生まれた島であり、神話に彩られた島でもあります(図11-1、11-2)。ブーゲンビリアが咲き乱れ、街の通りには、ヒポクラテスの名前が刻まれています。地中海式ダイエット(食事法)の故郷は、クレタ島と言われていますが、コスは私も学んだ医学の故郷です。
 初めてギリシアを訪れたとき、旅の最後にコスを訪れました。コスは東エーゲ海に浮かぶドデカニス諸島に属し、観光地として有名なロドス島に次いで、二番目に大きいとされる島です。私はロドスからハイドロフォイルと呼ばれる高速船に乗りました。かつて古代ギリシア人が小さな船で航海した海を、ハイドロフォイルは、時速100キロで海上を滑るように走ります。スリル満点の航海でしたが、エーゲ海の他の島々と同じように、船から見るとこの島はエメラルド色をしていました。コスはエーゲ海のダイヤモンド、祝福された場所とも言われており、古代より実り豊かで甘く薫ると称され、現在でもさまざまなシリアル、フルーツ、野菜、蜂蜜が作られています。
ヒポクラテスの樹
(図11-3) ヒポクラテスの樹(プラタナスの大樹)。ギリシアの広場には、大きなプラタナスが枝を広げて、市民に憩いの場を提供している
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 医聖ヒポクラテスは紀元前460年にコス島に生まれたとされています。父親も医師で、この地で医師となるべく修行を積みましたが、医師となってからはギリシア全土を歩き、さらには遠くアレキサンドリアまで赴き、自然環境と、人の生活様式と、病気の関連性について考察を重ねました。
 伝説のプラタナスの大樹は、2400年前にヒポクラテスその人によって植えられたと言われる樹ですが、様々な伝説に彩られています(図11-3)。聖パウロが布教でこの地を訪れたとき、島民にキリストの教えを説いたのもこの場所だということです。

コス島のアスクレピエイオン

医神アスクレピオス像
(図12-1) 医神アスクレピオス像(アテネ考古学博物館)
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アスクレピエイオン
(図12-2) コス島のアスクレピエイオン、第一テラスから第二、第三のテラスを望む
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アスクレピエイオン復元図
(図12-3) アスクレピエイオン復元図
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小アジア大陸(トルコ)
(図12-4) アスクレピエイオンの頂上より、小アジア大陸(トルコ)が見える
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 コス島には、ヒポクラテスの大樹と並んで、観光の目玉として、もうひとつ、アスクレピエイオンの遺跡があります。古代神殿医療の場、ギリシア神話の医神アスクレピオス(図12-1)を祀る神聖な場所は、運動場あり、沐浴の場ありで、今日的に言い換えれば、一大健康センターです。そしてここには、癒しの題材のすべてがそろっています。
 私は初めてのギリシア旅行を、ある夏の終わりにしました。8日間の短い旅でしたが、開業医としては患者さんを残してやってくるわけですから、何となく後ろ髪を引かれる思いでした。そして旅の最後にアスクレピエイオン(図12-2)を訪れました。コスタウンの南西4キロ、小高い丘の斜面に造られたアスクレピエイオンには三つのテラス(図12-3)があって、その頂上に立つと、青い空と紺碧のエーゲ海、それに緑の大地が見渡せ、その向こうにはトルコの山脈が青くかすんで見えて(図12-4)、何とも素敵な気分になってきました。往時、人々は、このテラスに立てば霊験あらたかな神秘的な治癒力が働いて、ほんとうに病気がなおったのではないか。私は本気でそう思ったくらいです。
 ところで、内科医の仕事というと、病気の患者さんを診察して診断を下し、薬を処方することが主になりますが、ヒポクラテスの大昔から、適切な診断の下によい処方を出すことが医師の務めでした。しかし、その処方は薬だけとは限らないわけで、食事、運動、入浴、すべてが処方の対象となります。本稿のテーマの一つである入浴に関する医師の処方が、どんなものだったのか。そして、その理論的背景となった四体液理論とはどんなものだったのか。

ヒポクラテスの四体液理論

ヒポクラテス像
(図13) ヒポクラテス像(コス考古学博物館)。ギリシア文字は有名なヒポクラテスの誓い
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  • 血液(熱・湿)⇔空気
  • 黄胆汁(熱・乾)⇔火
  • 黒胆汁(冷・乾)⇔土
  • 粘液(冷・湿)⇔水

 古代医学の二大巨匠といえば、医祖ヒポクラテス(図13)と、2世紀に活躍したギリシア人の名医ガレヌスですが、この二人によって提唱された四体液説とは、ご存知の方も多いと思いますが、病気というのはすべて単一の原因、すなわち血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁と呼ばれる四体液の調和の乱れによって起こるという説です。よって、体液のバランスが崩れると人は病気になり、一方、調和が回復すれば健康を取り戻すというわけです。
 ヒポクラテスが四つの体液を思いついたのは、同時代(前5世紀半ば)のギリシアの哲学者、エンペドクレスの四大元素説にヒントを得たといわれています。

  1. 血液は暖かく湿って澄んでおり、四大元素の空気に相当します。地中海性気候では暖かく湿気がある春です。
  2. 黄胆汁は熱く乾いており、四大元素では火です。熱く乾燥しているので季節は夏になります。
  3. 黒胆汁は冷たく乾いているので、土に相当します。地中海性気候では秋です。
  4. 冷たく湿っている粘液は、四大元素の水です。地中海性気候では寒くじめじめとした冬になります。

 こうして人間の身体の特性は、自然の四季や宇宙の構成原理とも結び付けられました。男女ともに、これらの体液の超過がその人の性格や気分、行動に変化をもたらすと考えられたのです。

多血質
(図14) 多血質
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血液(熱・湿)⇒多血質(図14)
性格:陽気、快活、楽天的
症状:肥満、赤ら顔、動悸→高血圧、糖尿病(生活習慣病)

 さて、血液は四体液の中でも最も重要と考えられ、若さ、興奮、情熱など、よい意味で健康的な活動の指標ということができます。
 この体液が過多で多血質(sanguine)と呼ばれる人は、親切で陽気で社交的な性向が現れてきます。身体的には、顔がはれて、頬は赤らんで、脈は軽く短く打つ、血管は膨れ上がり、お腹が出てきたりすると説明されています。
 つまり、現代医学の観点からみれば、肥満、高血圧、あるいは糖尿病といった生活習慣病の徴候が明白なのが多血質です。生活習慣の乱れ(食生活、飲酒、運動不足)は、生物学的(酸化的)ストレスを増大させます。多血質の人はその典型で、何はさておき生活習慣の改善が必要です。

黄胆汁質
(図15) 黄胆汁質
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黄胆汁(熱・乾)⇒黄胆汁質(図15)
性格:短気、好戦的、野心家
症状:胸痛、動悸→狭心症、心臓病

 黄胆汁が過多になった人は、黄胆汁質(choleric)と呼ばれます。性格は短気でかっとしやすくなるのが特徴で、気分的にはいつもいらいらして、何かに追い立てられるように感じます。行動パタンをみると、野心にあふれ、立身出世に駆り立てられて、行き過ぎると復讐心に燃えたりするとも説明されます。
 黄胆汁質の人の身体症状として、心臓は常に痛み、ひっきりなしにずきずきする、脈は勢いよく飛ぶように打つと、昔の医学書では説明されており、現代医学の観点から言えば、交感神経の活動が非常に高まっているタイプの人で、狭心症とか不整脈の徴候があるので、自分は黄胆汁が多いのではないかと思われる方は、心臓病の検診をお受けになるのが望ましいと思われます。

黒胆汁質
(図16) 黒胆汁質
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黒胆汁(冷・乾)⇒黒胆汁質(図16)
性格:努力家、凝り性、皮肉っぽい
症状:メランコリー

 黒胆汁は冷・乾の性質を持った色の黒い体液で、黒胆汁が増えると黒胆汁質(melancholy、憂鬱気質)になると説明されます。性格的には、努力家、凝り性で、物事をじっくり考えるタイプですが、過度に瞑想に耽りがちで、また皮肉っぽい性格のため、人付き合いが困難になると説明されます。
 うつ病という病気は、人類の歴史と共にあるといわれていますが、その有病率は世界人口の3-5%に達するという統計もあるくらいです。日本では、増加傾向にある糖尿病と同じくらいポピュラーな病気ですが、心理的、社会的ストレスの増大により、発病に関与する心因性うつ病と呼ばれるタイプが増えています。ですから、生来憂鬱気質のある人は、特にストレスマネージメントが大事になってきます。

粘液質
(図17) 粘液質
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粘液(冷・湿)⇒粘液質(図17)
性格:無精、無感動、冷淡
症状:食欲低下、胃痛→胃潰瘍

 粘液質(phlegmatic)は、胆汁質と対極にあって、四体液の中では冷・湿の二特性をもった粘液が過多になった人に現れるパーソナリティや気分、行動パタンを意味しています。
 この体液が過剰な人は、知的好奇心に欠け、絵にあるごとくいつもベッドに横たわっていて、活力に乏しく、臆病で無責任と良いところがないのですが、胆汁質の人のように、人を蹴落としてまで立身出世を望んだりせず、いつもやさしく公正であるといわれます。当時の医学では、粘液のもっとも重要な働きは脳の保護作用で、黄胆汁によって加熱した脳のオーバーヒートを防ぐのが粘液の役割と考えられました。

 先に胆汁質は心臓の病気と関連が深いと申しましたが、粘液質は胃腸の病気と関連が深いのが特徴です。胆汁質は交感神経の緊張が強い人であり、粘液質の人は、これと対照的に、副交感神経症状として胃酸の分泌亢進などが生じてきます。

四体液理論からみた治療法

  • 食事療法
  • ワイン療法
  • 入浴療法
  • 薬物療法
  • 瀉血

四体液質
(図18) 四体液質。左から順に多血質、黄胆汁質、粘液質、黒胆汁質
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 以上、古代生理学における四体液説では、それぞれの体液が優位になることによって現れるパーソナリティから、特有の身体症状が生じて、これを放置しておくと病気になると考えられました。現代医学でも、とくに精神医学領域で、人の気質、体質が論じられ、性格論や病前気質ということがいわれますが、ヒポクラテスやガレヌスの四体液理論は、最も古い気質・体質論ということがいえると思います(図18)

 理想的な人間では、血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液が同じ比率で保たれているので、問題は生じないのですが、通常は体内で一つないしは複数の体液が増え、優勢になって、特有の気質、身体症状が表れて、病気に発展するというわけですから、古い医学では、過剰になって悪影響が出てきた体液を是正するために、それぞれの治療法が考案されました。
 例えば、ある患者が風邪を引いて鼻水や痰の分泌が増えたとします。体液説によれば、これは粘液が過剰になったと考えられたので、医師は患者に、厚着をしてベッドに入り、ワインを飲むように命じたそうです。また発熱した患者の場合、体温の上昇は黄胆汁(熱・乾)の過剰が原因と考えられ、それに拮抗する粘液(冷・湿)の勢力を増すために、冷水浴の処方が出されたと伝えられています。熱が出たとき熱を冷ますために水風呂に入れと医者からいわれたら、皆さんどう思われるでしょうか。

 食事や入浴など、温和な処方が効を奏さない場合、次の手段として薬(下剤や催吐剤)が用いられたり、瀉血が施されたりしました。

ヒポクラテスの四体液説と公衆浴場

    カラカラ大浴場
    (図19-1) カラカラ大浴場、遠景
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    装飾タイル
    (図19-2) カラカラ大浴場に使われた装飾タイル
    装飾タイル
    (図19-3) 同上
    装飾タイル
    (図19-4) 同上
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  • 高温浴槽(熱・湿)
  • 低温浴槽(冷・湿)
  • 高温サウナ(熱・乾)
  • 低温サウナ(冷・乾)

 ローマの公衆浴場(テルメ)は、いわば健康増進と疲労回復を名目とした社交場であり、貴族、庶民を問わず、すべてのローマ市民の憩いの場であったといわれています(図19-1),(図19-2,3,4)。時の施政者が、民衆のストレス軽減に何が最も効果的かという配慮をしていたのが素晴らしいことだと思います。

 四体液理論からみた入浴処方は、四体液の不均衡が病気の原因とされたのですから、胃や腸、肝臓や心臓など、どの臓器が悪いのかということは問題にはなりません。ちなみに古代ローマのカラカラ浴場は、四体液理論に基づいた設計がなされていました。つまり高温浴槽、低温浴槽、高温サウナ風呂、低温サウナ風呂の四種類の浴室があったということです。
 たとえば、当時、医師からあなたは黄胆汁の過剰によって体調が悪いと診断されたとします。すると黄胆汁と正反対の性質を持つ粘液の働きを強めるような処方をもらうことになります。単純化して言えば、身体が熱くて乾いているのだから、食事については、冷たくて水分の多い物を多く摂り、入浴については、低温浴槽に重点的に入りなさいという処方を医者が書いてくれるわけです。

註:わが国における温泉療法の歴史については、温泉が病気の治療に利用されたことを示す事実が古事記、日本書記に記されています。また奈良から鎌倉時代にかけては、時の施政者や寺院などが、期間を限って庶民に無料で入浴サービスを提供する「施浴」が行われており、庶民の間では入浴はめったに体験できない贅沢として、まだまだ一般化した生活習慣とはなっていませんでした。それが江戸後期になって、銭湯や娯楽、遊興サービス込みの浮世風呂が出現し、わが国独特の入浴文化が花開いたとされています。

ガレヌスの精気説と公衆浴場

  • 庭園風景⇔自然精気(肝臓)
  • 恋愛情景⇔動物精気(脳)
  • 狩猟場面⇔生命精気(心臓)

ヒポクラテス(右)とガレヌス
(図20-1) ヒポクラテス(右)とガレヌスが医学を論じ合っている
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 古代医学の二大巨匠(図20-1)、右がヒポクラテス、左がガレヌスですが、ヒポクラテスより500年後に生まれたガレヌスは、ヒポクラテスの四体液説に飽き足らず、医学の中に「精気」という概念を持ち込みました。
 それは自然精気、動物精気、生命精気という三種類の精気で、人間は呼吸を通じて、この三種の精気を体内に取り込み、全身に行き渡らせることで、四つの体液に活力を与え、生命をよりよく維持していると考えました。古代ローマの社会医療制度に詳しい澤田祐介氏によれば、この精気の概念が、健康増進と疲労回復の殿堂であった公衆浴場(図20-2)の設計にも取り入れられていたとのことです。
 カラカラ浴場の壁面を飾るモザイク画の主題は、三つあったとされています。

    古代公衆浴場状景図
    (図20-2) 古代公衆浴場状景図
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  1. 美しい自然を描いた庭園風景は、自然精気を取り込む肝臓の働きを活発にし、生殖、成長、栄養などに関わる自然能力を高めるとされました。
  2. 恋愛情景は脳にある情動中枢を刺激して、感情や判断力など、脳に関係する動物精気を活発にすると考えられました。
  3. 狩猟場面は生命精気の活性化により、心臓を通じて、生命自体を維持するという働きがあります。

地中海式生活法(ダイエット)

タオルミーナの古代ギリシア劇場
(図21-1) シチリア、タオルミーナの古代ギリシア劇場にて、神話的時間を憩う
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 さて、ここで今一度、話を現在に戻して、地中海式生活法、ダイエットの話をします。ダイエットの原義は、前述のとおり、古代ギリシア語で生活方法、生活様式を意味しています。よく考えられた生活法の実践こそが、ストレスの改善、つまり、癒しの鍵となります(図21-1)。日本でも長寿の里と呼ばれる沖縄では、その独自の食事法のみでなく、生活様式全般にわたって、ストレスを緩和させる因子が働いているというように説明されています。

註:ダイエットとはもともと生活に関わるすべて、食事や睡眠、住環境など生活様式を幅広く包括する概念だったものが、なかでも食事のウエートが最も高かったために、健康のための食療法、食事法といった意味で使われるようになりました。近年、肥満者数が増大したために、食事の中でも、とくにカロリー制限という意味合いが強くなって、ダイエットといえば減量をさすというふうに変わってきたのではないかと推測します。

食事

メカジキ
(図21-2) シチリア料理ではメカジキが有名。街の魚屋では、鮮魚の中に、胴体を輪切りにしたメカジキ(写真左中)があり、客の求めに応じて、切り売りされる
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シチリア料理
(図21-3) オリーヴオイルをかけてオーブンで焼いた魚に、香草がかかっている
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 まず食事ですが、地中海の食事というのは、周囲が海であることからも、私たち日本人にもなじみのある魚が多いのです。
 魚は地中海式ダイエットの中心的なタンパク源(図21-2)ですが、油の乗った魚を週に1回食べることで、致命的な心臓発作のリスクが50から70%も低下するという研究成果が出ています。オメガ3系の脂肪酸が致死的不整脈の発症を予防するのだと推測されていますが、この脂肪酸から、血栓を予防するエイコサペンタエンサンなどが作られます。ただ、魚油というのは多価不飽和脂肪酸に属し、これほど身体によい成分を含んでいるにもかかわらず、不安定で、酸化され易いという欠点があります。地中海地域で出される魚料理は、オリーヴオイルをかけてグリルで焼いて調理されます(図21-3)が、このオリーヴオイルは熱に対して、とても安定性が高く、魚の油の酸化を防いでくれるという利点があります。

註:グリルで魚を調理する際には、オリーヴオイルをかけて焼くのですが、魚の臭み消しはニンニクやタマネギ、イタリアンパセリ、オレガノなどを用います。魚のうまみを逃がさない調理法で、グリルを使って200度程度の加熱により、全体にほどよく熱が通り、直火による焦げが生じる心配がありません。オリーヴオイルは臨界点(発煙点)がもっとも高い油であるために、そうした焼き方が可能になるのですが、オリーヴオイル自体が酸化されにくく、ビタミンEなどの抗酸化物質をたくさん含んでいるので、酸化されやすいといわれる魚油の酸化も合わせて防いでくれます。つまり、オリーヴオイルを含めて抗酸化物質を豊富に含む植物性食品をしっかりと摂ることが、酸化ストレスに打ち勝つためにも重要だということです。

運動と安静

走る人
(図22-1) 北米と異なり、南欧の街でこのように走る人はあまり見かけない
スペイン、マラガの海辺
(図22-2) スペイン、マラガの海辺で思い思いにくつろぐ人々
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 学会などで外国へ旅行をすると、朝早くからジョギングする人を見かけることが最も多いのは、アメリカです。以前シアトルに行ったとき、坂の多い街でしたが、その坂をものともせず、自転車に乗っている人を多く見かけました。南の社会ではそこまでヘルス・コンシャスな人はあまり見かけませんが、サレルノでも海辺の散歩道を楽しそうに散策したり、写真のようにジョギングしている人も、まれにはいます(図22-1)
 また、地中海に暮らすクレタの人々は、日々、農業などの生産活動に従事しているわけで、食事プラス規則的な身体活動が、彼らの健康を支えているのです。

 つぎに安静ですが、サレルノ式健康法では、じょうずにくつろぐことが最も大事だと説かれました(図22-2)。一般的な日本人が一番苦手とする領域でしょう。現代の私たちは、生活環境は快適になり便利になった反面、本来そこから時間的余裕が生まれてきてよいはずなのに、現状ではくつろぐこと、本当の余暇を楽しむことが下手な人が多いのです。ストレスの観点から言えば、睡眠中は当然のことながら、活性酸素は減ります。しかし人間は生きている限り、活動しているわけで、適度に運動することは、身体の中に上手に酸素を取り込み、エネルギー代謝の過程で酸素をスムースに利用することができるようになるわけで、活性酸素ができにくいということです。つまり、ただ寝ているだけではダメで、休養と身体活動のバランスがとれていることが、真に地中海式といえるのではないでしょうか。

註:日常診療で、私は生活習慣病の患者さんを大勢診ております。そこで食事療法と合わせて、運動療法を積極的に取り入れておりますが、きちんと休息が取れない人には運動指導はいたしません。かえって逆効果になるだけだからです。運動する前に、休息をきちんととることがいかに大事であるかという話をよくします。

地中海式ダイエットのピラミッド

  • 植物性食品(野菜・果物・穀物)を豊富にとる
  • オリーヴオイルの多用
  • 魚介類は習慣的にとる
  • 獣肉は少量に留める
  • アルコールは適量を食事中に飲む

地中海式ダイエットのピラミッド
(図23) 地中海式ダイエットのピラミッド
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 これは、よく知られている地中海式ダイエットのピラミッドです(図23)。このピラミッドの食事構成は、1960年ごろのギリシアのクレタ島や南イタリアの伝統的な食事法がもとになっています。世界で伝統的に健康食といわれる食事は、差異はあっても、このピラミッドに即した食事構成をもっていることが、世界規模の疫学調査や臨床試験の結果わかっています。
 また、このピラミッドは穀物や野菜、豆類、果物などの植物性食品と、この地方特産のオリーヴオイルをベースに、チーズなどの乳製品や新鮮な魚介類が加わって構成されています。こうした大地に根ざしたシンプルで彩りのよい食物が、抗酸化物質と呼ばれる、ビタミンCやビタミンE、またカロチノイド、フラボノイド(ポリフェノール)を豊富に含み、活性酸素の働きを抑え、酸化ストレスを予防し、動脈硬化や心臓病、ガンの発生を予防するために役立っているのです。

現代社会における地中海式ダイエット(食事法)の利点

スペインのタパス料理
(図24-1) 地中海広しといえども、スペインのタパス料理は、その食材の豊かさと楽しさで抜きん出ている
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南仏プロバンスのレストラン
(図24-2) 南仏プロバンスのレストランでの色鮮やかな一皿。おしゃれでいかにもフランスらしい。地中海的色彩が客の目をひきつけ、食欲をそそる
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 古代地中海世界で、あれほど高度な文明が発達した背景には、民衆レベルでのバランスのよい食事があったからこそだという説があります。つまり、古代ギリシアやローマで、少数のエリートが関与した以上の偉業が成し遂げられたのは、名もなき人々の総体としての健康度が、食事によって保障されていたからだというのが、イギリスの栄養学者Waterlow博士の意見です。

 それでは、現代社会における地中海式ダイエットの利点とは何か。ナポリ第二大学Giugliano教授の言葉を借りると、身体活動が中等度以下で、脂肪の摂取率が中等度以上の人々、つまり車やコンピュータが普及する先進国で、運動不足にもかかわらず、美味しいものを食べる機会に恵まれている人たちにとって、地中海式食事法は現実的な選択肢であるのです(図24-1,24-2)。つまり、全体のカロリーは各個人によって変わるが、食事全体のバランスのよさ、個々に見ていくと、オリーヴオイルや魚介類から良質な脂肪を取り、精製度の低い炭水化物(穀物)を主食として、それに豊富な野菜、果物から、ビタミン、ミネラル、ポリフェノールに代表される抗酸化物質を取ることで、動脈硬化に基づく心血管病(心筋梗塞や脳血管障害)を予防するのみか、癌の予防にもなるということです。単に平均寿命が81歳で世界最高という話ではなくて、健康寿命が問われているわけです。

「世界三大健康食」とは――日本・中国・地中海地域

 さて最後は、世界三大健康食とは何かということです。世界三大料理というと、中国、フランス、トルコ料理ということになっていますが、世界三大健康食となると、中国は残って、日本と地中海の食事が加わるとされています。
 日本の場合、島国ということもありますが、大陸からさまざまな文化が伝来して中国の影響が強かったにもかかわらず、それに呑み込まれずに、日本の文化あるいは伝統としての和食が、中国のそれと並び称されることは素晴らしいことだと思います。

 日本食は三大健康食の一つだと、地中海式ダイエットの本家本元のイタリア人も認めているのには理由があります。米とパスタ、大豆とオリーヴの文化の違いはあっても、ともに植物性食品をベースにして、彩りゆたかな季節の野菜をとりいれ、元来、獣肉など動物性脂肪の摂取は少なく、魚介類をよく食べるなど、共通点が見出されるのです。私自身も伝統的な和食が好きです。私の下の娘はほとんど狂信的な和食党で、家で食事を作る妻は、献立を地中海風にするか和風にするかで、いつも悩んでいました。
 両者のもっとも異なる点は、西洋には古くからコース料理の伝統があり、肉や魚などメインディッシュの前に、前菜、パスタ(スープ)が出てくるというところです。この順番で食卓に料理が並べられるのは、私たちの食習慣には馴染まないような気もしますが、初めにパスタ、スープをとることで空腹感が満たされますし、時間をかけてゆっくり食事をすることで、せっかちな日本人に多い早食いの悪弊がなくなり、カロリーコントロールがつきやすいという利点もあります。

 私の提案は、毎日の食事の合間、たとえば休日などに地中海式食事法を取り入れてみてはどうか、ということです。比較文化論ではありませんが、そうすることで日本の伝統的食文化の素晴らしさを再認識することにもなるでしょう。さらに自身のストレス耐性をよりアップさせるために、和食と地中海食のいずれも楽しめるということになれば、それこそ鬼に金棒、美味しいものを食べながら、酸化ストレスを抑制し、癌を初めとして病気の予防が可能になるというのなら、こんな美味しい話はないのではないでしょうか。

古都の寺の中庭
(図25) 古都の寺の中庭。色彩の豊潤さという点では、日本は地中海の風物と比較することはできない。しかし景色全体のなかで、はっとするような色調の鮮やかさ、印象深さに出会うことがあり、それが伝統的な和食の中にも現れているような気がする
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 古くから和食は、「主食・一汁二菜」と言われ、主食のご飯に滋養のある汁物、それに主菜と副菜の献立です。主菜と副菜は、中国最古の医学書、黄帝内経素問にもある陰陽五行説にある陰と陽の組み合わせを基本に、旬を食べることにより、季節病を克服してきたとあります。わずか四皿なので、小さなお膳に収まってしまいます。それは日本には中国や地中海地方に見られる大遺跡はないが、京や奈良の古寺を訪れて、よく手入れされた庭をながめるといった心境と同じで、それで世界が満ち足りるのです(図25)
 日本における地中海式ダイエットの第一人者である横山淳一氏の著書によれば、和食は典型的な低脂肪食で、心臓病やガンの予防には役立ってきたものの、現代ではタンパク分の不足が指摘され、脳出血などの予防には不利な一面があることが指摘されています。

 中国では古来、病気にならないための食養という思想があり、古代中国でも食事指導をして病気になる前に直す医者が食医と呼ばれ、もっとも尊敬されていました。この伝統は脈々と引き継がれ、料理人の心得るべきことは、単に美味しい料理を作るだけでなく、その日の主人の健康状態を観察し、その体調に合った漢方薬を料理の中に忍ばせておくことであったとも言われています。中国は食材の宝庫ですが、こうした薬食同源の料理の伝統が、最近はやりの薬膳レストランなどにも現れているのだと思われます。

参考文献

  1. D. Giugliano, The Way They Ate, origins of the Mediterranean diet. Idelson-Gnocchi 2001
  2. JC. Waterlow, Diet of the classical period of Greece and Rome.
    Eur J Clin Nutr 43 Suppl 2:3-12.1989
  3. VS. Hatzivassiliou, The Asklepieion of Kos. A universal heritage monument. Chania 1997
  4. 小川鼎三 『医学の歴史』 中公新書 1964年
  5. 鶴見俊輔 『神話的時間』 熊本子どもの本の研究会 1995年
  6. 陣内秀信 『南イタリアへ』 講談社現代新書 1999年
  7. 澤田祐介 『面白医話Ⅲ ローマ社会医療文化誌紀行』 荘道社、2002年
  8. 横山淳一 「地中海式食事法がどうして日本で勧められるのか」 『食と健康Ⅲ 地中海式食事と健康』 学会センター関西 2001年
  9. 佐々木巌 『サレルノ養生訓 地中海式ダイエットの法則』 柴田書店 2001年
  10. 佐々木巌 『ドクターイワオの地中海式ダイエットへようこそ』 http://www.h6.dion.ne.jp/~med.diet/
本稿「癒しの空間としての地中海世界」は、2004年度・地中海学会大会で発表された「温泉・テルメ・ハンマーム いやしの空間」を、図版ともども部分的に改稿、加筆したものです。

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