第二部
ホームレスの生活
私がオランダに来た一九六五年のロッテルダムは戦後二十年しか経ていず、各所に戦争の爪あとが残る建物や空き地が散在していた。世界第一の港として、一大発展の途上にあった町は活気に溢れていたが、現在の状況から見ればまだ犯罪も少なく、のどかで健全で安全な港湾都市だった。
ニッピーは私がオランダに来たこの年、港湾都市ロッテルダムでホームレスとしての人生をスタートした。この町でニッピーは沢山のホームレスたちに出会った。不良少年、泥棒、娼婦、アル中患者、ドラッグ患者、チンピラギャングたち、そうした人生の吹き溜まりにたむろしている犯罪常習犯や予備軍の集団である彼らともすぐに親しくなった。彼らの生きる知恵をニッピーも学んで、スリやこそ泥、置き引きなどの小犯罪の手法を身につけていった。住宅の玄関先に配達された牛乳やヨーグルトのビンを失敬したり、その日の食料を無料で入手するくらいは簡単なことだった。夜になると暖かい日は公園のベンチで、肌寒い日や雨の日には中央駅のベンチや軒下で眠った。駐車しているトラックの下で寝ることもあった。雨露さえ凌げれば、まだ季節は十分暖かかった。その気になりさえすれば、意外と食物にも寝場所にも困らないものだ。あの衝撃的な実母との出会い以来、ニッピーは大学進学の夢どころか高校もやめ、家族との連絡も一切断ち切ってしまった。誰にも会いたくなかったし、余り深く物事を考えたくもなかった。
数ヶ月がたち、枯葉が秋風に舞い始めた。オランダの冬特有のシベリアの寒気を伴った北風が吹き荒れ、陰鬱な曇り空から霙まじりの雨が叩きつけるころになると、さすがに寝る場所に困るようになった。知り合いのチンピラギャングの誘いで、ニッピーはロッテルダムから百数十キロほど東南のデン・ボッスの町に移動した。そこに行けばいつでも寝泊りができるギャングのボスの家があるという。
ニッピーはここで一年間ギャングたちや娼婦たちと起居を共にしたお陰で、一九六五年から翌年にかけての冬を何とか屋根の下で凌ぐことができた。ここには四六時中いかがわしい連中が出入りし、娼婦やギャングや得体の知れない輩が集まっては、乱痴気パーティーを繰り広げていた。
独房の中での目覚め
一年があっという間に過ぎ、一九六六年の晩秋が廻ってきた。やがて暗く寒い冬が再びオランダに訪れようとするころ、突然この家に大勢の警官が踏み込んできた。うまく逃げ出した仲間もいたが、大部分のギャングたちや娼婦たちと一緒に、ニッピーもその場で逮捕され警察に連行された。ニッピーがこの家に来る前にギャングたちが犯した強盗事件が発覚して踏み込まれたのだ。ニッピーはまったく無関係だったが、取調べ室で彼はその事件は全て自分が計画して実行したのだと、一切の責任を自分が負う嘘の自白をした。自分を受け入れてくれたギャングたちをかばいたいと思ったのも事実だが、調べればすぐ判るようなこんな嘘を警察が信じることはないだろうという気持ちと、ギャングの仲間たちが「ニッピーは何も知らない、潔白だ」と証言して助けてくれるに違いないという確信があった。ところがギャングの仲間たちはニッピーをかばうどころか彼の自白をいいことに全ての罪を彼に着せ、自分たちの潔白を証言して釈放されてしまったのだ。ニッピーがいまさらあの自白は嘘だったと言っても、警官も検察官も誰も信じてはくれなかった。検察側にとってはニッピーの自白だけで証拠は十分だった。まるで中世の暗黒裁判さながらに、弁護士もなしにニッピーはそのままデン・ボッスの刑務所送りになってしまった。
ニッピーが入れられたのは独房だった。訪ねて来る人もなく、看守や囚人以外とは口をきく機会もない毎日だ。一日がいつもの何倍もの長さに感じられた。ニッピーはひたすら読書にふけり瞑想にふけった。本は実に多くのことをニッピーに教えてくれた。一九六七年、二月二十七日、ニッピーは虚しく独房で二十一歳の誕生日を迎えた。春が近づいて来ていた。
ある時ニッピーは、自分の体内に流れる不思議なリズムに気づいた。子どものころからリズム感がよく、音楽が非常に好きだった。しかし、今体内に流れるのは、音楽というよりは体の奥から聞こえてくるある振動、鼓動のようなリズムだった。それは不思議な感触だったが、確かに何かが自分の中で鳴っているのが聞こえてくる……。思えばいろいろあった。日本軍人の子として生を受け、4歳で拉致されてオランダに移住した。望みもしない養父母との複雑な関係の中で実父母を知ることもなく成長した。そして十九歳になって突然実母と名乗る女と再会した。あまりのショックと無力感で家出して家族との縁を切り、ホームレスとなって放浪した。行き着いた果てはギャング集団だった。自分は無実の罪で独房に繋がれるこのままの身で人生を果てていくのか、一体これからどうやって生きていくのか?
しかし、何をしたいのか分からなかった時にも、自分は結局はどん底まで落ち切ることはできなかった。何故なのか。その時ニッピーは、自分が今まで何者かの目に見えない手によって守られてきたことを痛感した。それが何者かは分からなかったが、それを思うとあの体内の鼓動がよみがえり、ニッピーに不思議な力を与えてくれた。この時初めて、ニッピーは自分の行くべき道を自覚した。
ニッピーが半年の受刑期間を終えて刑務所に別れを告げたのは、オランダが長い冬から生き返って、生命力をふき返した一九六七年の晩春の日のことだった。
躍動
ニッピーは手持ちの三十ギルダーでまずボンゴを買い求めた。服役中に体内で感じたリズムを、実際に音にして表現してみたかった。それからのニッピーは、熱心にレコードを聴いたり生演奏を聴いたりしながら、独学でボンゴをマスターした。ある時期から、ニッピーはアムステルダムの学生クラブに依頼されて、そこで毎晩ボンゴを叩くようになった。毎晩五ギルダーの収入があったが、これは当時としてはかなり高収入で、ニッピーの生活は十分に成り立った。六九年くらいまでの三年間は、クラブやコンサート、ジャムセッション(即興のジャズ演奏会)などで盛んに演奏し、生活費を稼いだ。演奏家になってすぐの一九六七年に、あるパーティーでニッピーはシャナという女性にめぐり合った。彼女とは数ヵ月交際した後、九月に結婚した。シャナは四人の子どもを生み育てた後でニッピーからコンガを習い、八○年以降はプロの演奏家になったほどの音感と腕前の持ち主だった。
アムステルダムの国立博物館に近い大通りの横に、運河と市電に挟まれて、ぽつんと一軒だけ取り残されたように建っている家があった。家はかなり大きかったが、特に変哲のない築百年ほどのレンガ造りの民家だ。一九六〇年代半ば、その家の外壁がショッキング・ピンクや紫、赤や青のサイケデリックな色彩に塗りたくられ、当時の市民たちの度肝を抜いたものだ。そこが新しくオープンしたパラディソ(天国)と呼ばれるポップ・ミュージックの殿堂で、以後パラディソはオランダのポップの発信地的存在となった。
六九年に、ニッピーはこのパラディソにコンサートを聴きに行き、そこで初めて、ボンゴだけでは飽き足らない自分が追い求めていたサウンドに巡り合った。それは刑務所の独房で、ニッピーの体の中を駆け巡っていたまさにあの音だった。それはコンガのビートだったのだ。当時コンガを演奏するポップ・ミュージシャンはオランダには誰もいなかった。ニッピーはスティーヴ・ボストン(Steve Boston)にコンガの最初の指導を受けたが、肝心のコンガを入手することができない。それでシュリナム(南米にある旧オランダ領)人のヘンク・ファン・レーウワルデンに頼んで、コンガを制作してもらった。
一九七〇年、キュラサオ(南米にあるオランダ領の島)から来たポップのバンド、エヴィル(Evil)が、パラディソで演奏するに当たってコンガの共演者を探しているという情報に接したニッピーは、早速に応募してその場で採用された。ポップの殿堂・パラディソで演奏するということは、当時のポップ・ミュージシャンたちにとっては夢だった。この共演でニッピーの名前は知れ渡り、大きな成功への第一歩を踏みだしたのだ(図22,23)。
世界のニッピーへ
七三年に、ニッピーはアメリカ人サクソフォニストのローザ・キング(Rosa King)の誘いで、一緒にオランダ国内、ベルギー各地でのジャズ・クラブやジャズ・フェスティヴァルなどで盛んに共演した。そして彼女の紹介でアムステルダムにジャズダンス・スクールを開いていた有名なジャズ・ダンサー、ヘレン・ルクレルク(Helen leclerque)に出会った。ヘレンはニッピーに自分のダンス・スクールで、ダンサーたちのウオーミングアップのための前奏としてコンガでの演奏を依頼してきた。ヘレンのところで演奏することは非常に名誉なことで、服役中からのニッピーの一つの夢だったのだ。
六○年代から七○年代にかけては、ポップ・ミュージックが世界を制覇した時代と言える。当時最もポピュラーで誰もが知っていた世界の三大バンドは、“ビートルズ”、“ローリングストーン”、“エリック・バードンとアニマルズ”だった。ニッピーはエリックとも、また彼のバンドともレギュラーに共演して世界を回っている。
七四年、二十八歳の時にニッピーは創立メンバーの一人として、ジョニー・マヌフツ(Johnny Manufutu)が率いるMASSADAのバンドに参加した。創立時のメンバー七名は全員インドネシア出身者だった。冒頭で書いたアルフェンの熱狂的なハード・ロック・コンサートはこのマッサダの公演だ。バンド結成後三十年の現在、残っている最初からのメンバーはヴォーカルとMCのジョニー、エレキのルディー、それにボンゴとコンガのニッピーだけで、あとは二世ミュージシャンに入れ替わって、全部で八名のミュージシャンで編成されている。ポップの大流行に乗ってマッサダは引く手あまた、ニッピーの知名度も増大していった。オランダ国内のほかにベルギー、フランス、ドイツ、ポーランド、クロアチア、ハンガリー、ロシアなどの演奏会を駆け回り、各地でポップ・ミュージックの指導まで依頼されるようになった。七九年にはドイツのメガ・ロックスター、ウド・リンデンベルヒ(Udo Lindenbergh)のゲストとして出演している(図24,25)。
ニッピーがヨーロッパを舞台に華々しく活躍していたこの一九七七年、日本で父フサオが六十二歳の若さで病没していたが、この時のニッピーは知るよしもなかった。
八一年にはエリック・バードンと一緒にヨーロッパ各地を公演し、八三年には“エリック・バードンとアニマルズ”と一緒に日本公演に招かれている。東京、横浜、名古屋、大阪で公演したが、どこでも大好評だった。しかし聴衆は“エリック・バードンとアニマルズ”を聞きに来たのであって、日本ではニッピーの名前はヨーロッパほど知られていたわけではなかった。 演奏会から開放された一日、ニッピーは東京から新幹線に乗り広島に行った。ここで平和祈念塔と原爆資料館を訪れて、七万人の犠牲者に心からの哀悼と祈りを捧げた。この時点ではニッピーは、広島に異母弟がいることをつゆほども知らなかった。この時、ニッピーの実父が日本人だと聞いたエリックの顧問弁護士が、ニッピーの父親探しを自分がやってみようかと申し出てきたので、ニッピーは快諾した。しかしその後彼からは何の連絡もなかった。
キューバ
一九八六年、四十歳を迎えたニッピーは、オランダ文部省からの奨学金を得てキューバに行った。本場のコンガの演奏を知りたかったのと、自分の演奏が正しいかどうかを本場で確かめたかったのだ。コンガはもともとがアフリカ原産のトムトムと同種の胴体の長い太鼓だが、南米に渡りサルサ(Salsa=いわゆるラテン音楽の総称で、外国人がラテン音楽という意味で使うが、キューバ国内ではソン=Sonと言う)には欠かせない楽器コンガとなって普及した。
共産圏のキューバには、僅か二週間しか滞在できなかったが、有名なコンガのプレイヤー、マエストロ・シニョーレ・マリオ・ヨルギー(Mario Jauregui)に師事した。師(マエストロ)のマリオはニッピーの演奏を絶賛し、まるでキューバ人の演奏そのものだと太鼓判を押してくれた。独裁者を戴く共産圏のキューバは貧富の差が激しく、市井の人たちは貧しかった。それなのに人々は陽気で貧しさなど意に介さず、数人が集まれば路上でもどこでも構わず歌いだし、踊りだした。生活は家の中ではなく外で営まれ、人々の生活形態や交流の仕方が、自由で型に囚われずオランダとは全く違う。当時のニッピーは長髪でインディオ系の顔つきだったから、よくインディオに間違えられた。この研修旅行でニッピーはすっかりキューバに魅せられ、叶うことならキューバに住んでみたいと思ったほどだった。
キューバから帰った三年後の一九九〇年、ニッピーに朗報が届いた。キューバのマエストロ・シニョーレ・マリオ・ヨルギーより、ニッピーが“ハバナ・パーカッション・ソサイエティー(ハバナ打楽器協会)”のメンバーに認定されたというニュースで、それは瞬く間にオランダのポップ界に知れ渡った。これは世界最高水準のパーカッショニスト(打楽器奏者)としてのお墨付きを貰ったも同然の名誉だった。
最初の一歩
一九九三年のある時、ニッピーはインドネシア人の友人から、PELITAという機構があって、そこに行くとインドネシアから戦後オランダに戻ってきた蘭印人たちに対して、戦争犠牲者として相当額の補償金が支給されるので行ってみるようにというアドバイスを受けた。現に友人はその補償金を支給されたという。それでPELITAの事務所に出かけて行って聞くと、ニッピーの場合もその対象になるということがわかった。PELITAは、旧蘭印から本国オランダに引き上げてきた蘭印人たちを支援するために設立された機関で、その補償金はオランダ政府から支給されている。こうしたことを知らされたニッピーは、かつてオランダの敵だった日本軍人の息子としての自分が、オランダ政府から支給される補償金を貰うことは、オランダに全面降伏するような気がして、大きな矛盾と抵抗を覚えて支給を断ることにした。また、ニッピーはそれを受け取らないという行為をもって、第二次世界大戦の犠牲となった、全てのインドネシア人への敬意と同情の意思表示をしたいと考えたのだ。すると、PELITAの職員は、「JIN」という、ニッピーと同じように蘭印系の母親と日本人の父親を持つ混血の二世たちが作る会の存在を教えてくれた。それがヒデコ・ヒースケとの出会いだった。ニッピーはその会と接触して、オランダには自分と同じような多くの日系二世たちがいて、父親を探しているということを初めて知った。ヒデコはニッピーがその気になれば、赤十字や日本の旧軍人会のボランティアを通して、父を探すことができるかも知れないとアドバイスしてくれた。
アムステルダムのジャズ・バーで
一九九四年のある日、ニッピーはアムステルダムのジャズ・バーで演奏していた。舞台の上から、聴衆の中にまだ若い日本人のカップルがいることに気づいた。休憩時間にニッピーは彼らのところに行って、自分の父親が日本人だと話しかけてみた。驚いている二人に生まれてからのいきさつをかいつまんで話すと、二人はもっと驚いた様子だった。二人とも日本のオーケストラのメンバーだということだったが、マサコと名乗った妻の方が、ニッピーの話を熱心に聞いて細かいメモを取って帰った。こんなことがあって、翌年JINの会合に初めてニッピーは出席し、ヒデコのアドバイスを受けながらハーグの日本大使館宛に父親探しの調査を依頼することにした。
ジャズ・バーでの出会いを忘れかけていた約一ヵ月後のこと、ニッピー宛に長いファックスが送られてきた。それはマサコが日本に帰国して調べた、ニッピーの父親に関する詳しい調査結果だった。ニッピーの父は、すでに一九七七年に六十二歳で物故していること、異母兄弟が熊本と広島にいること、そして彼らの住所や電話番号が書かれていた。父が死亡していたことはショッキングなニュースだったが、ニッピーは異母兄弟がいることを知って嬉しかった。とにかく電話で話してみたいと思って二度ほど日本に電話をかけてみた。最初は英語で、二度目にはインドネシア語で話してみたがどちらとも通じず、日本の家族との電話交信ができないことがわかってがっかりした。
この同じ年一九九四年から九五、九六年と三年間連続で、ニッピーは日本の有名なキーボードのメーカーK社に招待されている。同社が開発制作しているキーボードを、演奏家の立場から協力して欲しいという要請があったのだ。その間何度か日本を訪問したにもかかわらず、ニッピーは前回の電話の経験から日本の家族と直接連絡をとることを諦めかけていた。
翌年、ヒデコからの情報で、旧日本軍軍人で大阪在住の内山氏が、カトリックのフランシスコ会のサレミンク神父と一緒に、ニッピーの異母兄弟に連絡を取ってくれたことを知った。熊本と広島にいる異母兄弟たちも、オランダに母親違いの兄弟がいることに驚き、よく考えた上で会うかどうかを返答したいと、内山氏たちに慎重に伝えてきた。しかし、ニッピーの希望が実父のことを知りたいだけだということを知った家族は、できるなら父のインドネシア時代のガールフレンドだったニッピーの母親と一緒に会いたい、と伝えてきた。
母と日本へ
一九九六年九月七日、ニッピーは当時七十一歳になっていた母のジョゼフィーンと一緒に日本に旅立った。母とは十九歳の時出会ってショックのあまり縁を絶っていたが、その後実務的なことで連絡をとる必要に駆られて以来、時々会うようになっていた。会って話してみると、養母から植え付けられてきた悪い女、子育て能力のない女という実母のイメージとは全く違って、実母のジョゼフィーンは優しく細やかな気配りのできる素晴らしい女性だった。母自身もニッピーの拉致事件のいきさつについては不明のままだったが、母がオランダに来て以来、ニッピーを探し続けたこともわかった。それでも長年離れ離れだった親子にとっては、すぐに普通の親子のように打ち解けるには時間が必要だった。
この時の訪問は、日本のテレビ局と、ある篤志家の招待だった。まず京都に行き、そこでしばらく滞在した。サレミンク神父や内山氏に会い、いろいろと日本での習慣やマナーを教えられた。この日本での二週間は、四歳で生き別れた母と息子が初めて一緒に暮らした貴重な旅だった。
到着した翌朝、母が眠っているニッピーの部屋のドアーを何度も叩いた。普段のニッピーは職業がら朝が遅いし、この時は日本到着までの緊張や時差で疲れていた。いくら母親でも朝の七時のノックには多少腹がたった。不機嫌に起き上がってドアーを開けると、朝食の盆を持った母が部屋に入ってきた。ニッピーはこの些細な出来事に初めはうろたえ、それからじわじわと心が喜びに満たされてくるのが分かった。こうした愛情を自分は今まで母からも誰からも受けることなく育った。そうだ、この人こそ自分の母なのだ、今自分は実母と一緒に実父の国にいるんだ、とニッピーは実感した。この出来事があってから、何となく他人行儀だった母と息子の関係は、本当の親子の自然さを取り戻せるようになった(図26)。
それから二人は京都から熊本に旅立った。九州の異母兄弟たちの家に行くまでの車窓の景色は、まるでインドネシアの田園風景にそっくりだった(ニッピーがインドネシアを訪ねたのは、ミュージシャンになってからのことだが)。異母兄ヒロハルは熊本でタクシー会社を経営していた。もう一人の弟ヒロユキは父の後を継いでスーパーマーケットを経営していた。二人とも裕福に暮している様子で、ニッピーたちを大いに歓迎してくれた。二人の異母兄弟の夫婦、姪や甥、その子どもたちまでが、玄関に総出で出迎えてくれた。
夜になると大勢の家族全員で高級レストランに食事に行った。日本の兄弟たちは、互いにその存在も知らないで育ったオランダの母違いの兄弟に会えたことを喜び、また父の昔のガールフレンドだったジョゼフィーンに会えたことも喜んでくれた。父の日本人の妻、彼らの母親は一九九五年にすでに他界していた。甥や姪たちやその子どもたちがジョゼフィーンを「ママ」と呼んでくれたことも嬉しいことだったが、特に母はこの会の花で中心だった。もっと不思議なことに、五十年以上も使わなかった日本語を、母は突如思い出したのだ。彼女の日本語のおかげで雰囲気はさらに親密で和やかなものとなった。
異母兄から聞いた話では、父のフサオは原爆投下で荒れ果てた敗戦国日本に戻ってきた後、新たな生きる方策を考えねばならなかった。父は山村に自転車で野菜を買いに行き、それを漁村に持って行って魚介類と交換した。それを今度は米と交換したりして、何とか生計を立てたという。やがて小さな食料品店を開き、その後それを発展させて、三男のヒロユキと一緒にスーパーマーケットを開店した。「おしん」によく似た話だが、日本の津々浦々で、人々が戦後を生きる姿には共通したものがあったのだろう。
父の墓参
翌日、熊本市近郊の御船というところに残っている父の生家を訪ねた。母は、はしゃいで幸せそうだった昨日とは打って変わって寂しげに見えた。そして黙々と、フサオの生家の周りに転がっている小石を幾つも拾い集めていた。
父の墓は、家の前を通り過ぎていった丘の上の竹やぶの中にあった。母は墓前に手を合わせて肩を震わせて泣いた。五十年前、戦争によって出会い、戦争によって引き裂かれたフサオとの思い出が、ジョゼフィーンの胸を去来していたのだろう。ニッピーもついに生きて会うことがなかった父の墓前に手を合わせた。二十一歳を迎えたデン・ボッスの刑務所の独房でニッピーを捕らえた、「誰かに見守られている」という感触を再びニッピーは感じた。そうだ、父だったのだ、いつも危機から自分を救い、自分を導いてくれたのは。ニッピーは心の奥底から父への敬慕と愛情が沸き起こるのを覚えた。今ここにこうしてあなたの前に僕は立っている。生まれた時からずっと今までの人生をいつも見守ってくれたことへの感謝が、思わずありがとうという言葉になってほとばしった。そして父は僕のDNAに、人生で最大の贈り物を残してくれた。日本に来なければこのことを知らないまま、僕は人生を終えたかも知れない。
昨夜、ニッピーは異母兄のヒロハルから、父が日曜日になるとお寺に行って座禅を組み、ふんどしと鉢巻だけの姿になって、直径二メートルもの大太鼓を叩いていたことを聞かされた。ニッピーにとってそれは衝撃的な話だった。デン・ボッスの刑務所で服役中、いつも体内に鳴っている音があった……。誰のアドバイスも受けることなく選んだボンゴやコンガ奏者への道。これこそが、父から貰い受けた最大の贈り物としてのDNAだったのだ。ニッピーは父の墓前で初めて、自分の人間として、ミュージシャンとしてのアイデンティティが完璧に証明されたのを感じたのだ。悲しいよりも満ち足りてくる幸福感を噛み締めていた。
この後で、もう一人の異母弟ダイカンを広島に訪ねた。広島でタンカーの造船所を経営しているダイカンも裕福な生活をしていて、ここでもニッピーとジョゼフィーンは大歓迎を受けた。ニッピーは自分が半分日本人であること、こんな素晴らしい家族を持っていたことを、心の底から感謝した。
旅の終わり
日本から帰国し、ニッピーはしばしば考える。もしあの時、一九九三年にPELITAで一時補償金の支給を受けていたら、JINとの巡り合いはなかっただろう。JINのヒデコと巡り合わなければ、こうして父の家族と会うことも、父の墓参をすることもできなかっただろう。そして、自分のボンゴやコンガへの情熱の根源をトレースすることはできなかったかも知れない。今にして思えば、全てが一本の目に見えない糸で繋がれ、どんな苦労も一つとして無意味なことはなかった。独房で感じた何かに見守られているという感触が、父の愛であったことをニッピーは今はっきりと理解することができた。それを探し、確認するための長い旅をしてきたような気がする。そしてニッピーは、いつかまた、たった一人で父の国を再訪したいと思っている。その時は列車とバスを乗り継ぎ、リュックサックを背に、気の向くままに父の国を一周したい。それがニッピーの夢だ。
ニッピーは「Moesson(ムッソン=モンスーンの意)」という旧蘭印人が読者層の雑誌のインタビューで、日本人を父に持つ日系二世たちへ贈る言葉として次のように語っている。
「そういう状況(日本人を父に生まれたこと)に置かれた人にとっては容易ではないということをぼくはよく知っています。でも現状を受け入れ、(父探しを)あまり期待しないようにすることです。そしてわが道を進むことです。自分自身で自分の生活はコントロールしなければなりません。状況はどうあがいても変わらないのですから。選択(日本人を父として生まれてしまったこと)の余地はないのです。」
沢山の日系二世たちが背負っている心の傷は余りにも深い。こう言い切れるニッピーは例外中の例外であり、最も恵まれた幸せな人間だろう。それはニッピーが、不幸を幸せに代える方法を音楽に見出せたからだと思う。そしてその才能が父譲りのものであることを発見したことによって、ニッピーは自分の出生を誰よりも肯定的に受け入れることができたように思う。多くの二世仲間が父親を知らないことで苦しみ、父親が日本人であることで過酷な人生を余儀なくされ、また父親探しの途上で悩み、探した後でさえ深い苦悩が残るケースが多い中で、ニッピーは全てをクリアーできた最高の例といえる。そしてニッピーにはどんな逆境にあっても、誰の面倒にもならず一人で自分の人生を切り開いてきたという誇りと自信がある。
ニッピーは一九九九年から現在までずっと、エンスヘデーのARTEZ音楽大学のジャズ・ポップ科の教授として、後進の指導をしている。音大でのポップ・ミュージック科という、非常に珍しく特殊な学科の受講希望者は多いが、クラスはだいたいいつも十名編成だ。きめ細かい指導をするため、それ以上の学生をニッピーは取らない。指導は週十二時間で、演奏との兼ね合いで日程と時間を決めている。彼の授業では、ボンゴ、コンガ、ドラムなどのポップ専用の打楽器を教えている。大学側は、ニッピーが音大で学んだ経験や学歴がないことなど全く問題にもしていない。このユニークな科で、本物のポップ・ミュージックの打楽器を指導できるのは、ニッピー以外にはいないからだ。
二〇〇〇年、五十四歳の時、ニッピーは三十五年間一緒だった妻のシャナと、四年越しの協議の末、正式に離婚した。ニッピーの指導を受け、八○年代から自身もポップ・ミュージシャンとして演奏会などで活躍し始めたシャナとは、ずっとすれ違いの生活が続いてきた。お互いにとって共同生活を続けるには限界が来ていた。今回の原稿のために、私が借用を希望した、父の墓参の写真や他の沢山の古い貴重な写真を、ニッピーは持っていないという。離婚の折に家に置いてきたままで、離婚以来妻が住むその家には足を踏み入れたことがない。 二人の娘たちはそれぞれ、ファッション・デザイナーとネイル・サロンの経営者になり、また二人の息子たちは、ドラマーとダンス・スクールの経営者として独立し成功を収めている。「わが道」を行くことを、ニッピーが子どもたちへの最大の贈り物としてアドバイスしてきた結果だろう。
わが生命=ハード・ロック
再び冒頭に書いた二〇〇七年一月十九日の、アルフェンのハード・ロックの夜に戻る。
ハード・ロックの演奏は夜中の十二時半過ぎまで続いた。MASSADAの演奏が終わると、嵐のような拍手と歓呼。私も相棒も、二時間以上も吸い込んでしまったマリファナの臭いで頭がクラクラして重く、体の動きも何となく鈍くなったように感じられる(因みにオランダでは、一人一回五グラムに限ってマリファナの購入が公認されている)。それなのに妙に神経だけが昂ぶっている。MASSADAは、鳴り止まないアンコールに応えて、もう一度猛烈にビートの効いた演奏を始めた。前の方にいたスタイルの良い若い女性五人が次々とステージに引っぱりあげられて、ジョニーと一緒に踊りだした(図28,29)。演奏とダンスが終わるとまたもや嵐のような拍手と歓呼。やがてメンバーが舞台から消えると演奏はディスクに切り替わり、巨大なスピーカーから音の洪水が溢れ始めた。これから朝の四時までダンス・パーティーが続くのだ。
私と連れは人垣を潜り抜けて楽屋に行った。ニッピーは大きなタオルで、坊主頭と体の汗を一生懸命拭いていた。我が家を訪ねてくれた時に撮影したCD-ROMを手渡し、今夜のコンサートが素晴らしかったことを伝えたが、自分の声もニッピーの声もよく聞こえない。完全に鼓膜がおかしくなっている。ニッピーが大声で、「耳栓を持ってくるように言えばよかったね。次回は耳栓を持っておいで」と言った(図30)。
帰りの道中で私と連れは大声で会話を交わしながら、コンサートに耳栓をしてくるように、とミュージシャンからリクエストされるのは初めてだね、と言って笑った。翌日から三日間、私たちの耳はあまり聞こえず、自分の声が頭の中でこだましていた。耳鼻科に行こうと言っているうちに治ったが、あそこにいた沢山のヤングたちは聴力障害を起こさないのだろうか?と他人ごとながら気になった。
ニッピーとはその後も何度となく親密なメールでの交信が続き、インタビューの不足を補うことができた。ニッピーのホーム・ページを見ると、ドイツを筆頭に、オランダやEU諸都市でのコンサートの予定がびっしりと書き込まれている。とにかく多忙なのだ。
ニッピーは若々しく元気で、とても四人の成人した子どもがいる六十歳の父親には見えない。ニッピーはこれからもますます世界のニッピーであり続けるだろう。ニッピーが、自分が半分は日本人であることを誇りに思っているように、私は世界のニッピーが日本人であることをやはり誇らしく嬉しく思う。ニッピーは自分のアイデンティティをどう思うかとの私の質問に対して、こう答えている。「インドネシアは自分の母国であり、日本は自分の父の国(祖国の意)であり、オランダは自分をミュージシャンに育てた音楽の国である」と。
ニッピーはミュージシャンとしてよりも、日系二世のオランダ人としての彼により焦点をあてた半生記に不満かも知れない。しかしこの背景なくして現在のニッピーは存在しえなかっただろうし、私はそこにハード・ロック(硬い岩)の生を、意志の力で貫いた人間ニッピー・ノーヤを見る。
これは第二次世界大戦の落とし子として生を受け、「小さな日本人=ニッピー」から「偉大なミュージシャン=ニッピー」へと脱皮し成長していった、ある一人の日系オランダ人の半生の軌跡である。
※ 提供者を明記していない写真は、すべて著者撮影です。