デューラーを育てた君主- ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公-
(図1-a)アルブレヒト・デューラー 『13歳の自画像』 銀筆素描 275×196mm ウィーン アルベルティーナ版画素描館
(図1-b)アルブレヒト・デューラー(父) 『自画像』、銀筆素描 284×212mm ウィーン アルベルティーナ版画素描館
(図2)デューラー 『ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公の肖像』 ベルリン国立美術館 1496年

 どんなに優れた潜在的な才能を有した若者であっても、その才能を慈しみ、長い目で育ててくれるような支援者がいなければ、なかなか世に出ることができないのが常ですが、デューラー(1471-1528年)の場合は、その点でまことに恵まれていたと言うほかはないでしょう。まず金細工師であった父親は、息子の才能に早くから気づいていました。そのおかげでデューラー13歳の折の自画像(図1-a)が残されています(1)。また父親(図1-b)は画家になりたいという息子の願いを受け入れ、家業を継がせることをあきらめ、近隣の画家ミヒャエル・ヴォルゲムートの工房へ修業に出してやりました。才能を見抜き、かつ理解のある父親に恵まれたデューラーは、同輩にやや遅れて画家としての修業を開始したため、当初は今で言うイジメにもあったようですが、ここでも師のヴォルゲムートに目をかけられ、優れた才能を開花させました(2)。その後遍歴修業を終え、1494年ニュルンベルクに戻り、父の金細工工房の片隅に独自の工房を構え、画家としてデビューしたデューラーには、まもなく幸運なことにドイツを代表する君主からの註文が舞い込みます。以後、この君主は画家として大成する途上のデューラーに、数多くの作品を註文するようになります。
 1496年4月、ザクセン選帝侯フリードリヒ三世(通称、賢明公、1463-1525年)が、神聖ローマ帝国の帝国議会へと向かう途上、ニュルンベルクに数日滞在しました。賢明公は、その名の通り、当時のドイツの君主の中では極めて高い教養を有すると同時に、敬虔な信仰心を保持する熱心な美術愛好家でした(3)。恐らくは当時のドイツを代表する学者で人文主義者であったコンラート・ツェルティスの仲立ちかと推測されますが、公はこの折8歳年下でまだ駆け出しの若き画家デューラーに肖像画(図2)を描かせています(4)。この肖像画の制作が、以後1525年に公が亡くなるまでの間、継続する二人の関係の端緒となりました。
 現在ベルリンに遺されているこの肖像画は、19世紀の修復のために大きな損傷を蒙っており、当初の様子はうかがえませんが、独立したばかりの若きデューラーの気概がうかがえる力作と言えるでしょう。面白いことにこの絵は板に油彩ではなく、布にテンペラで描かれている、いわゆるキャンバス画です。15世紀半ばあたりから16世紀にかけてネーデルラントを中心に、亜麻布にテンペラで描いた絵画はかなり流行していました(5)。こうしたキャンバス画は、タペストリーの安価な代替品として、専ら商人階級の註文主から好まれていました。何度も地塗りをしてから絵を描きはじめなければならない板絵に比べて、直接テンペラで描くことのできるキャンバス画は、はるかに容易に、かつ短い時間で制作することができることもあって、安価だったのです。
 しかし、フリードリヒ賢明公は財政豊かなザクセン選帝侯国の君主でしたので、安価であるがためにキャンバス画による肖像画をデューラーに註文したとは考えられません。おそらく最大の理由は、制作にかかる時間の短さにあったのでしょう。通常貴顕の肖像を描く場合は、画家はまずモデルを前にして大まかな素描を描きます。そしてその素描を基にして、肖像画を制作するわけですが、板に油彩で描くとすれば、完成までにかなりの時間がかかります。そのため旅先で肖像画を註文すると、完成作は後日註文主の許に搬送されなければならなかったのです。ひょっとすると賢明公は、ニュルンベルク滞在中にデューラーの肖像画を受け取りたかったのかもしれません。さらにまたキャンバス画であれば、巻いて運ぶこともできるため、輸送に手間がかかりません。このようにキャンバス画による肖像画という註文は、当初は賢明公側のプラクティカルな事情によるところが大きかったように思われます(6)

(図3-a)マイスター・ヤン(?) ドレスデン祭壇画中央画面 ドレスデン 国立絵画館
(図3-b)デューラー ドレスデン祭壇画両翼画(左『隠修士聖アントニウス』 右『聖セバスティアヌス』)

 もっとも賢明公は、この肖像画註文の直後に、さらにキャンバスによる祭壇画をデューラーに註文しています。恐らくこの肖像画の出来が公の好みに合致し、デューラーという駆け出しの画家が気に入ったのでしょうが、賢明公がキャンバスという支持体に描かれた絵画を好んでいたか、少なくとも興味を有していた可能性もうかがわれます。確かに、流麗な筆致による素描を得意としたデューラーの個性は、地塗りを重ねた上に入念・精緻な仕上げを必要とする板絵よりも、キャンバス画において、より明晰に現れやすいところがあり、そうしたところが公の興味を引いたのかもしれません。今日ドレスデンに残されている三連祭壇画については、中央画面の聖母子像(図3-a)に、両翼画(図3-b)に比べてこの当時のデューラーの特徴があまりうかがわれないとの指摘があります(7)。デューラーの絵画研究の泰斗アンツェレウスキーは、中央画面を賢明公の宮廷で活動していたネーデルラントの画家マイスター・ヤンの手になるものと考え、1495年に宮廷を離れたと思われるヤンに代わって、デューラーが両翼の制作にあたったと推測しています。(8)。確かに両翼の聖人像が緻密な観察に基づいた肖像的性格を濃厚に有しているのに比べると、中央画面の聖母子像はやや形式的で平板な印象を与えます。
 ところで、フリードリヒ賢明公はザクセン選帝侯の位を継いだ時点での自らの領土を、かつて質実剛健を誇り、アテナイとは対照的に美術が展開する余地の存在しなかった古代ギリシアの都市国家スパルタに喩え、華麗な装飾を施すことを自らの務めとみなしていました(9)。これはいわばほとんど何も無いまっさらな状態から、思うままに建築、美術、工芸等を註文することができるわけですから、財力にゆとりがあり、高度な美術趣味を有する君主にとっては、願ってもない状況とも言えるでしょう。ヴィッテンベルク、トルガウ、ロッハウ等をはじめとする居城の造営に際して、賢明公は各地に大量の絵画を発注しており、ニュルンベルクにも代理人としてハンス・ウムハウエンという人物を置いていました(10)。数多くの美術作品を必要としていた賢明公の眼鏡に、いち早く適ったデューラーには、このあと相次いでこのウムハウエンやその他の宮廷人を介しての賢明公からの依頼がもたらされることになります。

(図4)『マリアの悲しみ』祭壇画(復元図) 中央の『聖母』はミュンヘン アルテピナコテク その他の7面はドレスデン 国立絵画館)
(図5)デューラー 『ステュンパリアの怪鳥を退治するヘラクレス』 ニュルンベルク ゲルマン国立博物館

 現在、中央の聖母像がミュンヘンに、その他の七場面がドレスデンに残される、通称『マリアの悲しみ』祭壇画(図4)がそれです(11)。さらに同規模の『マリアの喜び』祭壇画も、デューラーによって描かれた可能性が指摘されています(12)。このような祭壇画をデューラーが実際に描いたことを示唆する具体的な証拠は乏しいのですが、仮にデューラーが制作したのが『マリアの悲しみ』祭壇画だけだったとしても、独立したばかりの画家にこれだけの大作を註文したことからも、賢明公のデューラーへの関心の高さがうかがわれます。ここに、デューラーの試行錯誤や実験を許容しつつ、その成長を見守ろうとする賢明公の、パトロンとしての理想的態度を見ることも可能ではないでしょうか。
 賢明公はまた1502年には、自らと同じフリードリヒという名前の少年をデューラー工房に弟子入りさせ、宮廷からデューラーにその経費を支払わせています(13)。わざわざ宮廷から若者を入門させるほどに、デューラーの画風が賢明公の好みに適っていたことがうかがわれます。またこの時期に賢明公からの註文により制作された作品に、『ステュンパリアの怪鳥を退治するヘラクレス』(図5)があります(14)。現在ニュルンベルクに遺されているこの絵は大きな損傷を蒙ってはいますが、デューラーによる古典古代の神話に題材を取った絵画は極めて珍しく、註文主の人文主義的教養の深さをうかがわせます。恐らくヴィッテンベルク城の寝室壁面に掛けられたものと思われ、アンドレアス・マインハルディによるヴィッテンベルク城内の記述にあるヘラクレスを主人公とする四枚の絵の一枚だろうと推測されています(15)。ひょっとすると残りの三枚もデューラーによりキャンバスに描かれていたのかもしれません。またこの絵で完全に側面から描かれているヘラクレスの顔が、デューラーの自画像ではないかという推測も夙になされていますが、もしそうだとすると、なおのこと賢明公のデューラーへの寵愛の強さを示すものであったことになるでしょう(16)。像主が歴史ないし物語上の偉人と重ねあわされる扮装肖像は、この当時決して珍しいものではありませんでした(17)が、制作者である画家が英雄と自らを重ね合わせた絵を好んで掛ける註文主がいたとしたら、それはよほどその画家が気に入っており、その画家の作品を所有することを誇りに思っていたとしか考えようがないのです。

(図6)デューラー 『三王礼拝』 フィレンツェ ウフィツィ美術館
(図7)デューラー 『薔薇冠の祝祭』 プラハ 国立美術館
(図8)デューラー 『一万人の殉教』 ウィーン 美術史美術館

 その後も賢明公は折々にデューラーに作品を註文したようです。現在フィレンツェのウフィツィ美術館が所蔵し、20世紀初頭の大美術史家ヴェルフリンが高く評価した『三王礼拝』(図6)もまた、賢明公の註文により制作された作品です(18)。この時期の作品の中でも群を抜いた完成度の高さを示すこの絵を制作した暫く後、1505年から07年にかけてデューラーはイタリアに旅行しました。デューラーにとって恐らく二度目となるこのイタリア滞在は、単なる修業のためではなく、アルプス以北の画家としての実力を試すものでもあったようです。ヴェネツィアにおいて『薔薇冠の祝祭』(プラハ、国立美術館)(図7)の成功により、イタリア人からも高く称賛されたデューラーは、意気洋々と帰国します(19)。帰国後最初に取り組んだ作品の一つが、賢明公のための『一万人の殉教』(図8)でした。
 いかにこの絵を丹精込めて制作したかは、彼がフランクフルトの商人ヤーコプ・ヘラーに宛てた書簡からもうかがえます(20)。デューラーはヘラーに宛てた1507年8月28日付けの書簡では、この絵が半分ほど出来ていると、1508年3月19日付けの書簡では14日以内に完成するだろうと述べ、賢明公からの報酬が280グルデンである旨記しています。この金額は当時にあっては破格なものと思われますが、にもかかわらずデューラーは、この絵の制作に専念しなければならなかったために、他の仕事が出来ずに経済的には実質的に損失を蒙ったことを訴え、またそのためにヘラーの祭壇画に着手するのが遅れているのだと弁解しています。実際デューラーは油彩板絵では、大変な時間をかけるのが常で、塗りを幾重にも重ねた丹念な制作を重んじており、ヘラーの祭壇画の完成も大幅に遅れることになります。丹念な制作の動機としては、耐久性の重視が挙げられます。デューラーは正しく保たれるならば500年後も鮮やかさを失わない板絵の制作を心掛けていたようで、これは自らの技量が後世に伝わることを強く望んでのことでした(21)。ヘラーへの書簡からは、註文主に対するタフ・ネゴシエーターとしてのデューラーが浮かび上がりますが、それと同時にデューラーがフリードリヒ賢明公の註文による作品を如何に重んじていたかも察することができます。

 ところで『一万人の殉教』とは、古代ローマ時代にキリスト教に帰依したローマ軍兵士たちが、ローマ皇帝の意を受けたスルタンによって虐殺されるという陰惨無比な情景を描いた作品です(22)。この絵は恐らく賢明公がヴィッテンベルクの大学教会内に収集していた聖遺物コレクションとの密接な関係を有していました。というのも1509年には5005点にも及んでいた賢明公の聖遺物コレクションの中に、「一万人の殉教者」たちの内の二人の遺体と、その他諸々の遺骨が含まれていたのです(23)。デューラーの絵は、これらの聖遺物を説明し、称揚するために描かれたものと思われます。当時の宗教画の多くは、その近くに実在する(と信じられた)聖遺物との関係を有していることが珍しくはありませんでした。聖遺物は画像によってその身元と謂われを人々に伝達することが可能となり、画像はその近くに聖遺物が存在することによって一層の臨場感を人々に与えることができたのです。デューラーのこの絵も、間近に画中で悲惨な殉教を遂げた人々の遺体や遺骨が存在することにより、今日の我々にはうかがい知れない迫力を、見る者に与え得たのでしょう。

(図9)『一万人の殉教』中央部分
(図10)ヘラー祭壇画中央画面のコピー
(図11)デューラー 『三位一体の礼拝』(ランダウアー祭壇画) ウィーン 美術史美術館

 ところが、陰惨無比な情景の中心に、少し雰囲気を異にした二人の人物(図9]が立っています。左側の男性は大量虐殺を目にして、辛そうな表情をしていますが、右側の人物は我関せずといった風に、我々に視線を送っています。手に持った枝の先の紙片から、この人物こそこの絵を描いたデューラー本人であることがわかります。デューラーは、これ以前の1506年にヴェネツィアで描いた『薔薇冠の祝祭』の中でも、画中に署名の入った紙片を持った自画像を描き込んではいますが、その場所は画面右後方の端でした。また後にヘラー祭壇画の中央画面『聖母被昇天』(図10)にも、またランダウアー祭壇画とも呼ばれる『三位一体の礼拝』(図11]にも画中に自画像が描かれるものの、その場所は全体の構図からみると周縁と言って良い位置でした(24)。ところが『一万人の殉教』では、まさに場面の中央に自画像が描きこまれています。物語場面に描きこまれる自画像は専ら「脇役としての自画像」と呼ばれますが、これは「主役としての自画像」とでも呼ぶ他ありません。なぜこのようなことが認められたのでしょうか?
 賢明公が画家としてのデューラーを極めて高く評価していたからとしか言いようがありません。もし註文主にとって不遜極まりない行為と受け取られたならば、このような作品は受取りが拒否され、廃棄されてしまっていたでしょう。今日に遺されているということは、とりもなおさず註文主がこれを受け入れた、いやむしろ歓迎したということを示唆しています。この絵が、自らの所有する聖遺物を説明するための宗教画であるだけではなく、ドイツを代表する画家としての地位を確立しつつあったデューラーの手になる作品であることを、この上なく明瞭に示す仕掛けとして、画面中央に画家の自画像が描きこまれていることは、賢明公にとってむしろ望ましかったのかもしれません。公はこの絵を単なる宗教画ではなく、芸術作品とみなしていたのでしょう。デューラーが他の註文主を怒らせてまで、公のために丹念に時間を費やして制作したのも、公が当時のドイツにあっては随一の美術を理解しえた註文主であり、かついわば若きデューラーの発見者であったことを踏まえてのことでしょう。デューラーと賢明公は、美術への愛情と理解という点で、相互に肝胆相照らすような仲となっており、『一万人の殉教』は、公の美術愛好の念と画家への寛容さと、画家の時代を超えた大胆な実験精神を示すと同時に、この二人の美術をめぐる「同盟関係」を証しているようにも思われます。
 賢明公は当初からデューラーに対して、様々な実験を試みさせてきた相当に懐の深い註文主と言えるでしょう。デューラーが初期に描いたキャンバス画の多くは公の註文によるものでした。肖像画については迅速な制作というプラクティカルな要請が背景にあったのでしょうが、聖人像や神話画については、むしろ公がデューラーの強みが素描的表現にあることを見抜いていたからかもしれません。
 『一万人の殉教』以降、デューラーによる賢明公のための作品制作はしばらく途絶えます。これは一つには1503年以来、賢明公の宮廷画家に就任したルーカス・クラーナハが、当代稀な大規模工房を主宰し、選帝侯国はもとより、他の諸君主のための板絵を旺盛に制作しはじめたことも一因かもしれません(25)が、デューラー自身が自らの使命をドイツにおける優れた画家の養成と考え、理論的著述に力点を置き始めたことにもよるでしょう(26)。しかしデューラーは、若いころから一貫して自らの創作をいろいろな形で支えてくれた賢明公への恩義を忘れることはなく、両者の親交は続きました。1520年にデューラーが賢明公の宰相を務めるゲオルク・シュパラーティンに宛てた書簡からは、公がデューラーにルターの著作を何冊か送付したことがわかります。デューラーは公にさらにルターの著作を送ってほしいと依頼すると共に、以前から公が彼に贈ると約束していた鹿の角を催促までしており、両者の親密な関係がうかがえます。

(図12)デューラー 銅版肖像画『アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク』(通称『小判枢機卿』)

デューラーはこの書簡と共に、枢機卿アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクの銅版肖像画(図12)を三枚同封しています(27)。アルブレヒトはホーエンツォレルン家出身の、当時のドイツで最高位にあった聖職者であり、ルターの最大の攻撃対象として知られますが、同時に美術作品や聖遺物のコレクターとして賢明公を手本ともライヴァルともした学芸の素養を誇る君主でした(28)。デューラーによるライヴァルの銅版肖像画を目の当たりにした賢明公は、自らの銅版肖像をデューラーに作らせようと決意したようです。
 1523年、ニュルンベルクを訪れた賢明公はデューラーに肖像素描(図13)を描かせています(29)。デューラーは、これを基に翌年賢明公の銅版肖像画(図14)を作り上げました(30)。古代ローマの墓碑にも似たこのタイプの銅版肖像画は、ピルクハイマー(図15)やエラスムス(図16)、メランヒトン(図17)、さらに再度アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(図18)のためにも制作されており、当時の人文主義的教養を有する知識人や貴顕にとっては、一つの流行をみていたものです(31)

(図13)肖像素描『フリードリヒ賢明公』 パリ エコール・デ・ボザール
(図14)デューラー 銅版肖像画『フリードリヒ賢明公』デューラー
(図15)デューラー 銅版肖像画『ピルクハイマー』
(図16)デューラー 銅版肖像画『エラスムス』
(図17)デューラー 銅版肖像画『メランヒトン』
(図18)デューラー 銅版肖像画『アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク』(通称『大判枢機卿』)

しかしこれらの中でも賢明公の銅版肖像画中の銘文は印象的なものと言えるでしょう。

彼はキリストに身を捧げ、大いなる敬虔の念をもって神の言葉を愛し、後世から尊敬されるに値する。ニュルンベルクのアルブレヒト・デューラーが、ザクセン公にして神聖ローマ帝国の大元帥、選帝侯フリードリヒを描いた。彼は生ける人のために、生ける人としての高徳を備えたこの人物を描いたのである。

 1525年に亡くなるフリードリヒにとって、この銅版画がデューラーの手による最後の作品となります。この銘文は、デューラー自身によるものではないかもしれませんが、終始デューラーの作画活動を懐深く支援し、見守ってくれた君主に対する画家の衷心からのオマージュのようにも読めます。フリードリヒ賢明公からの註文に対するデューラーの終始一貫した誠実無比な制作態度は、「士は己を知る者のために死す」という中国の文言を想起させるようにも思われます。500年後、すなわち今日の我々をも視野に入れて丹念な作品制作を旨としたデューラーは、賢明公の肖像や彼からの註文作品の多くを今日に伝え得たことにより、恩人たる賢明公に十分に報いたと言えるでしょう。

(1)Friedrich Winkler, Die Zeichnungen Albrecht Dürers, Berlin 1936, p.8 Nr.1. なお右上の書き込みは後年のデューラーによるものです:「これは私が鏡に向って私自身を、まだ私が子供のころ1484年に象ったものである Dz hab jch aws eim spigell nach mir selbs kunterfet jm 1484 jar do ich noch ein kind was.」(Hans Rupprich (Hg.), Albrecht Dürer. Schriftlicher Nachlass, Bd.1, p.205)。なお父デューラーによると思われる自画像(図1-b)も同じウィーンのアルベルティーナ版画素描館に遺されており、対として同時に描かれた可能性も指摘されていますが、またこれをデューラーによる父の肖像とする見方もあります(Winkler, op.cit., Nr.3)。
(2)「・・・私が上手に仕事[=金細工]ができるようになると、私の興味は金細工よりもむしろ絵画へと私を導いた。私はそのことを父に打ち明けた。しかし彼は余り喜びはしなかった。何故なら私が金細工修行に費した無駄な時間が彼を悔やませたからであった。」:「父は私をミヒァエル・ヴォルゲムートの許へ徒弟奉公に出し、三年間彼に仕える契約を結んだ。その間神は私に、よく学ぶよう勤勉を与えたもうた。しかし私は師の徒弟たちからの多くの苦痛を耐え忍ばなければならなかった。」(デューラー、「家譜」、『自伝と書簡』(前川誠郎訳)、岩波文庫、p.26)。
(3)フリードリヒ賢明公とその美術パトロネージについては、Ingetraut Ludolphy, Friedrich der Weise: Kurfürst von Sachsen 1463-1525, Göttingen 1984; Robert Bruck, Friedrich der Weise als Förderer der Kunst, Strassburg 1903; Maria Grossmann, Humanism in Wittenberg1485-1517, Nieuwkoop 1975; Carl C. Christiansen, Princes and Propaganda: Electoral Saxon Art of the Reformation, Kirksville 1992.; Paul M. Bacon, Mirror of a Christian Prince: Frederick the Wise and Art Patronage in Electoral Saxony, 1486-1525, Ann Arbor 2004等 を参照。なお邦語文献としては海津忠雄、『肖像画のイコノロジー』(多賀出版、1987年)の第三部「ドイツ美術と人文主義」が有益です。
(4)Fedja Anzelewsky, Albrecht Dürer: Das malerische Werk, Neuausgabe, Berlin 1991, p.131ff. Kat.Nr.19.
(5)Emil D. Bosshard, "Tüchleinmalerei: eine billige Ersatztechnik?", in: Zeitschrift für Kunstgeschichte, Bd.45 (1982), pp.31-42.
(6)Anzelewsky, op.cit., p.92.
(7)ドレスデン祭壇画の中央画面の帰属をめぐる議論についてはAnzelewsky, op.cit., p.26ff.を、両翼画の『隠修士聖アントニウス』と『聖セバスティアヌス』についてはop.cit., p.140f. Kat. Nr. 39-40を参照。アンツェレウスキーは中央画面を、賢明公の宮廷画家を1495年まで務めていた画家マイスター・ヤン(ヤン・ヨースト・ファン・カルカール)の作品とみなしています。確かに、1494年にヤンは5枚のキャンバス画を制作しており、その中に『我らが愛しき貴婦人(=聖母マリア)の絵』に対して14グルデン支払われたという記述が支払い記録にあります(Bruck, op.cit., p.292)。
(8)1495年にマイスター・ヤンが賢明公の宮廷を離れたために、未完のままとなった両翼画がデューラーに委ねられたのではないか、とアンツェレウスキーは(Anzelewsky, op.cit., p.140)推測しています。
(9)Ludolphy, op.cit., pp.40, 101.
(10)Bruck, op.cit., p.275ff.; Ludolphy, op.cit., pp.104, 286.
(11)Anzelewsky, op.cit., p.132ff. Kat.Nr.20-27.
(12)Anzelewsky, op.cit., p.137ff Kat. Nr. 28V - 32V; Andreas Tacke (Hg.), Cranach: Meisterwerke auf Vorrat: Die Erlanger Handzeichnungen der Universitätsbibliothek, München 1994, p.157ff.
(13)Bruck, op.cit., p.290.
(14)Anzelewsky, op.cit., p.171ff. Kat.Nr.67.
(15)G.Bauch,“Cranachforschung”, in: Repertorium für Kunstwissenschaft, 17 (1894), p.421ff.
(16)Anzelewsky, op.cit., p.173.
(17)扮装肖像についての包括的研究にはFriedrich B. Polleross, Das sakrale Identifikationsporträt: Ein höfischer Bildtypus vom 13. bis zum 20. Jahrhundert, Worms1988があります。
(18)Anzelewsky, op.cit., p.188f. Kat.Nr.82.
(19)Anzelewsky, op.cit., p.191ff. Kat.Nr.93.
(20)1507年8月28日付けの書簡には、半分以上出来ていること(前掲岩波文庫版、p.105)翌年3月19日付けの書簡には、14日以内に完成するだろうことと賢明公からの支払が280グルデンである旨が記されています(同書、p.108f.)。
(21)祭壇画の発送に際してヘラーに宛てた1509年8月26日付けの書簡中には「貴下がそれを綺麗に保存なさるなら、それは五百年間美しくまた瑞々しく保つことを確信しております。何故ならそれは普通どおりには作られていないからです。」とあります(前掲岩波文庫判、p.135)。
(22)Anzelewsky, op.cit., p.216ff. Kat. Nr.105.
(23)1509/10年にルーカス・クラーナハによる木版挿絵を付して刊行されたヴィッテンベルクの諸聖人教会の聖遺物目録、いわゆる『ヴィッテンベルク聖遺物書』では、第4セクションの第4番目に呈示される「沢山の大理石がちりばめられ、鍍金された大きな箱」の中に「一万人の騎士たちの内二人の完全な遺体」および「一万人の騎士たちの聖遺物23欠片」が納められています(Wittenberger Heiligthumsbuch, illustriert von Lucas Cranach d. Aelt., München 1884)。なお『ヴィッテンベルク聖遺物書』については、さしあたり拙著『聖遺物の心性史 西洋中世の聖性と造形』(講談社)の第6章をご覧いただければ幸いです。
(24)ヘラー祭壇画についてはAnzelewsky, op.cit., p.221ff. Kat. Nr. 106V-115K、ランダウアー祭壇画についてはop.cit., p.230ff. Kat. Nr. 118を参照。
(25)賢明公が最初に宮廷画家として採用したのはネーデルラント出身の画家マイスター・ヤンで、並行してクンツおよびルートヴィヒという名の画家に対する支払文書が残されています(Bruck, op.cit., )。その後フリードリヒという画家を経て、1503年にイタリア人画家ヤーコポ・デ・バルバリが宮廷画家として雇用されました。絵画は自由学芸に連なる高貴な学芸であると主張し、自らの学識を誇示するかのようなヤーコポによる賢明公宛ての自薦状(1500/01年頃)が功を奏したようです(拙稿、「学識ある画家ヤーコポ・デ・バルバリが与えた衝撃」、『旅を糧とする芸術家』(小佐野重利編著、三元社)、pp.87-120)。ルーカス・クラーナハはこのヤーコポの後を襲って、1505年から終生、宮廷画家を務めることになります。
(26) デューラーが壮大な絵画論を構想していたことは、その目次案や草稿等からうかがえます。一連の草稿を翻訳し、デューラーの絵画論をしのばせる労作が下村耕史氏により刊行されています(『デューラー「絵画論」註解』、中央公論美術出版社、2001年)。ちなみにこれに同氏による『「測定法教則」註解』(同社、2008年)、『「人体均衡論四書」註解』(同社、1995年)と前川誠郎氏による前掲岩波文庫および『ネーデルラント旅日記』(岩波文庫、2008年)とを合わせると、『築城論』を除くデューラーの著述のほとんどが既に日本語に翻訳されており、これは国際的にみても珍しいことと言えます。
(27)前掲前川訳(『自伝と書簡』)、p.174ff.
(28)美術パトロンとしてのアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクについては、さしあたり海津忠雄氏の前掲書、第4章「枢機卿アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク:そのドイツ美術史への貢献」(pp.203-220)、あるいは拙稿「「地獄の枢機卿」アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクによる美術振興:聖遺物崇敬と扮装肖像の文脈から」、『西洋美術研究』第12号(2006年)、pp.24-46をご覧ください。
(29)Winkler, op.cit., Bd.4, p.76 Nr.897.
(30)Reiner Schoch et al. (Hgs.), Albrecht Dürer. Das druckgraphische Werk, Bd.1, München et al. 2001, p.98f. Nr.98; Werner Hofmann (Hg.), Köpfe der Lutherzeit, München 1983, p.156f. Nr.63; Walter L. Strauss (ed.), The Intaglioprints of Albrecht Dürer, New York 1976, p.280 Cat.no.101; Christensen, op.cit, p.30ff.
(31)一連の銅版肖像画についてはマティアス・メンデによる簡潔なまとめがSchoch, op.cit., p.218ff.に収録されています。
SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次
  1. デューラーの《蝿》をめぐる謎 no.62(2003年4月発行)
  2. ドイツ美術はなぜ醜いか no.63 (2004年6月発行 web化第一号)
  3. デューラーの《二皇帝像》と聖なる見世物 no.65 (2006年6月発行)
  4. デューラーは、なぜ、マルガリーテ女公から絵画の寄贈を断られたのか?
    no.66 (2007年7月発行)
  5. デューラーがケルンで見た絵- ケルン市参事会礼拝堂とロッホナー作《三王祭壇画》をめぐって- no.67 (2008年9月発行)