フラメンコという深淵3――信仰と迷信


   聖金曜日

アーティチョーク
アーティチョーク
(図1:上)、(図2:下):アーティチョーク
スペイン語では一般的に「alcachlfas」だが、チピオナの辺りでは小さいものを「alcauciles」、大きめのものを「alcachofas」と習慣的に呼んでいる。
庭でくつろぐ二匹の飼い豚
(図3)庭でくつろぐ二匹の飼い豚

 その日はセマナ・サンタ(1)の聖金曜日だというのに、朝から珍しく晴れ渡っていた。
 外庭にしつらえた菜園で生のアーティチョーク(図1、2)を食べていると、マヌエル(2)が眉のあたりをしきりに掻きむしりだした。
「誰か来るから着替える」

 と黒く染まった口を開いていうなり、彼は家に引き返し、浴室にこもって手と顔を洗い、入念に身づくろいを始めた。
 私は、アンダルシア南西部の広大な平原に位置する我が家(3)の中庭で耳を澄ませた。ゆうべは聖金曜日で、町の人のほとんどがマリア様のパソ(山車)を朝4時まで見ていたためか、世界は静まり返っていた。唯一聴こえてくるのは、放し飼いにしている2匹の子豚(図3)天国の木(4)の根元に寝そべって呼吸をしている音だけだった。
 新しい白いシャツを身に着けたマヌエルは、中庭に水を撒き、鉄製のテーブルと椅子の位置を几帳面に整えはじめた。

 

 「こんな祝日の朝っぱらから、誰か来ると思うの?」
 「訪問があるときは、眉がかゆくなるからすぐわかるんだ」
 ごくあたりまえ、という感じで彼は答えた。彼らヒターノ(5)は独特の身体言語のようなものを持っていて、たとえば蝶は何かの知らせか手紙、眉がかゆいときは誰かの訪問、足の裏がむずむずするときは旅行に出る きざし 、手のひらがかゆいときは大金を得るか失うかのどちらか、などというふうにかなり具体的に意味づけている。単なる迷信とかたづけることもできるが、こういう一見根拠のないたわごとが、私たちの世界に彩りを与えているのも確かだった。

 文字を持つ以前の私たち日本人も、昔は日常的に身体言語を使っていたのかもしれない。文字が誕生する前に存在したはずの豊かな文化が、世界中からいくつ消え去ったことだろう。
 私は飼い豚に餌をやりはじめた。猫ほどの大きさだった豚たちは、日毎に体重を増していた。このままいくとあと2ヶ月で屠畜することになる。犬のようになついている豚を解体してその肉を食べなければならない自分の境遇を呪っているところで、
「ぽっぽー」
 というのどかなクラクションの音が聞こえてきた。この音はマヌエルの長兄、ゴルドの車だ。
 マヌエルがしたり顔でうなずいた。
「誰か来るって言っただろ」
 私はあいまいに微笑んで首を縦に振った。
 門前に停まったかなり年期の入った車から、小柄の男性が下りた。眉と額のあたりがマヌエルにそっくりだった。彼の本名はホアン(Juan)だが、幼少時代のあだ名ゴルド(太っちょ)がそのまま呼び名として残り、家族ばかりか、彼の住んでいるロタ(6)の町民全員が彼をゴルドと呼んでいた。
 バリ島のワヤン(7)ではないが、スペイン人の名前は日本ほどバリエーションがなく、ただ「ホアン」と呼んだだけでは、家族の5、6人が返事をすることになるため、各自を容易に識別するためにあだ名が好んで使われている。
 いつも微笑を絶やさないゴルドが、今日はなぜか沈んだ顔をしていた。
「アンヘルが来なかったか」
 と、彼は尋ねた。アンヘルはゴルドの10人の子どものうちの、下から2番目の息子だ。父親と同様にいつも微笑しているが、ほとんど口を開くことはなく、一日の大半を数百の十字架が描きまくられた自室で過ごしている。どうしてそんなにたくさんの十字架を部屋に描いたのか、と尋ねても、彼はいつも黙って微笑むだけなのだった。
「ミ・ニーニョ(僕の子ども)。3日前から家に戻ってこない」
 と、ゴルドはため息をついた。
「誰か悪い女性に捕まったのかも」
 というマヌエルを受けて、私が即座に
「タベルナ(居酒屋)にいるかもね」
 と言うと、ゴルドはむっとした顔をした。
 これは私たちのよく使う冗談の一種で、タラント(8)の歌詞のひとつにかけられている。
 私たち真のフラメンコを営むものにとっては、歌詞は単なる歌詞ではなく、生活の一部になっている。毎日起こることは歌詞で表現され、歌詞で表現されていることが毎日起こっている。日々感じることが歌詞として唄われ、唄われる歌詞を私たちは感じ、呼吸し、そして「生きている」のだった。

すかんぽ
(図4):すかんぽ。 根は白く、かじると酸っぱい。
アマポーラ
(図5)アマポーラ。 以前は麦畑をうめつくして真っ赤に染めていたアマポーラだが、農薬の多用に伴い、ほとんど姿をみることができなくなってきている。
ルリチシャ
(図6)ルリチシャ。スペイン語では「borraja(ボラッハ)」。スペイン北部では食用とされている。浄化作用がある他、美容サプリとして愛用されている。
家から高速道路を見た風景
(図7)家から高速道路を見た風景

まじない師(9)に見てもらいに行ったら、田舎の一軒家に住んでる親戚を尋ねれば行き先がわかるだろうって言われたから来てみたんだけど」
   ゴルドはまじめな顔で言った。
 変な現象が起こったのはこのときだった。話を聞いている私の全身に、鳥肌が立ちはじめたのだ。同時に、世界が急にはっきり見えるような感覚に襲われた。陽の光を受けて輝いている草原の緑、野生のすかんぽ(図4)やアマポーラ(図5)、ルリチシャ(図6)の一本一本が明瞭に見えはじめた。
 鳥肌は、やがて戦慄に変わり、ひざががくがくと震えだした。喉がぴったりとふさがり、声が出なかった。つづいて、家のすぐ脇を通っている高速道路(図7)の一点を、私の目が凝視した。そこには、自転車をこぎながらゆっくりと走ってくるひとりの青年が見えた。近眼の私にはこの距離から青年が誰かを識別するのは不可能なはずだったが、それでも、私にはその青年が誰なのか直感でわかった。--アンヘルだ。
 道路の方を金縛りになって見ている私に気がついたゴルドとマヌエルが、私の視線の行方をたどり、つづいて叫び声をあげた。
「あれじゃないか?」
「まさか!」
「アンヘール!」
 ようやく、ひざの震えと、髪の毛の逆立ちがすこしずつおさまりはじめた。
 当のアンヘルは、にこにこしながら古自転車をのんびりとこぎつづけ、呆けている私たちの家の門に到着した。
 ゴルドが目に涙を浮かべながら、
「まじない師の言うとおりここに来てよかった」
 と言った。
「いったいどこに行ってたんだ?」
 と叔父のマヌエルが尋ねると、アンヘルは
「べつに」
 と答え、静かに微笑した。
 すっかり安堵したゴルドは、アンヘルとアンヘルの乗ってきた自転車と数個のアーティチョークを車に積み込み、ロタへと走り去っていった。
 私とマヌエルは畑に戻り、アーティチョークの甘くて渋い生の葉を一枚一枚はがし、これを歯でしごいて食べた。黒く染まったお互いの口を見交わし、私たちは笑った。

adónde andára mi muchacho
hace tres días que no lo veo
adónde andára mi muchacho
estará en la taberna
o una mujer mala me lo ha entretenío

私の子どもはどこにいるのだろう
3日前から姿を見ていない
いったいどこをほっつき歩いているのだろう
タベルナにいるのかもしれない
それとも
悪い女性にひっかかっているのだろうか
<タラント>


   呪文

セマナ・サンタのマリア様の山車
(図8)セマナ・サンタの
マリア様の山車
マリア様の山車と花が満開のオレンジの木
(図9)マリア様の山車と
花が満開のオレンジの木
キリストの山車
(図10) キリストの山車

 ヒターノ民族は一般的に信仰心が篤く、同時に迷信深いと言われている。もともと宗教上はニュートラルな彼らだが、スペインのヒターノはカトリック国スペインに生まれ育った関係上、いちおうカトリック教徒の範疇に入っている。これに対して特に不満を表明するヒターノを私は今まで見たことがない。教会の前を通るときは、必ず十字を切って会釈をするヒターノは多いし、胸元にさげられている金や銀の大きな十字架は「ヒターノ的な」装飾とさえ見なされている。我が家にもマヌエルが制作したキリスト像があり、私たちは絶えず花や果物を捧げている。各地のセマナ・サンタ(図8)には「ヒターノのキリスト」(図9)と呼ばれるパソがあり、数あるパソの中でも特に人気がある。たいていは はりつけ にされた褐色のキリスト像(図10)に、この栄誉あるあだ名が冠されることになっている。
 南アメリカの一部で、キリスト教が地元の土着宗教や迷信と結びついて一体化しているのと同様に、スペインのヒターノもキリストやマリア様への信仰と、自分たちの古くから受け継いできた迷信とを巧みに混ぜ合わせて使っている。というより、「迷信」と「信仰」は彼らにとって同じ言葉なのだ。
 マヌエルの父アグヘタ・エル・ビエホ(10)も迷信深いことで有名だった。1973年、マドリッドでレコードを録音した際、ギャラをもらいに行く道で向こうから司祭が歩いてくるのを見たビエホは、「これはだめだ。今日はギャラがもらえない」とつぶやいた。午前中に司祭を見かけたり、その名前(クーラ Cura)を口にすると、その日は災いが起こる、という迷信が彼らにはあるのだが、スペイン広場にそびえたつピカソタワーの一角を占めるレコード会社のオフィスに到着すると、案の定、「突発事故が起こって今日は小切手が振り出せない」と言われたそうで、呆気にとられた次男のマヌエルを後に、「ほら、言っただろ」とビエホは納得して帰途に着いたという。

 過度の情報に晒されて鈍感になってしまい、何を聞いても驚かない私たち現代の日本人とは違い、彼らヒターノには非常に繊細な感受性がまだ残っている。私たちには特に呪文とも何とも思えない歌詞が、彼らには致命的な打撃を与えることが時としてある。
 ある日、マヌエルが、ふと、
「お父さんのCDをかけてくれ」
 と言った。ビエホは数枚の録音を残しているが、マヌエルはその唄を聴くことはほとんどない。写真も、目に付くところには置かれていない。30年以上前に亡くなった亡父の顔を見たり声を聞いたりすると、繊細な感受性に極度の負担がかかるためなのだが、その日、どうしてマヌエルが父親の声を聞きたいと思ったのかはわからない。
 アグヘタ・エル・ビエホの残した貴重な録音から、私はソレア(11)をかけた。録音は数十年前のライブで雑音がかなり気になったが、まるでビエホが、もうひとつの世界から語りかけてくるような妙なリアル感もあった。攻撃的なマヌエルとは一味違い、激しさを内面に抑制した端正なスタイルで、アグヘタ・エル・ビエホは唄っていた。

desde que murió mi mare
la camisita de mi cuerpo
no hay quien me la lave
母が亡くなってから
シャツを
洗ってくれる人がいない
<ソレア>
 

 この単純で切実な歌詞を聴いたとたん、マヌエルはみるみる蒼白になり、唄に答えるようにつぶやいた。
「おとうさん。みんな息子たち結婚しちゃってて、毎日おとうさんの面倒を見たくても、そういうわけにはいかなかったんだから・・・・・・」
 他人に聞かれてはまずい、という感じでマヌエルは小声でCDプレーヤーに話しかけていた。何気なく聴いていた歌詞だったが、なるほど、マヌエルにとっては息子たちに対する父親の鋭い告発なのだ、と私は気がついた。アグヘタ・エル・ビエホは早くに寡夫となったが、その後は再婚をせず、9人の息子たちの家を順に回って食事をし、衣類を洗ってもらっていた。控えめな性格の彼のこと、嫁に「このシャツを洗ってくれ」と言うことができずに我慢したことも何度かあったのだろう。
「止めろ。CDを止めてくれ」
 と懇願するマヌエルに、私はプレーヤーのSTOPのボタンを押した。
 マヌエルは黙り込んでしまい、テーブルに顔を伏せた。数分の気まずい沈黙がつづいた後、彼は立ちあがり、
「具合が悪いから休む」と言って二階に上がっていった。
 ベッドに収まったマヌエルはぐったりとしていて、その顔は紫色だった。その後も様子は悪化する一方で、例の唄を聴いてから3時間後、熱をはかるとなんと38.5度もあったため、私はあわててタクシーを呼んだ。コートをはおって外に出ると、雲の切れ間に姿を現した満月が、天国の木の上から中庭を煌々と照らしだしていた(図11)

中庭に植えられた天国の木に懸かる月
(図11)中庭に植えられた天国の木に懸かる月

 私たちはその十分後、家から5キロ離れたサンルーカルの救急病院に駆け込んだ。
 URGENCIA(救急)のドアの向こうに連れ去られたマヌエルを、私は待ち続けた。

 4時間後、ようやく医師に呼ばれた。血液検査の結果を手にした医師は、
「急性前立腺炎です。数日間入院することになりますが・・・敗血症の一歩手前でした。あぶなかったですね」
 と、告げた。特に前立腺が悪かったわけでも身体の調子が悪かったわけでもないので、この宣告は意外だった。その後さらに4時間、マヌエルが集中治療室から病室に移されるまで、私は待合室に座りつづけた。

 午前8時、看護婦に案内されてようやく病室に入ると、点滴4本とチューブでつながれたマヌエルが弱々しく微笑んでいた。ベッドの傍に置いてある長椅子に座り、マヌエルの点滴の刺さってない方の手を取ると、彼は目を閉じ、聴き取れないほどの声で唄った。

bien sé que yo muero
pero el consuelo que llevo a la tierra
que tù vas a ser el primero
自分が死ぬことはわかっている
ただ土の中に慰みを持っていけるのは
お前が先に死ぬからだ
シギリージャ(12)

 自分に向かって唄っているのではないことを祈りながら、私は急いで木製のナイトテーブルに触れた(13)。小鳥のさえずりが聞こえてきた。世界がゆっくりと明けはじめていく中、私とマヌエルは眠りについた。

 次に目を覚ますとすでに夕方で、あたりは暗くなりかけていた。病室に備え付けのテレビをつけると、豪奢な黄金のレースで飾られた悲嘆のマリア様が大粒のガラスの涙を流しながら、セビージャの町を練り歩いているシーンが映し出された。そういわれてみれば、今日は奇しくも聖金曜日なのだった。
 テレビのアナウンサーは、マリア様の美について延々と描写したあげく、
「満月です!」
   と叫び、絶句した。
   しばらくして、アナウンサーの嗚咽が聞こえてきた。泣いているのだった。パシオン(pasión)という言葉は、文字通り受難と熱情を現すのだ、ということを私は十数年前にセビージャで初めてセマナ・サンタを見たときに実感した。

 

son de oro tu potencia
sobre tus hombros
echá una cruz de penitencia
y la corona de espina
lleva la compasencia
その力は黄金
両肩の上には
懺悔の十字架が掛かっている
そして茨の冠は
憐憫をになっている
サエタ(14)
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再生ボタンをクリックすると、セマナ・サンタでマヌエルが唄った
サエタを聴くことができます。
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 私は、ひとつの歌詞の持つエネルギーについて考えた。文字を持たないヒターノにとって、歌詞は史実を書きとめたり感情を吐露したり、また敵を告発したりする重要な道具だが、時には強烈な呪文の役割を果たすこともあるのだった。
 6時間ごとに看護婦が抗生物質の点滴を2本持って病室を訪れた。マヌエルは気力を保とうとするように、起きている間中、小声で唄い続けていた。驚くほど色とりどりの歌詞がその口からほとばしり出たが、中でも、特にふたつの歌詞に固執していて、これを何度も繰り返して唄った。

a la que está en el altar
mi cabello le ofrecí
que a ti te dejara muda
por lo que me has hecho currir
祭壇にいるマリア様に
私の髪の毛を捧げた
あなたをおしにしてもらうように
私をひどい目に合わせた
<ソレア>
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再生ボタンをクリックすると、マヌエルが唄った
この曲を聴くことができます。
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mal fin tenga la lengua
quien de mí murmure
no te cortara de en medio en medio
私の悪口を言う
舌よ、呪われるがよい
半分半分に切られればいいのに
<シギリージャ>

 唄い終わると、点滴のチューブが差し込まれた右手で何度も何度も十字を宙に向かって切った。その動きにともない、手の甲の血液がすこし逆流して、チューブの中の透明な液体が淡い赤に染まった。

 結局、入院は8日間つづいた。192時間、11520分ものあいだ、私は病院から一歩も出ずに、病室と病院の売店の間を往復して過ごした。夜は上半身を長椅子に沈め、足をパイプ椅子に乗せ、腰から膝までを宙に浮かせた姿勢で器用に眠った。

 聖金曜日から8日後、ようやく退院の許可を受けて病室を後にし、外界に出ると、季節はすっかり初夏になっていた。
 家に着き、窓をすべて開け放ち、キリスト像に入念にあいさつした後、私は、8日間の長椅子生活であちこち痛む身体をベッドに長々と伸ばして久しぶりに熟睡した。
 夜中の一時にようやく目を覚まし、階下に下りてコーヒーを沸かしはじめたところで、CDプレーヤーが目に入った。電源はONになったままだった。私はなんとなく好奇心にかられ、二階で寝ているマヌエルに聞こえないようにボリュームを最低限にして例のアグヘタ・エル・ビエホのCDをかけた。すると、プレーヤーは例のリアルな「ざっざっ」というこもった雑音を数秒間発した直後、ぶちっと言って永久に黙り込んでしまった。プレーヤーを揺さぶり、ありとあらゆる電源ボタンを押し、最後にはコンセントをいったん抜いて入れなおしてみたが、今度はONのライトさえ点かなかった。
 舌打ちした私は、マヌエルが病院で特に固執していたふたつの歌詞を思い出し、まさか、と思いながらも、ひとり微笑した。

(1) セマナ・サンタ-Semana Santa-
聖週間。復活祭前の一週間。クリスマスと並んで、スペイン最大の宗教行事。毎年、この時期は天候が不順なことが多い。イエス・キリストの最後の一週間をなぞって連日キリストやマリア様のパソ(山車)が出る。中でもキリストが磔刑になる聖金曜日はクライマックス。3月から4月末に行われる。
スペインの中でもアンダルシアのものが特に名高く、セビージャでは、数十もの山車が昼となく夜となく市街を練り歩き、交通も市民の生活も完全に麻痺する受難と陶酔の一週間。
(2) マヌエル
筆者の夫で、高名なカンタオール(フラメンコの唄い手)。芸名はアグヘタ・デ・ヘレス 。
(3) 我が家
筆者が1992年から住んでいる南西スペイン、カディス県ヘレス市近郊の田舎家。
(4) 天国の木
Arbol de paraiso。日本ではホソバグミと呼ばれているらしい。
(5) ヒターノ
スペインのロマ、またはジプシー民族のこと。
(6) ロタ-Rota-
南西アンダルシアにある海岸の町。広大な米軍基地がある。
(7) バリ島のワヤン
バリ島に生まれた長男はみな「ワヤン」と名づけられる。
(8) タラント
フラメンコの曲種のひとつ。 アンダルシア東部でよく唄われる。
(9) まじない師
curandero。占いをする他に、民間療法にも精通しており、薬草などを処方してくれる。
(10) アグヘタ・エル・ビエホ
マヌエルの父で、やはり高名なカンタオール(フラメンコの唄い手)。読み書きはできなかったが、博覧強記で、フラメンコの百科事典と呼ばれていた。
(11) ソレア
フラメンコの代表的な曲種。
(12) シギリージャ
フラメンコの曲の一種。悲痛な題材が多い。
(13) 木製のナイトテーブルに触れた
不吉なことを見たり聴いたりしたときは、木に触れて厄払いをする習慣。
(14) サエタ
セマナ・サンタのパソ(山車)に向かって唄われる宗教歌。サエタは本来、「矢」という意味。 パソに向かって、サエタが文字通り矢のように放たれることから来ているらしい。
 
SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次
  1. フラメンコという深淵――死を凝視する目 no.65 (2006年6月発行)
  2. フラメンコという深淵――母への想い no.66 (2007年7月発行)