椰子の木の寿命
ある日曜の朝、私たちは庭に椰子の木を植えようとしていた。
4日間降りつづいた豪雨が止み、2月初めだというのに気温は摂氏19度を示している。スペイン南部のアンダルシア地方には「犬も日陰をさがしはじめる2月」という言葉があるが、まったくその通りの陽射しを背に受けながら、私たち――私と夫のマヌエル・アグヘタ(1)――はご近所の目を気にしながら黙々と地面に穴を掘っていた。あたりは信じられないほど静まりかえっている。カトリック国スペインの、しかもまだまだ保守的な農村部では、安息日である日曜日の朝っぱらから鋤や鍬をふるって汗を流すことはかなり気が引ける行為なのだった。
私たちはポーチ脇に二本の椰子の木を植えようとしていた。きのう近くのビベーロ(vivero-植物の栽培所、またその直売所)から届けてもらった“Phoenix Dactilera”という種類の椰子の木は高さ2メートル50センチ、幹の直径23センチ。
食用ダーツの生る種類で、一本98ユーロ(2)だった。
穴を深さ50センチまで掘り下げたところで、門に声がした。
――日曜日だっていうのに働いてるわけ?
耳慣れたしわがれ声。マヌエルの妹、マリアが笑いながら馬車から降りてきた。
身長150センチ、黒髪に黒い瞳。ヒターナ(3)の血が4分の3流れている彼女だが、このまま日本に連れて行っても違和感はほとんどなさそうだ。
マリアの乗ってきた馬車は屋根のない4人乗りタイプで、
――100万ペセタ(4)払って特注したの
と彼女は胸を張って言った。同様の馬車を数ヶ月前にチピオナ(5)の工房で見、値段を尋ねたところ約30万ペセタだったから、「100万」というのは誇張だろう。アンダルシア人は誇張癖で名高い。
馬車からはつづいてマリアのご主人アントニオが降り立ち、さらに後部座席から巨大な体躯が出現した。身長2メートル、体重110キロのイヴァン。マリアの孫だ。マリアは、まるでちいさな男の子でも扱うようにイヴァンの手を引き、私たちが石を積んで作ったささやかな噴水を注意深く遠回りし、中庭に到着した。
――水を見るとこの子、怖がるから
と彼女は真顔で言った。
噴水はほとんど枯れた状態で、底に3センチほどの水が溜まっているだけだ。
雨が上がり、天気がよいので新しく買った馬車を試しがてら散歩に出たのだ、とマリアは言った。彼女たちは隣町ロタ(6)に住んでいる。我が家までは約15キロの道のりで、途中田舎道から高速道路に出なければならないのだが、このあたりではたいした問題はない。乗用車が時速120キロで走り抜けるすぐ脇を、散策を楽しむ馬車や家畜用の干し草を満載したロバ車がとろとろと歩いていく光景はめずらしくもなんともない。文句を言う人間はいないし、罰金を課す者もいない。
訪問といっても特に日本のように中にお通しする、という習慣のないこのあたりのこと、私とマヌエルは椰子の木を植える作業の手を止めずに彼らと話をつづけた。この豪雨で近所のグアダレーテ川では羊が30頭溺れたそうだ、とか、“司祭の井戸”の脇に、芽の出たじゃがいも500キロが放棄されていた、とか、内容はたわいのないことだった。
強まってきた陽射しを受け、イヴァンは顔を火照らせ、額の汗を左右の手でぬぐう動作を数十回繰り返していた。
――この子、喉が渇いているのよ。お水くれる? あ、コカコーラでも別にかまわないけど
とマリアが遠慮がちに言った。
私はひんやりした家の中に入り、右手にコカコーラの缶、左手に一杯の水を持ってイヴァンに近づいた。イヴァンはコップを持った私の左手をごくていねいな仕草で辞退し、コカコーラの缶を手に取ると、これをマリアに手渡した。マリアが缶を開けてあげると、イヴァンは330mlのコカコーラを三口で飲み干した後、空き缶を耳の傍でゆっくり振りはじめた。
イヴァンは今年20歳だが、体躯の見事な成長とは対照的に、精神は生まれた時からほとんど成長していない。母親、つまりマリアの長女はイヴァンの出産中に亡くなり、その後、施設に入れたら、という周囲の意見には一切耳を貸さず、祖母のマリアがずっと彼の面倒を見てきた。マリアは今年約60歳(7)。元気なうちはいいけれど、そのうち年をとって万が一のことでも起きればどっちみち孫は施設に入ることになるのに、まさか永遠に生きると思っているわけでもないだろうに、と彼女を知る誰もが考えていたが、面と向かって口にすることはできなかった。
イヴァンは、首をすこし傾け、空き缶に耳を澄ませていた。なにか、私たちが聴くことのできない音楽が聴こえてくるかのように、耳元でコカコーラの空き缶を振りつづけている。
掘り終えた穴を水で満たし、やたらと重い椰子の木をひきずってきて穴の中に埋め、掘り出した土を戻して足で踏んで固め、ようやく私たちの作業は終わった。
と、イヴァンはおもむろに空き缶を地面に投げ捨て、植えたばかりの椰子の木の一本に近づき、これに向かって頭を前後に揺すりはじめた。
マリアは目を細めて孫の名前を呼んだ。
――イヴァーン!
イヴァンは頭を揺すりつづけている。
――あの子がふつうの子になってくれたら、黄金でできたお馬さんを買ってあげるのに
そう言ったマリアの顔は、嘆きの聖母によく似ていた。
イヴァンは聞こえているふうでもなく、ただひたすらに椰子の木に向かって頭を揺らしつづけている。その姿は、嘆きの壁に向かって祈っているユダヤ教徒のようだ、と私は思った。
- lo que duró una palmera
- debía de durar una madre
- para que tenga un hombre
- una mujer que lo quiera
- y lo llame por su nombre
- debía de durar una madre
- 椰子の木の生きるのと同じくらい
- 母親というものは長生きをするべきだ
- ひとりの男性が
- ひとりの女性に愛され
- その名前を呼んでもらうために
- <ファンダンゴ(8)>
- 母親というものは長生きをするべきだ
母という痛み
フラメンコに最も多いテーマは「死」、「苦悩」、そして「母」だ。いうまでもないことだが、「苦悩と母」、「死と母」は多くの場合伴って現れる。
- a quién le contaré yo mi pena
- a nadie se lo puedo contar
- tengo a mi madre loca
- y la lleva para un hospital
- a nadie se lo puedo contar
- 誰に私の苦悩を語ろう
- 誰にも語ることはできない
- 母は気が違って
- 病院に連れていかれる
- <マルティネーテ(9)>
- 誰にも語ることはできない
- hospitalito en Cádiz
- a mano derecha
- ahí tenía la madre de mi alma
- la camita echa
- a mano derecha
- 右手には
- カディスの病院
- あそこに
- 母のベッドがあった
- <シギリージャ(10)>
- カディスの病院
- sembré flores colorá
- en la tumba de mi madre
- como las sembré llorando
- aprendieron a llorar
- las flores de campo santo
- en la tumba de mi madre
- 赤い花を植えた
- 母のお墓に
- 泣きながら植えたので
- 墓地の花たちは
- 泣くことを覚えた
- <ファンダンゴ>
- 母のお墓に
「西洋の個人主義」という言葉は漠然と私たちの中に浸透しているが、私の住む南スペインの片田舎にはこの言葉の定着する場所はない。イスラム帝国の支配を800年間受けてきたスペインという国が「西洋」かどうかという問題はさておくにしても、アンダルシアの母たちは日本の母たち以上に子どもを盲目的に溺愛する。30歳を過ぎても親元を離れず、経済的にも精神的にも親に依存している“子どもたち”は年々増加している。子どもを無理に自立させようとする母親は、ここでは「冷たい人間」と非難される。
先日市役所に行くと、どうみても40歳を過ぎた男性が母親らしい女性に付き添われて入ってきた。
――“うちの子”にDNI(身分証明書)を作ってやってほしいんですけど
母親が口を開いた。あごひげをはやした“うちの子”は母親の後ろに隠れるように立っている。
――あ、まだDNI持ってらっしゃらないんですね?
窓口の女性がたずねると、
――今まで必要なかったもんで
と母親が肩をすくめて答え、あごひげ男がもっそりとうなずいた。
何歳で取得しなければならない、という厳密な決まりはないらしいが、スペインではDNIの所持は国民の義務で、銀行口座を開くにも、定職に就くにも、携帯電話の契約をするにもDNIは必要だ。窓口の女性はたいして驚いた様子もなく、DNIの申請に必要な書類について説明を始めた。このシーンを、私は何回か見ている。あごひげ男と同様、かなりの年になるまで定職に就かず、運転免許証もとらず、結婚もせず、自分名義のバイクも車も持たず、銀行通帳すら持っていない“子どもたち”は山ほど存在する。
うつむきがちのあごひげ男は、母親に手を引かれて市役所を後にした。
「hijo de puta(娼婦の息子――スペイン語で最もポピュラーな罵りの言葉)」、英語における「son of a bitch(雌犬の息子)」など、人を罵るとき、指摘されるのは常に「母」だ。数ある言語のうちでも罵倒語の種類の貧弱な、上品な言語と呼んでもさしつかえのない日本語でさえ、「でべそ」なのは「おまえのかーちゃん」であって、「おまえのとーちゃん」では断じてない。「母」がいつも攻撃の対象になるのは、「母」という存在が私たち人類にとって最も「痛い」部分だからだろうか。
愛は痛みですよ、と言ったのは大野一雄だったが、たしかに、私たちは生まれたときから「母への愛=痛み」を背負って世界を彷徨しつづけているようなものだ。
2005年の暮れ、私たちは長年住みなれた“レダマ集落(11)”の家を後にし、8キロほど離れた“樫の木集落”にある建築途中の家に引っ越してきた。トタン屋根の古い農家を改築してどうにか住んでいた旧家と違い、新居は土台から新しく建築したふつうの家で、上水道も完備されている。ただひとつの難点は、電気を引く許可がまだ市役所から下りていないことだった。
真冬の、しかも大晦日に電気のない家に引っ越してくるのはかなり無謀な話だったが、この突飛な行動にはそれなりの理由があった。石灰分が多く、半年で水道の蛇口がぼろぼろになる旧家の井戸水生活に飽き飽きしていたことももちろんだが、レダマ集落の住人が二年ほど前から次々と病気に倒れたこと、私の愛猫が車に轢かれて死亡したこと、が決定的な引き金になった。私たちは厄除けもかねて新しい年が明ける前に引越しを敢行したのだった。一般にヒターノ民族は迷信深い人たちで、家に病人や死人が出たり、なにか事故が起こると、住んでいた家から一夜のうちに忽然と消え去ってしまうことがある。
テレビのない新居で、私たちはろうそくに火を灯し、静かなお正月を迎えた。昼間の2時間ほどは電気の来ている旧家で過ごし、この間に携帯電話を充電し、洗濯機を回し、アイロンをかけ、PCであわただしく仕事をし、新居に戻ってきて日が暮れるとろうそくの火を灯す、という生活をはじめて1ヶ月がたち、2ヶ月がたった。春が来、夜の沈黙とたよりないろうそくの光にさすがに耐え切れなくなった私たちは発電機を使いはじめた。日没と共に発電機を回し、電球を点け、テレビを観る。夜1時にはやかましい発電機を止め、私たちは眠りについた。日の出とともに目覚め、昼間は壁や窓枠のペンキ塗り、バラウストレ(-balaustre-手すりや欄干を支える小柱)の取り付けなどで忙殺された。壁や屋根など大まかなところは全部大工が立ち上げていたが、細部の仕上げは私たちの仕事だった。
日の出から日没まで、私は憑かれたようにあわただしく働いた。ときおり、手を止めて日本に住む母のことを思った。16年前、一人娘の私は母の反対を押し切ってスペインに来てしまった。ろくな親孝行もできない罪ほろぼしに、はやく家を完成させて、母に見に来てもらいたい、という気持ちが私を駆り立てているのかもしれなかった。
- camino del valle
- me puse a llorar un día
- me acordaba de mi madre
- de la pobresita la mía
- me puse a llorar un día
- 谷間の道の途中
- ある日、私は泣き出した
- 母のことを思いだした
- かわいそうな私の母
- <マルティネーテ>
- ある日、私は泣き出した
電線を設置する市役所の許可が出ないまま一年は過ぎ、私たちは電気のない家でふたたび新しい年を迎えた。新年のあいさつを兼ねて私は母に電話をした。
咳をしながら出てきた母は、暮れに送った新居の写真を受け取った、ありがとう、と言っていた。
――いつ来るの?
と尋ねると、しばらくの間を置いて、
――行けないかもしれない
という、予想もしていなかった返事が返ってきた。身体の調子があまりよくないのだ、と彼女は加えた。
一人でヨーロッパ中を十数回も旅行した母が、こんな気弱な返事をするとは考えてもみなかった私は、あわてて電話を切った。
潮が引いていく音を、私は聴いた。
つまり、私の母もついに年老いたということなのだった。最後に日本に帰ったときに、駅まで送ってきてくれた母の肩を抱くと、それがあまりに脆いことに愕然としたことを思いだした。母は永遠に生きつづけるものなのだ、とでも私は思っていたのだろうか。
フラメンコという深淵に囚われて南スペインに身をひそめている間に、とりかえしのつかないほど時は過ぎ去ってしまっていたのだ。
- a mi madre vi llorar
- a mi madre la vi llorar
- nunca en mi vida
- eso no se me olvida
- a mi madre la vi llorar
- 母が泣くのを見た
- その姿を
- 一生忘れることができない
- <ティエント(12)>
- その姿を
註
- (1) マヌエル・アグヘタ-Manuel Agujetas-
- カンタオール(フラメンコの唄い手)。伝統的で純粋なフラメンコの最後にして最大の継承者。録音したレコードは60以上にのぼる。出演映画にカルロス・サウラの「フラメンコ」、ドキュメンタリー「アグヘタ、カンタオール」(多数の国際的な賞を受賞)など。
- (2) 椰子の木
- 食用ダーツの生らない種類“Phoenix Canariense”は一本70ユーロと安め。
椰子科の植物は世界に2500余種あるそうで、種類によっては高さ40メートルに達する。その寿命は約300年。スペインに椰子の木をもたらしたのはカルタゴ人といわれる。アンダルシア東部のElcheという都市にはヨーロッパ最大の椰子林がある。ユネスコから文化財に指定されているこの林には20万本の椰子の木(最も多いのはPhoenix Dactilera)が植えられている。 - (3) ヒターナ-gitana-
- スペインに住むロマ民族「ヒターノ-gitano」の女性形。「ヒターノ」と同原語の「ジプシー(エジプトの、エジプト人の)」は差別的な表現だという意見もあるが、スペインでは誇りを持って「ヒターノ」と自称するのがふつう。1420年代にイベリア半島に到着した彼らが「エジプト(方面)から来た」と誤解されたことに由来する。
- (4) ペセタ-peseta-
- ユーロが施行されて数年が経ったが、大きな金額の話をするとき、庶民はいまだにペセタを使うことが多い。
- (5) チピオナ-Chipiona-(カディス県)
- アンダルシア南西部の町。人口約1万3千。
観光(避暑)と温室の切花栽培が主な産業。ローマ時代(1世紀)に起源をさかのぼる燈台、黒い肌のマリア様(レグラのマリア)などで有名。 - (6) ロタ-Rota-(カディス県)
- アンダルシア南西部の町。広大な米軍基地を擁する。遠浅で良質の砂浜に恵まれ、夏は避暑客でにぎわう。8世紀に起源を持つ「月の城」などの建築物が有名。
- (7) 約60歳
- 私の夫マヌエルと同じく、彼女も出生証明書がないため、正確な生年月日はわからない。結婚する時に生年を推定して(マリアが生まれたとき、向かいに住んでいる誰それがだいたい3歳くらいだったから、というふうに)戸籍を新たに作ったそうだ。私とマヌエルが結婚したときも同じ方式で戸籍を作成した。ヒターノ民族には戸籍のない者がまだ多数存在する。徴兵制度があった頃は、これを逃れるのに大いに役立った。
- (8) ファンダンゴ-fandango-
- フラメンコの曲種のひとつ。
- (9) マルティネーテ-martinete-
- フラメンコの中でも最も純粋な曲種。ギター伴奏なしで唄われる。
- (10) シギリージャ-siguiriya-
- フラメンコの曲種のひとつ。悲痛なテーマが多い。
- (11) レダマ集落
- カディス県チピオナ町のはずれに位置する集落。拙著「モーロ人は馬にのって」に詳しい。
- (12) ティエント-tientos-
- フラメンコの曲種のひとつ。
SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次
- フラメンコという深淵――死を凝視する目 no.65 (2006年6月発行 web化第三号)