はじめに(浅野)
研究のための旅行には苦労もあるが、二人で行けば苦労が苦笑くらいですむことも多い。そういうわけでわれわれ二人は、若い頃からよく一緒に旅行をしてきた。どちらもビザンティン美術史が専門分野なので、行きたいところ、見たいものはおのずから一致する。今回、アドリア海沿岸へ行こうと言い出したのは私の方であったと思うが、「アドリア海」のひとことで、同じ町や聖堂の名が同時に二人の脳裡に浮かんだ。
しかし同じ分野の研究者であっても、もちろんそれぞれに興味の持ち方は違う。二人で弥次喜多道中を書いてみれば、研究などというものも、喜びもし、がっかりもする普通の人間がやっているということがわかってもらえるのではないかと思った。こうして成ったのが拙稿である。
クロアチアへ(浅野)
クロアチアへは陸路で入った。レンタカーでの旅である。ランチアのイプシロンという車種を借りた。日本には少なくヨーロッパでは人気のあるディーゼルの小型車で、小さいが二人の旅行には十分だ。
イタリアの港町トリエステを出てアドリア海に沿って走ると、イタリアとクロアチアの間には、スロヴェニアが細長く海まで延びている。そこは高速道路を走ったまま通り過ぎる。するとクロアチアの国境検問所がある。私たちは問題なく通過した。
最初の目的地は、ポレチュであった。益田さんは、「まずポレチュに宿を取り、大聖堂へは翌日の朝早くに行こう、そうすれば東向きのアプシスに日が差し込む様子がきれいに見えるはずだから」と言い、私も同意した。
ほどなくポレチュの町に到着した。町については後で述べるが、旧市街はごく狭く、車の乗り入れは制限されている。益田さんは旧市街の入り口近くに車を駐めて待ち、私がホテルを探しに行くことにした。
旧市街やその周辺のホテルを何軒か回って、値段や空室の有無を聞いた。できれば5千円以内で泊まりたい。しかし値段が高すぎるか、あるいは部屋がなくて、部屋を取ることができなかった。私たちは知らずに来たが、その日ポレチュでは音楽祭が開かれるという。それでは無理なのも仕方がない。旧市街には野外ステージが設けられていて、コンサートは夜にやるのだろうが、はやばやとリハーサルをしていた。私自身エレキギターを弾くが、そういう人間が聞いてもすさまじい音量だ。たとえここに泊まれたとしても、安眠はできなかったに違いない。
車に戻って益田さんと相談し、旅行代理店でホテルか民宿を探してもらうことにした。部屋はすぐに見つかった。町の中心からはかなり離れているが、こちらは車なので構わない。そこに宿泊することにした。
プーラ(浅野)
ポレチュ大聖堂は翌朝の楽しみに残しておいて、この日の午後にはまずプーラに行くことにした。ポレチュから南下すること数十キロでプーラの町に着く。伝説では起源はギリシア神話の時代にさかのぼるらしいが、町が整備されたのはローマ帝国の時代である。当時はポーラという名で呼ばれていた。アドリア海沿岸にいくつも建設された港町のひとつであった。
まず円形競技場へ行った(図1)。外観は、ローマのコロッセウムによく似ている。楕円形で、長径は132メートルもある。紀元1世紀、多分アウグストゥスの時代に建設され、クラウディウスの時代に拡充されたと考えられている。
内部の席はすっかりなくなっている。円形競技場で剣闘士の闘いを見せる古代ローマの習慣は、5-6世紀には廃れた。その後、他の建物を建てるために石材を取られたのだろう。外壁は一見きれいにそろっているが、かなり修復されているようだ。ここでも中でコンサートをするらしく、椅子を並べて準備をしていた。
「アウグストゥスの神殿」も見た(図2)。保存状態の良い、ローマ時代の小さな神殿だ。これも紀元1世紀、アウグストゥスの時代のものだが、誰を祀る神殿であったのかはわからない。こうした小規模な神殿によくある、プロポーションの高い、瀟洒な感じのする建物である。
その隣にある古めかしい建物は市庁舎で、ロマネスク時代の建築を元にして改修を重ねたものであるという。裏に回ると、ローマ時代の壁体が残っている。ふたつ並んでいた神殿のひとつを組み入れて作った建物である。この前は今でも広場になっているが、もともとローマ時代のフォールムだったのだろう。
プーラ大聖堂は、「アウグストゥスの神殿」と円形競技場の間の、海の近くにある(図3)。こうした古い町の聖堂の常で、複雑な歴史を経ている。この場所にはもともと古代宗教の神殿か公衆浴場があり、その石材を使って5世紀後半から6世紀に建てられたと考えられている。大聖堂の北側では発掘がおこなわれ、古代の建物の土台が見える。
こうして建てられた大聖堂は、15世紀にヴェネツィアとジェノヴァの戦いに巻き込まれて損傷を受けたが、元の石材を使いながら再建された。内部の柱や柱頭は、ローマ時代のもの、ビザンティン時代のものとさまざまである(図4)。外壁にも、ビザンティン時代の浮き彫りがある石材が見られる。16世紀にはファサード(正面の壁)が改築され、17世紀には鐘楼が建てられた。
もうひとつ初期中世の歴史を物語るのは、スヴェータ・マリア・フォルモーサ聖堂の跡地である。この聖堂は6世紀に建てられた。マクシミアヌスがラヴェンナ司教だった時代で、そのときプーラはラヴェンナを奪取したビザンティン帝国の勢力範囲内にあった。マクシミアヌスはもともとプーラの出身であったから、この大聖堂の建設に力を入れただろう。しかし、やはりヴェネツィアが関連した戦いで破壊された。18世紀のスケッチではアプスの壁は残っているが、いまはそれも失われ、北壁の一部やアプシスの土台が見えるだけで、跡地は金網で囲われた空き地になっている。
ただ、小さな礼拝堂だけが残っている(図5)。もとは、大聖堂の南東に付属していたと思われる。おもしろいことに、ラヴェンナにあるいわゆる「ガラ・プラキディアの廟墓」と形がよく似ている(図6)。「ガラ・プラキディアの廟墓」も、もとはサンタ・クローチェ聖堂に付属していた。同じアドリア海沿岸ということでつながりがあるのか、あるいはこの時代の建物があまり残っていないだけで、このような建物はありふれたものだったのだろうか。
中世の建築とは関係がないが、アイルランド出身の文学者ジェイムズ・ジョイスは、プーラに住んでいたことがあった。ジョイスはダブリンで学業を終えた後、パリやチューリッヒを放浪し、ベルリッツ語学学校の英語教師としてトリエステへ、さらにプーラに派遣された。1904年のことで、当時プーラはオーストリア・ハンガリー帝国領だった。翌年トリエステに戻ったジョイスは『ダブリン市民』の原稿をロンドンの出版社に送ったが、出版を断られている。
ポレチュ大聖堂(益田)
このところ本を読むよりも落語を聴いている時間のほうが多いので、「二人リレー」という試みを前にして、金馬と志ん生が「お化け長屋」をやっていたな、などと考えてしまう。『SPAZIO』の電脳空間まで、ようこそのお運びでありがとうございます。
ビザンティンの聖堂を20年以上も訪ね歩いていると、「初めて」のドキドキとはすっかりご無沙汰であるが、ポレチュは長年の憧れであった。この歳になってもまだ「初めて」があることがうれしい。今日は日曜でミサが行われるので、早朝に聖堂に入った。ミサは7時半と11時の2回。7時半は観光客の喧騒を避けた地元の人が集まる。8時20分に散会すると、堂内は無人となり、十分な時間、ほとんど二人きりでモザイクを独占することができた(図7)。
ラヴェンナはアドリア海のほとんど対岸である。古代・中世の船は海岸沿いに航行したが、アドリア海のどんづまり、波静かなこのあたりでは直進できただろう。当然のことながらポレチュのモザイクは、ラヴェンナから大きな影響を受けている。共通の工房が関わったのかもしれない。
勝利門壁面(東のアプシスを囲む凱旋門型の壁)には、世界を表す青い球体上にキリストが坐し、左右に十二使徒が控える(図8)。中央のキリストはもちろん、ラヴェンナはサン・ヴィターレのアプシスを飾るキリスト(図9)と同じモティーフ。ローマのサン・ロレンツォ・フオリ・レ・ムーラ聖堂のモザイクとも近い(図10)。遠からぬ将来、「ハイパー・イメージ」がインターネット上に普及して、写真の上にカーソルを動かすと、類似した図像の写真が出てくるようになるだろう。
アプシスのアーチには、「神の小羊」を中心に殉教聖女たちのメダイヨンが並ぶ(図11)。この部分は同じラヴェンナでも、サンタポリナーレ・ヌオヴォの身廊北壁面に並ぶ聖女たちを思い出そう(図12)。いずれも瓜実顔で眼の大きな、愛らしい「6世紀顔」である。ただしラヴェンナもポレチュも、モザイクには近世の修復がはなはだしいので、双眼鏡などで細部を観察しなければならない。テッセラ(方形のガラスや大理石のかけら)の色が鮮やかで、並びが整っている部分は修復による。
アプシスは玉座の聖母子を中心に、天使、諸聖者が並ぶ(図13)。左から二人目が、聖堂を建立した6世紀半ばのポレチュ司教エウフラシウスで、聖堂の雛型を聖母子に差出す「献呈図」の形になっている。サン・ヴィターレでは、右側にラヴェンナ司教エクレシウスが聖堂の雛型を手に立っていた。聖堂を建立した功績によって、神の加護が与えられることを願うものである。空に錦の雲がたなびくのも、二つの聖堂に共通する。ローマでもサンティ・コスマ・エ・ダミアーノ(6世紀)他、多くの聖堂に錦の雲が描かれている。神秘的な神の顕現(テオファニア)である。
6世紀中葉に建てられたポレチュ大聖堂は、発願者の名をとって「バシリカ・エウフラシアーナ」と呼ばれる。描かれた図像でもわかるように聖母に捧げられた聖堂であるが、「サンタ・マリア」ではなく寄進者の名で聖堂を呼ぶことは、初期キリスト教時代によく行われた。
窓の左右には「受胎告知」と「ご訪問」の2主題が配される。どちらも聖母を主人公とする場面である。このあと「降誕」以降、キリストが登場することになるのだが、それらの主題は身廊の壁面等に描かれていたのであろうか。祭壇をおおうように立っているのは天蓋(キボリウム/バルダッキーノ)で、ゴシック時代のモザイクで装飾されている。中央のアプシスの左右(南北)にも小祭室があって、どちらにもキリストが2聖者に戴冠する図が描かれている。
地味ではあるが見逃すことができないのは、身廊と北(左)の側廊を隔てるアーケードのアーチ内側に施された、漆喰の浮彫細工(図14)と、アプシス下部を飾るオプス・セクティーレ(象嵌モザイク)の装飾(図15)である。大聖堂は司教を中心として多くの住民の寄進を得て、美しく飾られた。今日残るモザイクはアプシスのみであるが、身廊の壁面もモザイクでおおわれていたはずである(サンタポリナーレ・ヌオヴォのように)。床が大理石のテッセラによるモザイクで飾られていたさまは、近いところでは北イタリアのアクィレイア大聖堂などを思い起こせばよい。聖堂が建立されたときのままを今日に残す聖堂はない。現代まで信仰の場として用いられ続ければ、床モザイクはやり直されてしまう。廃墟となって地中に埋もれれば、床モザイクが残る代わりに、壁のモザイクが失われる。ラヴェンナの大聖堂附属洗礼堂(正統派洗礼堂)は、テッセラ・モザイク、象嵌モザイク、漆喰浮彫、床モザイク(部分)などの多様な装飾を見ることができる、稀有な例外である。
10時半をまわると、2度目のミサのために人が集まり始めた。聖堂を出て、西側のアトリウム、洗礼堂、そして鐘楼を見る。鐘楼の窓からは、大聖堂がバシリカ形式であることがよくわかる。しかし窓が高く、壁が厚いので、足を床から離して窓枠に乗り出さなければ写真が撮れない。高いところはいささか苦手であるが、決死の思いで写真を撮る(図16)。
ポレチュの町(浅野)
アトリウムの北に、司教館が連なっている。これも創建は6世紀の建築である。現在は司教館としては用いられておらず、小さな博物館になっている。古いものでは現在の大聖堂が建てられる前の、4世紀の聖堂の床モザイクや石の浮き彫りなどがある(図17)。大きな石の固まりから彫りだした、8世紀の司教座もある(図18)。展示品はだんだんに新しくなり、15、6世紀の聖母子像の彫刻や、祭壇画などになる。司教館は、中庭やロッジアのある、気持ちのいい建物だった(図19)。
早朝からかなりの時間を大聖堂と鐘楼、司教館の中で過ごし、昼前にようやく外に出て、ポレチュの町を散歩した。町と言っても、本当に小さい。長さ300メートル、幅100メートルほどの半島が旧市街である。親指を横から見たような形だ。どちらを向いて歩いても、すぐに海岸に出る。
古くから人は住んでいたのだろうが、町が整備されたのはやはりローマ時代、紀元1世紀である。その頃の名前はラテン語で「パレンティウム」で、現代イタリア語では「パレンツォ」と呼ばれる。東ゴート王国、ビザンティン帝国、ヴェネツィアなどの支配を受けたのは、この近辺の町と同じである。ナポレオン指揮下のフランス軍、それに対抗するオーストリア軍もこの町を通り過ぎた。第二次大戦ではドイツ軍に支配され、そのため連合軍の爆撃も受けた。現在がポレチュの一番平和な時代であるだろうし、それが続くことを願いたい。
半島の先には、ローマ時代、1世紀の神殿がある(図20)。保存状態はあまり良くない。旧市街には、13世紀から15世紀頃に建てられた住宅がいくつか残っている。13世紀の家は、石造の本体に木造のバルコニーが突き出した、変わった造りである(図21)。半島の付け根には、町の防備のために作られた石造の塔がある。プーラよりも観光客は多い(図22)。町が小さく、通りが狭いためもあるだろうが、レストランや土産物屋、アイスクリーム・スタンドなどがたくさんあって、町はにぎやかである。楽しく、明るい町であった(図23)。
ニンへ(浅野)
高原の高速道路を南下して、また海岸に出ると、ザダルの町がある。ザダルは結構大きな町だ。こういう町ではホテルが探しにくいと思ったので、20キロほど離れたニンへ行った。
ニンは、直径500メートルほどの島の上に作られた町である。島と言っても、本土とは2本の橋で結ばれている。海岸に面して、民宿が何軒かあった。
適当な民宿に入ってみた。こういう宿を経営している人は、だいたい英語かドイツ語かイタリア語を話す。たいていは、泊まるのに必要なことが伝わる程度である。ところがこの民宿の女性は、非常に流暢に英語を話した。その民宿に空き部屋はなかったが、すぐ近くの民宿に電話をかけて、空き部屋があるのを確認してくれた。そこの経営者が迎えに来るまで、私たちの旅行の目的や行き先などについても話した。おすすめのレストランも教えてくれた。
私が「英語がお上手ですね」と言うと、「私はオーストラリア出身です。結婚してこちらに住むようになりました。でも私の祖父がここの出身だったから、ルーツに戻って来たというわけですね」という返事だった。
案内された民宿は、ベッドルームがふたつで、キッチンとバスルームを共有するという造りで、家族で長期滞在するのにも適した形式である。夜は、教えてもらったレストランに行って食事をしたり、海岸を散歩したりした(図24)。
ニン(益田)
旅先の町が好きになるか嫌いになるかは、ささいな理由による。大都市のザダルをあえて避けて、小さな町に宿を探したおかげで、安くて気持ちのいい民宿に泊まれた。紹介してくれたオーストラリア出身の女性も、親切な人であった。民宿の庭にはキャベツ畑があった(図25)。晩御飯のサラダには、酢漬けのキャベツが出た。この国の人は今でも、キャベツをよく食べるのであろう。クロアチアのキャベツは、人の生き方に関わる意味をもっていて、格別である(後述)。
南ギリシアのモネンヴァシアも小さな島で、本土と橋でつながっているが、ニンはその何分の一かのささやかな島である。20分も歩けば島をひと巡りできてしまう。おかげで近代の大都市化の波をまぬがれて、今日もひなびた田舎の風情である。
二つの橋のうち、車の通れないほうが町の正面玄関である(図26)。中世の面影を残した橋のたもとには、11世紀の船の復元が繋留されている(海から引き揚げられた実物は博物館に展示)。ボート程度の船で、これでヴェネツィアやラヴェンナに渡るのは腰が引ける。門をくぐった目抜き通りの左右に、ほとんどの見ものがある。
この町の大聖堂はスヴェーティ・アンセルマ(聖アンセルムス)。6世紀の創建で、「クロアチア最初の司教座聖堂(大聖堂)」だというが、現状は18世紀の建築で、見るべきものはない。附属の宝物室には、聖遺物容器や教会祭具が展示されている。目抜き通りのほとんど突き当りに、紀元後1世紀のローマ神殿の遺構が発掘されている。「アドリア海沿岸で最大の神殿」だそうだ。「最初」とか「最大」を謳い文句にせずとも、この町には素敵なものがいくらもあるのに。
私たちにとってもっとも面白かったのは、スヴェータ・クリツァ(聖十字架)聖堂である(図27)。9世紀の創建で、十字形のプラン(平面図)をもっている。内部装飾は何も残っていないが、方形のプランの上に半球形(ドーム)や四分の一球形(セミ・ドーム)を載せる際に、隅をどう処理するか、その点で興味ある試みが行われている。ビザンティン建築史では、9世紀に初期キリスト教時代以来のバシリカ式とは異なる、ギリシア十字式と呼ばれる新しい様式が誕生し、それ以降の聖堂建築の主流となった。ギリシアのオルコメノス、スクリプー聖堂がその最初期の例であるが、このニンの聖十字架聖堂も、規模こそ小さいがそこに加えなければならない。この聖堂を聖十字架(キリストが磔になった十字架の聖遺物)に捧げたくなる気持ちはよくわかる。
ただし今日のクロアチアはカトリックの国家で、ビザンティン(正教)に対する感情は複雑である。10世紀以前のモニュメントは「プレ・ロマネスク(ロマネスク以前)」と称され、「ビザンティン」の語は禁句のようであった。
あとはささやかな考古学博物館を見物すれば町の観光は終わりだが、車で10分ほど郊外に出ると、土饅頭のような丘の上に変わった建物が見えてくる(図28)。12世紀のスヴェーティ・ニコレ(聖ニコラウス)聖堂である。ニンで戴冠した中世の王たちは、騎馬でこの聖堂に赴き、国家安泰を祈願したという。三葉形プランの上にドームが載っていたが、いつのことかドームは崩落し、代わりに矢狭間を備えた小塔を築いて城塞とした。チェスの駒のようなかわいらしい聖堂である。この丘は古墳だろうか、町が松林の向こうに見える。
滞在も短く、費用も切り詰めた旅であったせいか、クロアチアの名物料理を食べる機会はなかった。しかしオーストラリア出身の女性が紹介してくれた2軒のレストランは、いずれもおいしかった。1軒はイカと小魚のフリッターに小海老の素揚げの盛り合わせ、山盛りのポテト添え。もう1軒は鶏のグリルに、辛くない唐辛子のペーストを添えたもの。イタリアはもちろんのこと、ギリシアでもありふれたメニューであるが、こうした単純なものこそ味の差がはなはだしいものである。
島の周囲には昔ながらの塩田があった。お土産にスーパーでニンの塩を買う。
ザダル(浅野)
ひなびたニンの町に比べると、ザダルは近代的な都市である。港町で、イタリアやギリシアへのフェリーも出ている。
町の創建はとりわけ古く、古代ギリシア時代に植民市となった。その後、やはりローマ帝国時代に町は整備されている。ビザンティン帝国治下でも栄えたが、フランク王国が強大化すると、どちらの支配下に入るかで揺れ動いた。典礼をラテン語で行うかスラブ語で行うかでも対立があった。紀元1000年頃にはクロアチア王国が成立したが、やがてハンガリー王がクロアチア王を兼ねるようになった。ヨーロッパ内での東西の軋轢や民族主義は、19世紀には第一次大戦の引き金となり、20世紀末には旧ユーゴスラヴィア内戦をもたらしたが、その遠因は中世にあったわけだ。
1202年に、第四次十字軍が派遣された。ヴェネツィアは十字軍の将兵を船で輸送することをビジネスとして請け負ったが、十字軍はヴェネツィアの要求する輸送費を払うことができなかった。十字軍は、ハンガリー・クロアチア王国治下のカトリックの都市であったザダル(イタリア名ではザラ)を攻撃し、金品を略奪して輸送費に充てた。第四次十字軍はさらに暴走を重ね、1204年には東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを陥落させて大殺戮と略奪を行うまでになる。
さて、ザダルの旧市街も小さな半島の上にある。ポレチュよりは大きく、長さ1キロ、幅は400メートルほどである。その中央に、かつてはローマ時代のフォールムがあった。この付近は大規模に発掘されている。
スヴェーティ・ドナト(聖ドナトゥス)聖堂はそのフォールムの中に建っている(図29)。円筒形で窓が小さく、聖堂というより砦のようだ。壁体には、ローマ時代のスポリア(再利用部材)があちらこちらに使われている(図30)。ここにあった神殿などを壊して使ったのだろう。創建の年代ははっきりわかっていないが、9世紀頃と考えられている。最初は聖三位一体聖堂と呼ばれたが、後に9世紀のザダル司教ドナトゥスに捧げ直された。
内部は、中央が吹き抜けで、周囲が二階建てになっている(図31)。アーヘンにあるカール大帝の宮廷礼拝堂などと同じ構造だが、壁画も装飾もないので、そっけないほど単純な造りに見える(図32)。二階に登るとかなりの高さがあり、下を見ると足がすくむ(図33)。高所恐怖症気味の益田さんは私よりもっと落ち着かない様子なので、早々に地上に降りた。
ザダルの大聖堂はスヴェータ・ストシャ聖堂である(図34)。ストシャは、聖女アナスタシアのことだ。アナスタシアはここから近いセルビアの生まれで、ディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害によって殉教したと言われる。ディオクレティアヌス帝については、スプリトのところで述べよう。
スヴェータ・ストシャ聖堂は、12世紀に建てられた、美しいロマネスクの聖堂である。正面は細い付け柱とアーチで飾られ、イタリアのロマネスクの聖堂を思わせる。内部は、木造天井のシンプルなバシリカ式平面である(図35)。太い柱のどっしりしたアーチ列の上に、繊細なトリフォリウムの層があるのがおもしろい。祭壇の上の天蓋は14世紀、聖歌隊席は15世紀の、いずれもヴェネツィア人の作であるという。壁画が、ごく断片的に残っている。
半島の先近くにある、フランシスコ派修道院にも行った。伝承によれば、この修道院は聖フランチェスコ自身によって創建されたという。現在の建物は、もともとは13世紀のものであるが、内装も壁体も天井もずっと後に作り直されていて新しい建物のように見える(図36)。横に回廊がある。
そこを出ればすぐに海岸で、半島の先には大きな客船が横付けされていた(図37)。
サローナ(浅野)
スプリトに着いた私たちは、まず港のフェリーの営業所へ行った。スプリトから、車とともにフェリーでイタリアのアンコーナに渡ろうと思っていたからである。予定していた日に、二人用キャビンが予約できた。
次に宿を探すためにツーリスト・インフォメーションの場所を聞くと、営業所の女性が「このパソコンはインターネットにつながっているから調べてあげましょう」と言う。予算と希望の場所を聞かれ、すぐに調べて電話で予約もしてくれた。ニンの民宿の経営者といい、この女性といい、親切な人たちである。
フェリーの予約もでき、旧市街の民宿に部屋も取れたので気をよくして、まずサローナの遺跡へ行った。
この地域はローマ帝国時代にはイリリクム属州と呼ばれ、サローナはその州都だった。
ディオクレティアヌスはイリリクムで、解放奴隷の子として生まれた。軍隊に入って頭角を現し、親衛隊長となり、ヌメリアヌス帝の死後皇帝となった。
ディオクレティアヌスは、行財政改革を断行する一方、帝国を四つに分けて4人の皇帝で統治する制度を始めた。自分は東の正帝として、ニコメディア(トルコ)に都を置いた。朋友マクシミアヌスを西の皇帝に任命してミラノに配置し、東の副帝としてガレリウスをギリシアのテサロニキに、西の副帝としてコンスタンティウスをドイツのトリアに置いた。皇帝自らが前線に基地を置く布陣であった。自分をユピテル神の子孫として神格化し、皇帝崇拝の儀礼を強化するとともに、それに従わないキリスト教徒を処罰した。このため、まもなくキリスト教が公認されると「最後の迫害者」とされた。キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は、彼が西の副帝に任命したコンスタンティウスの息子である。
サローナは、ディオクレティアヌス帝の治下でも、その後も栄えた。サローナの遺跡では、広い野原に円形競技場や劇場、キリスト教の聖堂などの遺構が散在している。皮肉なことに、ディオクレティアヌスが処刑したキリスト教徒はまもなく殉教者となり、それを記念する聖堂や殉教者記念堂が次々に建てられた。
サローナはその豊かさのために、ゲルマン人やフン族の攻撃を受けた。最終的には7世紀にアヴァール人に破壊され、町は放棄された。
炎天下、サローナの遺跡を歩いた(図38)。遺跡は広くて、少々くたびれた。益田さんとは、以前一緒に発掘したトルコのゲミレル島周辺はもちろん、地中海沿岸やエーゲ海沿岸の遺跡を何度も訪ね歩いた。そのときもレンタカーで旅行し、原野をかき分けて遺構を探し、夜に小さな町にたどりついてエアコンもないホテルに泊まった。今回は町の中心に宿を確保してあるので、そのときと比べればずいぶんと気が楽だ。
サローナからスプリトの方を眺めても、旧市街は見えない。間に新市街があるからだ。社会主義時代に建てられた高層ビル群が視界をさえぎっている。奇妙な眺めだった(図39)。
夕方スプリトの旧市街に戻り、港の駐車場に車を置いて、紹介してもらった民宿へ行った。教えられた建物にはレセプションと朝食堂だけがあり、別の建物に案内された。ここもベッドルームがふたつにキッチンとバスルームがついたアパートメントである。いくつかの建物のいくつかの部屋を買い取って、民宿を経営しているらしい。部屋は快適だし、古い町に泊まれて満足である。ノートパソコンを開くと、スプリト市が運営している無線LANの電波が無料で使えてインターネットにつながり、日本にメールも送ることができた(図40)。
スプリト(益田)
ディオクレティアヌス帝はキリスト教徒を迫害したために、信者には不人気であるが、有能な皇帝であったのだろう。広大になり過ぎた帝国を4分割して、苦心の統治をした。キリスト教徒弾圧も、そのための政策であった。ローマ皇帝として初めて、生きているうちに退位し、生地に近いここスプリトに隠棲した。隠棲とはいっても、スプリトの旧市街全体が彼の宮殿であったくらいなので、兼好法師などとは違っているが。
ディオクレティアヌスとともに引退した盟友、西の正帝マクセンティウスは権力に未練があって、友に復位を求めたらしい。その際にディオクレティアヌスが書き送った書状が、エドワード・ギボンによって紹介されて有名である。「もしこのサロナにおいて、わたしが手づくりのキャベツをお目にかけることさえできれば、いくら君でも、もう二度とこの楽しみを棄てて権力を求めよなどと勧める気にはなるまい」(『ローマ帝国衰亡史』第2巻、中野好夫訳、ちくま学芸文庫)。
だからクロアチアのキャベツは、人の生き方を象徴する。元来ローマ人は、多忙な都市生活の合間に、田園の別荘(ヴィッラ)に赴いては、英気を養った。喧噪を離れた静かな田園生活をオティウムという。それに否定接頭語のnegをつけたネゴティウムは、仕事に追われる都市での生活である。日本語では「余った暇」などというが、ローマ人にとっては田園生活こそがあるべき生き方で、都市での日常はその否定形に過ぎなかった。
モザイクに飾られた田園のヴィッラは望むべくもないが、私にとってもこうした旅や、あるいは毎日の散歩が本当の生なのだと思う。そのことをクロアチアのキャベツは、スプリトの町は、密やかに語りかける。私たちが旅をしたちょうどこの頃、ラヴェンナでは「オティウム」展という、ローマ時代の田園生活を紹介する展覧会が開催されていた。
スプリトの町は、西に伸びる大きな岬の南側に深い入り江があって、よい港となっている。港に面してグラード(町)と呼ばれる旧市街があり、これがディオクレティアヌス宮殿に相当する。漢字の「田」の字の形をした宮殿には、下辺の中央から入る。いったん階段を降り地下を少し歩いて地上に出ると、そこがペリスティル(列柱廊。柱をぐるりと立てまわした、という意のギリシア・ラテン語に由来)である(図41)。ディオクレティアヌス宮殿の構造をもっとも残した部分である。皇帝に扮した俳優が、何やら布告をするパフォーマンスが時折行われていた。
地下通路には土産物屋が並ぶ。入場料を払えば、宮殿の広大な地下遺構に入ることができて、かつての繁栄のさまを偲ぶことができる。クロアチアの土産には何がいいだろうか。ラヴェンダーの茎を編んだものやサシェ、赤珊瑚のアクセサリー、近くのブラチ島産大理石の細工物、等々。ブラチの大理石は濃い目のベージュ色で、コンスタンティノポリス(イスタンブール)のアギア・ソフィア大聖堂や、ワシントンのホワイト・ハウスにも使われているという。卵形の大理石が、600円ほどであった。
ペリスティルで海に向かって立つと、右側がカフェ、左が大聖堂である。キリスト教聖堂を建設する際に、ローマの遺構は意図的に破壊されることが多い。ましてやキリスト教弾圧者ディオクレティアヌスの宮殿である。652年に、神殿は聖母マリアに捧げられた大聖堂に変えられたが、ペリスティルはそのまま残された。中世の修道院の回廊のような具合である。
大聖堂は八角形の集中式プランで、ゴシックの鐘楼がそびえ立つ(図42)。外壁、内部ともにローマ時代のスポリアで豪華に装飾された(図43)。再利用する石材には事欠かなかったに違いない。おそらく男女神を表していた浮彫が、ディオクレティアヌス帝夫妻の肖像だと伝えられている。宝物庫にはイタロ・ビザンティン(ビザンティンの影響を受けたイタリアの美術)のイコンなどがある。別途入場料を払うクリュプタ(地下祭室)には、見るべきものはない。
ペリスティルの近くにはユピテルに捧げられた神殿がよく残っている(図44)。中世には洗礼堂として用いられた。神殿の入口に1頭、そしてペリスティルにも1頭(図45)、紫斑岩で彫られたエジプトのスフィンクスが、三越のライオンのごとくに、あるいは神社の狛犬のごとくに鎮座する。ちなみにギボンは、アスクレピウス神殿が洗礼堂となり、ユピテル神殿が大聖堂となったと記すが、これは誤りのようである。しかし主神ユピテル(=ゼウス)も、医療神アスクレピウスも、キリスト教の初期にはともにキリストに重ね合わされた。
田の字形の宮殿跡は、地中海都市によくある迷宮のような路地が入り組んでいる。各辺中央にはローマの門がよく残っているが、内側から到達しようとすると容易ではない。行きつ戻りつしていると、かつて歩いたナクソスやシラクーザの路地を思い出す。宮殿への正式なアプローチは海岸からではなく、田の字の上の辺に位置する黄金門(図46)から南行するものであった。
旧市街から少し離れたところに、考古学博物館がある。有料の室内よりも、無料の庭園に見ものが多い。パネルに仕立てられた床モザイクや石棺。4世紀の初期キリスト教石棺に優品が数点ある。
若い頃は費用を切り詰め、ぎりぎりの旅をしていた。フィルム代がばかにならず、限られた枚数で、真剣に撮影をした。今デジタル・カメラの時代になって、フィルム代・現像代を気にせず、撮りたいだけ写真が撮れるので、つまらないものも撮ってしまう。チュニジアに行ったときは、雲ばかり撮っていた。クロアチアの旅では、白い石灰岩や大理石の石畳が気に入って、はいつくばるようにカメラを構えた(図47)。観光客の雑踏の中でこれをやると、きわめて怪しい。
読者にサービス。スプリトの海岸で、大勢のクロアチアの女性モデルによって、何やらお菓子の宣伝写真が撮影されていた(図48)。ヒール込みで彼女たちは、みな180センチ以上あるだろう。脚は私のヘソの辺りまである。かつてディオクレティアヌスが上陸した岸に、色とりどりのお菓子が舞った。
旅の終わりに(浅野)
クロアチアのアドリア海沿岸には、数多くの古く美しい町がある。われわれは、訪れた町ではゆっくり時間を取ったが、その代わりにいくつもの町を素通りした。勤めを持つ二人が日程をやりくりして来たのだから仕方がない。退位、いや退職すればまたゆっくり来ることができるだろうと思いつつ、フェリーでスプリトを後にした(図49)。
SPAZIO誌上での既発表エッセー(浅野和生氏) 目次
- 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記1 (no.54 1996年12月発行)
- 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記2 (no.55 1997年6月発行)
- 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記3 (no.56 1997年12月発行)
- 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記4 (no.57 1998年6月発行)
- 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記5 (no.58 1999年4月発行)
- 聖ニコラオスの島 ─ 地中海岸ビザンティン遺跡発掘記6 (no.59 2000年4月発行)