第一部

 マリファナの煙の中で

(図1)演奏前の会場風景。ディスクを聞きながらMASSADAの演奏を待つ人たち
(図2)ハード・ロックに聴き入る十歳前後の小学生の女の子たち
(図3)MASSADAの演奏会の聴衆。いろいろな年齢層と国籍がうかがえる
(図4)車椅子の少年。最前列で食い入るように見つめて聞いているのが印象的だった

 もうもうと立ち込めるマリファナの煙。天井の八方から、サイケデリックな色のスポットライトがホールを翔け廻る。スポットライトの中で、煙の束が虹色の大蛇のように大胆な渦を巻いてのた打ち回る。ホールには椅子は一脚もなく、三百名以上の聴衆がびっしりと詰め込まれて立錐の余地もない。聴衆はスピーカーから耳を聾する音量で流れてくるロックのディスクにあわせて、くねくねと身体をよじらせて踊っている(図1)。様々な人種の顔が、色とりどりのスポットライトに浮かんでは消える。初めは十代と二十代の若者ばかりかと思っていた顔の中に、まだ十歳前後の小学生や四、五十代の男女の顔も見える。さらによく見ると、数は少ないが、髪や髭が白くなった年配の男女も混ざっている(図2,3)。車椅子の客もいた(図4)。ホールの四箇所に置かれたスピーカーは、どれも二段重ねで高さが三メートル近く、幅も二メートル近い巨大なものだ。舞台の上では前座を勤めたバンドの演奏が終わったばかりのようで、楽器を片付けたり次のバンドの準備をしたりする人たちが忙しく動き回っている。 

 私と連れがホールに入ったのは、ちょうど次の演奏が始まる前のそんな休憩時間帯だった。十時から今夜の目玉であるMASSADA(マッサダ)の演奏がスタートすると聞いて、それに間に合うようアムステルダムでの会を早めに切り上げて大急ぎで車をとばしてきた。ロック・コンサートのイメージから程遠いローカルな町の静かな新興住宅地の中に、「城」という名前のモダンで小さなコンサート・ホールがあった。入り口を入ると、ホールを取り巻く回廊に溢れている若者の多さにまずは圧倒された。そしてドアを開けてホールに入った途端、私たちの会話は不通になってしまった。どんなに耳に口を近づけて大声でどなっても、耳元のスピーカーから流れてくるすさまじい音量で声は完全に掻き消されてしまう。腹の底から突き上げてくるような振動。だんだんに耳の鼓膜が破れそうな不安感に襲われ始めた。

 MASSADAとニッピー・ノーヤ

(図5)演奏中のニッピーとMASSADAのメンバー
(図6)我慢できず真っ先に踊りだした四十代くらいの女性
(図7)彼女につられて別の女性も踊りだした
(図8)ボンゴを両膝に挟み、二つのコンガを前にしてソロパートを熱演するニッピー
(図9)同上。ほとんど無我の境地

 実際に演奏が始まったのはもう十一時に近いころだった。スピーカーから流れていた曲が消えると、舞台にすらりとした女性司会者が現れて、今夜の目玉バンドであるMASSADAとメンバーの紹介をした。八人のメンバーが舞台に登場してそれぞれの楽器の持ち場につくと、割れるような拍手が起きる。イントロ部分はなく、突然最初からハードなビートで演奏が始まった。生演奏の音量と迫力は、先刻のディスクの比ではない。体の振動は揺さぶられるように激しくなり、自分の鼓動とコンガの音が共鳴して、心臓が直接打たれているような感触だ。床が揺れて足をすくわれそうな気分に何度も襲われるが、こんな音量も感触もついぞ経験したことがない。スピーカーのまん前に立っているからだけではない。会場が音そのものに化してしまっているのだ(図5)。白いブラウスとジーンズで最前列にいる、四十代くらいの女性が待ちきれずに一人で踊りだした(図6)。何人もの人が続いて踊りだした(図7)。グラスを片手にリズムをとって身体をくねらせている人もいる。バンド・リーダーでヴォーカル兼MCを勤める長髪のジョニーが、大形のマラカスを振り鳴らしながら舞台で歌い、語り、アクロバットダンサーのようにダイナミックに踊りまくる。まるで聴衆を煽動するような、しなやかで激しい彼の身のこなしと、MCに呼応した聴衆の動きはいよいよエスカレートしていく。ヴォーカルのほかにはドラムとティンパニー、三台のエレキ、キーボード、ボンゴとコンガで編成されたMASSADAの八人のメンバーが演奏するハード・ロックは、興奮と陶酔、マリファナとダンスとアルコールとが一体となって、完全に観客を麻痺させてしまった。                  

 興奮のさなか、やがてニッピー・ノーヤの叩くボンゴとコンガのソロパートが始まった。舞台の最前列に座った彼の両膝の間には、二つのボンゴがしっかりと固定されている。青塗りの細長いコンガが二つ、その前に置かれている。彼の両手が、ボンゴとコンガの間を的確に流れるように移動し始めた。長いソロは、甲高い腹に響き渡るビートで大小の嵐のように疾駆し、とどまることのない勢いで暴れまわる。目をつぶってほとんど無我の境地で演奏しているとしか思えないニッピーの坊主頭が、激しく揺れ動いている。がっしりした身体には力と自信がみなぎっている。坊主頭から額、両頬、青い刺青のある首すじへと、滝のような汗が流れ落ちていく。時々汗を拭く時以外は目を開けることはない(図8,9)。
 演奏が終わると嵐のような拍手と歓呼。鳴り止まない激しい歓呼が、彼の人気が群を抜いていることを十分証明していた。

 二〇〇七年一月十九日。真冬の雨の深夜、オランダはライデンから程遠くないアルフェンという町で行われたロック・コンサートでのことである。

 日蘭史の陰で / オランダの日系二世たち

(図10)女優のウィーテケ・ファン・ドルト

 二〇〇六年の夏のある日、知り合って間もないヒデコ・ヒースケから電話がかかってきた。彼女は、日本人を父に、インドネシア系オランダ人を母に持つ「JIN」という日系二世の会の会長をしている女性だ。来る九月二十四日に、「JIN」の創立十五周年を祝う会を催すので、あなたが親しくしているウィーテケ・ファン・ドルトにできれば公演を依頼してもらえないか、という電話だった。有名なエンターテイナーで女優のウィーテケには、この連載の第三回目「ウィーテケのエメラルドの帯」で登場してもらったので、読まれた方もいるかも知れない。旧蘭領東インド(現インドネシア)から戦後本国オランダに引き上げてきた彼女は、植民地時代のインドネシア人とオランダ人との生活習慣をパロディー化したり、インドネシアへの憧憬を歌と踊り交じりの寸劇に仕立てた「タンテ・リーン(リーン小母さん)」シリーズの舞台とテレビ番組で大ヒットし、人気を博した女優だ。早速ウィーテケに連絡して「JIN」の性格と成立のいきさつを話し、何とか「JIN」の少ない予算内で引き受けてもらえないかと依頼した。結局この公演は実現し、「JIN」創立十五周年記念の会は、ウィーテケの公演によって華やかでより楽しいものに彩られたのだ(図10)。

 日本が第二次世界大戦に参戦した翌年の一九四二年三月一日、日本軍は蘭領東インド(以後蘭印と記述)のジャワ島に上陸した。オランダ本国がすでにナチスの占領下にあって、本国からの援軍を期待できない蘭印政府は、自前の蘭印軍(KNIL)だけで日本軍に対したものの、あっけなく惨敗して無条件降伏するはめにおちいった。こうして蘭印の政府関係者、軍人、民間人たちの多くが捕虜となって日本軍の収容所に入れられ、悪条件の下で強制労働に従事させられて大勢の犠牲者を出すこととなった。日本は以後三年間に亘って蘭印を占領することになったが、この時収容所に入れられた蘭印人の数は、約二十万から三十万人と伝えられている。一九四五年の日本の敗戦で収容所から開放された蘭印人たちは、今度はインドネシア独立戦争に巻き込まれ、かつて自分たちが支配した現地人から攻撃される立場に逆転した。こうして二つの戦争を生き延びて、何とかインドネシアから本国オランダに引き上げたものの、戦争で大きな打撃を受け、疲弊しきった本国で彼らを迎えたものは、冷たい眼差しと待遇だった(この間の事情は「ウィーテケのエメラルドの帯」で詳しく書いたので、参照されたい)。

 他方、蘭印に上陸した十数万人に及ぶ日本軍々人や軍属の多くが、日本の敗戦までの三年間に現地人の女性たちと起居を共にしたり、親しく交際したりしていた。純血オランダ人(白人)と、純血に近い混血オランダ人男女のほとんどは収容所に入れられていたので、日本人の交際相手の多くはインドネシア人女性か、何代にも亘って複雑に混血した蘭印系の女性たちだった。そうした女性たちと日本軍人との交際の結果、当然沢山の子どもが生まれていた。しかし、日本の敗戦によって父親の多くは日本に送還されてしまった。まだ幼かった彼ら子どものうちで、父を覚えている者は僅かしかいない。日本軍人と現地人との結婚は許されていなかったので、母親たちの多くは戦後に蘭印出身者やオランダ人と結婚した。しかし夫にも子ども本人にも、彼らが旧敵国人である日本人の子だということを隠してきたケースも多い。こうした日系二世たちの多くは、本国オランダに移住してオランダ人として育てられるケースがほとんどだったが、彼らの出自を知る継父や家族たちから、敵の子として差別され苛められた辛い経験を隠し持っていた。再婚した夫に連れ子の身を気兼ねした実母にまで疎まれ差別された人も多く、生まれたことへの自己嫌悪と罪悪感など、何らかの形で誰もが深い心の傷を負って成長していた。

 しかし、戦争の犠牲者であるこうした日系二世たちの存在は、歴史の陰に注意深く隠され、オランダでも日本でもつい最近まで報道されることがないまま、六十年の歳月が流れた。日本人を父に持つこれらの日系二世たちの中には、相当な年齢になってから自分が敵の子であるという事実を知らされた人もいた。彼らがその衝撃的な事実を直視し、その出自と差別された過去をやっと話し出し、父親探しを真剣に考え始めたのは、その人生も半ばに差し掛かった一九九○年代になってからのことだった。何故自分だけが家族の中で異質だったのか、何故継父は自分を蔑視したのか、自分は一体誰の子なのか、父は一体どんな人なのか、日本人の父は自分の存在を知っているのか、自分は両親の愛と信頼の結果生まれた子なのか、母は今でも父を愛しているのか、何故父は自分たちを捨てたのか、父は日本のどこかに今も生きているのか、それならなぜ自分や母を探そうとしないのか……。疑問が次々と湧き起こり、怒りと絶望に打ちのめされて精神不安定で治療を受ける人もいた。これらが解決しない限り、自分自身の存在を肯定的に受け入れることはできそうになかった。オランダにいるこうした日系二世たちは約八百人を数えると推定されている。日本人の子だということをいまだに隠し続けている人や知らされていない人、インドネシア人として戦後もインドネシアに住み続けている人を入れれば、実数はさらに大きなものとなるだろう。

 「JIN」と「SAKURA」の会

 一九九一年二月一日、日系二世たちが集まって自分たちの悩みを分かち合い、お互いの交流と親睦をはかり、父の国をもっとよく理解し、できれば父を探したいという目的で結成したのが、「JIN」の会だった。オランダ語の“Japans Indische Nakomeling” の頭文字をとって“JIN”と表記したものだが、これは日本語の「人=じん」とのかけ言葉にもなっている。日本語に訳すと、「日系蘭印人の子孫」の会ということになる。自分たちの中に流れる日本人の血を認識し、「人間」としてのアイデンティティと自信を取り戻したい、という願いをこの「JIN」の文字に籠めたのかも知れない。しかし創立間もない「JIN=人」は、多少の考え方の違いから「SAKURA=桜」という別の会ができて二つに分裂する。それでも目指すことと、自分たちが日系二世であるという事実に変わりはない。現在、二つの会は再び歩み寄り、創設時の共通の精神に立ち戻って仲良く交流していると聞いている。   

 どの日系二世にも、実父の記録は余り残されていなかった。父親だった日本軍人たちが、敗戦で捕虜となって連合軍の収容所に入れられたり本国に送還されたりした後、敵国人の妻や子どもと言われて迫害を受けるのを恐れた母親や家族たちが、証拠になるものを注意深く処分してしまったからだ。手元に残された僅かな写真とささやかな記念の品、母から聞いた不確かな記憶などを手がかりに、彼らは日本大使館や赤十字社、厚生労働省等に問い合わせたが、何しろ五十年も前のことでもあり、思うようにことは運ばなかった。この事実に、日本人としての責任と義務感を感じたオランダ在住の何人かの日本人が協力してくれた。また日本でもインドネシアに派遣されていた旧軍人の会や各県庁、篤志家たちのボランティア活動で父親探しが軌道に乗るようになった。九十年代半ばころからは、彼らの父親探しの事情は、オランダだけでなく日本の新聞やテレビでも時々報道されるようになったので、まだ記憶に残っている日本人も多いことだろう。この十数年間で調査の努力が少しずつ結実し始め、両方あわせて百名ほどの会員のうち、現時点では四十名近い人々が、生死は別としても父親探しに成功したと言う。この間の事情をまとめた衝撃的な本が昨年日本で出版されている。「わたしは誰の子?=父を探し求める日系二世オランダ人たち=」 葉子・ハュス・綿貫著(梨の木舎)」という本だ。これを読むと、彼らの「父が誰か知りたい」「父に会いたい」という切々たる思いが伝わってきて胸を打たれる。戦争の残した爪あとが、六十年を経たこのオランダの地で、いまだに消えていない事実に愕然とさせられる。

 ニッピーとの出会い

 二〇〇六年九月二十四日。アムステルダムから二十キロほどの距離にある、フェフト川沿いの美しい町、ブレウケレンの会場で行われた「JIN=人」の十五周年記念の集いは素晴らしいものだった。日系二世といっても、父方の日本人の特徴を濃く受け継いだ人もいれば、蘭印系の母親の特徴をより濃く受け継いでいる人もいる。総じて言えることは、どの顔も体型も非常に日本人に近いことだ。父が敵国人の日本人だという、共通の重い事実を背負って半生を歩んできた、日系二世たちが集まって設立した「JIN」と「SAKURA」の会の会員間には、他者には分からない熱い連帯と共感があるのだろう。共通語はオランダ語でも、オランダ人やインドネシア人の会とはまた違った親密な雰囲気が感じられる。

(図11)「タンテ・リーン(リーンおばさん)」に扮してJINの十五周年で公演するウィーテケ
(図12)「JIN」十五周年記念会で、舞台に見入る日系二世の人たち
(図13A)公演を終えて参加者たちの挨拶とウィーテケ
(図13B)公演を終えて。左からニッピー、ウィーテケ、ヒデコ

 トレードマークのインドネシア風髷のカツラを被り、インドネシア人が着るサロン姿で舞台に現れたウィーテケはどこからどう見てもインドネシア夫人になりきっている。蘭印人独特のアクセントで話すウィーテケのショーマンシップは見事で、会の趣旨に沿った数々の臨機応変なアドリブを連発して会場を沸かせ、笑わせ、参加者をすっかり一つにまとめてくれた(図11)。自身が蘭印からの引揚者であるウィーテケは「JIN」の会員とは境遇を異にするが(ウィーテケは白人系の蘭印人)、この会の性質を事前に学び、知悉して臨んだのだ。ウィーテケは舞台から観客に親しく話しかけたり、指名された司会者が舞台に上がって彼女と踊ったりするハプニングがあったりで、会場は笑いと和やかな雰囲気に溢れた(図12,13A)。
 ウィーテケの公演が始まる頃、私の席の隣にジーンズの上下に身を固めた坊主頭、丸顔に細い目の、がっしりした体格の男性が来て座った。東洋人であることはすぐに判るが、年齢も国籍も不明で、誰とも違う独特の雰囲気を湛え異彩を放つ彼の風貌から、私にはすぐにそれが誰かが判った。ヒデコに紹介を頼んでいたニッピー・ノーヤだった。ヒデコから私のインタビューの希望を聞いたニッピーは、早朝にドイツでの演奏から帰宅して仮眠をとり、遠路を私に会いにわざわざやってきてくれたのだという。この日はニッピーとの初顔合わせだけに終わり、年明けの一月にインタビューすることを私たちは約束して別れた(図13B)。そしてこの日会場で映写された、「JIN」の創立十五周年を記念して編集されたDVDによって、私はニッピーが一九九六年に、日本の父の出身地を訪ねて父の墓参をしたこと、そこで初めて会った異母兄弟や家族に暖かく迎えられたことなどを知った。その二日後、ニッピーから一枚のサイン入りCDが送られてきた。彼がコンガを演奏しているバンドのものだったので、早速聞いてみた。それは思っていたよりずっと静かで瞑想的な、美しいポップ曲のアルバムだった。

 二〇〇六年 晩秋の東京で

 「JIN」の創立十五周年記念に出席した後の二〇〇六年の晩秋、私は東京にいた。例年より暖かかったこの秋のある夜、私はオランダ関係者に誘われて、東京のホテルで開かれたパーティーに出席した。主催者は日本の外務省である。戦時中、インドネシアで日本軍の捕虜収容所に入れられた旧蘭印のKNIL(蘭印軍)の軍人組織は、戦後本国オランダに引き上げた後、今日までの六十年以上をずっと日本政府の正式謝罪と補償を求めて抗議を続けている。日本政府は、日蘭間の戦後補償は一九五一年のサンフランシスコ条約で解決済みとしているが、オランダ国内の認識との温度差は、現在もまだ歴然としている。日本政府の首脳や高官が、訪蘭する度に繰り返される謝罪や遺憾の表明、犠牲者の記念碑への献花も効を奏さず、日本政府は彼らへの謝罪と補償に代わって、一九九六年より二〇〇四年まで「日蘭架け橋計画」という新たなプロジェクトを立ち上げ、特別予算を設けて、旧KNILの軍人やその家族を日本に招く事業に取り組んできた。東京、京都、大阪、広島、九州などを十日ほどで周る旅を通して、現在の日本と日本人に触れて理解を深めてもらい、日本側の意のあるところを汲んでもらうと同時に、彼らの対日感情を和らげたいという意図なのだろう。それがどの程度の効果をもたらしたのかは私には知る由もないが、少なくとも私が購読している反日色の濃いオランダ紙の記事は、ここ数年ずいぶん攻撃のボルテージが下がったように思われる。
 この元収容所経験者の招待が一段落した後で、日本政府は父親探しをする「JIN」と「SAKURA」のメンバーとその家族を、引き続き二〇〇九年まで毎年十名ずつ日本に招き、ボランティア団体を通して父親探しの援助をするプロジェクトを立ち上げた。KNIL出身の元収容所経験者とは違って、彼らは日本政府からの謝罪や補償を求めているわけではない。彼らの望みはただ父を探したい、許されるなら父や異母兄弟に会いたい、すでに父が故人となっているならせめて父の墓参をしたい、自分の父親の国を見たいというもので、その性格と目的は前者とはおのずと異なっている。 

(図14)日本人と変わらない日系二世(左の二人)と、佐倉オランダ語同好会の会員(右の二人)たち(中島洋一郎氏提供)
(図15)二〇〇六年十一月の東京での「JIN」と「SAKURA」の送別会で、佐倉のオランダ語同好会メンバーと一緒に日蘭の歌を歌って交流(中島洋一郎氏提供)

 翌日オランダに帰国する彼らのために開かれた、この夜のささやかな送別会では、千葉県の佐倉市から駆けつけてきた十名ほどのオランダ語同好会のメンバーたちが、日系二世たちと一緒に日本やオランダの歌を歌って会を盛り上げてくれたのが印象的だった。日系二世の出席者たちにとっては、日本で思いがけず聞くオランダ語やオランダの歌は、旅の終わりに心を慰められるものだったろう(図14,15)。この夜の会の主催者である外務省の関係者に事情を聞いてみると、父親探しに関しては、ほとんどボランティア団体や個人に頼らざるを得ない状況であることも分かった。
 日本側出席者の中に、かなり高齢の背の高い男性が一人いた。この男性が「JIN」や「SAKURA」の会員から、非常な尊敬を受けていることは一目瞭然だった。内山さんという旧軍人で、まったくのボランティアとして彼らの父親探しに長年携わってきたが、これまでに何十人もの父親を探し出したと聞いた。この日も大阪からわざわざ出かけてきたという。会が終わって私は出席者の一人から、先にも触れた出版されたばかりの「私は誰の子?-父を探し求める日系二世オランダ人たち」を贈呈された。翌日一気に読み終えたが、この本を通して父親探しをする日系二世たちの本当の苦しみを初めて理解した。内山さんや多くの善意の人たちが果たした役割と、彼に対する日系二世たちの尊敬と信頼の念も、この本を読んで理解できた。そしてオランダでの「JIN」創立十五周年の折に上映されたDVDの中で、かつてインドネシアで現地女性と関わりを持ち、戦後帰国した高齢の元日本人軍人が出演して、「当時の給料では家族を養えなかった。日本に帰還し(日本人と)結婚することを決めた段階で、昔のことは忘れよう、過去のことは過去のこと、新しいことは新しいこと、と割り切った」とコメントしていた場面を思い出した。これが一体どこのテレビで放映されたものか、彼がどういう人なのか、インドネシアに残してきた実子やその母親と面会できたのかどうかなどは、そのDVDではよく理解できなかった。しかし、結果的には彼のような旧軍人に置き去りにされた子どもたちが、「JIN」や「SAKURA」の会員たちなのだ。そして、内山さんはそうした同僚が残した子どもたちの苦しく辛い半生を受け止め、彼らの父親探しの手伝いを余生をかけて黙々と続けている。

 ニッピーはスマートに乗って

 年が明けて二〇〇七年一月。何度ものメールでの交信が続いた結果、前年九月以来の約束だったニッピーとのインタビューがやっと実現できる日が来た。

(図16)スマートに乗って我が家にやってきたニッピー

 一月十五日、午後2時。ニッピーは、ネービーブルーとシルバーのツートンカラーのスマートに乗ってやってきた。坊主頭に黒いTシャツと洒落た黒のジャンパー。背中には彼のもう一台の愛車であるハーレイ・デイヴィッドソン(有名な高級オートバイ)の凝った刺繍がある。Tシャツの胸には三重になった白い首飾りをかけている。黒のジーンズ、つま先を四角にカットした黒皮のアンクルブーツと、全体を白と黒でまとめたファッションで、流行の最先端を行っている(図16)。私たちは既に「JIN」の創立十五周年で会っていたし、メールでの度重なる交信で、何だか以前からすごく親しかったような気分で話しあえた。ニッピーが半分日本人だということも、オランダ人をインタビューする時と違った気楽さと親密さを感じさせてくれる。本来なら私が出向くところを、ニッピーはわざわざドイツ国境に近いエンスヘデーから、二百キロ以上の距離をいとわず我が家まで来てくれたのだ。

(図17)インタビュー中のニッピー。墨染めの衣を着たらお寺の住職さんに見える?
(図18)冬の夕暮れ、湖を背景に後姿で立つニッピー。ジャンパーの背中には、もう一台の愛車ハーレイ・デイヴィッドソンの文字が見える

 私たちは日本食で遅い昼食を一緒にとった。食事をしながら話し始めたニッピーの話は、すでに私が用意しておいた質問の答えになっているので、私は食べながらせっせとメモをとり続けることになった。話していても笑顔を絶やさないニッピーは、まぎれなく温厚な日本人の顔だ。誰かに似ているな……、と彼の顔を見ながらメモを取っているうちに思い当たった。そうだ、瀬戸内寂聴さんによく似ている。剃髪のせいだけではない。顔の輪郭や全てが良く似ているのだ。特に眉が薄く笑顔が優しいところが似ている。墨染めの衣を着た姿を想像すると、お寺の住職さんにぴたっとする風貌だ(図17)。

 昼食は結局食べたのか食べないのか分からないままに終わり、私たちはそのまま食卓に夜中の十一時まで座り続けていた。もっともその間一度、暗くならないうちにと外に出て、暮れなずむ冬の湖水を背景に彼の洒落たファッションと愛車のスマートを我が相棒が撮影した(図18)。あとはインタビューに終始し(図19)、気が付いた時は夜の十一時だったのだ。ニッピーがエンスヘデーに帰り着いたのは、きっと夜中の一時に近かっただろう。

 誕生そして別れ

(図19)白黒のファッションに赤い椅子がよく似合う

 ニッピー・ノーヤは一九四六年二月二十七日に、当時蘭印と呼ばれていた現在のインドネシアで、ジョゼフィーン・メネンケイと日本軍高官だったナカタフサオの長男として生を受けた。父の軍隊での階級をニッピーは正確には知らないが、高官だった父には、運転手付の車が支給されていたという。軍人としてインドネシアに派遣された父は、それが持病だったのかカルシュウムが不足する病気で治療を受けていたという。終戦間近に病状が悪化して入院したが、その時に父付きの看護婦として配属されたのが、蘭印系の看護婦ジョゼフィーンだった。この時期に二人の間に恋が芽生え、戦後の一九四六年、父が三十一歳、母が二十一歳の時にニッピーが生まれた。 
 ニッピーは父の顔を知らないまま育ったが、後年母はよく優しかった父の話をしてくれた。父はインドネシアをこよなく愛し、インドネシア語をかなり上手に話した。ある時収容所の捕虜を虐待した日本人の部下を厳しく罰したことがあったが、非常に親切で公平な人間だったことから、捕虜たちや現地のインドネシア人たちに慕われ人気があった。日本軍人と現地人の結婚は軍規で禁止されていたが、フサオはできればジョゼフィーンの信じるカトリック教徒に改宗して、彼女と一緒にずっとインドネシアに住み続けたいという夢を抱いていた。しかしフサオは、日本に妻と息子を一人残して出征している身だった。
 一九四五年に戦争が終わった時、敗戦国日本の軍人たちは今度は自分たちがインドネシア軍の捕虜となって、オランダからの独立を懸けて戦っているインドネシア軍に、軍事訓練を施す役目を担わされることになった。収容の身では現地の妻や子どもに会うことは不可能だったが、父が幼いニッピーを抱いてくれたかすかな記憶がニッピーにはある。 Nippy(ニッピー)という名前は、父が「小さなNippon=Nippy」という意味を籠めて息子につけてくれたものだと母から聞いた。
 ニッピーが三歳になった一九四九年に、インドネシアは宗主国オランダからの独立を果たした。日本軍人たちは収容所から出され、そこから直接日本に送還されてしまった。母のジョゼフィーンもフサオに会う機会がなかったが、ニッピーにとってもそれは父との永遠の別れとなった。 

 拉致されてオランダへ

 父が帰国した後の一九五〇年、四歳になったある日、母の友人でニッピーの子守でもあった蘭印人の女性によって、ニッピーは拉致同然に連れ去られてしまった。そして彼女と夫(姓はノーヤ)はニッピーを連れてオランダ本国に移住し、ニッピーは彼らの養子として届けられた。その間の事情は今もってニッピーには不明だというが、子ども連れの方が引き上げに有利だとか、なにかしらの恩典や特典があったのではないかと想像できる。こうしてニッピーの養父母に納まった二人は、ニッピーを連れて暖かいインドネシアから不毛で寒冷なオランダ本国に到着した。一家は何箇所かを転々とした後、翌五一年にアムステルダムから二百キロも離れた東のはずれ、ドイツ国境に近いウェステルボルクに落ち着いた。ここはつい五年前まではオランダ全土から集められた十万七千人のユダヤ人やジプシーたちが収容され、ドイツやポーランド各地のナチスの絶滅収容所へ送られるのを待つために作られた収容所だった。アンネ・フランクもベルゲン・ベルセンの絶滅収容所に送られるまでの短期間をここで送っているが、彼らの中で再びオランダの土を踏めた者は五千人に過ぎなかったという。こうした陰惨な過去を持つ収容所跡は、戦後の一九五一年から七〇年までの約二十年間、インドネシアからオランダ本国に引き上げてきた、旧蘭印のKNILの元軍人たち(特にモルッカ島出身者)のための仮の住居として使われていた。
 ここにいる間に養父母には三人の娘が生まれた。養父母はニッピーを愛していたから拉致したわけではなかったので、彼らとの生活はニッピーにとっては厳しいものだったに違いない。特にKNIL出身者であり日本軍の収容所経験者だった養父が、実子でもなく敵国軍人の子であるニッピーをどう扱ったかは想像に難くない。しかし、この時代や養父母とのことをしつこく食い下がって質問する私にニッピーはほとんどコメントせず、ノーヤという苗字は仕方ないとしても、養父母の名前さえ明かさなかった。「彼らは自分の人生にどんな形においてもいかなる影響も与えることはなかったし、自分にとって彼らは一切無関係の存在だ」とニッピーは繰り返した。何も語らないということは単純な忘却や否定ではない。私は、ニッピーが養父母の存在自体を、自分の意識と記憶から完全に抹殺し葬り去ったことを悟った。

 一九五五年、ニッピーが九歳の時、養父母は離婚することになった。養母は二人の娘を連れてウェステルボルクの仮住まいを出て、モールドレヒトというロッテルダムから十五キロの小さな町に移り住んだ。ところがこの離婚のあおりで、ニッピーは養父と彼らの娘の一人と一緒に三人で、ウェステルボルクに残ることになってしまった。養父が二人を連れてこの仮住まいから移転したのは、一九六一年のことだった。ニッピーはすでに十五歳になっていたので、この元ユダヤ人収容所に通算十年も居続けたことになる。そこを出たニッピーたちはまたいくつかの場所を転々とし、最終的に落ち着いたのはウェステルボルクから東南におよそ五十キロ、ドイツ国境から十キロ足らずの地点にあるウィンテルスヴェイクという小さな町だった。
 翌一九六二年、十六歳になったニッピーは、オランダでリセウムと呼ばれているその町にある四年制の高等学校に入学した。日本とオランダでは学校制度が違っていて、オランダではリセウムやヒムナジウムを卒業すると大学入学資格が取得できる。ニッピーは、将来大学に進学したいという希望を持っていたが、まだどの方面に進むかは決めていなかった。学費や生活費は問題なかった。蘭印から帰国したオランダ人の生活費や教育費は国が面倒をみてくれていた。この高校時代に、他に帰省する所がないニッピーは学校の休暇ごとに、モールドレヒトに住んでいる養母の家に帰省するのが常だった。

 母・ジョゼフィーンとの再会

(図20)若い頃の母・ジョゼフィーン・メネンケイ。年齢は不詳。多分オランダに来たころか?(ニッピー・ノーヤ提供)
(図21)学生服を着た父・フサオの若い頃の写真。年齢年代は不詳(ニッピー・ノーヤ提供)

 母・ジョゼフィーン・メネンケイは、一九二五年にインドネシアのスラウェシのマカサルに生まれた。そこの住民たちは、十二、三世紀のジンギスカン時代にセレベス島(現スラウェシ)北部、マナドという所に移住してきたモンゴル民族の末裔だと言われている。若い頃の彼女の写真を見ると、インドネシア人より日本人に似ているのはそのせいだろう(図20)。ジョゼフィーンがうら若い看護婦として、父・フサオ付きとなったことが彼女の運命を変えたのだが、フサオが日本に送還された後もジョゼフィーンはずっとフサオを待ち続けていた(図21)。しかし、当時の日本とインドネシアの距離は今よりはるかに大きかった。フサオが帰国してから四年が経っていた。もうフサオのことは諦めねばならなかった。ジョゼフィーンは、ニッピーが自分の友人で子守りだった女によって連れ去られた一年後の一九五一年に、インドネシア人のエミール・コルドロンプと結婚した。ジョゼフィーンは、正直にフサオとのこともニッピーの存在のこともエミールに告げた。それでも結婚に支障がないとエミールが言ってくれたとき、ジョゼフィーンは拉致されて行方不明のニッピーを、彼らの子どもとして入籍してくれるようエミールに頼んだ。エミールは寛大な人だった。彼がそれを受け入れてくれたので、ニッピーは彼らの子どもとしてインドネシア人「ニッピー・コルドロンプ」の名前で生国インドネシアで登録された。
 ジョゼフィーンと夫のエミールは一九六四年にオランダに移住した。十八歳になったニッピーがまだウィンテルスヴェイクの学校に通っている頃のことだ。いつも養母は、ニッピーの実母ジョゼフィーンが母親として子どもを育てる資格のない駄目人間の上、性格も悪い女だから自分がニッピーを育てるために連れ去ったのだ、と拉致した理由をニッピーに言い聞かせていた。ニッピーはかすかにしか覚えていない実母を自分を捨てた悪い母親として恨み、恥に思い、ひどく嫌うようになっていた。ジョゼフィーンがオランダに到着後、ニッピーを探すために八方手を尽くしたということも、ニッピーはずっと後になって彼女から聞かされた。

 一九六五年、まだ高校生だった十九歳の夏休み、ニッピーはいつもの休暇の時のようにモールドレヒトの養母のもとに帰省していた。ある雨の降る日、ニッピーが外出先から帰宅すると見知らない蘭印人の女が養母と話をしていた。彼女が実母のジョゼフィーンだと言われた時、あまりの衝撃でニッピーの頭の中は真っ白になり、何も考えることも聞くこともできなくなってしまった。母親? この女が自分の母親だって? 自分を捨てた母親が今、目の前に立っているこの女だって? 実母はインドネシアにいるんじゃなかったのか? 今頃彼女は何の目的で自分に会いに来たのか? こうした疑問は後から出てきたことであるが、ニッピーは何故自分があの時あんな行動をとったのかは今でも分からない。とにかくこの泥沼のような現実から離れたい。ただそれだけだった。頭が混乱して何も考えられなかった。
ニッピーは雨の中に飛び出すと、目的もなく駅に向かった。どこかへ…どこかへ…。どこでもいいのだ。この現実から逃れられることができたなら……。

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