サヴォア宮殿の美術コレクションをめぐって――デューラーは、なぜ、マルガレーテ女公から絵画の寄贈を断られたのか?

1.デューラーのネーデルラント旅行

 1520年7月から一年あまりの間、デューラーはネーデルラントを旅行しています。この旅の最大の目的は、1519年に亡くなった神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(図1)から交付されていた年額100グルデンの年金の継続を、皇位を継承するカール5世(図2)から認めて貰うことにありました。100グルデンは、当時宮廷に雇用された画家が一年間に支給された金額と同額でもあり、年金交付の有無はデューラーにとって決して無視できない事柄だったのです。

(図1)
デューラー <皇帝マクシミリアン1世の肖像> 板絵 油彩 1519年 ウィーン美術史美術館
(図2)
<カール5世の肖像画> 1515年頃 ミヘル・シトウ(?)ブリュージュ大聖堂
(図3)
ベルナルト・ファン・オルレイ工房 <オーストリアのマルガレーテの肖像> 板絵 油彩 1518年以降 ブリュッセル、ベルギー王立美術館
(図4)
<フィリップ美公の肖像> 板絵 油彩 1495年頃 ロンドン アプトン・ハウス
(図5)
デューラー『銅版受難伝』から<鞭打ち>および<磔刑>

 この旅行中にデューラーが書き綴った日記(註1)からみて、デューラーは事前にいろいろと関係諸方に手を打っていたようです。幸い、8月下旬にはカール5世の叔母であり、ネーデルラント総督でもあったマルガレーテ女公(通称、オーストリアのマルガレーテ、あるいはマルグリート・ドートリッシュ)(図3)から、カール5世に使者を送って、デューラーに年金交付が継続されるよう後押しをする旨の知らせがもたらされました(註2)。マルガレーテはマクシミリアン1世の娘で、兄フィリップ美公(図4)が早逝したこともあり、総督としてネーデルラントの政治を司る一方で、甥のカール5世の養育にも携わった女性でした。ですから彼女の後押しを得た以上は、年金交付の継続交渉はほぼ成功したも同然であったものと思われます。デューラーは感謝の印として、すぐさま携帯していた『銅版受難伝』(図5)(全16枚、1507-1513年)を使者に託したほか、後に手持ちの版画作品一式と羊皮紙上に描いた素描2点を贈っています。またデューラーは、マルガレーテ女公に仕える人々への気遣いも怠ることなく、マルガレーテの官僚や侍医、宮廷芸術家などと親しく交際しては、肖像を描いてやったり、版画を贈呈したりしています。こうした甲斐あって、11月4日付けでデューラーは新皇帝カール5世から、年金交付を認める確認状を与えられています(註3)。

 ところで、デューラー自身も日記に、「女公は極めて友好的な態度を示された」と記してはいるのですが、マルガレーテのデューラーに対する態度は、なかなか複雑なものであったように思われます。というのも、後にデューラーが自らの絵画作品を献上したいという希望を表明した折、彼女はこれを退けているのです。ネーデルラント滞在中デューラーは行く先々で、画家や彫刻家はもとより貴族や有力者から歓待され、その作品は大抵喜んで受け取られています。日記を読む限り、面と向かって作品の受け取りを拒否したのは、マルガレーテだけだったようです。デューラーの作品の受け取りを拒むとは、今日の我々にとっては、想像もつかない対応に思われます。それも、マルガレーテが芸術に無関心であったどころか、むしろ大変に造詣の深かった人物であっただけに、この拒否は、意外にも感じられます。一体なぜマルガレーテはデューラーからの寄贈の申し出を断ったのでしょうか? まず、当時にあっては抜きん出て優れた美術愛好家であった彼女の美術コレクションの概要に触れておきましょう。

2.オーストリアのマルガレーテ

 ハプスブルク家は代々婚姻によって勢力の拡大を図ったことは広く知られていますが、マルガレーテもそれに翻弄された一人と言うことができるかもしれません(註4)。マクシミリアン1世とブルゴーニュ公女マリー(図6)との間の娘として1480年に生まれたマルガレーテは2歳で母を失った後、1483年にフランス王室の皇太子であった後のシャルル8世の婚約者としてロワール河畔のアンブローズ城で育ちますが、1493年にブリタニア王女アンとシャルルの結婚が整えられたために離縁され、祖父シャルル突進公(図7)が1477年に戦死して以来、祖母ヨークのマーガレット(図8)が居住していたメーヘレンに戻ります。1497年にはアラゴン=カスティーリヤ王国の王子ファンの許に嫁いだものの、僅か9ヶ月で夫と死別します。再びメーヘレンに戻った後、1501年にはさらにサヴォア公爵フィリベール2世(図9)と結婚しますが、1504年に夫君を狩猟中の事故により再び失うと、亡夫の菩提を弔うべくブール・ガン・ブレス近郊のブルーに修道院を建立し、隠棲を図りました。ところが、1506年にハプスブルク家の後継者たる兄フィリップ美公(1478-1506年)が亡くなってしまいます。途方に暮れた父帝マクシミリアン1世からネーデルラントの統治と、後のカール5世を含む亡き兄の子供たちの養育を任されたマルガレーテは、メーヘレンに戻りやがてネーデルラント総督に任命されて、当時の女性としては類稀な政治的手腕を発揮するとともに、甥や姪たちの帝王教育に専心する傍ら、アルプス以北にあっては稀な一大美術コレクションをメーヘレンのサヴォア宮殿内に築き上げました(註5)。マルガレーテには母親を介してブルゴーニュ公家の血が流れていたので、シャルル突進公の戦死によって絶えたブルゴーニュ公家の正統な末裔と言え、その文学的素養や芸術趣味も15世紀に文化的に隆盛を誇ったブルゴーニュ宮廷の伝統を引く高度なものだったのです。

(図6)
ニコラス・ライザー <ブルゴーニュのマリーの肖像> 板絵 油彩 1500年頃ウィーン美術史美術館
(図7)
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン <シャルル突進公の肖像> 1461-62年頃 ベルリン国立美術館。マルガレーテの所蔵目録中に記載されている「第一の部屋」に掛けられていたシャルルの肖像画と同一の可能性がある。
(図8)
<ヨークのマーガレットの肖像> 板絵 油彩 1496年頃 パリ ルーヴル美術館
(図9)
ヤン・モスタールト <サヴォア公爵フィリベール2世の肖像> マドリッド プラド美術館

3.マルガレーテの美術コレクション

 ルネサンス期の高貴な女性による美術コレクションとしては、マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステ(図10)のものが有名です(註6)。イザベラは自らの憩いの場、ストゥディオーロと呼ばれた小書斎(図11)を最高水準の神話画で飾ろうと思いたち、レオナルド・ダ・ヴィンチやジョヴァンニ・ベッリーニをはじめとする当時一流の画家たちに作品を註文したことで知られています。近代的芸術家としての自意識が芽生え始めた画家たちは、なかなか思い通りには働いてくれず、イザベラは相当フラストレーションがたまったようです。とはいえマンテーニャやベッリーニ、ペルジーノ等の傑作やレオナルドの手になるイザベラの肖像素描など、素晴らしい作品が残されており、極めて優れた美術コレクターにしてパトロンとしてのイザベラの存在の歴史的意義を今日に伝えています。このイザベラのコレクションに比べて、マルガレーテのコレクションはこれまでそれほどの注目を浴びてきませんでしたが、ダグマール・アイヒベルガーによる近年の研究によって、このコレクションがイザベラのものに優るとも劣らない規模と質を備えたものであることが明らかになってきました(註7)。イザベラが小国の君主夫人に過ぎなかったのに比べて、マルガレーテが神聖ローマ皇帝の息女で、かつ自ら統治者として活動したことを思えば、これは特段不思議なことではありません。では、具体的にマルガレーテのコレクションはどのようなものであったのでしょうか。

(図10)
レオナルド・ダ・ヴィンチ <マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステの肖像>(素描)パリ ルーヴル美術館
(図11)
マントヴァ パラッツォ・ドゥカーレ内イザベッラのストゥディオーロ(作品コピーを配置した復元)("La prima donna del mondo", Abb.62
▼ (図12)から(図30)までは、図のNo.をクリックすると図版を表示します。

 イギリス生まれの祖母を持ち、フランスで育ち、スペインやサヴォアに嫁入りしたマルガレーテだけあって、そのコレクションは、過去と当代の様々な様式の作品が混在し、国際性も豊かな、当時にあっては破格にスコープの広いものでした(註8)。フランス人の作例としては、ジャン・フーケの聖母子像やミシェル・コロンブのアラバスター製浮彫りに加え、ランブール兄弟によるかの『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』(図12)もマルガレーテの所有となっていた可能性が指摘されています。また優美な作風を誇るドイツ人彫刻家コンラート・マイト(図13)が宮廷彫刻家として、地元のネーデルラントからはベルナルト・ファン・オルレイ(図14a,b)が宮廷画家として活動していました。16世紀前半の作例としては、ヨース・ファン・クレーフェ(図15)、ヤン・ホッサールト(図16)、ヤン・モスタールト(図17)、ヤン・フェルメイエン(図18)などの諸作品が収蔵されており、他にネーデルラントで修業した後、イベリア半島で活動していたホアン・デ・フランデス(図19a,b)やミヘル・シトウ(図20)の作品もありました。更にマルガレーテは15世紀のいわゆる初期ネーデルラント絵画をことのほか好んでおり、ファン・エイク(図2122)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(図7参照)、ペトルス・クリストゥス(図23)、フーホー・ファン・デル・フース(図24)、ハンス・メムリンク(図25a,b,c,d)(図26a,b)、ディルク・バウツ、ヒエロニムス・ボス(図27)等の作品も集められていました。またマルガレーテは美術の先進地であったイタリアへの興味も強く、晩年のヤーコポ・デ・バルバリを宮廷画家として抱えて作品を制作させただけでなく、レオナルドの系統を引くマルコ・ドッジョーノの絵画(図28)や北イタリア出身のジョヴァンニ・ビラーゴの彩色写本、フィレンツェの彫刻家ピエトロ・トリッジャーノの彫像なども所有しています。加えて、有名な古代彫刻『スピナリオ(棘を抜く少年)』(図29)の大理石による縮小コピーや、やはり古代の作品に依拠した幾つかの小像も架蔵していたのです。また彼女のコレクションの対象は、絵画や彫刻の類だけではなく、タピスリや工芸品、食器、家具など多岐に亘っています。中南米のアステカ王国を滅ぼしたことで知られるフェルナン・コルテスからカール5世に送られたアステカの文物も、1523年にはカールの好意によってマルガレーテのコレクションに加えられました(註9)。「モンテズマ王のマント」(図30)をはじめとするこれらのエキゾチックな品々は、デューラーがネーデルラントを旅行した当時は、アントワープで一般に展示されていたらしく、デューラー自身も好意的な感想をその日記に書き留めています(註10)。こうした極めて多岐に亘る収集品は、近代以降に普及した純粋芸術と応用芸術との区分などはもとより適用されず、宮殿の居室を装飾するという点において優劣を付けられることなく、集められていたのです。

(図12)
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』の一葉(「5月」)シャンティイ コンデ美術館
(図13)
コンラート・マイト <ホロフェルネスの首を持つユディット> 大理石 1526-28年頃 ミュンヘン バイエルン州立博物館("Desgleichen habe ich nicht gesehen". Conrat Meit-Bildhauer der Renaissance, München 2006より)
(図14a)
ベルナルト・ファン・オルレイ <聖母子> 板絵 油彩 1518/20年 オタワ カナダ国立美術館
(図14b)
ベルナルト・ファン・オルレイ原画 磔刑図の壁掛け ブリュッセル製 1523-24年 マドリッド 王宮
(図15)
ヨース・ファン・クレーフェ <ルクレティアの自殺> ウィーン美術史美術館。マルガレーテはこの画家のルクレティア像を所蔵していた。
(図16)
ヤン・ホッサールト <ヘルマフロディトスとサラマキス> ロッテルダム ボイマンス・ファン・ボイニンヘン美術館
(図17)
ヤン・モスタールト <エッケ・ホモ> ハンブルク クンストハッレ
(図18)
ヤン・フェルメイエン <リエージュ司教エラール・ド・ラ・マルクの肖像> アムステルダム国立美術館
(図19a)
ホアン・デ・フランデス、<ユダの接吻> マドリッド王宮
(図19b)
ホアン・デ・フランデス <我に触るな(ノリ・メ・タンゲレ)> マドリッド王宮
(図20)
ミへル・シトウ <聖母被昇天> 板絵 油彩 1496-1502年 ワシントン ナショナル・ギャラリー
(図21)
ファン・エイク <アルノルフィニ夫妻の肖像> 板絵 油彩、1434年 ロンドン ナショナル・ギャラリー
(図22)
ファン・エイク <泉の聖母子> 板絵 油彩 1439年 アントワープ 王立美術館。マルガレーテのコレクションには、この絵のコピーが所蔵されていたのではないかと推測される。
(図23)
ペトルス・クリストゥス <聖エリーザベトとポルトガルのイサベル>(三連画の翼画) ブリュージュ フローニンヘン美術館
(図24)
フーホ・ファン・デル・フース <聖母子> ロンドン ナショナル・ギャラリー
(図25a)
ハンス・メムリンク <悲しみの人>(三連画中央パネル) メルボルン ヴィクトリア・ナショナル・ギャラリー
(図25b)
ハンス・メムリンク <天使>(三連画左翼画) パリ ルーヴル美術館
(図25c)
ハンス・メムリンク <天使>(三連画右翼画) ロンドン ウォーレス・コレクション
(図25d)
ハンス・メムリンク 三連画復元図 (Hans Memling au Louvre, Paris 1995, fig.58)
(図26a)
ハンス・メムリンク 三連祭壇画(開扉時)1480-88年頃 ウィーン美術史美術館。所蔵目録中の記述と(翼画の一聖人を除いて)一致する現存作例。
(図26b)
ハンス・メムリンク 三連祭壇画(閉扉時)ウィーン美術史美術館
(図27)
ヒエロニムス・ボス周辺 <聖アントニウスの誘惑> ベルリン国立美術館
(図28)
マルコ・ドッジョーノ <幼子キリストと洗礼者ヨハネ> 1510年頃 英国王室コレクション
(図30)
通称<モンテズマ王のマント> ブリュッセル 王立美術館
(図29)
ヤン・ホッサールト 素描帖の一葉 ライデン大学図書館。ホッサ-ルトが1508/09年に、ユトレヒト司教ブルゴーニュのフィリップに随行してイタリアを旅行した際、現在ローマのカピトリーノ美術館所蔵の青銅製スピナリオ「棘を抜く少年」像を直接見て描いたもの。マルガレーテのコレクションには小型の大理石コピーがあった。

4 マルガレーテの所蔵目録

 ところで、マルガレーテのコレクションについて、その内容を我々が詳しく知ることが出来るのは、その所蔵目録が二冊も現存しているおかげなのです。1516年にマルガレーテ立会いのもとで作成されたと明記されている目録は、フランスのリール市図書館に、コレクションの膨張に伴って1523/24年に編み直された目録は、パリの国立図書館に所蔵されています。前出のアイヒベルガーは、マルガレーテの主導により編まれたことが確実なこれらの所蔵目録をはじめとする古文書調査に基づいて、このコレクションの概要を明らかにしました(註11)。また2005年、メーヘレンではそうした研究成果に基づいた展覧会が開催されました(註12)。

 これら二つの所蔵目録からは、マルガレーテが当時のアルプス以北にあっては、例外的に高度な審美眼を備えたコレクターであったことが浮かび上がってきます(註13)。所蔵目録では名のある画家の作品については、その画家名が明示されていますが、画家名が定かならぬ場合は、スペイン、イタリア、トルコ、北アフリカ、中南米の作例については、制作地が記されています。ドイツやネーデルラント、フランスの作品については制作地は明記されていないのですが、これはむしろマルガレーテやその宮廷人たちにとっては、様式が容易に区別できたからであろうと、推測されています。またファン・エイクやロヒール・ファン・デル・ウェイデンなどの初期ネーデルラント絵画については「非常に古い」と明記され、数世代前に制作された作品であることが強調されています。さらにマルガレーテが優れているとみなした作品には、「えもいわれぬほど美しいexquis」、「美しいbeau」、「良くできているbien fait」、「良いbon」などといった明らかに質的評価を示した表現が付加されています。逆に完成度の低い作品に対しては「悪い出来」、「価値なし」という評価が下されていたり、「同じ手による」や「他の絵より良い」といった二作品を比較しての評価が記されてもいます。このような記述を伴った所蔵目録は、少なくともアルプス以北では前例をみないものでした。

 アイヒベルガーは、1523/24年の所蔵目録中のこれら質的評価を示す用語を網羅的に調べ上げ、マルガレーテがとりわけ好んだ作品が何であったかを突き止めています(註14)。それによるとマルガレーテの特段のお気に入りであったのは、初期ネーデルラント絵画の内、ファン・エイクの一大傑作として知られる『アルノルフィニ夫妻の肖像』(図21参照)、恐らくファン・エイク派による『泉の聖母』(図22参照)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンによるブルゴーニュ公シャルル突進公の二連肖像画(図7参照)、ミヘル・シトウの『読書する聖母』、16世紀のネーデルラント絵画からは、ヤン・ホッサールト『デンマーク王クリスティアン2世お抱えの二人の小人が扮したアダムとエヴァ』、ヤン・フェルメイエンによる皇帝カール5世の肖像画、イタリア美術としては、マルコ・ドッジョーノの『幼子キリストと洗礼者ヨハネ』(図28参照)、ヤーコポ・デ・バルバリによるマルガレーテの肖像画およびアクタイオンを主題とした神話画、作者不詳の裸体女性と蛇を表した浮彫り、さらに古代彫刻『スピナリオ』の縮小大理石コピー(図29参照)、スペイン製の塩入れなどであったようです。さらにこれらに準じる評価を与えられているものとしては、コンラート・マイトの<ホロフェルネスの首を持つユディット>(図13参照)とその一連の肖像彫像、ド・フランデスの32枚の板絵連作(図19a,b参照)、ホッサールトの<ヘルマフロディトスとサラマキス>(図16参照)、フランドルの作者不詳の肖像画およびスペイン製とフランドル製のタピストリなどが挙げられます。

5.メーヘレンのサヴォア宮殿

(図31)
サヴォア宮殿中庭
(図32a)
サヴォア宮殿平面図 1796年頃 メーヘレン 市立文書館
(図32b)
サヴォア宮殿西翼二階部分平面図 Women in Distinction, p.64.Eichbergerに基づく

 さらに、所蔵目録はそれぞれの作品がサヴォア宮殿(図31)の置かれていた部屋ごとに分類されているので、マルガレーテが居室のどこに何を掛けていたか、あるいは保管していたかもある程度復元できます(註15)。1511年からマルガレーテ主導により大幅な改修造営が行なわれたサヴォア宮殿内では、2階の西側の一画がマルガレーテの生活圏でした(図32a,b)。大部屋「暖炉のある第一の部屋premiére chamber à chemynée」は、食事や賓客の応接に用いられる公的性格を有する部屋で、31枚もの肖像画が壁に架けられ、訪れる人々に家門の伝統を誇示することを目的としていたようです。これと西側に隣接する小部屋の一つは、「豪華なキャビネriche cabinet」と呼ばれ、限られた親密な人々との会合に使われたようです。1523年には姑でもあったスペイン女王イザベラの遺品の中から購入された高価な机が置かれ、1527年にはそれまでばらばらのまま収納棚に置かれていたホアン・デ・フランデスの受難伝連作が二連画に設えられて、この部屋に置かれました。「暖炉のある第一の部屋」の北側にはほぼ同じ大きさの「暖炉のある第二の部屋seconde chamber à chemnyée」が、その西側に隣接して「小キャビネpetit cabinet」と「衣装室garderobbe」、さらに北側の少し離れた場所にある宝物室がありました。これらに加えて、恐らく一階にあった「庭園近くの部屋 cabinet emprés le jardin」などの、専らマルガレーテの個人的スペースとして用いられていた部屋々々に絵画、彫刻、工芸品、食器からタピスリ、家具に至る多種多様な品々が、あるいは展示され、あるいは収納されていたようです(平面図参照)。

 中でもマルガレーテにとってとりわけ重要な作品がまとめて掛けられていたと思われるのが、寝室でもあった「暖炉のある第二の部屋」でした。ここには先ほど挙げたマルガレーテが特に好んだと思われる作品に加え、ディルク・バウツやハンス・メムリンク、ヒエロニムス・ボス、ホアン・デ・フランデス、ヤン・モスタールト、ヨース・ファン・クレーフェ、フーケなどの作品もあるいは壁に掛けられ、あるいは棚にしまい込まれていたようです。この比較的大きめの私室は睡眠、個人的祈祷、執筆、息抜き、食事などに用いられた一方で、特に大切な訪問者を招き入れて、彼女の趣味の高さを披瀝するコレクションを呈示するという半ば公的な性格をも持っていたのです。

6.デューラーのマルガレーテ訪問

 1521年メーヘレンにマルガレーテを訪れたデューラーは、6月6日と7日、二日続けて拝謁する栄に浴しています。日記には6日に「マルガレーテ女公の許に伺候し、私の皇帝像を御覧に入れてそれを献上したいと申し出た。しかし女公にはそのような絵がお気に召さなかったので、私はそれを再び持ち帰った」(註16)とあり、先帝マクシミリアン1世の肖像画を寄贈しようとして断られています。しかしその翌7日再びマルガレーテに招かれています。日記には次のようにあります。

 「金曜日にマルガレーテ女公は御所有の美術品すべてを私に見せてくださった。それらの中に私は40点ほどの油彩の小さな板絵を見たが、真正で名品たること類を見ない。また他にもヨハンネスやイタリア人ヤーコポの名画をも見た。ヤーコポ親方の写生帳の拝領方を女公に願ったが、女公はお抱えの画家に対し約束済みであると言われた。こうして私は多くの他の見事な品々や、立派な図書室を拝見した。」(註17)

 「40点ほどの油彩の小さな絵」というのは、この当時まだ収納箪笥にしまい込まれていたホアン・デ・フランデスによる32 枚の油彩連作受難伝(図19a,b参照)を指すと思われますし、「ヨハンネス(の名画)」はヤン・ファン・エイクの『アルノルフィニ夫妻の肖像』(図21参照)、「イタリア人ヤーコポの名画」はヤーコポ・デ・バルバリによるアクタイオンを主題にした神話画やマルガレーテの肖像画のことだと思われます。デューラーの記述からみて、招き入れられたのは恐らくマルガレーテの「暖炉のある第二の部屋」であり、上記以外にもそこに集められたマルガレーテ自慢の作品の数々をじっくりと鑑賞したことは間違いないでしょう。ファン・デル・ウェイデンやバウツ、メムリンク、ボッシュ、ドッジョーノやフーケなどの作品も見たにちがいないのですが、彼が強く興味を引かれたのはファン・エイク以外ではヤーコポ・デ・バルバリの作品だったようで、少し意外な感がなくもありません。確かにヤーコポは、今日ではあまり有名な画家とは言えませんが、1500年以降アルプス以北各地で「学識ある画家」として話題を呼び、宮廷を渡り歩いたイタリア人画家で、晩年をメーヘレンのマルガレーテの宮廷で過ごしました。マルガレーテはヤーコポに「素晴らしい画家paintre exquis」という他の芸術家には用いたことのない破格の形容を与えているばかりか、病気で絵筆が握れなくなった画家に年100グルデンという金額の終身年金を交付してやっています(註18)。上記のほかにもバルバリの手になる作品としては、あるポルトガル人の肖像画、磔刑図、聖アントニウスを主題とした絵画に加え、マルガレーテのための絵具箱、版行可能な銅版画原版23枚、数冊の素描帖などがマルガレーテの手許にありました。デューラーが所望して断られた素描帖は、ヤーコポ没後マルガレーテの所蔵するところとなったもので、生前のヤーコポのいわば「企業秘密」が満載されていたであろう手本帖の一つであったと推測されます。デューラーはかつてヤーコポから人体比例の奥義を学ぼうとしましたが、ヤーコポが乗り気ではないのを察してあきらめ、自ら独学で研究を志したことがありました。そのためこの素描帖は、是が非でも手に入れたかったことと思われますが、既に宮廷画家であったベルナルト・ファン・オルレイに与えることになっているという理由で、断られてしまったのです。

7.デューラーの絵とマルガレーテの審美観

 それにしても、こうしたデューラー自身による記述を読むと、彼からの寄贈の申し出を拒んだ上に、素描帖下賜の願いもさらりとかわしているマルガレーテの態度は、随分と冷たいようにも感じられます。しかし他方、マルガレーテはデューラーの宿願である年金交付の継続に大いに助力したことは明らかです。また、彼を自らの私室にも招き入れ、自慢のコレクションを呈示していることからみても、彼女は当代随一の画家としてのデューラーをそれなりに評価していたようにも思われます。とすると、先約があることを理由にしてのやんわりとした素描帖下賜の拒否はともかくとして、今なお原因が不明のままの寄贈受け入れ拒否の件が気になります。なぜデューラーほどの画家からの作品寄贈の申し出を、マルガレーテほどの美術コレクターが断ったのでしょうか?

(図33)
ミケル・シトウ <ドン・ディエゴ・デ・ゲバラの肖像> ワシントン ナショナル・ギャラリー

 マルガレーテが美術作品の寄贈を一律に拒んでいたわけではありません。むしろ彼女は作品を自ら註文したり、競りにかけられるなどして市場に出た作品を購入したりするばかりではなく、親しい人物からたびたび寄贈を受けることによって、その美術コレクションを拡充させてきたのです(註19)。例えばファン・エイクの<アルノルフィニ夫妻の肖像>(図21参照)はポルトガル人ドン・ディエゴ・デ・ゲバラ(図33)からマルガレーテに贈られたものですし、ホッサールトの<二人の小人が扮したアダムとエファ>はデンマーク王クリスティアン2世の寄贈になるものです。他にもユトレヒト司教ブルゴーニュのフィリップからもホッサールトの<ヘルマフロディトスとサラマキス>(図16参照)を、またマルガレーテは姪エレアノールに仕える女官からはボッシュの<聖アントニウスの誘惑>(図27参照)を贈られています。

 ただ、こうした事例では、寄贈者たちはみなマルガレーテの美術上の嗜好を熟知した人々ばかりで、彼女が心から望む類の作品を贈っています。ですから、ネーデルラントの画家や彫刻家たちから熱狂的とも言える歓迎を受け、王侯のように処遇され、当代随一との評価を受けていたデューラーからの寄贈の申し出をマルガレーテが拒絶したとすれば、それはその作品がマルガレーテの琴線に全く触れるところがなかったからであることは間違いありません。しかし、デューラーによるマクシミリアン1世の肖像画の一体どこがマルガレーテの気に入らなかったのでしょうか?

 考えられるのは、肖像画の像主(モデル、つまり先帝マクシミリアン1世)が好ましくなかったか、絵の様式が趣味に合わなかったといったところでしょう。通常肖像が寄贈される場合、寄贈される人物が表現されているのが一般的でした。日記によると、デューラー自身行く先々で世話になった人々や親しくなった人々の肖像素描を描き、進呈していますが、像(モデル)になった人物以外に当該肖像を進呈しているケースは見当たりません。自らの肖像画ではなく、亡くなって間もない父帝の、それも既製の肖像画を寄贈されることに、マルガレーテはあまり心地よくないものを感じたとしても不思議ではないでしょう。

 マクシミリアンとマルガレーテとの関係は、通常の父娘のものとは異なっていました。幼少時父に会うことも少なく、政争の具として、あちこちの宮廷への嫁入りを強要され、またメーヘレンに定住してからも、すんなりとはネーデルラントの統治を委ねては貰えませんでした。ひょっとして父帝の肖像など、自室に掛けたくなかったのだろうか、などと現代人ならば勘ぐりたくもなりますが、そのようなことはなかったようです。1527年10月にマルガレーテは、セルトーヘンボッシュで修道女となっていた義妹にヨース・ファン・クレーフェによる父帝の肖像画(図34)を贈っていますが、その際手許にはそのコピーがなお二枚残されていたということがわかっています(註20)。 しかもマルガレーテは自らと家系の権威のプロパガンダのために、「暖炉付きの第一の部屋」に一族の肖像ギャラリーを形成していたのですから、デューラーのような名のある画家から父帝の肖像画の寄贈を受ければ、このギャラリーの権威は一層強化されることになったにちがいありません。

(図34)
ヨース・ファン・クレーフェ <マクシミリアン1世の肖像> ウィーン美術史美術館
(図35a)
デューラー <マクシミリアン1世の肖像> ニュルンベルク 国立ゲルマン博物館
(図35b)
デューラー <マクシミリアン1世の肖像> 素描 1518年 ウィーン アルベルティーナ版画素描館

 にもかかわらず、受け取りを拒んだとすると、やはり問題はデューラーによる肖像画の様式とマルガレーテの審美観にあったということになるでしょう。先にみたように所蔵目録における形容から浮かび上がるのは、完成度の高い初期ネーデルラント絵画やイタリア絵画ないしイタリアの影響を蒙ったネーデルラントの最新の絵画などへのマルガレーテの嗜好です。そうしたマルガレーテの審美観からみると、デューラーの肖像画はどのようなものに映ったのでしょうか?

 デューラーがマルガレーテに寄贈しようとしたマクシミリアン一世の肖像画がどのようなものであったのか、残念ながらはっきりとしたことはわかっていません。現在ニュルンベルクの国立ゲルマン博物館に残されているキャンバス画(図35a)が、それであった可能性を指摘する研究者もいますが、確証はありません(註21)。確かにキャンバス画は巻いて持ち運びができることから、旅行に携帯するには適切な媒体ですが、この絵はウィーン美術史美術館の油彩画(図1参照)の習作的色彩が強いように思われ、デューラー自身の銘記も施されてはいません。マルガレーテに寄贈しようとしたにしては、完成度が低いように思われるのです。では、マルガレーテが寄贈を拒否した絵がどのようなものであったのかについて、全く手がかりがないのでしょうか? そういうわけではありません。デューラーは1518年に帝国議会に臨席のためにアウクスブルクを訪れたマクシミリアンの許に伺候し、肖像素描(図35b)を制作しています(註22)。ウィーンとニュルンベルクの作例や木版画をはじめとするデューラーによる一連のマクシミリアンの肖像画は、基本的にこの肖像素描に基づいています。ですから、マルガレーテに献上しようとした肖像画も、この肖像素描に基づいた一連の肖像画と大きく異なってはいなかったものと思われます。

 デューラーの肖像画はその「アグレッシヴなまでの生々しさ」を大きな特徴としていることは夙に指摘されているところです(註23)。これら晩年のマクシミリアンを描いたデューラーによる肖像画では、皇帝の肖像であるがゆえに、デューラーも常になく多少の手心を加えているとしても、面貌の皴や皮膚のたわみが顕著に描出されており、老帝の心身の衰えが滲み出しているように見えなくもありません。イタリア・ルネサンスの絵画であれば省略し、単純化するであろう細部の描出に手を抜くことはデューラーにとっては問題外であり、自身その理論的草稿の中で「最小の皴やしみといえども可能な限り省かないようにしなければならない」と述べています(註24)。こうした理念に裏打ちされたデューラーの肖像画の様式は、優美さを好むマルガレーテの審美観と相反するものであったように思われます。デューラーによる肖像画は、その仮借ない観察眼と理想化とは距離を置いた客観的な表現において、マルガレーテの好む諸作品とは大きな懸隔があったのです。デューラーの寄贈申し出をマルガレーテが拒否したのは、このように、デューラーの創作理念とマルガレーテの審美観との衝突の結果であったと考えられます。事実、デューラーが寄贈した数多くの版画や二枚の素描などについても、マルガレーテによる積極的な評価の痕跡は認められません。

 マルガレーテは、デューラーの画家としての実力とその名声を認め、彼の年金確保のために助力し、秘蔵のコレクションを披瀝する一方で、揺ぎ無い自らの審美観に照らしてその作品には冷淡に距離を置いたのです。デューラーに対する一見アンビヴァレントな態度からは、画家や作品に対して客観的な評価と主観的な好悪を弁別することの出来るマルガレーテの当時にあっては破格に高度な美術愛好家としての素質が浮かび上がってくるように思われます。おそらく、デューラーからの寄贈を断った翌日に、マルガレーテが彼を寝室にまで招き入れ、自慢のコレクションの珠玉の諸作品を丁寧に見せているのは、強固な審美観で裏打ちされた自らの嗜好のありかを、手ずから指し示そうとしてのことだったのでしょう。

(註1)翻訳は、前川誠郎(訳・註)、『アルブレヒト・デューラー ネーデルラント旅日記1520-1521』(朝日新聞社、1996年)、原文はHans Rupprich, Albrecht Dürer. Schriftlicher Nachlass, Bd.1, Berlin 1956, p.146ff.参照。
(註2)前掲翻訳書、p.52f.;Rupprich, op.cit., p.155.
(註3)前川誠郎(訳・註)、『デューラーの手紙』(中央公論美術出版、1999年)p.128f.;HansRupprich, op.cit., p.90f.
(註4)Dagmar Eichberger(ed.), Women of Distinction. Margaret of York, Margaret of Austria, Davidsfonds/Leuven 2005.
(註5)なお厳密には1507年3月18日にマルガレーテはまず父帝から総督gouvernanteに、次いで1509年4月22日に摂政regenteに任ぜられた後、1515年1月15日に甥のカールが成人した折に一度任を外されている。ところが翌年にカールがスペイン王室を継承することになったこともあって、1519年7月1日から二度目の摂政に補されている。この後1520年10月19日、戴冠を翌日に控えたカールからその地位を確認され、カールから「もう一人の自分Alter Ego」とまで呼ばれている。
(註6)Sylvia Ferino-Pagden, “La prima donna del mondo”. Isabella d’Este. Fürstin und Mäzenatin der Renaissance ,Wien 1994.
(註7)Dagmar Eichberger, Leben mit Kunst. Wirken durch Kunst. Sammelwesen und Hofkunst unter Margarete von Österreich, Regentin der Niederlande, Turnhout 2002.; Dagmar Eichberger, Stilpluralismus und Internationalitaet am Hofe Margaretes von Österreich(1506-1530), in: Norbert Nussbaum et al.(Hgs.), Wege zur Renaissance. Beobachtung zu den Anfängen neuzeitlicher Kunstauffassung im Rheinland und den Nachbargebieten um 1500, Köln 2003, pp.261-283.
(註8)マルガレーテのコレクションの概要については、(註7)に挙げたアイヒベルガーの業績に負うところが大きい。なお宮廷詩人ジャン・ルメールによるマルガレーテへの頌詩『マルガレーテの冠』(1505年)の中で、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、フーホ・ファン・デル・フース、ディリク・ブーツ、ジャン・フーケ、シモン・マルミオン、ハンス・メムリンク、マルティン・ショーンガウアー等の名が言及されており、マルガレーテの絵画趣味が別の側面からも裏付けられる(Eichberger, op.cit., 2002, p.351)。
(註9)Joris Capenberghs, Margaret of Austria, the Hof van Savoyen and the New World, in: Women in Distinction…cit..,p.297ff.
(註10)前掲前川訳『ネーデルラント旅日記』p.51f.
(註11)Eichberger, op.cit.,2002.
(註12)(註4)に挙げたWomen in Distinction…cit.は、この展覧会のカタログとして刊行されたものである。
(註13)Eichberger, op.cit., 2002, p.345ff.;Eichberger, op.cit., 2003, p.263ff.
(註14)Eichberger, op.cit., 2002. p.363ff.;Eichberger, op.cit., 2003, p.274.
(註15)Eichberger, op.cit., 2002, p.58ff.
(註16)前掲前川訳『ネーデルラント旅日記』、p.120f.; Rupprich, op.cit, p.173.
(註17)前掲前川訳『ネーデルラント旅日記』、p.121.; Rupprich, op.cit., p.173f.
(註18)ヤーコポ・デ・バルバリについては、拙稿、「さまよえるヤーコポ・デ・バルバリ 「学識ある画家」がアルプス以北に与えた衝撃」、小佐野重利(編著)、『旅を糧とする芸術家』(三元社、2006年)、pp.87-119を参照されたい。
(註19)Dagmar Eichberger, The Culture of Gifts. A Courtly Phenomenon from a Female Perspective, in: Women of Distinction…cit., p.p.289f.
(註20)Eichberger, op.cit., 2002, p.375.
(註21)Fedja Anzelewsky, Albrecht Dürer. Das Malerische Werk, 2.Aufl. Berlin 1991, Textband, p.256ff.
(註22)Klaus Albrecht Schröeder et al.(Hgs.), Albrecht Dürer, Ostfildern-Ruit 2003, p.470ff.
(註23)Anzelewsky, op.cit., p.86.
(註24)Hans Ruppich, Albrecht Dürer. Schriftlicher Nachlass, Bd.3, p.280. なおデューラー晩年の肖像画における皴の表現と草稿における理論的記述については下村耕史、「デューラーの小さき皴 遺文集よりみた細部表現について」、『美術史』119号、1986年、pp.1-14.を参照。
SPAZIO誌上での既発表エッセー 目次
  1. デューラーの《蝿》をめぐる謎 no.62(2003年4月発行)
  2. ドイツ美術はなぜ醜いか no.63 (2004年6月発行 web化第一号)
  3. デューラーの《二皇帝像》と聖なる見世物 no.65 (2006年6月発行 web化第三号)